仏教講演会(飯塚の会)飯塚総合会館 平成17年(2005年)1月15日
講題「医療と仏教の協力」  田畑正久 述
 はじめに
 今ご紹介いただきましたように、私は細川先生から、「世間の仕事は余力を残して辞めなさい、後生の一大事が残っています」と常々お聞きしていましたものですから、昨年 病院長の方は踏ん切りをつけて辞めまして、しかし医師としての教育を受けてきたので全く辞めるのも国に申し訳ないと思いまして、今は半歩引いて三十人くらいの準寝たきりのお年寄りの方を診たり、病院の近くの一般の人達を診療させていただいています。
 早く死にたい
 今受け持っている患者さんに、今年百歳になるご婦人がおられます。あまり仏教にご縁がなかったみたいですが、この方が去年九十九歳のときに「早く死にたい」としきりに言われるのです。それで人間関係ができたところで言いました。「そんなに死にたいのだったら一回あなたの心臓とか肺に聞いてみたらどうですか? もし本当に死にたいというのだったら心臓も肺もときどきサボり始めるだろうから、今晩よく聞いてみてよ」そして次の朝「どうでしたか?」と聞くわけです。そうすると「心臓も肺の死にたいと言っています。」これは一筋縄ではいかんと思いました。
 死ぬ実験
 今度はこう言いました。「もしあなたが本当に死にたいんだったら、一週間飲まず食わずでいると願い通り死ねますよ。 一回、死ぬ実験をしませんか? ただし、もし途中で喉が乾いたとか、お腹が空いたとか言い出したらまだあなたの身体は生きたいと言っているのですよ。」 こういう会話をしばらく繰り返しました。 ある朝、なかなか実験を始めませんね、と声をかけると「先生も一緒に実験に加わってください。」と返事がありました。「私は死にたくないからあなた勝手にやりなさいよ」と、こういうちょうしです。あるとき、おいしそうにりんごを剥きながら食べているので、「実験は始めませんか」というと「手が勝手に動くんです」と絶妙な反応が返ってきました。
 自損損他
 それから半年くらい過ぎてこの人が新聞を見ながら言われました。「私達みたいな、手をとる年寄が増えたら日本が亡んでしまいますよ。」 私達年寄はこれから迷惑をかけるから早く死んだ方がいいというわけですね。だけど、今まで迷惑をかけたとは言わない、これから迷惑をかけるから、とこういうわけです。軽く冗談が言える関係になっていましたので「迷惑をかけるとか、死にたいと言うんだったら、勝手に死んだらいいんじゃないの?」と言ったら、「私一人死んでもしようがないじゃないですか。みんな一緒に死ななきゃ。」これを聞いたとき私は、人間の分別というのは結局「自損損他」していくんだなあ、とつくづく思わされました。早く死んだ方がいいと自分で自分を傷つけ、私一人死んでもしようがない、みんな一緒に死ななきゃと、こう言うわけですよ。仏さんはこの逆ですね、「自利利他円満」。
 土徳のある地域
 こんなふうに私はこのおばあちゃんと毎日話をするわけですが、ちょっと離れた所に私の受け持ちではない、おばあちゃんがいて、この人が毎日、私と99歳の患者さんとの会話を聞いていたわけです。この人は言葉がちょっと不自由なんですが、婦長さんから仏教の本を借りて時々寝ながらよく読んでいるのです。それでたまたまその人の部屋のそばを通る時、私が「〇〇さん、よく仏書を読まれますね。難しいところや、分からないところがあれば、私で答えることの出来ることはお答えしますから」と声をかけたのです。そしたら「私は六十過ぎから死ぬということばっかり考えていました。だけれども毎日食堂で先生とあのおばあちゃんの会話を聞いているうちに段々死ぬのが怖くなくなってきました。」傍で聞いている人の方が先にわかっていっているのですね。
 こういうふうに私は医療と半分は福祉の領域にかかわるような仕事をしているのですけれども、今日は「医療と仏教の協力」という形で、医療と仏教が協力していくことが大事だということを少しお話させていただきたいと思っています。
 「生老病死」は医療も仏教も共通の課題
 私は学生時代に細川先生に出遇いまして、それから三十年近くお育てをいただきましたが、最初のうちは仏法を学ぶということと医療の仕事をするということは別々のことだと思っていました。けれどもある時、臨済宗のお坊さんで埼玉医科大学の哲学の教授をしておられた秋月龍_師が医学部の学生に、「あなたたちは医療という形で人間が生まれて、年を取って、病気で死ぬという生老病死の四苦という課題に取り組んでこれから仕事をしていかれるでしょう。仏教も生老病死の課題に取り組んで二千数百年の歴史があるのです。医療に携わる者はぜひとも仏教的な素養を身につけて医療の仕事に携わって欲しい」と、こういうことを語りかけておられたということを本で読みまして、「ああ、そうだったのか。医療という仕事も、仏教を学ぶということも同じ課題を背負っているんだな」とわかり、勇気づけられました。
 生きた人間を相手の仏教
 しかし、現実の日本社会では、医療と仏教がうまく協力していっているかというと、生きているうちは医療が担当して、死んでからは仏教という形で、生きた人間を相手にした仏教というのがなかなか今の日本の文化の中に育っていないということがあります。
 それで十五年くらい前に、勤めていた東国東広域病院の中で「仏教講座」を開こうと思い立ちました。そして地域のお坊さんたちに「病院の中で仏教講座をしたいから、ぜひ協力して欲しい」とお願いして回りました。そうするとある禅宗のお坊さんは「先生いいことを始めてくれますね。今まで私たちは死んだ人を相手にしておけばよかったけれど、仏教はこれからはやはり生きた人を相手にする時代ですね」と正直に言われました。
 こうして平成二年の四月から毎週金曜日の夕方六時半から七時半まで、地域のお坊さんたちに病院に入っていただいて仏教講座を始めました。年間五十回、私が病院を辞めるまで十四年間、約七百回、そして今も続けさせていただいています。こういうように医療と仏教が一緒にやっていくという雰囲気が病院の中にできればいいなあと思うのですが、なかなか日本の現状を見ますと難しいこともあって、お坊さんの格好をして病院の中に入ったりすると困るということがあるようです。 あるお坊さんが門徒総代を見舞いに行ったら、「あんたが来るほど私は悪いんかい」と言われたという。そういうふうに何か死ぬ間際が仏教の担当のようになっていますが、生きて、老い、病み、死ぬという人間のすべての人生にかかわっているのが仏教です。本当は仏教が医療を包み込んでいるのに、いつの間にか医療があまりにも大きな顔をし過ぎているというのが現状だと思います。しかし今、医療界の中に大きなうねりが起こってきて、医療と仏教が協力してやっていかなければ事は進まないということになってきています。
 医療と仏教の役割分担
 その前に「役割分担ということを考えてみたらどうかと思います。私達の苦しみ・悩みはどういう原理で起こるのか、と考えたときに、私の思いと現実の間に差があ るということが、どうも苦しみ・悩みの原理ですね。実際「苦」はサンスクリッドで「思い通りにならない」という意味の言葉を中国で「苦」と訳したらしいのです。 なかなか自分の思い通りにならない現実と、私こうありたいという思いがあるわけです。
 今、病気という現実があるとします。そうすると私達は健康でありたいと思う。 病気をしたら健康になりたいという思いは切実です。現実は病気、思いは健康、そうすると私達は病気で苦しむのと同時に、病気は嫌だという思いで二重に苦しむわけです。
 病気のとき、私達は病気を治療して健康にする、病気と健康の差を縮めるということが医療だと思っています。けれども医療を一生懸命されている有名な雑誌の編集者が言うのです。病気の80%は自然の治癒力でよくなる、だから病気の80%は自然に食べて寝ておけば大体よくなる。医療が入ってはじめて病気がよくなるというのは12%、そしてあとの8% はお医者さんが手を出したばっかりに反って悪くなるというのです。 医療の仕事をしていますと、どうしてもこういう現実に出くわします。例えば、八十歳くらいの方が脱腸で来られて、手術は簡単だから手術を受けた。けれども退院が近づいた一週間目、脳梗塞を起こした。そうすると、もしかしたら手術をしなければ脳梗塞は起こらなかったかも知れない。こういうように医学が手を出したばっかりに反って悪くなるとか、色んな合併症が起こってくるということもあります。だからあんまり医学に頼り過ぎるのもいけない。かといって医学を信用しないのも問題がある。ちょうどよいくらいというのが大事ですね。
 そこで今申しましたように、自然の治癒力が80%あるということは、医学の専門家でなくても病気を健康にするというはたらきができるということです。例えば、知り合いの方が入院したとき、お見舞いに行って病室が味気ないと思えば花を持って行って飾ってあげるとか、病人が職場や家庭のことを心配しているようであれば「あなたは病気の治療に専念しなさいよ。あとのことは私達がするから」と言って安心させ治療に専念させるとか、色んな形ではたらきができるわけです。医学がするのはほんの少しのことなのです。それを過剰評価、過剰期待すると色々問題が起こってくるわけです。医療と医療以外の働きかけという役割分担があるのです。
 治癒できない病気にはどう対応するか
 もう一つ考えておかなくてはいけないのは、病気を健康の状態に戻せるのは、治癒可能な病気のときだけなのです。従ってよくならない病気のときに差をどうして縮めことができるかという問題が残るのです。今、国民の30%の人がガンで亡くなっています。ガンが早期に見つかって治癒できればいいですが、ガンが進行したり再発したりしてどうしてもよくならないという(1)ガン末期の人達に対してどういうはたらきかけができるのか。また(2)老化現象に関係した病気をどうするか。八十の人が三十代の身体に戻してくれと言っても、それは無理な話です。そしてまた、今の医学では治療法が確立していない(3)難病があります。身近なところではリウマチ・糖尿病・高血圧など、これらは薬でいい状態を保つだけであって、根本的によくなる病気ではないわけです。また脳梗塞で障害が起こり、それを回復させるリハビリをしたが、(4)障害が残った人達が「元の身体に戻してくれ」言ってもなかなか戻れないです。こういうようなよくならない病気は今、高齢社会を迎えて多くなってきています。そうすると、この人達の思いと現実のギャップを縮められない。それならどうしたらよいのかという問題が残るわけです。
 現実の受容
 それでもう一つ原理的に言うならば、この私の現実を受容するという形の世界があります。神戸大学の塩沢先生は仏教にも造詣が深いのですが、どうして仏教に関心を持つようになったかというと、この人は中学生のときに、お母さんがSLEという難病になった。お母さんはいつも病気についての愚痴を言って本当に家の中のお荷物であった。けれども若いときご縁のあったお寺さんからまた仏法のお話を聞くようになった。そうしたら愚痴が次第に消えていって、 今まで家のお荷物であった母が、逆に家族を支えるような転回を遂げたんだそうです。 母はよくならない病気であっても、その事実を受け入れて、家族を支えるような転回を遂げた。そういうことがあったものですから私はある和尚さんについて高校のときから聞法しました、と先生は言われています。このように、現実を受容するということでは、例えばキリスト教の方では星野富弘さんという人がおられます。この人は二十 代のときに脊髄損傷になって手足がマヒしたのですが、この人がこういう詩を作っています。
「いのちが一番大切だと思っていた頃 生きるのが苦しかった、いのちよりも大切なものがあると知った日生きているのがうれしかった」
  健康が大事、障害のないのが大事だと思っている間は、よくなることのない障害を負っているこの現実の前に、「生きるのが苦しかった」。けれども「いのちよりも大切なものがある」、真宗で言うならばお念仏の世界がある、キリスト教では神の愛、アガペと言われるんでしょうけれども、そういう世界があるということを知らされたときに「生きているのがうれしかった」と、こう言われるわけです。
 こういうように私達は、思いと現実の差をできるだけ小さくするために、思いを現実に近づけるという取り組みと同時に、この現実を受容、受け取るという、この二つの取り組みにおいて一人ひとりの苦しみ・悩みを少なくするということができるのではないでしょうか。このように考えれば、医療のする仕事、仏教のできる仕事という役割分担が自ずとわかってくるのではないか。こういう形でぜひとも医療と仏教が協力して苦しみ、悩む人の苦悩を少なくするお手伝いをしていくということが大事なことだと思うのです。
 こういう話をしたときに、大分にある、九大の温泉医療研究所の先生が「私は病気を健康にするという取り組みは一所懸命してきたけれども、こちらの病気の受容への取り組みをまったくしていませんでした」と言われましたが、やはりよくなる病気は一所懸命よくする、けれどもよくならない病気に対しては医学は苦悩を少なくする十分なお手伝いができなかったんですね。今やっと痛みを和らげる緩和ケアということの中でホスピスとかビハーラという取り組みがなされ始めてきたところです。人生を最後まで生き切る、この老病死の現実をどう受け取っていくかということが今は求められてきています。
 健康について
 ここでもう一つ、健康という問題を医療と仏教の協力という形で紹介したいと思います。健康というと多くの人達は、医療は関係するかも知れないけれども仏教は関係しないのではないかと思っているのではないかと思います。実際、健康ということの定義を見てみると、1946 年くらいから今日までどういうふうになされていたかというと、・「身体的に健全である」、・「精神的に健全である」、・「社会的に健全である」、この三つがずっと健康の定義だったのです。だから健康とは何かという質問が出たとするならば、この三つを書けばよかったわけです。それが1999年、この三つにもう一つ加わってきたのです。
 WHO(世界保健機構)で、この三つだけではどうも人間全体をカバーできていないという意見があって、・「スピリチュアル」という要素を追加するということが出てきました。 これは今日本語の適切な訳がないのでカタカナでスピリチュアルと表記していますが、辞書には霊的とか宗教的など色々出ています。 健康の定義の四番目に1999年のWHOの理事会で「スピリチュアル」ということを加えることが決定されたのです。しかし総会では反対する国もあって決定まではなされていません。けれども時代の流れから言うならば、スピリチュアルということを無視できなくなっている時代性があるんだということをわかっていただきたいわけです。
 スピリチュアルなどと言ってもなかなかわかりづらいと思いますので、どういうことなのか例を出しますと、 福岡で三十代の方が大腸ガンになって手術を受けた。しかし運悪く二年後に再発した。そして痛みが出てきたので主治医の所に行って痛みを取る治療をしてもらったけれど十分には痛みが取れなかった。 今、ガンによる痛みは麻薬を使うことによって80%〜90%取れる時代になってきました。30年ぐらい前は、麻薬はできるだけ使うなといわれていたのですが、今は麻薬を使えばガンの痛みがよく取れ、尚かつ麻薬中毒の心配はないということがわかってきました。ちょっと便秘、眠気、吐き気などの副作用はあるのですが、その対策をして使うと痛みはほとんど取れるようになってきた。しかし、まだお医者さん全体には普及してなくて、まだ痛みで苦しんでいる人もいるようです。有縁の人にそういう人がいたらぜひ麻薬を使って治療してくれる先生を選んだ方がいいと思います。
 それでこの三十代の人は痛みを取ってもらおうと思ってホスピスの方に行った。そして、そこで十分に痛みを取ってもらって「よかったな」という状態になったのですが、 腹部のガンだったからその後、腸閉塞になった。それで飲む・食べるは点滴でやるようになった。こういう状態になった時に、その患者さんが主治医に「私は死ぬために生きているんですか?」と訴えたんだそうです。死を待つだけの人生に意味はあるのでしょうか。生きるとはどういうことなんでしょうか、
 ただ死ぬのを待つためだけに生きているんですか?、と問うたわけですよ。この問いに医療関係者はなかなか答えることはできないわけです。またアメリカのあるご婦人がガンになって痛みの治療をずっとしていた時、主治医に向かって、愚痴みたいに「先生、私はいい生活はしてきたけれども、本当に生きたことがない」と訴えたということです。社会的にも経済的にも、子供の教育でも、負けてはならぬと一所懸命やってきた。そして今ガンになってあと数か月の命ということが見えてきたときに、私が一所懸命やってきたことは本当に生きたことだったんだろうか、追いかけられるように走り回っていただけではないだろうか。仏教で言うならば空過流転であったのではないだろうか。私の生き方はこれでよかったんでしょうかと、生きる意味を受け取れなくて、愚痴みたいに訴えてきたのです。
 こういうように多くの人達がガンで亡くなっていくときに、こういう問題が露出してくるわけです。あるホスピスを担当している先生と話しをしてみたら、痛みに対して麻薬による治療をし、看護師さんも多く配置し、家族も泊まれる施設を造って色々してみると、最後にこういうスピリチュアルな問題が表に出てくると言います。今まで痛みに対する配慮が十分なされてなかったからこういう問題まで行着かなかったわけです。
 しかし仏教をいただきながら考えたときに、(1)「人間として生まれた意味」、(2)「生きることの意味」「生きることで果たす使命・仕事」そして、(3)死んだらどうなっていくのかということについて本当の安心というか、本当にお任せという世界があるわけです。もう一つ、(4)罪悪感からの解放ということがあると思います。親しくなったソーシャルワーカーの人達から聞かせてもらったことですが、八十代くらいの方は、自分は戦争に行ったんだという話をするそうです。戦争に行って一所懸命にやったということは人を殺してきたということで す。しかし戦後はそんなことを言える雰囲気じゃなかった。それが心の中に鬱々と残っていて最後死ぬ前に親しくなった人に話をして、そして今までの重荷が取れたようにそれから一週間くらいして亡くなっていく人がいる。正に罪悪感からの解放ですね。
 こういう問題が本当に解決できているということがスピリチュアルに健全ということだと私は思います。人間の本当の健康・健全ということは、身体的・精神的・社会的、そしてスピリチュアルということを加えてはじめて人間全体がカバーできるという認識が今なされてきているのです、と言うことは健康ということを考えていくときにもう医学だけでは実現不可能なのです。医療と仏教が協力して人間全体をカバーするということが求められている時代になっているのではないかと思われるわけです。 けれども日本の医学教育・看護教育はこういうスピリチュアルな問題は殆ど扱ってこなかったわけですから、もう非常に戸惑うわけです。私は幸い学生時代にたまたま仏教の先生に出遇って、外科という仕事をしながら仏教のお育てをいただいてみて、本当に今こういう問題が大事なんだなあということをつくづく思わせていただいています。
 後生の一大事
 スピリチュアルということは、これは正に「後生の一大事」ということです。後生の一大事の解決ができていますか? 人間に生まれたことの意味を自分なりに本当にうなづけていますか? 生きることで 果たす使命・仕事というものを自分なりにうなづいていますか? 死というものを本当に安心という形で受け取れていますか?  こういうことのうなずきを持つことの大切さが今世界の流れの中で認知をうけてきているわけです。
 長生き
 次に「長生き」という問題について考えてみますと、 私達は医学教育の中だけの世界ですと、生きている時間を延ばすということが長生きだと考えてきたわけです。 また、みんな長生きしたいと思っています。私が生涯教育の場で「皆さん、長生きしたいですか?」と聞くと、殆どの人が「長生きしたいです」と言います。けれど「なら、長生きして老人になりたいんですね?」と言うと、みんな「嫌だ」と言う。長生きはしたいけれど年は取りたくないということになっているんですね。
 今、介護保険が始まってみると、年を取るとどうしても呆け症状が出てくるみたいで、八十歳以上の方では大体25%、九十歳以上では37%、百歳以上では85%の人に呆け症状が出ていると言います。そうすると長生きも考えもんだ 、とこういうふうになってきて、「PPK運動」というのが出てきた。「ピン、ピン、コロリ」というわけです。長野県の一人当たりの医療費は非常に低く、しかも結構長生きの人が多い。でも百歳以上の人はそんなに多くない。だから元気なうちはピンピン働いて、死ぬときはコロリといこうというので、今国民健康保険は長野県にならえとPPK運動というのをやっているのですね。  
 対象化された時間
 どうも長生きという問題は、時間という考え方について仏教の視点を学ばないといけないみたいです。時間というのは、私達はいつの間にか過去があって、現在があって、未来があると考えています。歴史を習うと、何年には何があった、と私が生きていても生きていなくても私に無関係に時間は過ぎていくという考え方が身についてしまいます。こういうのを対象化といいます。自分とは無関係に切り離して向こう側にものを見る訓練を受けてくると、私がいてもいなくても過去・現在・未来という時間があると考えるわけです。そして私達は「明日がある」と思ってずっと生きている。「明日がある、明日がある」「明るい未来がある」ということが生きる元気だ、こういうふうにずっと思っているわけです。 けれども仏教は明日はない」「今日しかない」と言うわけです。
 パスカルは『パンセ』の中で、人間はいつの間にか明日が目的になっている、と言っています。このことが解決できたらもうちょっと楽になるぞ、このことがうまくいけばもうちょっと満足が得られるぞ、といつも「明日こそよくなるぞ」と明日が目的になっている。 そして過去から今日までが明日のための手段・方法になっているのですね。過去から今日までは言うならば明日のための準備になっている。このことをパスカルは、私達は明日こそ幸せになるぞと死ぬまで幸せになる準備ばかりしている、と言っています。言われてみればそうですね。目的というのは非常に尊ばれますが、手段・方法は目的が達せられたならばもう無くてもいいものですから価値が一段低い。結局今日という一日を価値が低い扱いで過ごしているということになると言うわけです。
 仏教の説く長生き
 仏教が「今、今日しかない」というのは、「今」「今日」が目的であるような一日一日を過ごすことが大事なんだと教えているのです。 浄土真宗の大事にしているお経の中に大無量寿経があります。その中に四十八の願が説かれているわけですが 、その十五番目に、浄土に生まれる者は本当に長寿が実現できます、ただし命の長いとか短いに執われる人は除く、ということが書いてあります。そして私達は本願の中で「除く」と言われているところには深い意味があるということを教えられています。
 死にたくない、の意味するもの
 真言宗のお坊さんの古川泰龍という人が「死は救えるか」という本の中で面白いことを指摘されています。私達は過去のどこかで生まれて未来のどこかで死ぬということは大体わかっているわけです。そして大きな病気をしたとか、だんだん年を取って、死が近づいてきたなとわかる。そうすると「死にたくない」というわけですね。しかしいくら考えても老・病・死ということは人間が生きる上で、死は避けられないから、ちょっと要求を下げて「長生きしたい」と要求する。だから「死にたくない」とか「長生きしたい」というのは根が同じであるわけです。阿弥陀仏は無量寿・無量光、限りないいのち。それで古川さんはこう言うのですね。死にたくないとか長生きしたいという言葉の背後にある心持ちは、というと「私は有限のいのちを生きてきた。そしてだんだん死が近づいてきた。本来ならば『死なないいのち』に出遇って然るべきなのに、そういう世界に気づかないまま有限のいのちが終わろうとしている。こんなはずではない。」 だから死にたくないとか長生きしたいというのは、死なないいのちにめぐりあいたいという、無意識のうちに宗教的目覚めを求めている叫びである。「うーん、そうかも知れんな」と思いまして、山口の妙好人のような人にお尋ねしたら、「お念仏の心も、その通りですね」と言われました。そうすると、私達が死にたくないとか長生きしたいというのは、無意識のうちに宗教的目覚めを求めている叫びなのです。
 長生きの秘訣
 話は少し変わりますが、坂東性純というお東の学者さんがこんなことを言っておられました。鈴木大拙先生は九十歳を過ぎたときのお祝いの席で「長生きの秘訣を教えて下さい」と尋ねられて、「私は鎌倉の街に出るのに百二十段の石段をいつも上ったり下りたりしなければならない。石段を上ったり下りたりするときにいつも足を置くべき石段だけを見るようにしています。それが長生きの秘訣です」と仰ったそうです。正に「今」「今日」「ここ」を生きる、「今」に一所懸命取り組んだ結果が長生きになりました、と言われている。またある日蓮宗のお坊さんも長生きの秘訣は、私は若いときからどうしたら長生きできるかと色々研究して長生きの秘訣を百以上知っている、しかしどれ一つ実行しなかったということが長生きの秘訣だと仰っているそうです。長生きということに執われないということが大事なんだと言うんですね。また今、医学界の中で密かに言われていることにフィンランド症候群というのがあります。フィンランドで管理職クラスの四十歳くらいの人達をそれぞれ六百人くらいの二つのグループに分け、年に二回くらい検診をして一方のグループには一所懸命健康指導をした。しかしもう一つのグルー プは放ったらかしにした。この二つのグループを十五年間追跡調査してみると、予想に反して放ったらかしグループの方が全部結果がよかった。こういう論文があります。つまりこれは、気をつけなさい、煙草止めなさい、 体重減らしなさいなどと一所懸命健康指導を言うと反ってストレスになる可能性があるということを示している論文のようです。私は保健婦さんから「先生、その話だけはしないでください」と言われています。
 そこで、キリスト教では「生きているうちに死んだ人は死ぬときに死なない」と言います。また至道無難禅師は「生きながら 死人となりて なりはてて おもうがままに なす業(わざ)ぞよき」と言っています。生きているうちに死んだということは世間的な命を超えたということですね。そこに本当に自由自在な世界が展開した。正に生きているうちに死んだ人は死ぬときに死なないのです。
 死後の世界はあるか
 私達、世間の対象化の世界では死後の世界について殆どの人は「無い」と言います。「死後の世界は無いのだから生きているうちがすべて。だから生きている時間をちょっとでも延ばそうという延命治療を選択する。死後の世界とは仏教でいうならば、浄土の世界はあるか、ということですね。司馬遼太郎という作家は大学を卒業してすぐ産経新聞の記者になった。そして本願寺に取材に行って「浄土はあるのか」という質問をしたそうです。そうしたら本願寺のお坊さんは、「浄土はあるとかないとかの上にあるんだ」と適切な答えを言ったということです。仏教は無記といって死後の世界については何もそのことについては言わないわけですね。でも私達が生死を超えて本当に仏さんの世界を生きるという世界をいただいたならば必ず浄土はあるわけです。聞法して私の思いがひるがえされる、ということにおいて、そういう世界を生きる。いうならばこの世とあの世の二重国籍を生きていくのです。
 浄土はある、とかない、とかの上にある
 対象化した時間の世界しかわからない者にとっては浄土といっても何のことかわからないわけですけれども、仏法の世界をいただいてお念仏をいただいていくならば、まさに浄土はあるわけです。 そこで長生きという問題に移っていきますけれども、 歎異抄の第一章には「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなり、と信じて念仏申さんとおもいたつこころの発るとき…」とあります。細川先生は、「汝小さな殻を出でて大きな世界に生きよ」と念仏の心をわかりやすく説いて下さいました。「汝小さな殻を出でて大きな世界に生きよ」という呼びかけを聞いて、聞いて聞き開いて、私の思いがひるがえされて念仏申さんと思い立つ心がおこったとき、摂取不捨、無量寿の世界を生きるという存在たらしめられる。念仏申さんと思い立つ心がおこったとき「今」「今日」「ここ」に無量寿の世界と一体となるというか、無量寿の世界と通じるわけです。だからある人は、念仏するとき私が仏のはたらきの場になる、といただいておられます。正に念仏申さんと思い立つ心がおこったとき無量寿・無量光の場に私がならせていただく。そのときに本当に私達はこの今の一瞬に永遠と通じる世界をいただく。そこに「永遠の今」、今が永遠に通じる「今」をいただいて、もう明日はなくなって「今」がずっと続いていくのです。だから信心とか悟りという世界は常 に「今」に在り続けるわけです。私達はこういう世界がわかったときに死はなくなる。 お念仏のお徳は死がなくなる。そして「今」に在り続けていく。「今、生かされている」「支えられている」「お蔭である」という世界をずっといただいていく。それですべてだ。本当に浄土の世界を生きさせていただくときに死は無くなって、そこに私達は生死を超えさせていただいて、仏さんにお任せという形の中で今生きている、生かされているということを精一杯尽くしていく。
 明日があってほしい理由
 今まで、明日こそ明日こそと思っていた私の心根は何であったのか。明日こそよくなるぞ、明日こそ幸せになるぞという私の心根は、意識してはいなかったけれど「不足・不満」だったんですよ。今が満たされていないから明日があって欲しかったし、なくては生きていけなかった。けれども念仏申さんと思い立つ心がおこるという「今」をいただいた者は心根は「足るを知る」。本当に無量寿・無量光の世界をいただく。通じるというところに「ああ、よかったな、南無阿弥陀仏」と自然に満たされて足るを知っている。だから明日はもういらないわけです。 あれば明日も頑張るけれども、明日はなくてもいい。今で足りているから。そうなればもう命の長い短いには執われなくなってお任せになるのですね。南無阿弥陀仏とお念仏させていただくときに、私達は本当の長生きということで願っていたことが、この今の一瞬に満たされるわけです。
 仏教の教える長生きとは
 今までは時間を延ばすことが長生きだと思っていたけれども、そうではなかった。本当の私が願っていた長生きというのは命の長い短いに執われないような本当に足るを知るという時を賜ることであった。命の長い短いはお任せして今を大事に生きていこうという転回がおこってきたときに、私達が長生きということで本当に願っていたことがここに実現するのです。 去年の始め、五十歳の看護師さんが朝出勤して来なかった。それで婦長さんがご主人に連絡を取ったら、布団の中で亡くなっていました。みんなは、五十歳だから未練が残っているだろう、早かったとか言うけれど、仏教では、みんなちょうどよいときにこの世の仕事が終わって浄土に還っていく、という。この世での仕事が終わったらみんな仏さんの世界に戻っていく。そういう世界が見えてきたときに、私達は命の長い短いに執われないで今を大事にしていくことができるのです。
 知恵はよけて、避けて、先送りする
 医学はできるだけ長生きという取り組みをやるのですが、こういうことがありました。七十二歳の患者さんは大腸ガンの手術をした。そして再発もなく五年経ったので「よかったですね、もう病院に来なくてもいいですよ」と言ったら、二年後に黄疸が出て、調べると膵臓ガンだつた。しかも肝臓に転移していました。もう手術はできないという状態で、間もなく亡くなりました。 そのとき私は思いました。私達が一所懸命、医療の仕事をするというけれども、結局は老病死をちょっと先延ばししているだけなんだ 、よくなる病気はよくなる、よくならない病気はよくならないとわかりました。手術が無事済んでよかったね、と思ってしばらくすると、また病院で会うことがあります。 「あれ、どうしたの?」「今度は内科で入院です」。 こういうやり取りをしているうちにみんな死んでいくのです。それに比べると、問題を真正面から取り組んでいって、そのことを引き受けて、それをご縁としてさらにいただいていくという仏教の世界はすごい世界だなあと思わせていただきます。
 不幸の完成で人生をおえる
 長生きということのついでに申しますと、私達は老・病・死を何かマイナス価値のこととしています。私達は自分の幸せとか満足という世界を求めておるわけですから、 若いのはプラス、年を取るのはマイナス、健康はプラス病気はマイナス、お金があるのはプラスないのはマイナス、こういうふうにしてプラス価値はできるだけ上げ、マイナス価値はできるだけ小さくしていくことが生きることの意味なんだ、そしてそのようにしていけば必ず幸せ・満足に行着くであろうと考えます。ですから、老病死は出来るだけないようにするのです、老病死はどこに行っているかというと病院や施設に行っているわけですね。今の社会が老病死がない社会をいつの間にかつくってしまった。そしてそれで本当に満足・幸せに行着くかというと、行着くかなあと思った途端にみんな老病死につかまってしまう。だから不幸の完成で人生を終わってしまった、とこういうことになるわけです。最終的にはみんな不幸で死んでいくという社会が本当に生き生きした健全な社会かというと決してそうじゃないですよね。
 私達は物を生産したり、お金を稼いだり、こういう能動的というか「〇〇する」ということに価値を見出だしています。それが正に世間ですね。だから百歳のおばあちゃんが「私みたいに迷惑ばかりかける人間はみんなに邪魔な存在であって早く死んだほうが国のためです」と言うのです。でもこの価値観は問題がある。それは全体が見えてないのです。私達はここに人間として生まれて生きている。これは「する」ではなくて「ある」という状態です。この「ある」ということの上に「する」があるわけです。全体が見えてないとい
うことを仏教では「智慧がない」と言います。
 全体が見えないことを智慧が無いという
 例えば、私の中学時代の恩師が一昨年の秋に脳梗塞になりました。けれども治療を受けてマヒなく退院しました。しかし教え子の看護師さん達から「一度脳梗塞になった者は養生しないと脳梗塞で死にますよ」とかなり厳しく言われたらしいですね。そして去年の一月車を運転していたら目眩がしたという。それで脳神経外科に行ったら異常無し、循環器内科で二十四時間心電図も取ったけれど異常無し、耳鼻科も眼科もどこに行っても異常無しと言われる。 けれども目眩は実際におこるのだそうです。
 それで私の所に来られた。色々話を聞いて「老病死から逃げられることはできませんよ」と言ったら、「こんな養生をしても死ぬんですか」と言われましたが、よく聞いてみると先生は養生して一日十五時間寝ているというのです。これがめまいの原因のひとつと考えられます。患者さんの生活全体が理解されて、全体が見える。脳外科、循環器科、耳鼻科、眼科、これら専門医は病人の全体がわからないわけです。こんな養生をしているなんて考えもしないのです。こういうように私達は局所だけを見て、プラス価値を上げてマイナス価値を下げることが生きることだといつの間にか思い込んでいますが、これは智慧がないということです。
 人間としての成熟
 人間に生まれて生きていく、当たり前だと思っているここのところに宝みたいなものがあるのです。けれども当たり前じゃないか、そんなこと考えてもしようがないじゃないかという形の中で全体が見えないわけですね。 ここのところの大事さがわかってくるとプラスだマイナスだというのは、言うならば人間とし成長し成熟するご縁として見えてくる。そうしたときに老いるということは、人間とし成長し成熟することなんだという世界が見えてくるわけです。色んな嬉しいことや悲しいことや恥ずかしいことが、みんな私が生まれて生きて、人間として完成する、仏となる歩みの中のご縁としてあるんだという世界が見えてきたときに、死ぬことは不幸ではない。正に死はない。そしてそのことを通したときに、この智慧のない相対的な世間で振り回されていた私達が「本当に小さな世界を生きていたなあ」と私の本当の姿を知らされるのです。
 人生を往生浄土の縁として生きる
 細川先生は「人生を結論とせず、人生に結論を求めず、 人生を往生浄土の縁として生きる。これを浄土真宗という」という言葉をのこされました。また児玉先生から教えていただいたのですが、私達は欲しいものが手に入ることが満足だと思っているけれど、それは本当の満足とはかけ離れた満足である。「今」「今日」が不足・不満ということを示しているに過ぎませんよ、とこう言われるのです。また論註の中に「衆生の願楽するところ 一切能く満足す」という言葉がありますが、本物を欲する意欲を生きるところに本当の満足がある、とこう仰るのです。 私達が浄土という世界を生きることの中に、仏法に出遇えてよかった、人間に生まれてよかったという本当の喜び・満足・感動をいただく世界がある。私達は狭い世界に生きて欲しい物が手に入ることが満足だと思って振り回されているけれども、それは本当の満足ではないと言われるわけです。人生を往生浄土の縁として生きることの中に、本物の世界を生きていくことの中に「本当の満足」というか、満たされた世界をいただいていけるのです。
 医学だけでは健康と長生きということは実現できない。 医療と仏教が協力していくということの中に健康・長生きということにおいて本当の満足という世界があるということを思わせていただくことです。と同時に局所しか見えてなくて全体が見えない智慧のない私達に「汝小さな殻を出て 大きな世界を生きよ、南無阿弥陀仏」とはたらきかけている世界があるんだといただくときに、人間に生まれてよかったという世界をいただくんだなと思わせていただくことであります。

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