日本尊厳死協会:講演(平成17年4月24日 別府市・つるみ荘) 講題「生死を越える道」 宇佐市・佐藤第2病院:田畑正久 1・はじめ 今日は「生死を越える道」という話題でお話をする機会を与えられまして本当にありがとうございます。尊厳死協会の趣旨を本とか新聞等で見せていただきながら、私自身が尊厳死協会の会員になっているかというと、そのご縁がないまま、今日に至っています。尊厳死ということを考える時に、私なりに大事な問題と思われることを今日は私が学んできた仏教的な視点を入れながら、私の思いを少しお話させていただこうと思っています。 2・尊厳 尊厳ということを考えたときに私たちは、「いのちの尊厳」と云いますけれども、本当に尊厳という意味は何なのかを考えてみますと、中々難しいのです。よく「人間の命は地球より重たい」といいますけれども、以前私が仕事をしていた病院で、比較的に全身状態の良好な82歳位の患者さんで、胃癌の診断で手術を予定して患者さんに手術の説明をしょうと思ったら、この患者さんが、何年か前に膝の手術を受けたときに、すごく痛かったのでもう手術は受けたくないというのです。それで非常にお元気な方でしたのでなんとか家族の方にお話して、やっと、息子さんがお父さんを説得して手術するということになりました。そのとき私が息子さんに「どうして手術を受ける決心をなされたのですか」とお聞きしましたら、「父が病院に入院していて、手術を受けずに死んだら世間体が悪いじゃないですか」とおっしゃたのです。ということは、人間の命は地球より重たいというけれど世間体よりも軽い命が、時々病院の中にあるという事です。 こういうことを考えたときに、尊厳とは何にか、ということを調べてみますと、カントという人が言っているのですね。「目的には尊厳がある。手段・方法・道具には値段がある」という趣旨のことをいわれているのです。 私たちは自分自身のプライドが傷つくのは人間扱いされずに、物や道具みたいに扱われたときに傷つくわけです。ということは私たち一人一人が目的であるような、例えばお客さんみたいに扱われると大切にされたということです。何か使い捨ての道具のように扱われるということが尊厳がないということになると思われます。そう意味で私たちの命ということを考えたときに、その命が目的の位置にあるのか、手段・方法・道具の位置にあるのかということを考えるのが、尊厳ということを考える一つの判断材料になるのかなと思います。 仏教の視点から言うと人間の命は寿命という。寿(じゅ)は仏教で言うなら「無量寿」という意味です。是は見えない領域のことを含んで、量(はか)ることのできない多くのいのちを表現しています。命(めい・みょう・いのち)は見える領域を言います。見える「いのち」は見えない「いのち」に支えられているというのが、仏教の視点です。私たちは自分で生きていると思っているけど、色んな人たちのお陰とか支えによって生かされている、支えられているという、見える「命」は見えない「いのち」で支えられている。 一般的なことですが見えない部分を日本語では「もったいない」とか「おかげさま」とかいう言葉で表現をしています。「もったいない」という言葉は英語とかドイツ語には単語としてないのだそうです。それで文章で表現するしかないのだそうです。そいう意味で、色んな「いのち」によって支えられているということが見えてきたときに、生かされている私たちの命が尊いということになっていくのが仏法の尊厳という考え方の基本と理解しています。 3・主体性 そこで尊厳死ということを考えたときにやはり自分の意志、自分の主体性ということが尊重されます。外から強制させられて、なんとなく、いやいやなんだけど、そうさせられてしまったということになっては困ります。そこで、仏教では、自分の意志の主体性ということを考えたときに本当に自由な立場で判断したという事が大事になってきます。自由自在という言葉を考えるときの自在人というのは仏教では仏さんのことであると、お経には書いてあります。本当に自分自身が自由意志でそういうことを希望しているのだという事を、そこに自分の意思・意見を持ちえることが大事だと思っています。 仏教では自分というのは、縁次第でどんなにでも変化する可能性を秘めているのだということを教えてくれているのです。だから、昨日の私と今日の私そして明日の私はどんどん変化していく可能性があるわけです。そのところを十分にわきまえないと、ある状況下で判断したものが、私の周りの環境の変化で自分の判断も違ってくる可能性があります。しかし世間一般では、そういう個人の意思や思いの一貫性があることが、あの人は一貫性のある人だと評価を受けるようですが、どうも仏教ではこの辺の兼ね合いが大変難しいのです。例えば私たちは常に変化していくこと、これを諸行無常といいます、ですから私たちの意志も変化していく可能性があるのです。 例えば仏教では、「ある夫婦が一緒に生活していました。たまたま、旦那さまが浮気をしたとします。そうすると奥さんの方は、私はあなたを信用していたのに、と相手を非難します」、信じていたのにというでしょう。これを仏教では相手を誤解していたというのだそうです。変化する可能性があるというのを無理やりに変化しない実体的な存在と誤解していたのだというのです。そこ辺のところが私たちの自分の意志の判断ということを考えた時に意外と縁次第で変化をするという可能性があるということを、自分の主体性ということ考えるときに念頭においておかないといけないとおもいます。 3.自由について 自分の主体性を考えるときに、自分の自由意志による判断ということを考えることが大切だと思います。其のときに自由には二種類の自由という意味があるということです。私たち日本語で言ったら自由という言葉は一種類しかないですが、しかし英語で言うと二種類あるのです。それは1)LIBERTY、2)FREEDOMです。資料で説明しますと、自分の自主性という項目のところで、自由に二種類1)LIBERTY、2)FREEDOMを書かせてもらっていますが、1)LIBERTYというのは、外のいろんな規制や束縛から自由になっていくという事が意味の中にあるわけです。いろんな社会的な制約とか時代性とか経済的な問題とか法律的な問題とかの外の束縛しているものからの自由になっていくのが、LIBERTYという自由なのです。私たちが世間一般で、いろんな歴史の中で、フランス革命だとか、いろんな形でこの自由を獲得する歴史がありました。その結果、日本では今、本当に外の束縛からの自由とう意味では非常に実現できています。何を言っても文句はいわれないですし、何やってもいいというような自由が実現できています。 しかしある文化人が言うのです。そういう外の束縛から解放されて見えてきたものは何であったかというと、私たちの「心の中の空白であった」とこういうのです。私たちは外のいろんな束縛から解放されたら、本当に自由になれると思うのですが、意外に外の束縛がなくなってきても、今度は私自身の内面的束縛に気付きはじめてくるのです。仏教はこの内面の自由を尊重するのです。例えば私たちは義理に縛られたり、お金に縛られたり、土地に縛られたり、プライドに縛られたりということになってくると、私たちは内面的には窮屈な世界を生きているのかもしれません。仏教は外からの解放と同時に自分の内面的な世界での自由自在を目指しています。信心を頂くとか悟りを開くというのは内面的な煩悩等のとらわれからの解放とか、自分の思い込みからの解放と、こういうようなとらわれからの開放が実現できたときに私たちは自分の意思を自由に表示することができると私は思っています。 例えばある患者さんで、この8月に100歳になる女性の方がいるのですが、このかたは、私が一年前から担当になりました。しばらくして人間関係は出来てから、彼女が私に言うのです「先生、私は長生きしすぎた、死にたい」というのです。よく聞いてみると、死にたいというのは、「私は縁のあるものが皆死んでいってしまった。私は生き甲斐がない。淋しいんです。」と言うのです。 「死にたい」といっている場合には、種々の原因はあるが、場合によればある苦痛があったり、悩みがあったりするために、それを逃れたいために、死にたいといっている可能性があるのです。だから言葉どおりに受け取るのは医者の立場としても、判断を誤る可能性があります。死にたいという背後のこころを考える必要があります。 最近では癌の痛み・苦しみというようなものが、モルヒネを使うことによってかなり、8割から9割取れるという時代になってまいりました。この痛みを取るための薬の上手な使い方が日本全体ではまだ知られてなくて、麻薬の消費量というものを世界全体で比べてみると日本はまだ少ないほうに入るのだそうです。そのために肉体的な痛みへの十分な配慮がなされてないために、痛みから逃れたいという理由で、「死にたい」となっている可能性があります。そういう訴えへの背後にある領域への医療関係者の見極めも今非常に大事になっています。だから、その人が言葉で表現していることの背後にある事実はなんだろうかということを私たちは十分に見て行くことが大事だと思っています。患者さんの周りの人たちとか、医療関係者が背後にある思いまで感じ取ってあげて、その人はそのような表現をしているけれどその背後にはいろんな要素があるのだということも考えないといけないです。 4.分別の愚かさ それともう一つ、仏教的な視点からもうしますと、例えば100歳になる女性の方が「死にたい」とこういいますから。「あなた本当に死にたいかどうか、心臓の方に聞いて見てよ。肺の方にきいてみてよ。」というふうな会話をしばらくしていきました。この人はまだ頭がしっかりしていまして、冗談が分かるのです。しばらくして、「どうでしたか」とお聞きしましたら、「心臓も、肺も死にたいといっていました」と答えるのです。なかなかこちらの思うようにいかいと思いまして、今度は「ほんとうに死にたいなら、死ぬ実験をして見ませんか。一週間絶食にして飲まず食わずで行ったら、あなたの希望通りに死ねますから。但し、途中で喉が渇いたとか、お腹がすいたと、感じ始めたら、あなたの頭・分別は死にたいと言っているかもしれませんが、体の方はまだ生きていきたいと体の意思を示しているのですよ。」と。 私たちの理知・分別は意外と身勝手で、無責任な発言をする可能性があるのです。体全体で本当に納得してうなずける世界を自分の意思表示と思わないといけないのです。私たちの頭の分別は無責任です。例えば、鏡を前にしてこんなに皺が増えて、こんな白髪が増えて、こんな私なんか死んだほうがいい、といろいろ言います。自分のことを自分で死んだほうがいいというのは頭の無責任な発言なのです。体の方は最後の最後まで文句も言わずに、まあ時々痛いとか、疲れたとか言いますけれど、それ以外は文句も言わず支えてくれています。私たちはこのことに気がつかないといけないのです。私たちの分別というのは、いつの間にか、自分の体の主人公になって傲慢になって、そういういろんなものに支えられているとか、生かされているとかいう、見える命は見えない命によって支えられているというが分からないのです。体全体で自分であるということを感じ取って、そして、自分の意思表示ということを考えていかないと私たちの頭・分別だけは、傲慢になって、身勝手になって、無責任で自分勝手なことばかりを言うことがあります。この100歳の方にもそういう支えてくれている世界に気づいて欲しいとはたらきかけているのです。 5.自損損他 そんな会話をしていましたら、ある時、新聞を見ながら、「先生、私みたいな高齢者が増えると、今後皆に迷惑をかけて日本は滅んでしますよ。」と言うわけです。まあ良いことを言うなあと思って、「あなた高齢者が増えると日本が滅んでしまうとか、早く死にたいというのであったら、もう死んだらいいじゃないですか」と。このような軽口を人間関係ができているので言いました。すると「先生、私一人が死んでも仕方がないじゃないですか。皆一緒に死ななきゃ」と。冗談の分かる頭のまだしっかりしているご婦人です。 私たちの分別と言うのは、自分は死んだほうがいいと自分を傷つけるのです。そしていざと言うときは、他人も傷つけて一緒に死ななきゃというのです。こういうのを、自損損他と言うのです。仏さんは自利利他と言うのです。自分も救われて他の人をも救っていくという「はたらき」が完成された人のことを仏さんといいます。私たちの分別と言うのは、元気がいい、順調に行っている間では、それを楽しんでおりますが、いざそれが順調に行かなくなってくると、私はもうだめだと言って自損、そして勝手に死んだらと言ったら、皆も一緒に死ななきゃと,こう言ってですね、損他と言う形になる可能性があるのです。私たちの分別の捉われ、そして智慧のなさに気づいていく必要があります。本当の自分の意思と言う事を考えたときに、私の思いは体全体での自分の意志であろうか熟慮することが願われます。 6.自分の意思か? こんな事があったのです。ある70歳代の患者さんですが、胸にレントゲン写真で影が有りまして、気管支鏡やCTを使って、肺癌ではないかといろいろ検査をしました。そして肺がんではないという結論がでたのです。それでその後は経過を見ていました、数年ぐらい過ぎてから「もうあなたは病院へは来なくてもよいですよ、もう、どうもないのですから」といったら、「いや先生、月に一回でも来て先生と話をすると少し気が落ち着きます」と言うから「そんなら来ても良いけど」。それ以後定期的に来るのですが来た時にこう言うのです。「先生この胸の陰は肺癌じゃ有りませんか。」「これは肺癌じゃない、といつも言っているじゃないですか。若しあなたが本当の癌だったらもう死んでいるはずです。まだ生きいるということは肺癌ではないということです。実際にも陰は大きくなっていないですよ。」とこういうと、そうすると「先生、将来これが癌になりませんかね」とこういってくるのです。そこで「将来のことは、私たちは仏さまか神さまじゃない限り100%保証でないけど、医学の常識では大丈夫ですよ。」こういうのです。こういう会話していまして、来るたびに、私に同じことをいうのです。「あなた取りこし苦労を趣味にされているの」と言いたくなってきたほどですけども。 私が、あなた、医学的なことは私たち医療関係者に任せて、もう少し、今をいきいき生きるとか、もう少し生きる意味とか、もう少しそんなところを考えたら、となんとなく言うわけです。ある時、ちょっと強めに言ったらこうなんです「先生はそんなこと言うけど、世間の人は皆、健康が良いと言ってますよ」とこういうのです。自分じゃないのです、世間の人達がみんな健康がいいといっているのです。自分自身の意志ではないのです。私たちの自分自身の意思というものを考えると時に、自分の本音はどうなんだろうかと思うことがあります。種々の捉われから解放されて見たら、自分の思いは空白であったと言う可能性が出てきているのです。自分では空白ではない、と言いたいのですが、煩悩だとか、いろんな偏見とかに捉われて自分の意志が縛られている可能性があるわけです。そういうものからも解放されて、私たちは自分の意思表示ができるようになったとしたら、これはすばらしい事だと私は思います。自分の内面の問題はあるとしても、現在の医療現場の中で不自然な延命というものがあるなあ、と私も思っています。 この原因は何んであろうかと私なりに考えてみたり、仏法の中を尋ねてみたりしますと、私たちの分別、理性・知性と言うものは、私たちが生活しやすいようにといって、都市社会をつくってきたのです。 7.理知・分別がつくった都市社会 目的のあるもの、存在意義のあるものが集まってきて都市ができてきます。人間の思いが実現するように街ができていきます。その結果、都市で生活したほうが便利、効率がいいと言う事になってくるのです。しかし都市社会と言うものは人間の思いが実現できたかのように思うけど意外に、思わぬ弱点があるのです。 その弱点を三つだけご紹介しますと、一つは、(1)人間が部品化してゆくのです。物化してゆくのです。人間の思いが実現できるかのような社会の中で、人間が人間性を失って物化していくのです、物というのは、道具にされたり、使い捨てされるということで尊厳がなくなっていく可能性があるのです。もう一つは、(2)時間が輝がやかなくなっていくのです。時間が輝かなくなるということは、次から次に、例えば私たちの手帳で、今日はこの用事があって、つぎにこの用事があって,スケジュールをこなすみたいに生活をするようになってきて、区切りがなくなってくるのです。 仏法では、縁起の法と言って、私たちは一刹那(75分の一秒)ごとに生滅を繰り返しているというように説かれているのです。毎日が生まれては死に、生まれては死というように生滅を繰り返している。これは私は、科学的な合理主義にあうと思うのです。私たちの体の中のメタポリズム(metabolism)という代謝は、つねに分子レベルで変化していますから。それなのに私たちはズーと変わらない、死なないつもりになっているわけです。病院に行ったら死なない、治療してくれる。もし病院で死んだら、医療ミスか、医療事故ではないか、となるくらいの時代になってきています。 しかし、もし死なないようになってきたら、私たちは「生きる」といことが輝かなくなるという欠点があるのです。ダラダラとすぎていくわけです。この前、私が受け持っています、80歳になる元中学の数学の先生をしていた方がおらますが、この方と色々お話をしていて、この人が少し仏教に興味を持ってきたなと思われたので、私が「先生、少し仏教の勉強をしてみませんか、と私が誘いをかけたのです。」そしたらこの先生が「私にはまだ早い」というのです。80歳ですよ。男の平均寿命は78歳でしたから。私の死ぬのはまだ先だと多くの人が思ているのです。 明日死ぬかもしれないと思って生きている人たちの方が生きる時間が質的に濃縮されてくようです。キリスト教の関係の作家で医師の加賀乙彦さんが、死刑囚と無期懲役の人たち心理状態を研究して発表されています。 無期懲役の人たちは死ぬまで死なないと保証されているものですから、生きることに活気が無く抜け殻みたいになって生きる屍のごとく、刑務所ボケという状態になる傾向があるそうです。一方死刑囚の人たちは、当日の朝、死刑執行の宣告をうけるのでつねに明日死刑にされるかも知れないという毎日を過ごしているために、残された時間が凝縮されたような過ごし方をするために、医学的に言うたら、そう状態に似たようになっていて、少ない残された時間を精一杯に使おうということになる、見た目にイキイキしていると言うのです。このように時間に区切りがあるということのほうが、生きるという事を輝かせるのかなと思われます。 人間が部品化していくことと、時間が輝やかなくなっていく、そして三番目に、(3)管理社会になっていくのです。管理社会になっていくと、病院で患者さんをお世話していてちょっとした事故が起これば、やはり管理責任と言うことで院長が管理責任を問われてくるようになれば、患者さんが事故を起こさないように病院の規則を厳しくして、患者さんには不自由を強いるかもしれません。また、延命できるのに患者の意思を尊重して延命しなかったということになりますと、どこかから、クレームが来るかもしれない。 先ほど大田先生が、尊厳死の関しての法制化をしてお医者さんも患者さんの意志を尊重せねばならないようにして医師の責任問題を軽くしてあげて患者さんの意思が尊重されるような環境を作って生きたいと言われていました。管理社会と言うのは、都市社会の中に管理社会という危険性があるのです。極端な例がこんな事です。20年前、私がアメリカに留学するときに、アメリカの方からこんなニュースがありました。ある泥棒がある家庭に泥棒に入っていったら、塀のところで怪我をしたのです。そうしたら泥棒は塀の管理が悪いと言って訴えた。そしたら、裁判で勝ったのだそうです。 例えば別府市中心部で、道路のマンホールの蓋がずれていたとします、そして足を滑らせて怪我をしたとします、そしたら別府の市長さんが管理責任を問われます。けがをした人が訴えて賠償金を取ろうと言う事になるのです。田舎では考えられないようなことが起こります。 人間の思いが実現できる理想的な都市社会と言うのは、管理社会になって行って、管理するほうは思い通りにうまくやっていけるかもしれないが、管理されるほうはものすごく窮屈で不自由になってくるのです。いい面とわるい面があるのです。人間の分別で出来上がってきた都市社会と言うものは、快適で便利が良いのですが、意外と人間性と言うものを損なっていく可能性があります。そしてさらに老病死等のいわゆる暗い面をみんなの目に付くところから排除して普通は見えないように施設等を作ります。その結果、老病死が無いかのような社会が出来上がり、老病死を考える機会が少なくなり、私たちの分別は老病死がないかのような生き方をするようになります。理知分別の作り出した都市社会のいい点・わるい点を十分にわきまえることが必要です。 8.死という問題。 死と言うものを是非一度考えて欲しいなということがあります。仏教が考える死と言うものを紹介したいと思います。私たちの分別というものは、学校教育を受けてきて、科学的合理主義で考える訓練を受けてきます。そして歴史などを習うと私と無関係に時間は流れていくと思うのです。過去があって、現在があって、未来があると思うのです。私が生きていても生きていなくても2010年にはなにかがあるだろうと、時間は無関係にいくと思うのです。だから分別は未来があるといつの間にか思ってしまうのです。 しかし、仏教は「今日しかない」というのです。「今しかない」というのです。でも私たちの慣れた思考方法では「未来がある」と思っています。そして「明るい未来がある」ということが私たちのイキイキと生きるエネルギーになっているのです。これは一体どうしたことであろうか、こういうふうに明るい未来がある事が、今日、生きるエネルギーになっているのに、仏教は未来はないというのです。「今日・今しかない」とこういうのです。 どうしてなのかと言う事を少し考えてみますと、これはキリスト教の信仰を生きた人ですが、パスカルの原理という事を中学生の時に習ったことがあると思いますが、そのパスカルさんが、パンセという本の中でこんなに書いています。いつの間にか、「人間は、明日が目的になって、過去から今日までが、明日のための手段・方法になっている」。先ほど言いましたように、目的は尊いけど、手段・方法は一段価値が低い、と言うことは、私たちは明日が目的であって、過去から今日までが手段・方法であるような一日に扱うということの中に一日の輝きが薄れていっていると言うのです。 もう少し角度変えて言うなら、「明日こそ幸せになるぞ」、「明日こそ幸せになるぞ」と言って、幸せになる準備を死ぬまでしていると言う事になるのです。準備ばっかしで人生を終わると言う事です。仏教はこれを迷いと言うのです。私たちは何か明るい未来があるということが、生きるエネルギーになっているといいたのですが、意外と幸せになる準備ばっかりをしていて、本当によかったという感動をもたないまま、人生を終わるかも知れません。このことを仏教では空過流転と教えてくれています。 9.今、今日、ここ このとこを、そうは言われてもと言うことになりましけれども、今、今日ということの大事さ、ということを仏法がどのように教えているかということを、もうすこし詳しくお話させていただきます。仏教で、それぞれの道を得た人たちが「今、今日が大事だ」と教えてくれているエピソードを2・3紹介します。 鈴木大拙先生は臨済宗のお坊さんです、この人は聖路加病院の日野原先生が主治医だったので、日野原先生の本の中に、鈴木大拙先生の最後の場面が出ています。鈴木先生は96歳まで長生きされました。日本の仏教を世界に伝える仕事をされた方なのです。鈴木先生が90歳を過ぎた頃、あるお祝いの席でお弟子さんが質問されました。「先生、長生きの秘訣を教えてください」そしたら鈴木先生はこういわれています。「私は今、鎌倉のお寺の裏に住んでいて、いつも鎌倉の町に出るのに120段の石段を上がったり降りたりしなければなりません。私はこの石段を上がったり降りたりするときに、いつも足を置く石段だけを見ることにしています。是が長生きの秘訣です」と、おしゃっています。 私たちだったら、先を見て「あと120段もあるのか」と、取り越し苦労するわけです。しかし、鈴木先生は今、今日を大事にして、一歩一歩、歩んだ。その結果が別に長生きしょうと思ったわけではないが、長生きする結果になりましたと、言うことらしいです。 次に日蓮宗のお坊さんで、このかたは、89歳まで長生きしたのだそうですが、この人も、あるお祝いの席で、お弟子さんが、「先生、長生きの秘訣を教えてください」と質問しました。この先生は、「私は若いときからいろいろ研究して、長生きの秘訣を100以上知っています、しかし、どれ一つ実行しなかった」という事が長生きの秘訣です。こうおしゃっています。ということは、長生きに捉われないということです。最近フィンランド症候群と言って、医学界ではあまり話題にならず日が当たらないような感じで、かえってマスコミで広がった統計資料があります。時間の関係で詳しくは割愛させていだきますが、長生きしょうとか、健康になろうと厳しく指導するよりは、健康、長生きに捉われない自然体の方が予想外に病気の発生、がんの発症、等、健康に関しての指標はすべてよかったというのです。 10.生死を超える道 もう一つ、キリスト教ではどうであろうかと紹介しますと、キリスト教ではこんな言葉があるのだそうです。「生きているうちに死んだ人は、死ぬときに死なない。」これは説明を要しますが、生きているうちに、長生きしたいとかに捉われなくなって、キリスト教であれば神だとか、仏教で言えば、無量寿、仏の「いのち」というそのような世界に接点を持ちえたものは、生死を超えて、今の大事さに気づき、今、生かされている、ささえられている、大きな世界に気づくものは、お任せの世界に生きる存在となる。そうすると生きているうちに、生死を越えた人は死は単なる通過点でしかない。死ぬときにすでに死なない永遠の「いのち」を生きる存在たらしめられているから死に捉われないのです。そして自由自在に生きることになるのです。 この生死を越えるという課題、私たちの医学の世界では、どうしたら生死を越えられるかと言うと、不老不死を目指すことになります。でもこは見果てぬ夢でしょう。まだ150歳を生きた人はいません。いくら臓器移植をしたとしても、やっぱり限度はあるようです。そうすると私たちの理知・分別で目指す、生死を超える不老不死はやっぱり敗北で終わることになります。 宗教で言う不老不死とは何かと言いますと、先ほどのキリスト教で言いました、生きているうちに死んだ人は死ぬときに死なないと言うのが一つの原理なのです。これはキリスト教だけの話しかなと思ったら、禅宗のお坊さんが同じ内容のことを言っています。 「生きながら死人となりてなりはてて、思うがままになす業ぞよき」。(至道無難禅師) 生きているうちに生死を超えるという世界・煩悩を超えると言う世界を頂いたものは、そこに自由自在の世界が展開してくる。この生死を越えるというところにヒントがあるのです。 もう少し深く紹介しますと、浄土教で大事にしています、大無量寿経と言うお経の中に、仏さんの私たちに対する願いとして48の本願(根本の願い、本来の願い)が説かれているのです、この15番目に面白い本願が出ています。そこには、「仏の世界に生まれるものは、本当の長寿が実現できます。ただし、命の長い・短いに捉われる人は除く。」という趣旨の内容が書かれているのです。仏さんの世界が分かった人は、本当の長生きができます。但し、命の長い・短いに捉われる人は、除きますと書いているです。 11.本当の長生きとは 私たち、よく考えみると、長生きと言う問題で、本当に私が願っている長生きは、時間を単に延ばすことだけだろうかと言うことです。福岡の田川市の前の市長さんが敬老の日に、田川市で百歳以上の方が7人おったから、お祝いを持って行ったそうです。そのうちの2人はおめでとうございますという状態でしたが、後の5人の状態はおめでとうという状態では有りませんでした、ということでした。私たちは、生きている時間を唯延ばせばめでたい、何でもめでたいという形では、どうもないみたいだということが見えてきた時に、私たちが本当に願っている長生きとは、時間を延ばすことだけなのだろうかといことを考えないといけないのです。 仏教が教える長生きとは何かと言うと、先ほどの鈴木大拙先生のことであったり、日蓮宗のお坊さんのことであったり、そこに、長生きに捉われないような一日一日過ごされている中に、本当に願っている長生きの世界がどうもあるみたいなのです。 この15願という本願を解釈してみますと、本当の長生きとは、命の長い・短いに捉われないような一日一日を過ごす事が、ほんとうの長生きですよと。本願は我々の心の奥底の本当の願いを教え、気づかせてくれるのです。 そうは言ってみても、私たち、一日一日だけで足りる、満足と言う世界が得られないじゃないかと言うことになるのですが、仏教では、仏さんの「いのち」を無量寿というのです。仏さんの世界が段々いただけてきたら、仏さんの世界と通じていくわけです。そうすると今の一瞬に無量寿の世界を感じ取っていく世界に展開していくのです。そうすると、今という一瞬なのに、そこに、永遠という時間が感じ取れるわけです。感じ取れというか、大きな世界へお任せと言う展開が起こってくる。そうすると、今までは、時間の長さにとらわれていたものが量的な時間じゃなくて今の一瞬に大きな世界(無量寿)と接点を持ちえたときに、そこに、本当に永遠と言う世界を感じ取っていく。そういう世界の人をキリスト教の言葉で言ったら、「生きているうちに死んだ(世間的な世界を超えた)人は、神の世界に通じた人たちは死ぬときに死なない。」仏教でも、「生きながら死人となる」という、生死を越える世界に通じた人たちは、自由自在な世界を生きていくと、こういうふうになるのです。 歎異抄の第1章では、念仏と言う事を言われているのですが、「念仏申さんと思い立つ心の起こるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり」とあるのです。何故、南無阿弥陀仏なのか、生起本末を本当にうなずいて、念仏もうさんと思い立つ心の起こる時、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり、そういうふうに悟りとか信心という大きな世界を感得する中で、仏さんの世界と通じる「今・今日・ここで」という時を賜った者は、そのときに、質的に永遠と言う時間との接点を持ちえるのです。そうすると私たちはそこで、自然と「足るを知る」という世界を賜るのです。 私たちは、明日こそ幸せになるぞ、このことが解決できたらもうちょっと楽になるぞ、と云っている人たちは、坊さんに云わせたら、妄想幻想を追いかけている。明日こそ幸せになるぞ、このことが解決できたらもうちょっと楽になるぞといっているのは、単に今、ここで、不足不満という有り方をしているのを示していることに過ぎません。 そうかもしれませんね、私たちは無意識のうちに、このことがうまくいけば、もうちょっと楽になるぞ、このことが解決できたらもうちょっと良くなるぞと思っているのは無意識のうちに今が不足不満という有り方を示しているのです。だから明日が欲しい、明日がないと困るのです。だけど、今ここで、永遠という、生死を越えるという世界に接点を持ちえたときに、今の一瞬に永遠という時と接点を持ちえたら自然とそこに私は私で良かった、足るを知ることになるのです。 仏教では、信心とか、悟りの人たちの徳の一つとして、小欲知足ということがあります。欲が少なくて足るを知るという事です。そうすると今の一瞬に、足るを知るという世界に出会えた者は、明日はあってもよし、無くてもよし、あればあったで、明日また、私に与えられた命を精一杯生きていきます、ということになります。そして今の足し算が結果として一ヶ月になったり一年になったり、十年になっていくのだ、といういただきになっていくのです。 12.死を超える そうすると未来はあるのかといったら、そういう宗教的な世界を持ちえた人たちは、死は無くなるのです。死と言うのは他人の死であって、自分の死ではないのです。ギリシャの哲学者が本当に死を見つめてこう云っているのです。「生きているうちには絶対に死なない。」よいですか、「生きているうちには絶対に死なない。」そして「死んだら死なんか考えない。」よいですか、これは生死を越えた世界なのです。生死を考えもせずにこんなことを言ってはいけません。そこに、私たちは生死を越える世界に接点を持ちえたときに、今まで思いもしなかったような形での、今ということの質の深まり、広がりを持ちえるようになります。 私たちの身体は今に、あるのに、今を全身で受け止めるということが難しいのです。頭の中の意識の分別はいつも今におれないものですから、例えば過去のことを自慢したり後悔をしたり、もう終わった事を今頃ウジウジ言うのを「持ち越し苦労」と言うのです。また一方では、まだ来てない未来のことをいろいろ心配するのを「取り越し苦労」と言うのです。分別というのは今と言う時間を十分に受け取れなくて、何時も取り越し苦労・持ち越し苦労ばかりを行ったり来たりしている。そういう生き方を繰り返していれば、気付いて見ればあっというまに60年が過ぎた、70年が過ぎた・80年が過ぎたと、こういうのを空過流転と仏教は言い当てるのです。迷いともいいます。生きても生きたことにならないというのです。大事な問題は、今・今日生かされている、支えられている、と言うことの大事さを全身で受け止められるようになり。今、今日が、手段・方法ではなくて、目的であるような一日一日を過ごすということの中に仏の世界に通じて、無量寿の世界を感得して、本当の足るを知るという、本当の長生きの実現ができるのだと仏教は教えてくれています。でもそんなこと云っても、私たちの分別はそんなこと、見えない世界を考える事ができない、となるのですが・・・・。 13。対象化する知恵の弱点 私たちの理知・分別と言うのは、分別と書くように、物事を分析して、そして再統合して全体を理解するという訓練をずっと受けてきます。この対象化する分別は全体が見えるかというと、弱点として見えない部分が有るのです。何が見えないかと言うと、いつも外ばかりを見ていて、自分が見えないという欠点があるのです。 今のように、医学が細分化して分かれてきますと、専門家がたくさんでてきましたが、専門家を集めたら、人間全体が把握できるのかと言うと、どうもそうではないなということが分かってきました。 養老猛司先生は東大の解剖の教授をされていました。この先生が、解剖の教授をしている頃、内科や外科の臨床の先生から、冷やかされていたらしいのです。どういうふうに冷やかされていたかといいますと、「スルメを見てイカが分かるか」といわれていたらしいのです。死亡した人間を調べて、生きた人間のことが分かるかと言う意味で、イカをペッシャンコにして干したらスルメでしょう。スルメばかり観察していて、生きている人間がわるかと言う意味で、「スルメを見てイカがわかるか」という嫌味を言われていたらしいのです。しかし私たちの医療の仕事は、血液の検査データでしょう、レントゲン写真での診断でしょう、患者さんのある時点での切り口、一切点を見て患者に「あなたこうです、こうです」といって説明している一面があるのです。動いて躍動している人間の全体像を捉えるのはすごく難しいのです。養老猛司先生が、奥さんと一緒に人間ドックに行ったらしいのです。担当の先生は患者の方はあまりみずに、血液のデータとレントゲンの写真を見て、あなたどこどこが悪ですねとか、良いとか云ったらしいのです。今、そんな先生たちに返して上げたい「スルメを見てイカが分かるか」とある本に書いていました。意外と私たちの分別と言うのは、一断面、一切り口を見て、全体が分かったみたいな傲慢になっている危険があるのです。 14.物語 そこで今、医学界では物語と言うことが言われだしたのです。今までは客観的なデータに基づいて医療と言う形で、EBM(evidence based medicine、客観的に事実に基づいた医療)ということが推し進められて、全国のデータバンクを創って、このような、エビデンスを集めて医療に利用しょうとなってきています。しかしこのエビデンスと言うのも、先ほど云いました、「スルメを見てイカがわかるか」と言う形で、一断面でしか過ぎない可能性があるわけです。例えば、一人の患者さんが、この人はどんな人生観を持って、どういう価値観を持って、リビング・ウイルをどのように意思表示しているかとか、そういうようなその人の物語、その人の人生観が物語なのです。患者さんが持っている物語、私たち医療関係者が持っている物語を対話を通しながら、整合性をあわせていくのです。 このあいだ私の所に来られた患者さんが、糖尿病の治療を中々まじめに受けようとしないわけです。「あなたは糖尿病の治療を積極的にしなようだけど、うちの病院に来ている以上は私にも責任があるから、少し治療に協力してくださいよ」と言ったのです、そしたら、「先生!、私は、いつ死んでもよいから」と言うわけです。「いつ死んでもいいといっても、治療をしないとあなたの希望通りにころっと死ぬとは限らんよ」とつい、云ってしまったわけです。この人は「いつ死んでも良い」という物語を持っているわけです。どうしてその物語を持っているのかが分かれば、なお良いわけですが、この人の物語と私が医師として考えている医療の物語をあわせながら、この人にとって一番良い選択、患者の考える人生を支えていくということが、私たちの医療の仕事です。 種々の研究会で治療成績のよい報告をされる都会の先生は、優等生の患者さんばかっりを集めて、成績が良いのですよといっているのかもしれないとふと思ったのです。田舎にいますと言うこと聞かない患者さんがいますから、その人たちと対話しながらどうなだめて、理解してもらって協力してもらうか。このお互いの物語を合わせながらこの人にとって一番いい医療を私たちが支えるという共同作業ですよ。そう意味では、単なるエビデンスに基いた医療、客観的な事実に基いた医療ではないのです。エビデンス、客観的な事実に基いた医療と言うのは意外と、一断面・一切口であって、その人の全体の人間の生き様が見えていない可能性があります。そこにその人の価値観・人生観と言うような物語に基いて私たち医療関係者が持っているところの、医療観、病気観・価値観と言うものを対話をしながら、この人の自己実現といいますか、この人の本当の望みをかなえてあげるという形の共同作業が今求められているのです。そう言う意味で、物語と言うものをもつということが今大切になって来ています。 15。死後の世界はあるのか 科学的な合理主義的発想は、豊かな物語を持てないのです。例えば人間に生まれた意味といったら、私たちの科学的な合理主義では出てきませんので、親が勝手に生んで、頼みもせんのに、ということになってきます。そして、生きていくことの意味というと、「別に意味なんかないんじゃないの、欲を満足させて自分の思いが実現できたら良いじゃないの」、死んでいくということは、死んでいけばゴミになるからゼロじゃないの、無じゃないの。生きているうちが花よ、このような価値観、生きているうちが花よという価値観が結局、生きている時が一番尊いのだということになる。そして、生きている時間を延ばせという事になる。そして、そのような発想での今の医学教育で育てられた私たち医師は、延命治療ということをしてきたという次第です。生きていることがすべてだという価値観で、生きている時間を延ばすことが良いことだという発想になってきて、どんどん寿命を伸ばして行こうとしているわけです。そこに不自然な延命ということがおこなわれる訳でしょう。 そこに、生死を超える発想、「生きているうち死んだ人は、死ぬときに死なない」という生きる・死ぬの死の問題、生きている時間をただ延ばせ、ということじゃなくて、生死にとらわれない世界観が共有できたら、自然の経過にお任せする自然死。痛みだけは十分にとってくださいという形での不自然な延命がなされないということになっていくでしょう。 それを、今私たちは豊かな物語をもてないエビデンスということを尊重する科学的合理主義で社会を作っています。生きているうちが全てだ。なぜか?、死後の世界がないから、ということですから。死後の世界があるといっても証明した人はいません。無いといっても証明した人は有りません。だから現代人は死んでからあの世から帰ってきた人もいなし、死んだら焼かれて灰になっていくから「無」じゃないかとなってくるのです。そして生きている時間を延ばせという価値観に自然となっていくのです。それが今問題になっている尊厳死ということが考慮されずに不自然な延命につながっているのです。 16.スピリチュアル(spiritual) だから私たちは、そこに人間として生まれてきた物語、生きていくことの物語、そして、死んでいくことの豊かな物語と言うものを持つということが求められている時代ではなかろうかと私は思います。そういう物語を私たちは、宗教とか哲学とかそういうことの中に、普遍性のある物語を私たちは自分なりに持っているということ大事ですということです。 今、健康の定義に「スピリチュアル」という問題が出てきているのです、今まで、健康の定義と言うのは、1・肉体的(physical)に健全である。2・精神的(mental)に健全である。3・社会的(social)に健全である。社会生活がチャンとできる。この三つがずっと健康の定義だったのです。それが1999年のWHOの理事会で、4番目の要素としてスピリチュアルに健全であるという事が追加されるということが決定されたのです。しかし総会の決定にはまだ行ってないようでです。日本などは時期尚早という意見で棄権にまわりました。ある共産圏の国はそれを健康の定義に入れると、健康政策として国の政策に取り組まなければならないから、それはちょっと困るという事で、総会の決定にまでは行っていなくて、理事会の決定でとどまっています。このスピリチャルに健全と言うことは、先生方によってその解釈はいろいろあるのですが、私なりに云うならば、人間に生まれた物語を持っているか。生きることの物語を持っているのか。生きることの意味、生きることで果たす仕事、生きることで果たす使命と言うものを自分なりに本当にうなずけているのかどうか、そして死んでいくということも、仏教で言うならばお任せ、今の大事さがわかっているから、死ぬことに捉われない、お任せします、という世界観が持ちえているかということ。そこに一貫性のある物語が出てくるわけです。この物語を持つことができているということが、人間としての、健康であるという時代性になって来ているのです。 17。死ぬために生きているの どうしてかといいますと、福岡の方で、30代の方が大腸癌になりまして、手術を受けたのだそうです。手術自体はうまくいった。しかし2年後に再発をして、手術をしてくれた外科の先生の所に行ったけど、痛みが十分に取れなかった。それでホスピスという、緩和ケアといって、モルヒネなどの麻薬を使って痛みをとってくれる先生の所に行ったら痛みが取れたのだそうです。しかし、お腹の癌だったものですから、入院中に腸閉塞になったのだそうです。しかし腸閉塞になりましても、私たちは、点滴とかで、飲まず食わずでも生きていく技術を持っていますから、痛みはモルヒネで取り除く、食べる部分は点滴でいけるようになってきた。そしたときに、この患者さんが,回診の時に、「先生、私は死ぬために生きているのですか」と訴えたというのです。これには、今までの医療者であれば、ほとんど答えることができません。「死ぬために生きているのですか」といわれても………、ここがスピリチュアルの領域なのです。今までは身体的・精神的・社会的だけで良かったのに、今いろんな技術が進んで出てきたときに、最後にスピリチュアルという、人間に生まれた意味・生きることの意味・生きることの物語・死んだらどうなっていくのかというスピリチュアルな面の訴えが露出して出てくるのです。それが今、終末期の医療の中で課題として、医療関係者が今戸惑っている領域なのです。このようなことから見えるように単なるエビデンスだけじゃなくて、物語ということをやはりもう一度考え直さないと、本当に人間としての健全とは云えないという時代性になっているということもであります。 18.死後の世界 ここで死後の世界はあるか、ないか、ということを説明させていただきます。私たちの科学的合理主義でいったら、死後の世界はあるか、と問われたら、多くに人はほとんど「無い」と答えると思います。だけど、「無い」という証明も無い。「ある」ということの証明も無いのです。そこでお釈迦さまは、無記といって、そのことに関しては何も答えてない、記載されて無いのです。それはどういうことかといいますと、その課題をいくらデスカッションしても、考えても、あなたが生きていくということの問題にはたいしたことではない、大きな要素にはなりませんよということです。 死後の世界ではなく、今、今日、生きている、生かされているところのことを大事に考えなさいといっているのです。しかし、目覚めの世界では仏さんの世界、浄土という世界があるのだといっているのです。仏法の理解の少ない人には分かりずらいことじゃないかと思います。このことに関して、司馬遼太郎という有名な作家がおられましたが、この先生が大学を卒業してすぐ、産経新聞の新聞記者をしていたのです。そして京都におりまして、京都大学と本願寺の担当だったそうです。そこで本願寺に行った時に、本願寺の僧侶に「浄土はあるのか」という質問をしたのだそうです。そしたら、お坊さんが「あるとか・無いかの上にあるのだ」と答えたということです。「非常に適切な答えであった」と司馬遼太郎さんは書いているそうです。仏の働きの作用している世界が浄土ということです。 私たちの分別では、見えるものだけが確かだ、形に表されたものだけが確かだと、こういうふうに見ていくわけです。しかし、仏教では、「見えるものは見えないものによって支えられている」と教えてくれているのです。見えない世界が見えてくることが,仏教の智慧をいただいた世界です。そういう見えない世界、見えないけど、在る世界です。そういう世界を感得した先人によって、日本語の中に「もったいない・ありがたい・おかげさま」等の言葉として表現されている文化の領域が仏教の領域でもあるのです。そういう世界をよき師やよき友を通して感じ取られるようになってきた時、そういう仏の「はたらき」の世界、浄土があると頷けていけるのです。 ここのところが、日本の現代の学校教育を受けてきた世代、特に戦後の教育を受けると、そういう見えないものを認めない、宗教的なことを触れない、認めない教育を受けていきますと、私たちはそういう世界がわからないまま、死んでしまえばゴミになるという発想にならざるを得ないのです。しかし、私は、医療とか福祉の領域では、仏教が教える物語というものを、やはり、考えてみる必要があるのではないかと思うのです。 19.もったいない 最後に少し余談な話を一つだけして終わりにしたいと思います、この見えない世界、「もったいない」という世界は、今、資源保護だとか、環境問題の領域で注目されているのです。この前に日本に来た、アフリカのノーベル平和賞を貰った、某副大臣が、日本には「もったいない」という言葉があるが、これはすばらしい言葉だといって、国連での演説にも使い、世界中にぜひとも「もったいない」という言葉を広めたいと云っているようです。この『もったいない』に相当する意味の言葉が、英語やドイツ語には無いのです。それで、環境ジャーナリストが、こう訳したのだそうです。「too good to throw away」これはどういうことかといいますと、「捨てるには良すぎる」と訳したらしいのです。これは環境問題や資源問題では良い訳と判断されます。この食べ物を捨てるにはよすぎると。しかしこの「もったいない」と言う言葉にはいろんな意味があるのです。で、たとえば、「私の夫はすばらしい人です。私にはもったいないような夫です」こういう表現をしたときに、「too good to throw away」と同じような訳をしますと、「私の夫はまだ使える、捨てるには良すぎる」となるのです。これでは、意味が十分に表現されていないのです。やはり言葉の背後にある意味、文化、物語を、私たちはいつの間にか、先人の蓄積されたものを受け継いできたわけです。そういうものを私たちは認めないということで捨てしまう危機に迫られているのです。 私たちはいつの間にか、タライの水が濁ったから、といって中の水を捨てたら、中の赤ん坊まで捨ててしまったということになっているのが戦後の宗教、仏教の扱いではないかとおもわれるのです。 最後に尊厳死と言うことを考えた時に、「自分の意思」と言う問題、そして「私とは何か」、「自由意志とは」、そして私は「どんな物語」を持ちえているのか、そして「死というものをどう考えていくのか」等、今日、お話させていただいたことを考えるヒントにしていただければということをお伝えして、お願いして、このお話を終わらせていただきます。 以上 |
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