「仏教はなぜ真実と言えるのか? 」:雑誌「在家仏教」2006年11月号掲載

 私たちは限りなく追い求め、 常に不足不満です。
それで自分の人生に本当にうなずけましょうか。
偽物と気づかされてこそ、 本物がわかるのです。

■科学的合理主義の限界
   私たちはものごとを考える時に、 学校教育で教えられた発想法で考えることが避けられません。 ですから仏教をそのような思考方法で考えてしまう。 これがどうも仏教を誤解する大きなネックになっているのではないかと思います。
その思考方法とは、 物事を向こう側に見て対象化することです。 出来るだけ客観的に見て考える訓練をずっと受けてきましたから、 対象化して考える考え方にどっぷり浸かっています。 特にいわゆる理科系の人間であればなおのことです。
私にとって仏法のご縁の始まりは、 九州大学の仏教青年会 (仏青) でボランティア活動をするという形で、 寮生活を始めたことです。 仏青での寮生活をはじめたけれど、 本音では 「仏教がなくても生きていけるではないか、 仏法なんかこの世になくてもよいものだ」 と思っておりました。 死ぬ前の人が藁をも掴むような思いで 「南無阿弥陀仏」 とお念仏する、 そういうものが仏教と思っておりました。 ですから仏教に対する理解はほとんどないような状態だったのです。
その当時、 仏教青年会の教理部会で寮生たちと勉強会をする時に、 仏教を勉強するのならいちばん最初の釈尊に帰るのがいいと考えていました。 そうしますと釈尊が最初に説いたと言われている阿含経等を学ぶことが大事だということになります。
しかし今日、 日本で普及している仏教はほとんど大乗経典を拠りどころとしています。 この大乗経典を歴史的に調べてみますと、 どうもお釈迦様が亡くなって四百年から七百年の後に出来たことが知らされます。 私たちは、 例えば明治時代の人が言ったことすら今でははっきりしないのに、 四百年前といえば江戸時代初期の人がこう言ったらしいといわれても、 大丈夫かな?信用出来るのかな?と思います。 対象化してものを考える客観的な思考は、 疑いだしたらきりがありません。 そうしますと 「お釈迦様が言ったからといって、 どうしてそれが真実と言えるのだろうか?」 とまで疑わざるを得ないです。
釈尊を非難する人はあまりいません。 しかし 「歴史上素晴らしい人だったとか、 偉大な人だったとか言うけれど、 釈尊が言ったことが真実だと、 どこで証明しているのか?」 とつい考えてしまうわけです。 お寺の内部関係者だと、 釈尊をうたがうということはできないでしょうが、 私は在家ですから気楽にそういうことを考えます。
現代の科学的合理主義では、 そういう発想で物事が真実であるか確かめる、 という身に付いた習性があります。 仮説を立ててそれを実験してみて、 その仮説が証明出来たら正しいとされるという形の訓練です。
医学の世界では、 例えばコッホの四原則というのがあります。 コッホが活躍した時代は何が原因で病気が起こるか分からないために、 原則にのっとって原因を決めていた。 例えばコレラであるならば、 下痢をする人の便を顕微鏡で調べると、 いつも共通した細菌が見つかる。 下痢便を培養するといつも特定の細菌が分離される。 これを動物に接種すると、 同じような下痢症状が起こる。 動物の下痢便を調べると同じ細菌が見つかった。 このように四つの条件が揃った時に、 「この病気の原因はコレラ菌によって起こされたものである」 という事実として認定するわけです。
この細菌をなんとか除外する形の治療をすることによって、 病気が良くなる。 こういう科学的知識を積み重ねて、 現在の快適で便利な社会が出来てきました。 そこで私たちは科学的な合理主義を間違いないものだとつい思ってしまうわけです。
しかし、 ここには弱点もあります。 はっきりしたものだけをピックアップするものですから、 灰色の部分、 形には表せないものはすべて無視する。 そのために全体が見えなくなる可能性もあります。
私の先生がよくおっしゃったことですが、 例えば 「母の涙」 を科学的に分析してみますと、 成分は H2 O がほとんどで NaCl が何パーセント、 体積は何ミリリットルで重さが何ミリグラム、 涙腺が緩んだ時にポトポトと落ちるのが 「母の涙」 だと言えます。 しかしそれで 「母の涙」 の全体の意味が把握できるでしょうか。

■局所に詳しく、 全体を見ない
 医学も科学的な合理主義で発展してきて、 どんどん細分化されています。 専門が増えて、 局所については非常に詳しくなってきました。
私が以前勤めていた総合病院には、 いろいろな科がありました。 私が管理者をしていた時、 眼科の先生に、 夜に当直をしてくれと言っても 「眼科以外の病気の人が来たら責任をもって診療できないから当直は免除して下さい」 と言う。 局所は分かるけれども全体は見えないのです。
患者に麻酔をするためには呼吸器、 循環器、 心臓、 栄養状態などの具合を確認しないといけませんから、 麻酔科の先生は術前訪問と言って前日にその患者の全体評価をします。 すると時々患者の全身管理が疎かになっている。 主治医の先生に 「心臓の方はどうですか?」 と聞くと 「あっ、 忘れとりました」。 「肺は?」 「それも忘れとりました」 という具合で、 専門の領域についてはくわしいが全身管理が出来ていない。 科学的合理主義にも意外とそういう落とし穴があります。
一年ほど前に、 私の知り合いの恩師が軽い脳梗塞になられて、 地域の脳外科に行かれました。 治療とリハビリをして退院されたのですが、 その先生は教え子の看護師さんに 「先生、 一度脳梗塞になったらまた再発しますよ」 と脅されたらしい。
しばらくして、 車を運転していたらめまいがし始めて急いで車を止めた。 じっとしていたら近くの人が救急車を呼んでくれた。 ところが脳外科でいろいろ調べたけれども 「異常ありません」 と言われた。 心臓に持病があったので、 市民病院に紹介されて心電図など調べたけれど、 循環器系には異常がないと言う。 しかしすこし長距離、 車に乗るとどうもめまいがする。 それなら耳鼻科だろうと調べてもらったが、 そこでも異常ありませんと言われた。 眼科も異常なし。 その先生は困りはてて私を訪ねてこられました。
私は消化器外科が専門ですからめまいは関係ないのですけれども、 先生が 「脳卒中になった者は脳卒中で死ぬというのは本当ですか?」 と言われる。 「そんなことはないですよ。 他の病気で死ぬ人はいくらでもおります」 と言ってから 「でも先生、 老病死には必ず捕まるんですよ」 とつけ加えたのです。 そうしたら先生が 「こんなに養生してもやっぱり死ぬのか」 と言う。
「先生、 どんな養生しているのですか?」 と聞くと、 まず煙草を止めたと言う。 「ああ、 それはいいですね」。 お酒も止めたと言うから 「先生、 お酒は一日一合ぐらい飲んだ方がいいらしいですよ。 その他には?」 と聞くと 「安静にした方がいいとみんなが言うから、 一日十五時間寝るようにしとりました」 と。
これを聞いて原因の一つがわかりました。 寝過ぎです。 こんな状態で急に立ち上がればバランスが崩れるのです。 自律神経の調整がうまくいかないから、 遠乗りなどするとめまいがする。 脳外科、 循環器科、 眼科、 耳鼻科の専門医が診ているのに、 ここに気が付かない。 局所のことはプロでも、 生活全般が分からなければ患者さんの全体が見えないのです。
このような科学的な合理主義で 「お釈迦様が言われた仏教が真実である」 ということを証明しようとなると非常に危いわけです。
日本で使われるお経のほとんどが、 お釈迦様が亡くなってから四百年から七百年経ってから出来たお経だと言ったら 「それは本当にお釈迦様の直説ですか?」 と誰でも問います。 私たち理科系の人間は、 例えば壁画でも出来た時がいちばん良いと考え、 時間が経つにつれて崩れてゆくと思ってしまいます。 お釈迦様が言ったことでも、 時間が経ったら危うく信用出来ないものになるのではないかという発想です。
しかし最近の仏教学の本には 「宗教は、 先生の教えを弟子たちが発展させていくのだ」 と書かれていました。 宗教は弟子たちがその原理を受けとめて発展させると聞いて、 なるほど視点が違うのだなということを思ったわけです。
それにしてもやはり 「お釈迦様が言ったからといって、 どうして真実と言えるか?」 と、 どうしても一度は疑います。 「仏教が真実である」 ことを、 どのように自分なりにうなずけるか。 ここが大事だと思います。

■「私―それ」 の世界
 物事を対象化して見るというのは、 自分が中心にいて、 そして外側のいろいろな事象を見るわけです。 そしてこれは役に立つ、 これは役に立たない、 これは利用価値がある、 これは利用価値がない、 これは私の敵だ、 こっちは私の味方だというふうに、 良いものは取り入れよう、 悪いものは除こう、 そして自分の人生を成就させようとして生きてゆく。
これをマルティン・ブーバーという方は 「私−それ」 の世界を生きていると言います。 ブーバーは、 私たちは自分の考え方によって世の中が二つに分かれるという表現をしているのです。 私たちは自分の考え方がどう変わろうと世の中は一つしかないと思いますけれども、 ブーバーは、 考え方で世の中が二種類に分かれていくと言います。 「私−それ」 の世界と、 「私−あなた」 の世界であると。
「それ」 と 「あなた」 とはどういう違いがあるか。 英語で言うと 「それ」 は it 「あなた」 は you です。 it は三人称で、 少し私から距離が離れている。 you は二人称で非常に近い関係です。 例えば自分の親が悪口を言われたとしますと、 子どもである私の悪口に感じる。 また自分の子どもが人から悪口を言われると、 親である自分の悪口に感じたりする。 そのように切っても切れない関係を 「私−あなた」 の関係と言います。
「私−それ」 の場合は距離があるので、 悪口を言われても自分に関係がなければ一緒にその人の悪口を言うぐらいなものです。 「私−あなた」 は一体感のある、 血が通った関係であり、 「私−それ」 は血が通わない冷たい関係です。
私たちの客観的な見方は 「私−それ」 に近いわけです。 相手を物や道具として見ている。 自分にとって利用価値があるものは取り入れよう、 価値のないものは除こう。 自分の味方とはいつも付き合うけれども、 敵は出来るだけ会わないようにしておこうとするのです。
私たちはどちらを生きているか。 例えば子育てしている時に、 子どもに 「こんなに言うことを聞かない子はよそへ行きなさい」 と言った途端、 「私−それ」 になる。 私にとって好ましい子どもは私の所、 私にとって疎ましい子どもはよそへ、 というようでは、 ほとんど 「私−それ」 を生きているのではないでしょうか。
私たちは利用価値があるかないかで周囲の者に対して冷たくなったりします。 「それ」 と 「あなた」 の間を行ったり来たりしている。 節分の時の 「鬼は外、 福は内」 は 「私−それ」 の世界です。
大きい地震があって心配しても、 自分の家族が大丈夫とわかれば後はもう平気です。 人間はそれぐらい冷たいのです。 「私−それ」 をいつのまにか生きています。 実のお母さんですら 「私たちは親子よ」 と誇らしく言っていたけれども、 年をとりだんだんお荷物になってきたら、 もうこんなお母さんはいない方がいいとなる。 死んでくれた方がいいとさえ思うことさえあるのです。
「私−それ」 を生きている者は血が通っていない、 ということはいのちがないのです。 いのちに触れていない。 相手を物や道具に見ているということは、 私が物になっている。 私が地獄、 餓鬼、 畜生、 修羅を生きている。 法句経の言葉で言えば 「そんな生き方で百年生きるよりも、 本当の仏法のいのちの世界が分かって一日生きることの方が素晴らしいのですよ」 というわけです。
私たちは自分の欲を満足させて生きることが人生だと思っています。 それで本当に満足が得られるでしょうか。 九十五歳になるお爺ちゃんが、 ひ孫さんから可愛らしく 「おじいちゃん、 あと五年は生きて百まで生きてね」 と言われて 「たった五年か?」 と答えたという。 ひ孫にとってみれば、 百まで生きたらもう満足だろうと思うけれど、 当人はどこまでいっても満足しないのです。
私たちの科学的な合理主義の思考の大元には 「私−それ」 が育てられています。 心が育たないものですから、 常に外に向かって 「何かいいものないかな」 と追い求める発想になるわけです。

■心がいつも不足不満
 仏教が日本の文化にどう貢献したかについて、 ある方が 「それは内観の一道である」 とおっしゃいました。 私たちの心の内面の豊かさを耕していって、 本当に豊かにしてくれるのが仏教なのです。 ところが、 そういう世界がほとんどなくなってしまった。 いつも外側に向かって 「何かいいものないかな、 楽しいことないかな、 面白いことないかな、 役に立つものないかな」 と言って外ばかり追い求める者の心は、 いつのまにか心の内面が不足不満なのです。 ですから常に何かを追い求めて、 この不足不満を満たさずにはおれないという習性を持たされてしまっているわけです。
そういうことを知らされて私は高校時代に読んだカール・ブッセの 「山のあなた」 の詩の意味がよく分かりました。

山のあなたの空遠く
「幸」 住むと人のいふ。
噫、 われひとと尋めゆきて
涙さしぐみ、 かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸」 住むと人のいふ。
(上田敏訳)

 私たちは山の向こうの、 例えば福岡にいるなら大阪に行ったらいいことがあるらしい、 東京に行ったらいいことがあるらしいと行ってみたけれども、 何もなかった。 幸は手にはいらなかった。 それでまた帰ってきた。 しかし、 どこか外に何か幸があるらしいと思う。 私たちはこのように限りなく外に追い求めます。 それは不足不満が心の内面にあるからですね。
パスカルが、 科学的な合理主義を拠りどころとして生きる私たちのあり方を、 皮肉っぽくこう言っております。 「私たちはいつのまにか明日が目的になってしまっている。 今、 辛抱しておけば明日はもうちょっとよくなるぞ、 このことが解決出来たらもうちょっと明日は楽になるぞと言って、 いつも明日のための今日を生きている」 と。 今は常に明日のための準備状況なのだというわけです。 そして、 「明日こそ幸せになるぞと言って、 死ぬまで幸せになる準備ばかりして終わる」 と言うのです。
私たちは、 明日が目的ではなくて、 今日が目的であるような一日一日をどうしたら過ごせるかを考えて生きないといけません。 それなのに、 対象化する私たち人間の知恵は、 いつも今が不足不満で、 何かより良いものを追い求めようという性質を持っている。 それが私たちの今のあり方なのです。
もう一つ言うならば、 自分の周囲をいつも敵かな?味方かな?利用価値があるかな?ないかな?と見る時、 さらに内面では 「いざという時にうちの奥さんは頼りになるかな?私の子どもは頼りになるのかな?」 という心まであるわけです。 「渡る世間は鬼ばかり」 という生き方では、 私たちは不足不満の上に、 なおかつ不安まで抱えているわけです。
私たちはいやなものは出来るだけ見ないようにしたい、 明るく、 楽しく、 愉快に、 ということだけを見ようとしているけれども、 しかし何か縁があると内面はパッと吹き出てくるのです。

■何かを教えてくれている
 仏教の縁起の法によりますと、 ガンジス河の砂の数ほどの因や縁によって、 私というものが存在あらしめられている。 別の言い方をするならば、 世の中のことはみんな私に何かを教えようとしてあるのです。 吉川英治さんが 「我以外皆我師」 と言っておられますが、 私たちは敵か味方かではなくて、 敵みたいな人も、 味方みたいな人も、 すべて私に何かを教えようとしてあるのだと見る。
道元禅師がおっしゃる 「自己を運びて万法を修しゅ証しょうするを迷いとし、 万法進みて自己を修証するを悟りとする」 という言葉もこれに近いですね。 自分の意識が中心にあって、 いろいろな世間のことがらを、 役に立つか役に立たないか、 自分にとって好ましいか好ましくないかと考えていって、 いいもの取りをして人生を成就させていこうとするのは 「迷い」 である、 と。 こういう見方をするのではなくて、 この私という存在はいろいろなものによって生かされている、 支えられている、 教えられているのですよというわけです。
道元禅師だけではありません。 ユダヤ人の精神科医フランクル先生は、 戦時中に強制収容所に収容されて、 なんとか命永らえてアメリカに移住されたのですが、 この先生もこうおっしゃいます。 自分を中心に置いて、 自分の外側の経済的、 政治的、 社会的条件を良い方向に持っていこうとして外の条件ばかり考えて生きてこられた人たちは、 強制収容所に収容されるともう絶望しかなく、 ガス室で殺される前に精神的に潰れてしまった。 しかし厳しい環境もきっと私に何かを教えようとしてあるのだと受け止めている人たちは、 殺されないかぎりは、 なんとかたくましく生き延びていったというのです。 やはり通じる世界があるのだなと思います。
いろいろな出来事は私に何かを教えようとしてあるのだと受け取れば、 私たちはもう少し楽に生きてゆけます。 私も前の職場では職員が三百人近くおりましたが、 みんなが院長であった私の言うことを聞いてくれるのではないのです。 嫌なことを言ってくる人もいます。 この人さえいなければもう少し楽にやれるのにと思うけれども、 しかしこの人もきっと私に何かを教えようとしていると受け取りますと、 肩の荷が少し軽くなります。
最近、 社会的に地位のある方と話しておりましたら、 「いやもう、 いろんなことがあるけれども、 私にしか経験できないことが今、 経験できているのだと受け取っていると、 楽しくなりますよ」 とおっしゃっていました。 上からいろいろ言われ、 下からつつかれても、 居直ってそのように受け取ったら本当に楽に生きていける、 とおっしゃる。 まさにここですね。 私に何かを教えようとしてあるのだとなれば、 人生に無駄なものは何もないわけです。 これが目覚めた生き方だ、 悟りなのだと仏法は教えてくれるのです。

■小さな殻を出よ
それでは 「私−それ」 を生きている私に、 仏の世界からはどう働きかけられているのでしょうか。
仏様はこの私に 「あなたは本当に智慧のない生き方をしているではないか。 なんとか智慧を届けたい。 いのちのない生き方をしているあなたに、 なんとかいのちを届けたい」 と言って働きかけて下さっているのです。 ですから智慧を 「光明無量」、 いのちを 「寿命無量」、 合わせて阿弥陀仏です。 私の先生は 「汝、 小さな殻を出て大きな世界を生きよと呼びかけるものがこの 『南無阿弥陀仏』 という意味なのだ」 とおっしゃいました。
マルティン・ブーバーは、 「私−それ」 を生きている者が 「私−あなた」 の世界にどうして転じることが出来るかというと、 大きな世界から 「あなた」 と呼ばれている、 そううなずけた時に 「私−それ」 を生きていた者が、 いつのまにか 「私−あなた」 の世界を私の周囲に展開するのだ、 と言います。
「私−それ」 を生きている私が、 善き師、 善き友を通して 「汝、 小さな殻を出て、 大きな世界を生きよ」 と呼ばれている、 願われているとうなずけることを通しながら、 「私−それ」 を生きている自分に気付かされる。 呼びかけられて、 私も小さな殻を出て大きな世界を生きてゆこうと転じられる時に、 そこに 『歎異抄』 で言うならば 「念仏申さんと思い立つ心の起こる時、 即ち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり」 と頂くことであります。

■偽物である自分に気づく
少し前にネパールで偽一万円札が見つかったというニュースがありました。 その報道によれば、 ネパールの人たちは本物の日本の一万円札を知らないから、 それが偽札かどうかがはっきりしないのだ、 と言っていました。 本物があって初めて偽札が分かるわけです。 ですから本物が分からない人に偽札なんて分かるはずないのです。
私は仏教をいただく時に、 「仏教はなぜ真実と言えるのか?」 ということの一つの納得のしかた、 うなずきとして、 この私が偽物であることに気づかせるものが、 本物だと思うわけです。
十年ぐらい前、 オウム真理教の事件があった時に、 あの宗教は偽物だと言った人たちは、 本当の宗教が分かっていたのでしょうか。 「本物は分からんけれども、 まあ悪いことをしているから悪いんだろう」 と言うのもあるでしょうけれど、 やはり本物が分からなければ偽物は分からないです。
私はこれまで科学的な合理主義を拠りどころにして 「みんなから善い人間だと思われたい。 悪い人間だと思われたくない。 出来るだけ損をしないように、 得になるように。 出来るだけ負けにならないように、 勝ちの方に」 と言って一生懸命生きて社会生活をしてきました。
しかしそれを作家の高史明先生は 「対象化する知恵は迷いである」 「わたしたちは生きていると思っていますけれども、 その偽の知恵に、 真実の生のありようを見失っているわけです。 ……死んでいるということがわからないのですから、 生きているということがわかるはずがありません。」 と教えてくれています (『在家佛教』 二〇〇二年十二月号 「いま、 真実のいのちを深く頂く」)。
その言葉によって、 私の偽の姿を言い当てられるわけです。 そして地獄、 餓鬼、 畜生を百年生きても、 お念仏の世界が分からなくて百年生きても、 本当のお念仏の世界が分かって一日生きることに比べたら大したことないのですよとおっしゃるのです。
私たちの生きているいのちは、 生まれてから死ぬという有限のいのちを生きています。 キリスト教で言う 「生きているうちに死んだ人は死ぬ時に死なない」 という言葉は、 仏教で言うならば、 有限のいのちを生きていた者が、 無量寿の世界に通じる世界を持ち、 仏のいのちという世界に触れる時に、 死を超える世界を頂く。 ですから 「百年生きるに勝る一日」 とは、 今、 今日、 ここに仏様のいのちと通じる世界を頂いた者は、 今、 今日、 ここで質的な永遠という世界を生きる存在たらしめられるのです。
「念仏申さんと思い立つ心の発る時すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり」 (『歎異抄』) というのは、 永遠という世界を今、 今日、 ここで頂くという世界があるのだということです。
そうしますと、 百年生きるに勝る一日、 今、 今日という世界を、 私たちは今、 今日、 ここで頂く、 そういう世界が、 仏教の信心とか悟りの世界なのでありましょう。

■真なるものが実になる
 本物の仏教に出会うことによって、 私の偽物の姿を気づかされます。 もし気づかなかったならば、 勝った負けた、 損だ得だ、 善だ悪だと振り回されて、 この世間の表層をのたうち回るしかなかったでしょう。 仏教ではこれを空過流転と呼ぶのです。
空過流転しかない生き方をしていた者が、 仏法に出会うことによって本当に実りある人生を今生きつつありますといった時に、 実りあるとは 「ここに実っている」 ということです。 真なるものが実となったということで、 真実の教えであったと言えるのです。
私たちにはどうしても 「あなたは仏教が分かっていますね」 とか 「真如を頂いていますね」 などと、 権威付けしてもらいたい一面があります。 しかし仏教では誰もお墨付きをくれません。 これは自分が自分の人生の中で 「本当に実りある人生であった。 よかった」 と本当にうなずけていけるかどうかにかかっているわけです。
大無量寿経で 「十方衆生よ」 と言って、 「皆さん方」 という言い方をされておりますが、 頂く側はすべて私一人のためです。 「親鸞一人がためなりけり」 であったのです。 自分が出会うことによって 「本当に良かったなあ」 と言ってほのぼのと生きてゆける、 そういう世界があった時に、 真なるものが実となったと言って私たちは喜んで生きてゆけるのではないでしょうか。
そうしますと、 これは私たち一人ひとりが自分の人生の中で教えに出会うことによって、 本当に空過流転を超えて 「実りある人生であった」 と言って生きるかどうか、 一人ひとりが証明をしてゆかざるを得ないわけです。 誰も保証してくれません。 自分の人生で本当に良かった、 出会えて良かった、 お念仏一つで事足りたと頂けることが、 私たち一人ひとりに課せられた仕事ではないかと思うのです。
生物の歴史で言うならば、 私たちは三十五億年の生命の歴史の最先端に立って、 今またここで流転を繰り返して行くか、 あるいは流転を超える人生を生きるかという、 まさに歴史の最先端の場に立たされています。
私たちがここでその教えに出会うか出会わないか。 『歎異抄』 の第二章では 「面々のおんはからいなり」 と言って冷たく突き放されるわけですが、 しかし科学的な合理主義で生きている私たちをなんとか智慧あらしめたい、 いのちあらしめたいと願って、 私たちに 「汝、 小さな殻を出て、 大きな世界を生きよ」 と、 善き師、 善き友を通して働きかけられているのです。

■仏のはたらきを感じ取る場
 ところが、 今はそういう大きな世界からの働きかけが分かりづらくなってきている時代だと思います。 その理由の一つにはお寺の問題があります。 お寺は本来、 僧伽です。 仏法僧の僧とはお坊さんではなくて、 求道者の集いです。 そこに仏様がいて法が説かれている、 三宝のまします所が浄土教で言うならば浄土です。
お寺がそういう浄土の場たり得るならば、 お寺に行って教えていただくとか、 相談に乗っていただくという形で機能していたかもしれません。 でも今はそういうお寺さんが少なくなってきました。 私たちが仏のはたらきを感じ取ることがなかなか出来なくなっています。
私の場合は学生時代に細川巌先生の 「土曜会」 というのがありました。 月に一回、 土曜日の夕方に集まってお話を聞き、 寝食を共にして翌日の午前中お話を聞いて座談会。 お昼ご飯を食べてまた一席お話を聞いて解散というスケジュールの会え座ざです。 求道者の仲間と寝食を共にする。 そういう所に接点を持ちますと、 仏様のはたらきを受けている人たちはこういう生き方をしているのかと、 仏のはたらきを生きいきと感じ取ることが出来るのです。
私は細川先生に 「先生、 なぜ南無阿弥陀仏なのですか?」 と質問したことがあります。 そうしましたら先生から 「なぜ南無阿弥陀仏なのかは、 これは説明出来ないのだ。 そういう大きな世界にはぶち当たって感じ取るしかありません」 というお手紙を頂きました。
そのような感得する場がだんだん少なくなってきますと、 「仏様のはたらきって本当にあるのかなあ?」 と、 いつの間にか対象化して考えてしまう。 対象化しますと結局自分に無関係なことと見てしまって、 いのちあらしめたい、 智慧あらしめたいという仏様のはたらきが、 だんだん感得しにくくなってきます。 そういう時代だなということを思います。
自分の偽物の姿に気づかされて 「そうかもしれんな」 とは思うけれども、 この偽の姿のままで、 科学的な合理主義で私たちはずっと生きてきていますから、 これが当たり前ではないか、 なんて思いはじめる。 生きても生きたことにならないような人生を、 なんとなく生きていくという形になってしまうのです。

■見えないものに支えられて
大谷専修学院長を長くしておられた信国淳先生の講演の録音を聞いておりましたら、 「私たちのいのちを仏教では寿命と言うのである。 『見えるいのち (命)』 は 『見えないいのち (寿)』 によって支えられているのである。 見えないいのちを無量寿と言う」 とおっしゃっていました。
科学的合理主義の、 客観的に見るということの中では、 こういう見えない世界はないことになってしまう。 そういう世界が認知できなくなるわけですから考慮に入れないようになる。 いろいろなものによって支えられている、 生かされているということが分からなくなってくるのです。
そうしますと、 食事をするにしても、 これは私がお金を出して買った物なのだから、 なぜ 「いただきます」 と言わなければいけないのか、 と言って我がまま勝手に食べるわけです。 「いただきます」 という形の中に、 その生物のいのちがあり、 その背後にある農業に携わった人たちのご苦労があり、 流通業者、 そして料理をしてくれた人たちの働きがあるのだと感じ取って 「いただきます」 と言って食べるという世界がなくなるわけです。
ノーベル平和賞をもらったケニアの環境副大臣ワンガリ・マータイさんが、 環境問題には 「モッタイナイ」 という考え方をぜひとも広めたいとおっしゃいました。 私も調べてみましたが、 英語やドイツ語には 「もったいない」 という単語がないのです。 ということは、 そういう文化がないわけです。
環境問題を論じて、 この 「もったいない」 という言葉を訳す時に too good to throw away と訳したのだそうです。 「これは捨てるには良すぎる」、 適切な訳ですけれども、 しかし日本語ではもっといろいろな意味があります。 例えば 「私の夫は素晴らしい人です。 私にはもったいないような夫です」 をこれで訳しますと 「私の夫はまだ使える。 捨てるには忍びない」 となってしまって、 その意味が伝わりません。
日本では 「もったいない」 という形で、 見えなくてもないわけではない、 見えないものがあるといっているのです。 そのように言葉の背後には、 私たちの先人が積み重ねた文化、 意味がこめられています。 見えるもの、 形に表せる物だけですと、 見える世界が見えない世界によって支えられていることがどんどん見えなくなって、 いのちがなくなっていくのではないか。 そして結局は空過流転して、 人生の表層を勝った負けた、 損だ得だ、 善だ悪だで振り回されてゆかざるを得ないのです。
そのような見えないはたらきを私たちが感得することによって、 空過流転を超える道を今ここで歩ませていただく。 その歩みに入れていただくわけです。 教えに出会わなかったならば、 私は人生の表層をのたうち回っていたであろうと思う。 仏法の教えに出会うことによって、 本当に実りある人生、 私は私でよかったと、 お念仏一つで事足りる人生を、 今ここで少しずつ生かさせていただきますといって、 南無阿弥陀仏とお念仏させていただく時に、 この仏法が私において真実の教えであるということになる。
そしてその道を尋ねて行ってみたら、 これは法然さんが、 親鸞さんが、 そして善導大師が、 七高僧が、 お釈迦様が教えて下さった道であった。 本当にお釈迦様あればこそ、 こういう教えが私のところまで続いてきたのだ。 お釈迦様はすべての人を救う方法を見出された。 そしてそれは真実であった。 真実とは如来なり、 そしてその如来を阿弥陀の本願として説かれていたのだとうなずくのです。
お釈迦様もこの真実に出会うことによって、 実のある人生を生きられたのです。 「我は不死の法を得たり」、 生死を超える道を得たのだとおっしゃったわけです。

■今、 今日、 ここで
大無量寿経が出来たのがお釈迦様の四百年後とか七百年後としますと、 私たちはこの期間があまりにも長すぎると思うのですが、 この四百年、 七百年の歩みは、 そのことを受け継いで受け継いで、 「私も出会うことが出来て、 そういう大きな世界、 めざめの世界、 空過流転を超える世界を生きることが出来ました」 という感動を生きてこられた諸仏方、 先輩方の歩みの歴史なのです。 次から次にと悟り、 信心の世界に出る人を誕生させる歴史が続いたということです。 そしてちょうど四百年か七百年経った頃に、 無名の諸仏の一人の天才が仏説無量寿経というお経を書かれた。 それを親鸞聖人が 「真実の経 『大無量寿経』 これなり」 と言って頂かれた。 この教えが今、 私たちに届いてきたのです。
四百年、 七百年経ったからだんだんしぼんでいくのではありません。 この四百年、 七百年の間に、 それに出会えて、 それが真実であったという感動を頂いてきた人の歴史が連綿とあるのです。 弟子が先生の教えをさらに展開していって、 その内容を明らかにした。 そして、 この教えに出会うことによって、 空過流転を超えて実りある人生を生きていけるのですよ、 という感動を伝え、 いわゆる大乗経典はご縁のある人たちによって受け継がれてきたということです。
私においてはご縁のあるこの教えで大きな世界に出させていただきましたとなると、 つい他のものは偽で、 うちが真実だと言いたくなりますが、 そんなことは何も言わないでいいのです。 「私はよき師、 そして仏教に出会えて良かったです。 あなたもご縁のある教えに出会えて良かったですね、 友よ」 と言って 「私−あなた」 の世界を生きてゆけるわけであります。 キリスト教と比べてみて、 イスラム教と比べてみて、 あるいは他の宗教と比べてみて、 「うちがいちばんですよ」 などと言うのは世間事です。 自分が出会えて、 空過流転を超えて実りある人生を生きつつ、 ありがとうございました、 南無阿弥陀仏、 となってきたら、 争うことも何もないのです。
では、 自分が出会えた仏教が真実であるかどうかを、 どういうふうに納得してゆくか。
仏教というのは、 今、 今日、 ここで私がそういう教えに出会うことによって、 空過流転を超えてゆく道に立たされていくのだということの中に、 実りある人生を生きさせていただく。 私が本当に体でそのことに納得できて、 この思いの 「今」 という時が刻々と足し算されて、 それが一か月になり、 一年になり、 十年になっていくというこの 「今」 の大事さということに気づかされてくる。
「信心」 とか 「悟り」 とは、 常に今にあり続けることであるといわれます。 私たちは概念的に言いますと、 過去があったり未来があったりしますが、 過去も未来もありません、 今しかないんですよということです。 それは常に今にあり続けていくというリアルな自分の感覚です。 常に今がずっと続いているわけです。 明日になっても私たちは今なのです。 今しかないのです。
私なりに仏法のお育てをいただきながら、 「仏教はなぜ真実と言えるのか?」 ということは、 仏法に出会わなかったなら世間の表層をのたうち回っていたであろうものを、 仏法の教えに出会うことによって、 少しでもそういう自分を見つめて、 お念仏させていただくという形の中に、 実りある人生、 私が私でよかったということを一歩一歩、 歩ませていただいているのであります。
〈おわり〉
このお話は、 二〇〇五 (平成十七) 年六月の福岡会場での講演に加筆していただいたものです。(編集部)

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