「今を生きる」第474回 大分合同新聞 令和7年1月6日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(300)
私達は、眼・鼻・耳・舌・身(五感)の感覚器から外界の情報を受け止め、意識(心)で統合して考えたり、内省したりします。それを自分の意識構造の全体と思い、固定的で変化しない私(自我意識)が独立してあると認識しています。
しかし仏教では、ガンジス川の砂の数ほどの因や縁が和合して「今の私(我)」があり、一刹那(75分の1秒毎)ごとに生と滅を繰り返していると考えます。つまり、一切のものは無我・無常で「今」の一瞬に存在していて、独立して在るのではなく、網の結び目のような関係性で局所・全体的につながっているのです。
釈尊の悟り、気づきはこのような関係性(縁起の法)と深層意識への目覚めだったと思われます。それを無著・世親兄弟によって構造的に大成されたのが唯識(ゆいしき)の深層心理です。これは、私たちの心は八つ(八識)に分かれ、前五識(五感)、第六識(意識)、それよりも深層に第七識(未那識、まなしき)、第八識(阿頼耶識、あらやしき)があると想定しました。
毎朝眠りから覚めると、昨日と同じ私の意識が動き始めます。このように私を私たらしめている深層意識を阿頼耶識と言います。これは蔵識(ぞうしき)とも呼ばれ、情報を蓄える蔵のような役割を果たす領域です。
末那識は、意識と阿頼耶識の間にある煩悩の領域です。そこには、@我痴…人間が思考する場合には理性や知性だけで十分で、仏の智慧(ルビでちえ)(無分別智)などは要らないと考えるA我見…私は物事を正しく見ている、正しく考えていると主張するB我慢…他人と比較して優越感・劣等感、上だ下だ、勝った負けたなどと心が揺れ動くC我愛…言動や考えが中立的でなくわが身がかわいい―が深層意識として潜んでいます。私たちに情報が出入りする時、このような煩悩によって必ず汚染されると考えられます。
精神文化にコペルニクス的変革をもたらすには、私の存在を第五、六識と内省するレベルで考えるか、第七、八識と縁起の法(関係性)で考えるかによるのです。
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