「医療と仏教の協力関係は可能か」−生まれてから死ぬまで−
大分県東国東広域国保総合病院 田畑正久
はじめに:
私は学生時代に縁(主な理由は経済的なこと、部屋代が無料、友人が入寮していた)がありまして九州大学仏教青年会の寮に入り、活動に参加するようになりました。無医地区巡回診療,無料健康相談等の活動には関心はありましたが、仏教はもう現代には無くても生活出来ることが当然であると考えていました。しかし、たまたま福岡教育大学の化学の教授、細川巌先生の仏教のお話に巡り会いました。以来約30年間医療の仕事(消化器外科)に関わりあいながら仏教を学ぶことになったのでした。
医療の仕事と仏教の学びの中で知らされたことは医療も仏教も共に人間の「生老病死」の課題に取り組んでいるということです。そして現代という時代は仏教の素養がなくなり医療の世界でいろいろなひずみが生じているということを強く感じるようになったということです。
1.共通の課題「生老病死」
秋月龍師(H11年、示寂)は埼玉医科大学哲学教授で禅宗の高僧でありました。医学部の学生に「皆さんは将来医療の世界で仕事をするようになるでしょう。医療と仏教は共に『生老病死』の課題に取り組んで来ています。そして仏教は2千数百年の歴史を持ち『生老病死』の解決の方向を見出しているのです。是非とも仏教的な素養を持った医師になってほしい」と語りかけていたと本に書かれていました。
また、第23回日本医学会総会開会記念講演で福永光司先生(元東大、京大教授)は「現代の医師は技を求めることに急で、道を求めることを怠ったがために人々の尊敬を受けなくなった。」と語っています。
私たち医療関係者は科学的な思考で医学的な訓練をされてきていますので宗教的なものにはなじみがない人がほとんどではないでしょうか。
2.科学的思考は万能か
私たちの教育された科学的の眼は物事を対象化して分析して理解という方向を取ります。数年前名古屋で中学生がナイフで教師を刺して死亡させたという事件がありました。そのお通夜の席で同僚の教師が「どうして、死んだの」と嘆き悲しんでいたら、側にいた医師が「出血多量で死にました」と答えたそうです。適切な答えであったでしょうか。
科学的な思考は客観的な事実を根拠に考えを進めて行きます。客観的な事実や事象、数字や形に認識できるものの積み重ねで思考をしますが、物事の把握は十分に出来ているといえるでしょうか。
たとえば「九州の春」を熱帯地方の人に説明するとき、「桜が咲いて・・・」「ヒバリが鳴いて・・・」「草花に芽が出て・・・」といろいろと九州の春の状況を説明しても完全には分かってもらえないでしょう。どうすれば本当にわかってもらえるかというと、その人に日本に来ていただいて3月から5月頃まで一緒に生活をしてもらうのです。そうすれば説明はしなくても「これが九州の春ですね」と分かっていただけると思います。
平成14年、ある新聞に71歳の松山市の女性の次のような投書がありました。
「私は月満ちて生まれたが、体重2500グラムと小さく、祖父の結核に感染し、虚弱児だった。本を読むのが好きで成績はまあまあだったので、県立高女を受験した。だが、結核だと言われて不合格だった。 戦争中、虚弱児と障害児は非国民とさげすまれた。だが、健康で合格した友人の一人は、動員された軍需工場で、米軍の機銃掃射で命をうしなった。私立高女を卒業した私は食糧公団で働いたが、22歳の秋、秋祭りの日に大量の血をはいて絶対安静となった。
恋愛の悩みと結核の悲しみに私は死を決意した。どの梁(はり)にひもをかけて首をつろうかと天井を眺めていたら、その天井がメラメラと燃えだしたではないか!思わず「火事だ、火事だ」と叫びながら裸足で外へ飛び出した。近所のおじさんが飛んで来て、火事の原因のコンセントを抜いてくれて鎮火した。 安静の床に戻って、私は考えた。『火事に驚いて逃げ出したのは、本当は(身体全体では)生きたかったのだ』と。私の右の鎖骨の下には、石灰化したとはいえ、3個の空洞が鎮座しています。」
物事が分かるには、頭で分かるということと身体全体で分かるということがあるのではないでしょうか。眼では見えない世界、脳で認識出来る物事の背後にある意味・世界をも含めて全体が分かるということがないと物事の把握に十分ではない可能性があるということです。
最近、正月過ぎに小学生の会話に「今日はおじいちゃん、おばあちゃんの所を集金して回った」というのがあったそうです。科学的な考え方を推し進めた結果、お年玉の背後にある「願い」みたいものが見えなくなったという一面があるのではないでしょうか。
皆さん方の思考傾向を試して見ましょう。「氷が解けたら何になるか」。私は水になると答えました、私の高校生の息子も同じでした。かつて「春になる」という答えがあったのだそうです。どちらが豊かな発想でしょうか。
3.医療と仏教の役割分担
医療も仏教も共に「生老病死」の共通の課題に取り組むということになると現実にはどうでしょうか。 知り合いの僧侶が門徒のお見舞いに病室に行ったら若い主治医がいて「出てくるのが早い」と言われたといって医師の仏教への理解のなさを残念がっていました。
生きた人間を相手にした医療であり、仏教なのです。大分県の地方新聞の灯(ともしび)というコラムに以前「医者の傲慢、坊主の怠慢」という記事が出たことがありました。医師は患者の身体的なところだけ診て全体が分かったような傲慢さに陥っている、僧侶は人が死んでから登場して生きている人間を相手にしてない「怠慢」という指摘です。残念ながらある一面、もしくは事実を言い当てています。
生きた人間を相手にしてどういうふうに協力関係が構築出来るのでしょうか。
(1) 苦悩の発生する原理
「思い通りにならない」という意味を中国で「苦」と訳したといわれています。生老病死による苦しみ「四苦」と言います、生まれる苦しみ、(生きる苦しみ)、病む苦しみ、老いる苦しみ、死ぬ苦しみでしょう。
自分の「現実」が自分の思うようにならない、すなわち「現実」と「思い」に差があるときに苦しみ悩みになるということです。現実と思いの差が苦しみに比例するのです。医療という仕事は患者さんの「病気」という現実を患者さんの望む「健康」という状態に戻す仕事ということが出来ます。
そこで、病気を健康の状態に戻す仕事は医療だけが担うのかというと、約30年前の医学雑誌に編集者が「病気の約80%は自然の治癒力でよくなる、医療が関わることでよくなるのが病気の12%である。後の8%は医療が関わることでかえって悪くなる」と書いていました。医学知識・医学技術だけが病気をよくするということではないということです。家族や友人などが自然の治癒力に寄与できる療養環境の整備、安心して治療に専念できる家庭環境、身の周りを清潔にするとかのお世話などができるということです。
色々なものを総動員して健康に戻すという働きかけが大事です。しかし、これには前提条件があります。それは治癒可能な病気ということです。治癒不可能な場合は健康に戻せません。どんな場合があるかというと、・癌の末期、・老化現象としての病気、・難病、・固定した障害(リハビリはしたけれど・・)の状態の時です。21世紀の長寿社会では治癒できない病気を複数持って生きるということの多いと想定されています。医学の進歩で病気が多くなる、見つかる、そしてよくならない病気が多くなるということです。
今までの医療の現場では治癒不可能な場合はなおざりにされていたというか延命への努力をしたり、そして患者さんにははかない希望、よくなる可能性がありますといってごまかしてきたという面があります。
なぜでしょうか、それは治療(CURE)という概念は老・病・死は本来の「生」の姿でない、そこで本来の「生」の姿、「若い健康な身体」に戻せと取り組むのが治療であるわけです。参考にしてもらいたいのですが看護(CARE)の概念は「老病死するのが本来の人間の「生の姿」であるととらえて老病死する人をお世話する」という考えです。はたしてどちらが人間の姿を正確に捉えているでしょうか。
(2) 苦痛・苦悩について、
自分の思い通りにならないことによる苦悩にも色々な要素があります。全人的PAIN(苦痛、苦悩、悲嘆、心配)ということが言われます。その内容は(1)身体的な苦痛、(痛み、他の身体症状)(2)社会的な苦痛、(仕事の上、経済的、家庭内、人間関係、等)(3)精神的な苦痛、(不安、いらだち、孤独感、恐れ、うつ、怒り)(4)Spiritual
pain と四つに分類されるようです。そのSpiritual pain とは村田久行氏の文献によりますと「人生の意味・目的の喪失、衰弱による活動能力の低下や依存の増大、自己や人生に対するコントロール感の喪失や不確実性の増大、家族や周囲への負担、運命に対する不合理や不公平感、自己や人生に対する満足感や平安の喪失、過去の出来事に対する後悔・恥・罪の意識、孤独。希望のなさ、あるいは、死についての不安といった広範な苦悩」となっています。
痛み、悩みは健康が損なわれることによって引き起こされるということになります
(3)「現実」を「思い」が受容する
現実と思いの差を縮める方法に、もう一つ「現実」を「思い」が受容するという方法があります。健康な者の発想では難しいことで現実を受容するとは「諦める」とか「まけおしみ」ととらえることが多いのです。しかし、宗教に触れてみると仏教の「悟り」「信心」の世界で自然に備わる現実の受容の世界があるようです。星野富弘氏は20歳代で脊髄損傷の障害をもたれてからキリスト教との接点を持たれ、そして次のようは詩を作られています。「いのちが一番大切だと思っていた頃、 生きるのが苦しかった。 いのちよりも大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった」障害を受容された心境が語られています。
現実を受容できるのはどうも仏教でいえば『悟り』『信心』にともなう功徳の世界のようです。仏とは成熟した、完成した人間という定義があります。現実の受容が出来るためには人間としての成熟が必要ということでしょう。現実を受容のための宗教ということではなくて、目覚めの世界で自然と幅の広い、懐の深い、自分の現実を受け止める力が備わるということのようです。
中野東禅氏は曹洞宗の僧侶ですが「死の受容」の研究で死の受容のできる人の共通項目として12項目を挙げられていますがその中で(1)今に充実している、(2)感謝の世界を持っている、という二つの項目が印象に残っています。
大分県の江戸時代の医師、学者であった三浦梅園師は中国の古典から感動した文章として次ぎの書を残しています、「人生恨むなかれ 人知るなきを 幽谷深山 華自ずから紅なり」。最後の句「華自ずから紅なり」は私は私で良かったと現実を受容した表白と受け取ることが出来ます。
(4) 医療と仏教の協力
治癒可能な病気、苦痛を緩和する治療は医学が科学的な知識の蓄積を総動員して取り組まなければなりません。宗教が病気をよくするといえば特殊な一部の病気には可能性があることは認めますが、多くは眉唾物でしょう。治癒可能な病気への対応、症状緩和の取り組みは医療が多いに役割を果たさなければなりません。なおかつ治癒不可能な病気に対しても患者さんの苦しみ、悩みを取り除く、乃至少なくする取り組みとして人間としての成長・成熟する領域への取り組みを医療関係者と宗教関係者が協力して支援することが大切だと思われるのです。
ある先輩医師(外科、名誉教授)が「大学で現役でいる間は病気を健康に戻す取り組みしかしていませんでした」とこぼされていました。
一人の人間の苦しみ悩みを救う取り組みには医療と仏教が是非とも協力して「現実」と「思い」の差を小さくしていくことが大切であり時代的に求められていると思われます。
4.健康について
医療と仏教の協力ということでは健康ということにも関わってきます。健康の定義が戦後約50年間・身体的(physical)に健全(2)精神的(mental)に健全(3)社会的(social)に健全、ということで来ましたが、1999年、WHO(世界保健機構)の理事会で健康の定義に追加が決定されました。(しかし、総会では未決)それは(4)スピリチュアル(spiritual)に健全であるということです。本文を示すと [Health
is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social
well-being and not merely the absence of disease or infirmity]( WHO、1999)
です。
なぜ「スピリチュアル」が加わったかというと、長寿社会を迎えて癌でなくなる方が30%を超えるようになりました。癌の終末期の医療の中でキュープラ・ロス氏は受け持った症状管理の出来ているガン末期の患者さんから「I
made a good living butnever really lived.(いい生活はしてきたけれど本当に生きたことがない)」と訴えられたというのです。症状コントロールのうまくいっている患者さんが「私の生きる意味は何でしょうか」と医師に問われたわけです。今までに日本ではあまり問題にされなかった領域の苦しみ・悩みです。
日本でも福岡のホスピスで30歳代の大腸がんの再発の患者さんが症状管理がうまくいっている時に主治医に「私は死ぬために生きているのでしょうか」と訴えられたと言うのです。これらで表白される苦しみ・悩みは旧来の健康の定義ではかることの出来ない領域での苦しみ・悩みです。
またホスピスで亡くなられる、高齢者で戦争世代の人がソーシアル・ワーカーに人間関係の出来てから自分は戦争に行って闘った(殺すということもしてきた)ということを色々と語り、何かホッとするような顔つきになりそして数日後亡くなった、ということが医学関係の新聞に出ていました。
スピリチュアルに健全であるとは、私なりに(1) 人間として生まれた意味・意義、(2)生きる意味・意義・目的、(3)死んだらどうなるのかの頷き、(4)罪悪感からの解放、ということになるのではないかと考えるのです。
窪寺俊之氏によると「スピリチュアリテイとは人生に危機に直面して生きる拠り所が揺れ動き、あるいは見失われてしまったとき、その危機状況で生きる力や希望を見つけ出そうとして、自分の外の大きなものに新たな拠り所を求める機能のことであり、また、危機の中で失われた生きる意味や目的を自己の内面に新たに見つけ出そうとする機能のことである。」と言われています。
健康を考える時、宗教的な面での配慮なしには十分でないという時代になろうとしているのでしょう。
5.EBM(evidence
based medicine)とNBM(narrative based medicine)
医学的な客観的な情報にもとずいて医療をしようということで国をあげて今日的課題として取り組みがなされようとしています。しかし、EBM
を補完するものとしてNBM(強いて訳すると「物語に基ずく医療」) があるということをご存知の方はどれくらいおられるでしょうか。2001年に金剛出版より「ナラテイブ・ベイスト・メデイスン(臨床における物語と対話)」という本が出版されました。その本に河合隼雄氏が「人間はそれぞれ、自分の「物語」を生きている、ということが出来る。「病気」もその物語の一部としての意味を持っているのだが、一般の医者はそれを無視してしまって、「疾患名」を与えることで満足する。しかし、時にはそれは、その人の物語の破壊につながってします。その疾患が医学的に治療可能な場合、まだ救いがあるが、治療が不可能な場合や、高齢者のケアのようなときは、それらの事実を踏まえて、患者がどのような「物語」を生きようとするのか、それを助けるのが医療の中で重要な仕事になる。ここで大切なのは、患者が自ら生み出してくるのを受け入れる態度が必要なことである」と語られています。
科学的な客観的なデータの中から、人間として生まれる物語り、生きることの意味を与える物語り、死んだらどうなるのかの物語りを与えてられるでしょうか。
生物学者のドーキンスの『利己的な遺伝子』という本では「生き物は遺伝子の乗り物である」と指摘します。動物を考えてみるとまさに遺伝子等に支配されたホルモンによって行動がコントロールされているということは頷けます。科学的に考える時「人間に生まれたことに意味はない」単に「この世に放り出された存在」であるともいわれているようです。
科学主義はあらゆるものを「物」に還元して捉えようとします。人間も結局のところ、物の集合体・運動体にすぎない。物には意味を見いだすことは困難です。物としての人間、人間の存在、生まれること、生きること、死ぬことに意味があるとはならないのです。
現代人の心の底に「最後の所すべてに意味がない」という感じをもっている。そして空しさを見つめないことにしてごまかしているのです。
人生に意味がない、しかし自分自身の快感・不快感があるので結局は「自分の快楽の追求をして生きるしかない」となっていくのです。
自分勝手に生きることをとどめるのは「他人が迷惑だ」と言うことでしょう。しかし、それでは「迷惑さえかけなければ何をしてもよい」ということになり、それは「迷惑をかけても、ばれなければいい」となり、さらに「たとえ、ばれても自分の方が強くて他者から制裁を受けなければいい」ということになる可能性を秘めています。
近代の物質科学主義は人間を、「ニヒリズム」、「エゴイズム」、「快楽主義」へと推し進めて、その延長線上に精神の頽廃が起こる危惧があるのです。
科学主義の考えは種々の現象の起こる機序を説明は出来るでありましょうが、心を豊かにする物語は出てきそうにありません。
杉本平一氏の「生」という題の以下の詩があります。
ものを取りに入って 何を取りに来たか忘れて戻ることがある
戻る途中でハタと思い出すことがあるが その時は 素晴らしい
身体が先にこの世に出てきてしまったのである
その用事は何であったのか
何時の日か思い当たることのある人は幸福である
思い出せぬまま 僕はすごすごあの世に戻る
6.老について
現代社会は若くありたい、健康でありたいと若さを追求するあまり、「老いる」ことの意味が見えなくなっているということがあるのではないでしょうか。
「老」という字を辞書で見てみると「老成」「長老」という言葉が出ています。老という字には、人間として成熟したとか、熟練したという意味があり本来は尊敬を表す敬称として使われていました。それが現代は「若い」と「老」を比較して若い方がいいと、成熟を拒否する文化、若者文化がもてはやされているようです。「歳の取り方」が分からなくなっているのです。歳の取り方を学ぶとは仏教を学ぶということでもあるのです。
1997年の日医ニュースで「癌診療には成長モデルを考えることが大切である」という記事が出たことがありました。
歳の取り方の有名なモデルは論語です。「子曰わく吾十有五にして学に志し 三十にして立ち 四十にして惑わず 五十にして天命を知り(生きることの意味、生きることで果たす使命がわかった) 六十にして耳順(多くの見・聞くことの意味・意義が分かってきた) 七十にして心の欲する所に従えども矩(のり)をこえず(自由自在に生きる)」があります。
「天命を知る」とはまさに生きる意味、生きることで果たす使命を知るようになったということです。そしてついに、70歳で自由自在に生きる世界を賜ったと表白しています。人間としての成熟した姿がここにあります。
18世紀に人間をホモ・サピエンス(Homo Sapiens 、知恵のある生き物)と定義をしています。我々人間の誇る知恵はいろいろな現実(四苦を含めて)から逃げて、避けて、よけて、先送りして行こうという姿勢で結局は死に捕まるということになっています。精神科医のフランクルは人間をホモ・パテイエンス(Homo
Patiens 、耐える生き者)と呼ぶ方がよいのではないか、人はいろいろな課題を背負い耐えて正面から取り組んで行くことによって人間としての成長・成熟がもたらされるというのです。小賢しい知恵に依って成長、成熟の機会を失っている現状があるとの指摘であります。
7.長生きについて
医療と仏教の関わりの中で考える課題の一つに「長生き」があります。長生きとは普通、90歳、100歳、110歳と生きている時間を延ばすことが長生きと考えます。最近介護保険が始まって高齢者の処遇が社会的な課題になっています。高齢者に必然的に起こる所謂「ボケ症状」は加齢とともに増えていくようです。90歳以上では40%以上といわれています。また寝たきりの高齢者の多い現実に対して一般の人の声として「単に生きている時間を延ばす長生きは本当に幸福か」というものがあります。健康で長寿でありたいと言う「健康寿命」というような概念もよく使われるようになっています。
そこで長生きということを仏教的な視点で考えてみると大切なことに気づかされます。普通、時間は過去から現在、そして未来と経過するというように考えています。そして「現在に私はいる」ということになっています。しかし、現在といっても考えてみると「今」という「一瞬」しかないことに気づきます。禅宗では「今」、「ここ」が大事だと言います。普段我々はこの「今」という時を全身で受け止めているかというと ---- 受け止めていないのです。
ある家庭で高校生が親に「高校の勉強についていけない、友達も出来ない」だから高校を辞めたいと言ったら、親が「今ごろの時代に高校ぐらい出てないと将来どうするんだ」と答えたというのです。我々大人はついつい明日のための今日、今になっていて今日、今が明日のための通過点で、手段・方法の位置になってしまっているのです。今を全身で受け取ってないということになります。
また我々の意識は今にじっとしてなくて、過去を考え未来を心配します。そのことをもう少し具体的にいえば、もう終わった過去を今に持ってきて誇ったり、悔やんだりする、これを「持ち越し苦労」といいます。一方まだ来ていない未来のことを色々と心配して「取り越し苦労」するのです。「持ち越し苦労」・「取り越し苦労」をしてあっという間に50年が過ぎた、60年が過ぎたとなっていくことを仏教では『空過』といいます。空過・流転であります。90歳まで100歳まで長生きしても『死にたくない』と思いながら死んでいく人のことを「若死」にと言うのだそうです。10歳で死のうと20歳で死のうと精一杯生き切ったといって死んでいく人を天命を全うしたと言うのです。
ではどうしたら「今」を全身で受け止め、「今」「ここ」で充実という時間を持てるかというと、「今」という時間に仏の世界と通じる世界を持つというか目覚めるということが大事になるのです。仏教の働きを智慧と慈悲で表します。智慧は無量光、限り無い光。そして慈悲は無量寿、限り無い命、永遠の命、仏の命と言われています。仏の世界を「無量寿」ということでの表します。歎異抄の第一章には「----念仏もうさんと思いたつ心の起こる「時」、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり----」とあります。これは仏の働きを受け取る「時」、仏の世界と通じる、即ち無量寿、永遠の命、仏のいのちと一体となる世界を賜るというのです。今の一瞬に永遠の命を生きる。今の一瞬に永遠の今が始まると言うのです。
仏の世界に目覚め通じる時、我々は「今」「ここ」で満たされた質の豊かさの世界(仏の世界)を恵まれるというのです。そういう世界を賜る「時」、今、ここで充実の世界となるのです、そうすれば明日こそ、明日こそと考えなくてもよいようになります。そして明日はもうお任せ、明日になって命がまだ与えられるならば、与えられた、生かされた命を「今」「ここ」で精一杯、生きさせていただきますとなっていくのです。
そこでは生きる時間の長い短いにはとらわれない「今」、「ここ」を大事にした生き方が展開するのです。
我々が長生きしたいといって願っていたことは時間の長さでなかった、時間の長さにとらわれない「いま」「ここ」を大事にする質の充実の世界であった、と気づかされるのです。ある僧侶が「悟り」とか「信心」とは常に「今」にあり続けることだ、と表白されています。
長生きと言うことは単に医学で生きている時間を延ばす、量的な延命だけではなく、仏教的な視点も入れた質的な長生きの世界を実現するということが大事になってきます。
産業医科大学の非常勤講師をされていた古川泰龍氏(熊本県、真言宗)は著作「死は救えるか」の中で患者さんが「死にたくない」、とか「長生きしたい」とふと漏らすがその背後にある意味を仏教者らしく説明されています。「有限の命をだんだん死に近づいている、本来なら永遠の命、仏の命に出会ってしかるべきなのに、そういう世界に出会わないまま終わろうとしている、仏の命、無量寿に出会いたいという無意識の叫びが「死にたくない(死なない命に出会いたい)」であり、それをすこし控えめに表現したものが「長生きしたい」という表現だと受け取れるといわれるのです。なるほどと頷けることであります。
長生きも医療と仏教の協力関係なしには本当に実現出来ない課題だと思われるのです。
8.「健康日本21」について
21世紀の健康政策「健康日本21」の説明の中で、今までの「健康至上主義」から「豊かな人生の為の健康」への方向転換がいわれています。豊かな人生の説明の中で「自己実現」という言葉が使われています。この言葉は本当は宗教的な目覚めの世界に深く関わりがあるのです。心理学の教科書によるとマスローという人が使われていて人間の欲求には5段階があるとし、(1)生理的欲求、(2)安全と安定の欲求、(3)社会的欲求、(4)尊厳欲求、(5)自己実現
として一番上位に「自己実現」という言葉をおいています。よく尋ねてみると、世間でいう自己実現ということで示されている内容は(1)から(4)までに収まってしまうのです。その上に「自己実現」があるというのです。自己実現とは自分が心の底から願っている本当の満足・喜びをえる世界を示しています。仏の智慧の光に照らされて気づかされる世界を示しています。これは宗教的な世界への理解がないと分からない世界のようです。
9.最後に
私が現在の病院に赴任する時、病院の所在が田舎であり多くの医師が喜んで赴任するという雰囲気はありませんでした。私は故郷に近く、都会、田舎にはあまりこだわる方でなかったので大学の医局が私に打診してきたのでしょう。最初は断っていましたが、一年をおいての再度の提案に赴任する決心をしたのでしたが、赴任して行くにあたって。仏教の師からお手紙を頂きました。それには「−−−前略−−−人生において役を頂いて仕事をすると言うことは、今まで社会からお育てを頂いたことに対する報恩行です。−−−後略−− 」ということが書かれていました。私としてはいろいろと世間的な損得を天秤に掛けながら思案していたのに師の言葉はそれを超えた発想でありました。報恩行なんていう発想は私の小賢しい知恵からは出てくるはずもないことであったのです。仏教では「私という存在はガンジス河の砂の数の因や縁によって存在あらしめられている」という。「生きている」と言うよりは「生かされている」というのです。
世間的な発想を超えた仏教の世界に接点を持ってみて、科学的な思考と仏教的な智慧の世界とどちらが「あるがまま」の姿を「あるがまま」に見ているでしょうか。科学的な思考は科学万能のような傲慢さに陥る危険性を持っていて仏教の思考を無視しがちであり、あたかも相容れない思考のように受け取りがちです。仏教の視点で見てみたときには決して両者は対立する世界ではなく。科学的な思考を仏教の世界が包み込むというのが適切に思われる(見える世界は見えない世界に支えられている)。信国 淳先生(僧侶)の言葉に「歳を取るというのは楽しいことですね、今まで見えなかった世界が見えるように成りました」というのがあります。まさに孫悟空が世界中を飛び回って活躍し自分のことを誇っていたが、気づいて見れば仏の手の掌(ひら)の上での世界であったということが本当に頷けるのです。
医療と仏教が協力して、一人一人の悩める患者さんに対応していくことが切に願われます。
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