「人間としての成熟とは」 東国東広域国保総合病院 田畑正久

 皆さん、こんにちは。ただいまご紹介いただきました、大分県から参りました田畑です。 私たちの病院は、大分県の国東半島といいまして、瀬戸内海に飛び出ている半島の、別府湾に面しているほうの五カ町村で運営している病院でありまして、私も公務員であります。 今日は成人式ということで、こういう記念講演の機会をいただきましたので、私が今、医療と仏教の協力関係というので取り組んでいること、医療や福祉の領域で仏教的な素養というものががなくなっているがために、いろいろなところでひずみが起きている。そういうところを、是非とも人生の新しい旅立ちの時に、お話させていただけたらと思います。今日は機会をいただきまして、本当にありがとうございました。
 まず自己紹介になりますけれども、私は大学の四年生までは、この世に仏教はなくても生活できると思っておりました。それが大学四年のときに、たまたま化学、ケミストリーを専攻されていながら、仏教の話をしているという先生に出会いました。それが縁で、その後三十年仏法のお育てをいただき、医療という仕事をしながら、こんにちに至っているわけです。 今、戦後五十年を過ぎた時代のなかで、本当に仏教的な素養というものがなくなってきているという日本文化の現状を、ぜひとも温かい文化状況にするというのが大事ではないかなと思うことしきりであります。 学生時代に仏法に出会いまして、三十年近くお育ていただいているわけですけれども、今、多くの場合が、そういう仏教との接点がないまま、多くの人たちが社会人になっておりまして、どういうことが起こってきているのかなということを、二、三紹介したいと思います。
 数年前、名古屋のほうで、中学生がナイフで教師を刺して亡くなるという事件がありました。そのときに、お通夜の席で同僚の先生が、「先生、なぜ死んだの」と嘆き悲しんでいたら、側にいた医師が、「出血多量で死にました」と言ったというのです。私たちは、なぜ死んだのの答えが、出血多量で死んだというかたちで、本当に受け取れるのであろうか。 また今、科学的な合理主義で教育は進んでおりますので、そういうようなかたちで、見えるもの、数字で表せるものが、全部が理解できるというようなかたちの、社会になってこようとしております。確かに、快適で、便利で、早くことがすむという時代になってきておりますけれども、そこに欠けてきておるものがあるのではないかと思いますね。
 たとえば、皆さん方が東南アジアの方に、日本の春とは何ですかという説明をするとします。そうすると、私たちはどういう説明をするかというと、「サクラが咲いて」、「空にはヒバリが鳴いて」、「ツクシが出て」、「花や草から新しい芽が出て」と、春を対象化して、分析して、一生懸命説明します。 だけども、それで充分にわかっていただけるかというと、やはり、七割から、八割くらいはわかってもらえるかもしれませんけれども、本当にわかったということには、なかなかならない。十分に分かってもらうためには、どうしたらいいかといえば、日本に来ていただいて、日本の三月から五月一緒に生活をしていただく。そうすると、「あっ、日本の春はこれなんですね」というふうにわかるのです。 そういうふうに、私たちは、頭でわかっていてということだけで、わかるのではなくて、身体全体でうなづけるということが非常に大事だと思います。
 最近、こういう投書が新聞に出ておりました。これは七十一歳の女性の方が、自分のことを書いているのです。ちょっと読んでみます。

私は、月満ちて生まれたが、体重二千五百グラムと小さく、祖父の結核に感染し、虚弱児だった。本を読むのが好きで、成績はまあまだったので、県立高女を受験した。だが結核だと言われて不合格だった。 戦争中、虚弱児と障害者は非国民とさげすまされた。だが、健康で合格した友人のひとりは、動員された軍事工場で米軍の機銃照射を受けて命を失った。 私立高女を卒業した私は、食料公団で働いたが、二十二歳の秋、秋祭りの日に大量の血を吐いて絶対安静となる。 恋愛の悩みと結核の悲しみに、私は死を決意した。どの梁(はり)に、(梁というのは天井の柱です、横に向いている木ですね)、どの梁に紐をかけて首を吊ろうかと天井を眺めていたら、その天井が、めらめらと燃え出したではないか。思わず、火事だ、火事だと叫んで裸足で外に飛び出した。近所のおじさんが飛んできて、火事の原因のコンセントを抜いてくれて鎮火した。 安静の(結核で寝ているから)、床にもどって私は考えた。火事に驚いて逃げ出したのは、本当は生きたかったのだと。私の右鎖骨の下に、石灰化したとはいえ、三個の空洞が鎮座しています

 頭では、死にたい、死にたいと思っていたけれども、身体では本当は生きたかったのだと。こういうように私たちは、いつの間にか、頭でわかったことが、本当にわかったと思いがちですけども、身体全体でうなずけるという世界があるんですね。私は、現代の、非常に頭でっかちな社会のなかで、身体全体でわかるという世界があるのだということを大事にしなければならないのではと思います。 そして、もうひとつ進めるとするならば、私は今日、皆さん方が、ろうそくの光というかたちで、光を点けて一人ひとり持っていただきましたけれども、光によって照らされる世界、教えによって、さらに深い世界があるのだということを、私たちは気ずかされるということが、本当に大事ではないかと思います。 私たちは、頭でわかるという世界が、まずあります。次に、身体全体でうなづけるという世界がある。もうひとつは、光によって照らされ、仏教の教えによって照らされて、本当にわかるという世界が、もうひとつあるのです。 でも、これはなかなか現代社会では、多くの人がうなづけるというところまでは行っておりません。これはぜひとも、日本の現在の文化状況のなかで、教えに照らされてわかる大きな世界があるんだということを、ぜひとも皆さん方が、これからの人生で、照らされて、照らし育てられていくという世界を持っていただけたらなと思っております。
 照らされることによって、どういう世界が見えてくるのかといいますと、ひとつのたとえですけれど、人間に生まれた意味。今日、誓いの言葉か何かで、両親から生まれた、人間として生まれた。でも、私たちは、この人間として生まれたことが喜べるかということですね。いや、誰も人間として生まれていることはあたりまえだと思いますね。そして、生きることの意味というものを、本当に自分でうなづけているか、ここらあたりの問題が、今、医療とか、福祉の領域で非常に課題になっているところです。 それは、どういうことかと言いますと、人間に生まれた意味、生きることの意味が、今、多くの大人に接して聞いてみますと、なかなかわからないんです。このことが本当に大事になってきているなというのが、世界の動きのなかで見えます。
 それは皆さん、WHOをご存知ですか。国連の下部組織に世界保健機構、WHOというのがあるのですけれども、ここで、健康の定義、いわゆるヘルス(health)といいますか、人間としての健康ということは、どういうことかという定義の変更が、今なされようとしているのです。今までは、人間としての健康というのは、身体的(physical)に健全である。精神的(mental)に健全である。社会的(social)に健全である。この三つが健全であるということが、人間としての健康でした。 身体的というのは、身体に病気がないことですね。精神的ということは、精神的にしっかりしている。社会的とは、友だち関係、地域社会での人間関係がちゃんとできているというかたち。この三つが、今まで健康の定義できていたのです。 それが、1999年に、もうひとつ健康の定義に要素が加わるということが、WHOの理事会で決定がなされました。どういう要素かといいますと、スピリチュアル(spiritual)に健全であるといかたちが、健康の定義の四番目に加わったのです。ただこれは、理事会では決定がなされましたけれども、総会の決定までには行っておりません。しかし、世の中の流れに、スピリチュアルに健全であるということが、人間としての健康なのだという時代が、今まさに来ようとしています。 この、スピリチュアルに健全であるということは、どういうことなのかということが、非常に宗教とからむと、私は思っております。なぜ、スピリチュアルに健全であるということが、健康の定義に加わったのかといいますと、これは、キューブラー・ロスといって、読売新聞から、『死の瞬間』とか、『続・死の瞬間』という本が出ておりますけれども、アメリカの女医さんですけれども、この女医さんが日本に来た講演のなかで、こういうことをおっしゃっています。

 あるご婦人が、体調の異常があったので病院へ行った。そうしたら、「あなたどこどこの癌です」。 この癌はかなり進行していたものですから、根治するということは無理でしょう。しかし、痛みを取る治療はできます。痛みを取る治療を、一生懸命しましょうというかたちで、先生のところにも通院をしておりました。
 そうしたときに、そのご婦人は、何と言ったかといいますと、「先生、私は、いい生活はしてきたけれども、本当に生きたことはありません」と訴えたのです。みんなに負けてはならないということで、社会的にも、経済的にも、子供の教育、家庭のことも一生懸命やってきた。 いざ、これから、人生を楽しもうと思っていたときに、癌になって、あと数カ月の命だとはっきりわかってきたときに、私が一生懸命がんばってきたことは、本当に生きたことだったのだろうか。何か、負けてはならぬと一生懸命追いかけるように走っていただけではないだろうか。

 そこのところですね。「いい生活はしてきていたけれども、本当に生きたことはありません」、と訴えたわけです。この人の悩みは、身体的、精神的、社会的では、はかれない範疇(はんちゅう)です。まさに、私の「生きるということの意味」はなんでしょうかというかたちで、この人の悩みが起こってきています。
 日本でもこういうことがありました。福岡のほうで、ある三十代の方が大腸癌になりまして、手術を受けました。だけど運悪く、二年後に再発をしました。そして痛みが少し出てきました。痛みを取る治療は、今できるようになりました。それで、痛みを取る治療は受けておりましたが、今度は、腸閉塞という病気になりました。 医療に関係のない方は、なかなか知らないかもしれませんけどね、腸閉塞というのは、腸がねじれたり、癒着をして食べることが出来ない病気です。このよう人は、中心静脈栄養といって、点滴をしながら生きていけるようになってきています。 今、病院に行くと、杖替わりに点滴の、プラスチックのバッグに点滴の水が入って、バッグを下げた点滴の棒みたいなものを、杖替わり突いている人を見ることがあると思います。あれは、中心静脈栄養をしているのです。この中心静脈栄養をしておりますと、食べなくても飲まなくても生きていけるわけです。 この人は、痛みは取れている。食べることも点滴で間に合っている。飲むことも点滴で間に合っている。小康状態を得ていたときに、ある回診のときに、この患者さんが先生に、「先生、私は、死ぬために生きているんでしょうか」と言ったというのです。もう、数カ月後に自分の死が迫っている。そこに、私の生きる意味は、いったい何でしょうか。ここに、この人は、今までの健康の定義、身体的、精神的、社会的でははかれない、私の生きる意味はいったい何でしょうか。あと数カ月後に死が迫っている。生きる意味はあるのでしょうか。こういうかたちで、医療の現場で、患者さんからメッセージが発せられています。
 そういう現状を考えたときに、私たちは、人間に生まれた意味。生きることの意味。死んだらどうなっていくのか。こういうところの、自分なりのうなづきを持っているということが、人間にとっての健康なのだというかたちで、スピリチュアルという要素を、健康の定義の中にひとつ加えようという時代の流れになってきております。 皆さん方は、まさに、健康を誇る、若さを誇るという状態にあるかもしれません。でも今、日本人の三人に一人が癌で亡くなるという時代です。必ず自分たちの両親、おじさん、おばさん、兄弟、友人、そういう人たちが、そういう場面に出くわすことは必ずあります。 そうしたときに、今言った、スピリチュアルに健全である。私が、人間として生まれた意味。生きることの意味。死んだらどうなっていくのか。こういうところを、若いときから、そういうところ少しづつでも学んでいただければと願うわけです。スピリチュアルな課題に自分なりにうなづきを持てるということが大事であるという時代性になってきています。
 連如上人という方が、「仏法は、若き時にたしなめ」とおっしゃっておられます。今、多くの人たちは、定年で仕事が終わってから仏教を学ぼうと、そういう人たちが多いんですけれども、でも、できることならば、現役の世代に仏法に出会って、仏法のお育てをいただきながら世間で仕事をするということは、本当に、皆さん方にとっては実りのある人生につながるのではないかと思っています。 蓮如上人は、もうひとつ、「仏法は主(あるじ)として、世間を客人とせよ」という言葉を残しています。私たちは、いつの間にか、世間のことに追われて、振り回されて、生きているのですけれども、本当は、「仏法は主(あるじ)として、世間を客人とする」ことが大切なのです。 これは、どういうことかと言いますと、自分の考える基本を仏法において、そして、世間はお客さまを扱うように大切に扱っていく、大切に取り組んでいく、という心もちを示して、「仏法をあるじとして、世間を客人とせよ」という言葉を、『御一代記聞書』の中に出ています。 新しい人生の門出にあたって、世間のことは世間のことで一生懸命がんばる。そして同時に、心の内面では仏法にお育てをいただくという方向性を、ぜひとも持っていただいたらならば、実りある人生と言いますか、深い人生のあじわいが出てくるのではないかなと、私は思っております。 また私自身も、仏法はこの世になくてもいものだと思っていたのが、たまたま二十二歳でした。仏法に出会い、そして三十年近くお育てをいただいて、「仏法は、若きときにたしなめ」という、蓮如上人の言葉というのは、本当に大事なんだなということを、思わせられております。 そしてまた、医療とか福祉の領域で仕事をしながら、いまこそ仏教的な素養というものが、日本文化の中に少しでも育てていくといいますか、あらためて、大事だということを、皆さん方が意識していただく時代性になってきているのだと思われます。 また、WHOの健康定義のなかに、スピリチュアルに健全であるということが人間としての健康なのだということが、世界の時代の流れのなかで、まさに浄土真宗の親鸞聖人の教えが、仏教の教えが、まさに世界的に認知されて、こういうことへのうなづきがあるということが、人間としての健康なのだという時代性なのです。 ぜひとも皆さん方は、頭の柔らかいときに、仏法的な素養というものを身に付けて、社会人になって欲しいと思っています。私たちは、どうしたら仏教的な素養というものが身に付くのだろうか。また、身に付かないと、どんなふうになっていくのだろうかということを、少し紹介させていただきたいなと思います。
 皆さま方に、ひとつ質問ですけども、氷が解けたら何になると思いますか、イメージしてください。この質問を受けたときに私は、水になると思いました。私の三男坊が高校二年生のときでしたから、聞きました。そうしたらやっぱり、「おとうさん水になるよ」と言いました。私たちはいつの間にか、氷が解けたら水になるということが、あたりまえだという教育を受けてきているのです。これは、ある方がおっしゃるのです。「氷が解けたら春になる」。 いつの間にか私たちは、ものごとを対象化して、頭でわかるという訓練を受けてきているものですから、全体像が見えなくなってきている。そういうことですね。先ほど、七十一歳のご婦人が、身体全体では生きたいのだと思っていたと言うのです。それよりも、さらに深い世界がわかるということは、どういうことだと。
 三木清という方が、この人は四十歳くらいで亡くなったのですけれども、『人生論ノート』という本を書いています。新潮文庫から出ております。この中で、「幸福についてと」いうところに非常に教えられることがあります。 私たちは、この人生を生きていくということは。先ほど言いましたね。人間として生まれたという意味。生きることの意味。人間として生きていくということは、私たちは幸せになるということを願って生きております。どうしたら幸せになるだろうか、幸せになるための、いろいろな条件を私たちは集めれば、幸せになると思う。
 たとえば大学に行って能力を高める。技術を学ぶ。いろいろな知識を増やす。そういうふうなものを、いろいろ集めることによって、私たちは幸せになっていけると思っています。 だけれども、三木清の『人生論ノート』を見てみますと、こんなふうに書いてあります。

「幸せとは人格である。人が外套を脱ぎ捨てるように、いつでも気楽に他の幸福を脱ぎ捨てることができるものが、もっとも幸福な人である。彼の幸福は、彼の生命と同じように、彼自身とひとつのものである」

 どういうことかというと、私たちは、生きることの意味は、自分のための幸せの条件、プラスの価値を一生懸命集めて、マイナスのものをできるだけ小さくしていくことが、私の生きることだ、また幸せにつながっていくことだと思って、一生懸命がんばります。 そして、いろいろな幸せの条件を集めることによって、私は幸せになれると思っているんですね。これもひとつ大事な方法です。でも、三木清という方は、「本当の幸福とは、幸せの条件を全部、外套をはずしているみたいに脱ぎ捨てていって、身体ひとつになって、私は私でよかったということができることが、本当の幸せなんだ」と、ここに書いてあります。 そこで、大事なことは何だろうかということを考えないといけないですね。今日私は、人間として成熟するというかたちのことを講題に出させていただきましたけれども、私たちは、身体としては、二十歳ぐらいを大人としての標準として成長していきます。だけれども内面的な成長、内面的な成熟というかたちが充分なされているだろうか、まして科学的な合理主義だけで、ものごとがすべてだという見方でいくと、見えなくなっているものが、たくさんあるわけです。 ある僧侶の方が、「歳を取るということは楽しいことですね。今まで見えなかった世界が見えるようになるんですよ」とおっしゃるのです。私たちは、頭でわかった。身体全体でわかった。そして、さらに深めるならば、仏の教えに照らされて初めて見えてくる世界があるのだ。これは、なかなか皆さん方はわかりにくいかもしれません。 東井義雄先生という方が、こういう詩を残しています。「意味というものは、こちらが読み取るものだ。値打ちというものは、こちらが発見するものだ。すばらしいものを、すばらしいもののなかにいても、意味が読み取れずに値打ちが発見できないなら、瓦礫の中にいるようなものだ」 いろいろなものに意味があるのだ。いろいろなものに値打ちがあるのだ。だけど、そんな意味があり、値打ちがあるもの中にいても、そのことの値打ちが見えない、そのことの意味が発見できないならば、まさに、道端に転がっている石ころの中にいるのと同じようなものだと言うわけです。そこに、私たちは、仏の光に照らされて初めて見えてくる世界を、本当に学ぶということがなかったならば、せっかく宝の蔵の中にいても、それが見えないまま人生終わってしまいますよと。
 もうひとつ、紹介しておきます。相田みつをさんという方。この人は曹洞宗関係の方ですけれど、こんな言葉を残しています。「美しいものを、美しいと思える、あなたの心が美しい」 私たちは、ものを見たときに、これが価値があるか、価値がないか。値打ちがあるか、値打ちがないか。意味があるか、意味がないか。そこに、それを読み取る心、読み取る目がなければ、せっかくのすばらしいものであっても、それを見抜けないまま人生を終わっていくかもしれません。 現代教育の今の盲点です。これは、宇野正一という方が、戦前ですけれども、両親が何か都合が悪くて、おじいちゃんと、おばあちゃんのところで育てられたのです。戦前で貧しい時代でした。食べ物は非常に貴重な存在です。だから米の一粒、一粒に仏さんが宿っているということを、おじいちゃん、おばあちゃんから教えられてきた人ですね。 その当時の中学、戦前の中学生は、今の大学の人たちよりも同じ世代の中に占めるパーセントでいったら少ないかもしれません。その中学で、理科の授業があった。米の切片をつくって顕微鏡で観る授業があった。宇野正一さんは顕微鏡を観ながら、「いない、いない」と言ったのです。 理科の先生が、「何がいないのか」と聞いたのです。そうしたら、「自分は、おじいちゃん、おばあちゃんから、米の一粒、一粒に仏さんが宿っているというのに、顕微鏡で観ても見えない」と言ったら、理科の先生は何と言ったかというと、「米というのはね、炭水化物と、脂肪と、ミネラルと、植物性繊維でできているので、仏さんなんか入っていないんだ」と言ったのですね。 私たちは、そこに、科学的に証明できるもの、見えるもの、数字で表せるものだけが、あると思って、その、背後にある世界が見えなくなってきています。米をつくった、農業に携わる人たちのはたらきがあり、料理をつくってくれた人たちの心が入っている食べ物の背後にあるものが見えないのです。
 たとえば今度、お正月が過ぎて、あるときに、これは広島大学の先生から聞いたのですけれども、ある小学生が会話をしていたのです。どういう会話をしていたかと言うと、「今日は、おじいちゃんと、おばあちゃんのところを集金してまわった」と言ったのです。おじいちゃんや、おばあちゃんは、孫に、元気な子供になって欲しいといって、願いを込めてお年玉を渡すわけです。だけれども、お年玉の背後のある心が読み取れなければ、今日は、おじいちゃんと、おばあちゃんのところ、集金してまわったというような発想になってしまう。 皆さん方も、たとえば郷里から両親が生活費として十数万円を送ってきたとします。このお金は、食事が何万円で、生活費が何万円で、あと何万円で遊べるぞと考えるのか、ああ、このお金は、両親が、おじいちゃん、おばあちゃんと一緒になって、節約して私のために送ってくれたお金なのだ、そういう心がこもったお金なのだ。ぜひとも、このお金は大事にして使わなければ。 結果としては、同じ使い方になるかもしれません。だけども、そのお金の背後にあるものが、見えるか、見えないかというものが、精神的な豊かさ。まさに今まで見えなかった世界が、見えるようになるのですよという世界なのですね。皆さん方が、仏教的な素養、仏教的なお育てをいただくことによって、見えないものが、見えるという世界が見えてきたときに、私たちが、より豊かな、精神生活が送れるようになるのです。
 私たちは、世界旅行をするとか、いろいろな外の世界に、珍しいものとか、美しいものを見ようと思っておりますけれども、仏法のお育てをいただいてみると、今まで見えなかった内観、内面が見えてくるのです。そして、その内面の広まりというものが本当にわかってきたときには、外のいろいろなおもしろいもの、美しいもの、以上に広い世界が見えてくる。そうしたときに私たちは、仏法を学ぶという、そこのなかに本当に心豊かな世界が展開するということを、うなづけてきます。 そうしてみれば、私たちは、何かいつも外側ばかりきょろきょろ見て、何かおもしろいことはないか、何か楽しいことはないかと、いつも外側ばかりきょろきょろしていた私たちが、そうではなくて、自分の内面に豊かな世界がある。そのことは、仏法のお育てをいただいてみて、本当にそうなのだというかたちの世界がうなづける。 ぜひとも、仏法の光に照らされて見えてくるという世界を、皆さん方が持ちえないで人生を空過・流転するならば、それは本当にもったいないことになる。ぜひとも、この大学、また、そういう仏教との接点のある大学に学ぶということをとおして、やはり現実的には、いろいろな知識を増やす、技術を増やす、能力を高める、これも大事です。だけども同時に、自分の内面を照らされて深い世界に気づいていくということも大事にしてほしいものです。 仏法でお育てをいただかなければ、そういう世界はなかなか見えてこないでしょう。これは仏教でなくてもね、キリスト教でもいいかもしれません。自分に縁のある、自分にとってわかりやすい教えであって、そういう世界を見出していくというかたちのなかで、豊かなる人生につながっていくのだと思います。
 私に、仏法の縁をつくっていただきました先生は、化学を専攻されている細川巌先生でした。こんなたとえで教えていただきました。私たちは、生まれたままでは、両親を縁として人間として生まれているけれども、生まれたままであれば、ドングリみたいなものでしょうかね。ドングリというのは、殻に包まれている。そして、ドングリはいつもドングリころころであります。
 これはどういうことかと言いますと、私たちは、いつも周囲を気にするわけです。人がどう思うだろうか、世間ではどんなことを言っているだろうかと言って、いつも世間を気にして、ある人が、こんなこと言ったといえば、それに流されて、ころころころ。また、そちらの人が、こんなこと言ったといえば、ころころころ。いつも定まらずに、ころころ、ころころの人生を送ろうとしております。そして、いつも周囲の目を気にしてですね。 それは、いつもドングリころころしていれば、どうなっていくのか、結局はドングリころころのまま腐って、虫に食われるか死んでしまうわけです。このドングリは、ドングリころころのままに終わるために生まれてきたのではないのです。ドングリは、しっかりと水を得る大地を得て、太陽の光を受けて、そこで育てられて発芽をするという世界が、ドングリに生まれた甲斐があると言います。 仏教は、私たちは世間で生活しているというのは、やはりドングリころころのまま生活しているからです。それが、仏法の教えを受けることによって、大地からの水を受けて発芽をするということにおいて、初めて広い世界がわかる。そして、自分の生きる方向がわかってくる。それと同時に尋ねるべき自分の内面の方向がわかってくる。ドングリころころでしていたものが、大地を得て発芽をするということが、仏法では、禅宗では、悟りと言い、真宗では、信心をいただくと言われます。 ぜひとも、皆さん方が、教えを受け、よき師を。水というのは、よき先生、よき友なのです。よき師、よき友に出会い。そして、教えを受けることによって発芽をし、まさに人生の生きる方向がはっきり定まっていくという世界が見えてきたときに、私たちは、本当に流転を超えると言いますか、ドングリころころではない、まさに生きる方向が定まる。 私は、このたとえを聞いて、ああ、本当にドングリころころなのだなという自分に気づきました。それと同時に、生きる方向が定まるということは、すごいことなのだ。そこで、私は先生に、「先生、どうしたら仏法の世界がわかるようになるでしょうか」と質問しました。すると先生が「毎月一回、こういう会をしていますから、ぜひとも、続けてみてください。一年聴いてみてください」と言われました。 大学四年生のときでしたから、今度は五年生になったときに、「先生、一年続けたんですけど、仏法は、なかなかわかりませんけど、どうしたらいいでしょうね」と言ったら、先生は、「田畑くん、そうですね、三年続けてみたらわかるでしょう」とおっしゃった。そして、先生の教えをいただく歩みが始ったのですけれど、三年も経たないうちに、これは一生教えに照らされていく歩みなのだなということがわかりました。 そこで、皆さん方、ぜひとも、この大学の二年ないし四年、せっかくの機会に恵まれた大学で仏法の接点を持って、一年ないし数年、仏法のお話を聴くというかたちで、自分の心を育てる、内面を育てる。まさに、教え育てられるというのを、照らし育てられると言います。そして、私の心の殻が照らし破られるという世界において、本当に広い世界が見えてくるのです。 そのことと同時に、私たちは今まで、何か「あの人のようにならなければ」と、いつもよそを見て、「あの人のようになりたい」、「あんなになりたい」と思っていたものが、そうではなくて、「私が私になりきればいいんだ」という世界が見えてくるのです。 私たちは、外の世界を見ると、ナンバーワンにならなければ意味がないように思うのですけれども、私が私になりきればいいのだという世界が見えてくれば、オンリーワン、まさに私が私として輝いていけばいいのだという世界が、本当に、うなづけてくるのです。 まさにそういう、仏法の智慧をいただいたものは、そこに自分は、「私は私でよかった」という世界を持ちながら、なおかつ、世間にいろいろなことでお役に立つことがあれば、がんばっていこうという方向性がいただけるのです。 そこで私は最後に、生きるということの意味というのは、決してプラス価値をたくさん集めて、マイナス価値を小さくしていくということではない。ドングリころころのままだったら、いつも明日こそ、明日こそと、何かを追い求めるエネルギーを、自分をむち打って、いつも何か追い求めるというエネルギーを駆り立てて行くしかないわけです。 私たちが、ドングリころころで生きるかぎり、いつも内面で何か不足、不満があって、そして、明日こそ、明日こそと追い求める意欲で生きていくわけですけれども、仏法の、お育てをいただき、智慧の目をいただいたならば、私は私になりきればいいのだという世界が、うなずけてくると、ああ、こんなすごい世界があったのか。こんな広い世界があったのか。こんな広い世界が、こんなすごい世界があるのだったら、何とかあの人にも、こういう世界がわかって欲しいな、この人にも、こんな世界があるということを伝えたいなという思いを、まさに、願いを生きるという世界をいただきます。 これは、追い求める意欲ではないのです。今度は、溢れ出る喜びを何とか人に伝えたい。みんなにわかって欲しい。悩んでいる人がいれば、ぜひとも、そういう世界を超えて欲しいという、まさに、願いを生きる。溢れ出る喜びを、あの人にも、この人にも伝えたいという意欲を生きる世界が展開してくるわけです。追い求める意欲ではなくて、溢れ出る喜びを生きるという世界にまで転じることによって、私たちは、命の長い、短いにとらわれなくて、「今」、「ここ」を大事に取り組んでいこう、「今」、「ここ」を精一杯がんばっていこうという、生きる方向性が出てくるのです。 ぜひとも、こういう世界に気づいていくということが、人間としての成熟なのです。私たちは、肉体的に成長するだけでは、やはり見えない世界があるのです。まさに、教えに照らされてみて、見えない世界が見えてくるという世界を、自分自身でうなづけていくときに、私たちは、より豊かな人生、より幅の広い人格として、がんばって生きることができます。 まさに、三木清が、いろいろな幸福の条件を、最後脱ぎ捨てていって、素っ裸になっても、「私は私でよかった」と言えることが、本当の幸福なのだ。まさに仏法のお育てをいただくというのは、私はこのことではないかなといただくのです。 ぜひとも皆さん方が、いろいろなものを外に集めるのではなくて、自分の人格を磨く、人格を育てていただく。こういう世界を持って、ぜひとも、これからの人生を、一日、一日を大事にするという世界を生きてきて欲しいなと。そして、そういう世界が見えてきたときに、私たちは、自分は生きていると思っていたものが、生かされているのだ、支えられているのだ、みんなから願われているのだ、そういう世界も見えてくるはずです。 そこに私たちが、本当にいろいろなものに感謝ができる、恩を感じられる。これは、やはり、自分がひとりで生きているというのではなくて、生かされているのだ、支えられているのだ、みんなから、願われているのだ、思われているのだ。こういう、見えない世界が見えるようになるという智慧の目をいただくことによって、今までに見えなかったような大きな世界の広がりが出てくるのです。 ぜひとも皆さん方が、二十年間の助走を経て、大人としてこの人生のスタートラインに立って、これから、人生の大きな大海の中に旅立って行こうとするときに、一方では、知識、能力を高める。同時に、私の内面を豊かにしていくという世界を持って欲しいと思います。
 仏教は、日本の文化に内観という大きな世界を、日本の文化に貢献をしたわけです。ぜひとも、自分の内面を見る、内観の世界を大事にし、それを育てていくという世界を、ひとつ自分の人生のなかで大事に持っていただいて、これからの人生を生きていって欲しい。そして、そのことが、ひとつ人間として成熟して。そして、成熟していくときに、自然と出てくる喜びは、私は私でよかった。人間に生まれてよかった。私は私でよかったという世界を見る目が育ってくるのです。 ものを見抜く目がなければ、ものを発見する目がなければ、私たちは、宝の山の中にいても、何か足りない、足りないで、この人生を終わっていく可能性があります。 ぜひとも、この仏教の教えによって、ものを見る目を育てていただいて、より広い世界を私たちは気づいていく、知らされていくということを、ぜひとも、これからの人生で、ひとつの方向性として持っていただけたらと思っています。
 今回、人間として成熟する、これはまさに二十年経って、これから人生の大海の中を泳ぎだそうとする皆さん方に、ぜひとも、人間としての成熟という世界があるのだということを、ぜひとも心のどこかに置いていただいて、これからの人生を歩んでいただきたいと願って、今日の私の記念講演を終わらせていただきます。
 どうも、ご静聴ありがとうございました。(終了)

(C)Copyright 1999-2017 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.