「今」・「今日」しかない   田畑正久

 「ビハーラ大分(事務局:浄土真宗本願寺派大分教務所)」が大分県下数箇所で緩和ケアと医療と仏教の協力関係についての理解を深めてもらう講演会を平成15年度に6回行いました。その中で私が、仏教では「今」「今日」が大切と教えてくれています、という話をしたときに某公立病院の院長が「我々は『明日こそ、明日に明るい希望がある』ということで生きる原動力をいただいている。仏教では明日は無い、今、今日しかないと言われると戸惑う、どうすればそういう世界が分かるようになるのか」という質問をされました。
 我々は欲求を満たすために目標を立て、それに向かって努力していく、明日こそ、希望するもの、夢が実現して満足・幸福感を持てるだろうと日々を過ごしています。その院長の質問は現代人の殆んどの人の発想であります。
 しかしながら、仏教では将来、欲求するものが満たされれば幸福になるであろうと思うのは「人間が勝手に考える妄想である」と教えられるのです。相対的な世界であるがゆえに、量・質においてより上を目指します。いったん目標が達せられたとしても「さらに上を」目指すという相対的な世界の宿命のようなもので、限りが無くなっていくのです。また目標が満たされてもそれがあたり前になり次なる関心事へ意識が向いていくという習癖(シュウヘキ)が人間にはあります。それらを見抜いて「妄想」と指摘されるのでしょう。

「欲求するものが満たされれば幸福になるであろう」と考えるのは私の現在が「不足・不満」というあり方をしていることを示すに過ぎないと仏教は見破ります。パスカルの言葉に「現在は決して我々の目的ではなく、過去と現在は我々の手段であり、未来のみが我々の目的である」があります。

 「今の一瞬しかないではないか」と言われれば科学的合理主義の現代人は理論的に納得せざるを得ません。確かに「今」という時だけが真に私に属している唯一の時間です、しかし、今という一瞬をじっくり受け取るとか見つめることが出来るのかというと、物理的な極微の一瞬を考えると当惑するしかありません。一瞬を受け止められずに外向きにきょろきょろするしかないのです。我々の意識は今の一瞬を受け止められずに、過去や未来に意識の眼が向きます。そして相対的な世界であるがゆえに自分の思いで自分を苦しめるという自縄自縛の結果になり、持ち越し苦労、取り越し苦労で振り廻されることにならざるを得ません。

 我々の常識、あたり前と思っていたことが仏教の教えによって次々と覆(クツガエ)されます。そしてその事実に私は「参った、南無阿弥陀仏」というしかありません。我々の常識、あたり前と思っていたことが仏教の教えで照らし出され、人間の思い込みのなんと狭いことか、本当に我見、偏見に囚われていたことを知らされるのです。そんな私に智慧を届けたい、いのちあらしめたい(南無阿弥陀仏;汝、小さな殻を出て、大きな世界を生きよ)との働きをよき師・友を通して知らされ、限りなく転回せしめられるのです。

 科学的な合理主義が物事を正しく見ている、客観性のある間違いない見方だと思っていました。物理的化学的視点はいろいろな事象の解明、説明には確かなる大きな力を発揮しています。近代の文明は科学的な合理主義的思考で大きな展開を遂げました、そしてその恩恵を我々は蒙っているのです。

 「真実」とは仏典漢訳の時に初めて使われるようになった言葉と聞いています。「あるがまま」という意味を「真実」と漢訳したというのです。我々は科学的合理主義的な視点で「あるがまま」のものを「あるがまま」のように見たつもりだったのです。

 宇宙全体の視点で見たとき、科学的な合理主義的思考は一部において信頼に足るものであることは認めざるを得ません。しかし、それは全てではなかったのです。科学的な合理主義的思考の長所・短所をわきまえて謙虚に仏教の智慧の教えに耳を傾けていかなければなりません。仏のはたらき、南無阿弥陀仏の生起本末を聞き開き、南無阿弥陀仏に自分の思いを翻され、「南無阿弥陀仏」と念仏する時、極微の一瞬に無限の広がり(無量寿、無量光、南無阿弥陀仏の姿を)を感得して摂取不捨されていくのです。

 「今」、「今日」しかないというあり方(縁起の法)をうなずいて生きるとき、「南無阿弥陀仏」と現実を受け取るのです。「今」「ここ」で知足の世界をいただく者には明日は必要としません。明日は仏さんにお任せであります。私に与えられた業を今、今日、ここで南無阿弥陀仏と精一杯取り組まさせていただくのです。
 常に「今」、「今日」しかないのです。信心・悟りとは、「常に今にあり続けること」とお聞きしたことがあります。

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