s 「いのち」について

「いのち」について 東国東広域国保総合病院長 田畑正久

 数年前、私の三男が高校2年生の時、大分県で高校生が知人の一家数人を殺傷する事件がありました。その時、高校生を持つ保護者に大分県の教育長とPTA会長の連名で「家庭でも命を大切にすることを教えてください」という趣旨の文章が配布されました。
 「いのち」ということを考えてみると私みたいに医学教育を受けて、医療の仕事に携わっている者は生命現象としての生物学的な命を考えてしまいます。
 その頃マスコミでも「いのち」についての報道が多くあり、その中で「なぜ人を殺したらいけないのか」という高校生の質問に説得力のある説明が大人から出来ずに「自分が殺されたら困るでしょう、だから他のいのちも大切にしなければならないのです」という説明がいわれたと聞きました。 当時、私自身もその質問にはどういう答えがあるのだろうかと、戸惑っていまして、納得のいく考え方を持てませんでした。 さらに仏教のお育てを頂いた者として、仏教の無量寿、仏のいのち、永遠の命との関係はどうなんだろうかということも課題としてありました。
 数年前ドーキンスという生物学者が「利己的な遺伝子」という本を出して、日本でも訳されて出版され話題になりました。その中で著者は生き物と言うのは「遺伝子の乗り物」であると言っています。遺伝子によって作られるたんぱく質、ホルモン等を考えると、動物はホルモンに操られる生物という一面を持っていることで、その言葉が頷けます。 肥満を専門にする医師が新聞記事にライオンについて面白いことを書いていました。ライオンは空腹になると空腹ホルモンが上昇し、ある一定量以上になるとライオンは獲物を取る行動をはじめる。苦労の末、獲物を捕らえ、食べると今度は満腹ホルモンが上昇する、満腹ホルモンが血中に一定量以上になると食べるのをやめる。満腹ホルモンが上昇している間は、目の前に獲物がいたとしても取ろうとしないという。遺伝子に操られているライオンの姿があります。 人間では食後でもお客さんがおいしい果物とかケーキをもって来ると、本能だけでなく理知分別の判断も加味されて行動するので、おいしいものを食べたいという欲に負けて、ついついご馳走になります。 人間を含めて生き物は遺伝子の乗り物という説明もなるほどと思わせるものがあります。
  その遺伝子には基本の戦略と思われる原則が2つあるというのです。一つは自己保存であり、もう一つは自己複製であります。 「自己保存」とは自分のいのちを維持するために体の仕組みがいろいろに作られている。時には他のいのちを犠牲にしてでも自分のいのちを維持しようと行動したりするように仕組まれていると言うのです。 一方「自己複製」とは遺伝子を次の世代に伝えるために生物の身体はいろいろと仕組まれて行動するようになっていると言うのです。 生命現象としての命は生物学的、医学的にいろいろと仕組みが解明されてきて命の現象としての身体の全体像が次第に説明可能になってきています。
 「命を大切にする」とか、「命の尊厳」と言うことは生命現象の機序が解明されるという科学的な知識からは出てくるのでしょうか。精神面を含めて人間の命に関して未だ未知な領域があまりにも多いのですが、現在までの科学的な知識からは「命を大切に」とか「いのちの尊厳」とかの発想は出てこないようです。 「命を大切に」とか「命の尊厳」という言葉はどこから出てくるのかを考えると、生物学的な自己保存の戦略から自分のいのちを維持したい。他から危害を加えられることは困るので人間の社会集団をよい状態に維持するために道徳・倫理の観点から「命を大切に」とか「命の尊厳」という標語を考え出したと勘ぐることが出来るのです。 「命を大切に」とか「命の尊厳」という言葉が自己保存の戦略から出てきたとすると、突き詰めると矛盾することになり、建前と本音の乖離(かいり)が起こります。 科学的な合理主義を信仰するが如きの現代の多くの日本人は、調和の取れた人間社会を維持するためには「いのちを大切に」とか「いのちの尊厳」を声高々に唱えなければなりません。しかし、本音は自己保存という戦略の一環ならばその題目は最終的には実効のあるものになりません。
 養老猛司氏の提唱した「都市社会」では脳の働きを優先した社会、即ち人間の知性、理性の思いが実現するような理想の社会をつくっていきます。都市社会(別名、脳化社会)では快適で、便利で、早く、人間の思いが実現できるような社会[戦後50年の日本社会の状況のような]であります。 しかし、都市社会では人間の個性が消えて部品化していくというのです。有能な人材とか、医療資源と言うように部品化、物化、道具化して人間の顔が見えなくなります。交換可能は部品の一つと言うことになります。宗教なしの公的教育だけを受けてきた日本社会の現実はその方向に向いているといえないでしょうか。
 仏教の基本の「縁起の法」によれば、私の周囲の事物は私とは離れて[関係なく]存在すると言うのではありません。私と、私の周囲の事物とは密接な関係、切ってもきれない関係として一体化して存在するのであります(依正不二)。 小鳥の声が聞こえるということは声が聞こえるというあり方で私があるのです。風景が美しいというときは、風景が見えるというあり方で私がいるのです。 「ガンジス河の砂の数ほどの因や縁によって『私』という存在はあらしめられている」というのはまさにこのことでしょう。そして一刹那ごとに生滅が繰り返されて存在するのです。数限り無い因や縁、それこそ無量寿に支えられている、生かされているということでしょう。そんないのちに出遇いつづけていく時、永遠の「今」を、「ここ」で賜って生きるということでしょう。妙好人才市は「才市は、ご恩で出来てます」といわれたと聞いています。
 生命現象としてのいのちを生きている私は自分の力で(他のお世話にならずとも)生きている、そして仏(無量寿)を向こう側に見て無量寿と対立してあるように思うのです。深く静かに見て、教えに照らされて見れば、私のいのちは自分で生きていると言うよりは、支えられている、生かされている、無量寿に包まれて[摂取不捨されて]あるのです。 生命現象としての「いのち」を、頭に降り注ぐ火の粉を払い落とすが如くに頑張って生きても地獄・餓鬼・畜生・修羅の世界を生きる限り、煩悩に汚染せる意欲でいくら長く生きても生きたことにならない。生ける屍(しかばね)の如く肉体的には動いているがうろうろしている(空過・流転)だけだというのです。 そんな私に世間的な「生きる、死ぬ」を超えてイキイキと生きる意欲を、息吹(いぶき)を吹き込むものこそ無量寿のいのちではないでしょうか。いのちの「い」は「息」、「ち」は「勢い」です、まさに生きる根源の力です、清浄意欲、人生の原点、生活の原点、「南無阿弥陀仏」と名告りでる「いのち」です。「仏のいのち」に触れた者は願いに生きる(願生意欲)ように転じられるのです。 そんないのちで通じ合い、浄土のいのちを賜って生きるいのちの仲間は傷つけあわない、奪わない、欺(あざむ)かないのです。そしてお互い助けあい、慈しみ合い、学び合い、御同行、御同朋として尊重し合うのです。

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