今を生きる〜豊かな人生とは〜 明日こそは幸せになれる、と先送りの毎日。なぜ、私たちは「今」を受けとれないのか、充実した生き方を仏教に照らして考えます。 健康で長生きが良いのか さきごろ北海道で開かれた高血圧症学会で興味深い報告(Medical Tribune 2005年10月13日)がありました。八十歳以上の人たちの高血圧を治療すべきか、すべきではないかという論争があったというのです。 今まででしたら、高血圧は治療するのが当たり前と、医師は誰もが思っていました。ところがよく調べてみますと、これまでのデータは七十五歳までを対象としたもので、八十歳以上については判断するためのデータ自体がなかったのです。人類史上こんなに八十歳を超える人が存在したことはないわけで、今までそういう治療成績の検討がなされていなかった。それがこのところ、ヨーロッパやアメリカ、そして日本でも実際に八十歳以上の人たちの治療が行なわれ、その治療成績の統計が検討できるようになりました。 ところが、高血圧の治療をしたグループと治療しないグループを比べてみたら、治療した方がかえって総死亡率や心血管死亡率が増加する傾向が認められたというのです。そして血圧を下げた人の方が、アルツハイマー病になる率が高いというのもわかってきたというのです。 当日のディスカッションのまとめで、専門の大学教授がこう言っています。「現時点において、超高齢者(これは八十歳以上のことです)に対し、血圧の管理に執着した治療は行なうべきではなく、QOL(クオリティ・オブ・ライフ、生活の質)、ADL(アクティビティ・オブ・デイリーライフ、日常生活動作)に配慮し、残された人生を豊かに過ごす支援に重点を移すべきだ」と。 医学界では、この「豊かな人生」とは健康で長生きのことだと今まで言っていたものですが、それが実現できたところで、もうそれ以上のことは医学界からは何も出てこない。そこで仏教の出番だと私などは思うわけです。いったい仏教では、豊かな人生をどう教えてくださるでしょうか。 そこで、「今を生きる」ということになるわけですが、私たちはもうすでに「今」、「今日」を生きているじゃないか、多くの人はそう思うかもしれません。けれども例えば、私のところに肺癌の患者さんがいらして、すでに脳に転移しており、だんだん意識が無くなってあと一、二週間の命かという状態になってきた時に、妹さん二人がお見舞いに来られました。その妹さんが帰りぎわに患者に対してこう言葉をかけたんです。「お姉さん、また元気になって美味しいものを食べに行こうね」と。 誰が見ても余命いくばくもないとわかるお姉さんに対して、今は良くないけれども、また元気になってね、と言う。「明日」の希望を夢みて今、今日を生きていこうと声かけをされたわけです。実際に治る見込みはないのです。しかし、そういう言葉かけをせずにはおれない、そういう人間関係を今、生きているということです。医療の世界では、「生きて来たように死んで行く」、と言います。だから私たちは、何を大事にして生きて行くかを問われているのです。 こういう話をある所でしましたら、ある会社の役員の方がこう言うんです。自分の所の社長が癌になり、お見舞いに行ったら、おれは社員のために一生懸命頑張ってきた、なんにも悪いことはしていないのに、なんでこんな病気になったのかと愚痴を言う。そこでその人も、「元気になってまた美味しいものでも食べに行きましょう」と、言わざるをえなかったと言うのです。そこには、元気になるのはいいことだ、美味しいものを食べることが私たちの幸せなんだ、という発想があるわけです。 『歎異抄』には、「煩ぼん悩のう具ぐ足そくの凡ぼん夫ぶ、火か宅たく無常むじょうの世界は、よろずのことみなもてそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」。まさに真まことあることなき人生を私たちは生きていると知らされます。 いつか幸せになれる? では、この「今」を生きていなくて、一体いつを生きているのでしょうか。 私たちはふつう、生きるということを、幸せを目指して生きるというように考えます。そうすると、幸せのためのプラス価値をできるだけ増やすと同時に、幸せのためのマイナス条件を下げてゆけば、きっと幸せになれると多くの者は思っています。健康はプラス、病気はマイナス、役に立つことはプラスで、役に立たないことはマイナスです。役に立つ人は良い人で、役に立たない人間は良くない。体が若々しいのは良いことで、老いることはできるだけ先送りしたい。 しかし、こういう価値観は必ず老・病・死につかまります。老いることはマイナス、病むこともマイナス、死もマイナスですから、これは不幸の完成で人生を終わることになるのです。 でも私たちは、今頑張っておけばきっと明日はもうちょっと良くなると生きてきました。明日が目的ということは、今は明日のための準備なんだという気持ちがあるわけです。私が「今」いるここは、明日のための準備、手段、方法の位置にあるということでしょう。 パスカルが『パンセ』の中でこう書いています。明日こそ幸せになるぞ、明日こそ幸せになるぞ、と死ぬまで幸せになる準備ばかりしている、と。言われてみればまさにその通りです。先ほどの例で言うならば、また元気になって美味しいものを食べる機会は結局はなくなりましたから、願いごと叶わず、残念無念という結果になりました。パスカルはまたこうも言っています。不幸の完成とか残念無念という断崖絶壁の前に、「幸せ」という立て看板を立てて見えないようにした。そしてその断崖絶壁を目指して突っ走っている……それが私たちだと言うわけです。 私たちにとって、明日が目的で今、今日は明日のための手段、道具の位置になっているのです。目的が達成されたならば使い捨てされるようなものが、手段、方法、道具の位置づけです。それくらい今日が粗末に扱われています。仏教が目指しているのは、今日が目的であるような一日として大切にどう過ごすことができるかということです。今日が目的である様な一日を過ごそうじゃないかと。 私たちは、今は満たされてないが、明日こそそれが満たされるだろうと思っています。欲しい物を手に入れれば満足だという発想です。英語で言うと I want という表現になります。この want を辞書で引いてみますと、動詞で「欲する」「したい」、名詞形で「必要、不足、欠乏、貧困」と書いてあります。今が不足、不満だから明日がないと困るんです。明日こそ満たされるだろうという未練があるから死にきれないんです。 今、出会うべきものに出会っていないから死にきれない。明日こそそれが実現できるだろうと思う。もしこの不足、不満の状況が五十年続いたら満足に行き着くでしょうか。千年続いたら。それは千年間不足、不満、欠乏が続いただけになるのです。そこを私たちは満足の状態に行き着くだろうと考え違いをしているわけです。 仏教で言うならば、考え違いをして智慧のないあり方をしている私たちに智慧を届けたいというのが本願です。弥陀の本願は南無阿弥陀仏、なんじ小さな殻を出て、大きな世界を生きよ。こう私たちに呼びかけ、いのちと智慧を届けようとしてくれるのが本願です。 どうして私たちは今という時間を受けとれないのか、この現在の状況が我々を傷つけるからである、我々を悲しませるからである、だから私たちはそれから目をそらすのである、そうパスカルは言っています。過去と現在とは我々の手段、方法、道具の位置にあるものであり、ただ未来だけが我々の目的である、このようにして我々はいつまでも幸福になる準備ばかりしているのである、と。 因や縁が和合して 医療現場でそのようなことが見えてくる例を挙げます。今、私が仕事をしております現場で、ある七十八歳の糖尿病の患者さんがこう言うのです。「糖尿病は治療しないと目が不自由になったり腎臓の病気になったりするという。目が見えなくなったら困る、寝たきりになったらおしまいだ」。現在はまだそうなっていないが、将来の不安を今、一生懸命生きているわけです。言うなれば取り越し苦労です。将来のことを現在に持って来て、困ると訴えている。また八十歳の慢性肝炎の患者さんは、肝癌になるという心配があるものだから、治療の注射をしにくるたびに、癌になったらおしまいですねと言うのです。癌になればおしまいという不安を今、生きているんですね。 そういう私たちが、本当に今、今日というものが目的であるような一日をどうしたら過ごすことができるのでしょうか。 三木清が『人生論ノート』の中で「幸福とは人格である」と言っています。私たちはふつう、幸せのためのプラス価値をいっぱい持っている人、マイナス価値の少ない人が幸せだと考えています。幸福と人格とは関係ないだろうと思うのですが、しかしそれは、仏教の心をいただいてみますと、わかってくることがあります。 世間の物の見方というのは、物の表面的な価値を計算する。これは役に立つとか、これは利用価値があるとか、これはいくらの値打ちだと見てゆく。一方、仏教の智慧による見方は、その物の背後に宿されている意味を感得する見方です。別のいい方をすれば、例えば親元を離れて生活をする子供さんに十万円を仕送りする、受けとった子供さんは、十万円のうち四万円が部屋代で三万円が食費で、あと三万円で遊べるぞ、と金額だけを見るのか。あるいは、この十万円はお父さんやお母さんが日常生活を切り詰めて私のために捻出してくれたお金だから大事に使わなければと受けとめるか。結果的に使い方は同じかもしれませんが、そのお金の背後にある親の願いを受けとるか受けとらないかの、二種類の見方ができるわけです。だからこの仏教の智慧というのは、見えないものを見させてくれる目ではないかと思うのです。 我思うゆえに我あり。私があるのはこの思うところ、脳により所があると、ふつうはそう考える。しかし仏教では、私という存在はガンジス河の砂の数ほどの因や縁が仮に和合して、ここにたまたまあらしめられている。その私の命は一刹せつ那なごとに生滅しょうめつを繰り返している、だから実体的にあるのではない、無我という。 見えるいのちは、無数の見えないいのちによって支えられています。「いのち」を広辞苑で引いてみますと、二番目に「寿命」と書いてあります。見える命が見えない寿によって支えられているというのを、仏教で言うならば、無量寿に生かされているということになります。こういうあり方こそがあるがままの全体の姿なのです。それを私たちの分別ふんべつがいつのまにかプラスをいっぱい集め、マイナスを少なくして幸せになれるんだと思って生きているわけです。 因や縁が和合している、その見えない世界をおかげさまといいます。このおかげさまの世界がわからず、私たちはいつの間にかプラスをいっぱい集めることに懸命になってしまうわけです。私が担当している百歳のご婦人が、新聞を見ながらこう言った。「先生、新聞の活字の大きい所しか見えなくなってきたけれど、これは白内障じゃなかろうか。手術せんでもいいでしょうか」。そう私に聞くわけです。このご婦人は日頃から「死にたい、死にたい」と言っておりました。親しい人間関係ができていましたから「それであなたこの後どれくらい生きる予定にしているのですか」と聞いたのです。そうしたら「あと一年か二年くらいだと思います」と答えるから、私が「あと一年か二年くらいだったら、あなた今まで百年間もったんだから、もう手術しなくてもいいんじゃないですか」と言ったのです。そしてついでに「百年間使って来た目に、ありがとうってお礼を言わないといけませんね。手や足にも、耳にもね」という話をしたのです。そうしたら、「そんなこと考えたこともありません」そういう返事でした。 私たちにとって、多くのいのちによって支えられているとか、生かされているというのは当たり前になってしまっているのです。その上でプラスを集めてマイナスを少なくしようと悪戦苦闘しているわけです。 「ここで良かった」 「しあわせ」という字を私たちは「幸せ」と書くのですが、あるお坊さんから教えていただいたのですが、これは当て字だそうです。本当の語源から言いますと「仕合わせ」が正式な日本語なのだそうです。この仕とはつかえるという意味です。上の者につかえるしごと、仏教で言うならば、仏さまと出会い、仏さまから仕事をいただく。そういう仕事に出遇う、これが仏教の言う仕合わせということです。論語で言えば、「五十にして天命を知る」、私のこの世での仕事、使命というものに気づくということです。 私たちが使い馴れているこの「幸せ」というのは、海の幸、山の幸という恵みを示しているのだそうです。私という存在は多くの恵みによって生かされている、支えられているのを感じることが幸せを示すのです。そういう恵みや仏さまから与えられた仕事が分かるためには、どうしても私たちに智慧の目がないとわからないのです。だからそういう智慧を持つ人格に育てられるのが大事だということを教えてくれています。 そうしますと、「幸福とは人格である」というのがすんなりうなずけるのです。私たちが仏さまにお育ていただいて、智慧の目をいただく人格になってきたら、外側のプラス、マイナスにはこだわらなくなっています。私は私で良かったというものを持って生きてゆければ、余計なものはもう必要がないわけです。三木清はこうも書いています。「幸福を武器として闘う者のみが、倒れてもなお幸福である」と。普通幸福を追い求めている者は途中で倒れたら残念無念と思いますが、おかげさまを感じる心を身に付けた者は幸福に死んで行くというわけです。 私たちはなかなか自分の人格の豊かさというものが感じられないものですから、外側のプラス条件、マイナス条件ばかりにとらわれているわけです。「山のあなたの空遠く/『幸』住むと人のいう」(カール・ブッセ、上田敏訳)の詩の如く、外の条件が私の幸・不幸を決めると考えるのです。福岡に居て、大阪に行ったら幸せがあるらしい、東京に行ったら幸せがあるらしい、しかし行ってみたら、あんまりたいしたことなかった。でもアメリカに行ったら、ヨーロッパに行ったらといつも外に幸せを追い求める発想です。 仏教はそうではありません。私たちの内面の智慧が問題なんだと教えてくれているわけです。仏教が日本の文化にどのように貢献したかというと、それは「内観の一道」であると言われています。この私の存在の背後に本当に多くのおかげさまの世界が見えてくるのです。心の中が智慧によって耕されて行かないと、私たちはいつも外ばっかりきょろきょろして振り回され、そして明日こそ幸せになるぞという準備ばっかりで人生が終わってしまうのです。 以前、中学校の時のクラス会をしたときに、大阪に出たあと大分に帰って来て教員をしていた者がおりました。その席でいろいろ話をしていたら、「大分には文化がない」と彼は言うのです。東京や大阪、福岡には文化講演会やコンサートなどいろいろな文化的な催し物があって、外側がプラスできらびやかなのです。それが大分の故郷へ帰って来ると、美術館がない、コンサートがない、文化的催し物がない。そうなるとマイナスばかりに囲まれて、愚痴も出る。当人は大分の故郷の文化状況、環境が悪いと言うのですが、本当は自分の心の中がからっぽなわけです。本当に心が耕されて、智慧の世界をいただいた者は、どこであろうとも「ここで良かった」と言える世界があるわけなのです。 大分県国東出身の江戸時代の思想家・三浦梅園は、「人生うらむなかれ、人知るなきを幽谷深山華自から紅なり」という書を残しています。有名になってちやほやされるといったことがなくても、人生は決して恨むことはありませんよ、谷深い山奥で花が精一杯咲いてそれで良かった、ということは与えられた環境、自分の持ち場で自分が精一杯生き切ったという足るを知る世界を表現しているのです。 多くの人は田舎に帰って来て愚痴を言う。それは内面が満たされていないからです。内側が満たされれば、私は私で良かった、と言えるのです。 ある小学校でこの話をしたところ、父兄の一人が手を挙げて質問をしました。「先生、私は私で良かったというと、人間としての進歩発展がなくなるんじゃないですか」、と。非常に素直な疑問です。それも一理あります。私は私で良かったというのは、世間一般で言うと、欲が満たされたと思うわけです。ところが仏教が目指すのは、存在の満足の世界なのです。ある哲学者が人間を「欲望する存在」であると定義づけしていました。本当に智慧の目をいただいた者において、多くのおかげさま、ありがたいものによって生かされている、支えられている、願われている、教えられているという世界を本当にいただけるようになります。それは欲が満たされたのではなくて、自分のあるがままのあり方が、多くのおかげさまによって生かされている、支えられている、満たされているという「存在の満足」を、私たちに教えてくれているわけです。 と同時に、例えば正信偈しょうしんげの中に「不ふ断だん煩ぼん悩のう得とく涅ね槃はん」という一節があります。煩悩を断ぜずして、涅槃を得る、と。私たちの欲はそのままなのですけれど、この欲望に振り回されることがすくなくなれば、煩悩を縁としてかえって深い仏の世界を知らされるようになるのです。 そうすると、涅槃とは煩悩を滅した世界だと教えていただいていることと矛盾するではないか、ということになりますが、仏法というのはそれを包み込む、対立したり、矛盾した相対的世界を超えた、高い次元の世界だと受けとめていただければと思います。 私たちに何か欲しい物があるとするならば、この欲しいという思いはどこから出てきたのか。ある人に言わせれば、それは過去の経験からだというのです。ということは過去の経験に縛られているというわけです。そうかもしれませんね。 過去や未来に縛られるとはどういうことか。それは持ち越し苦労、取り越し苦労です。過去のことを持ち出してうじうじ言うのが持ち越し苦労。その一方でまだ来ていない未来のことをいろいろ心配するのが取り越し苦労です。私たちはいつのまにか、「今」にいることがなかなかできなくなって、過去や未来を行ったり来たりして、そして気づいてみれば、あっという間に五十年が過ぎたわ、もう六十年が過ぎたわと嘆いている。仏教では空くう過か流る転てんと申します。こういう私たちが、「今」という時間を十分に受けとめるためにはどうしたらいいのでしょうか。 過去・未来から今を区切る 「今」「今日」ということを考える時に、私たちは学校で習った時間というものに縛られてしまいます。特に歴史を習いますと、時間は直線的だと私たちは思うわけです。知識として習う時間は、対象化された時間、私と無関係に向こうにある時間です。例えば西暦一九五○年には何々があった、二○○○年には何々があった。そして二○一○年は、私が生きていても生きてなくても、きっと何かがあるだろう。こういうふうに向こう側に見ています。 私たちは物事を対象化して客観的に考えていくという訓練を学校教育の中で受けてきていますので、客観的思考能力は非常にたけています。しかし困った問題は、自分の向こう側に見る見方だから、いつも自分が除かれてしまうのです。新聞を広げても、東京でこんなことが、アメリカではこんなことがと、ほとんど自分とは無関係な他人事として評論家みたいに見るわけです。 でも本当は、自分が除かれていたら全体にならないんですね。私を含めて全体を見る、そういう見方を教えてくれるのが仏教の智慧なのです。だから仏教の話を聞く時は他人事として知識を増やすのではなく、私にとってどういう意味があるか、私とどう関わるのかと考えないといけません。 この直線的な時間のことをギリシャ語でクロヌスと言い、そして本日、今、今日この時という切断された時間をカイロスというのだそうです。仏教ではどういうかというと、「今」しかない。「今」、「今日」しかないのです。 大分県の医師会の雑誌のあるエッセイで、ある医師会長さんがこのようなことを書いていました。私は八十になった、同級生は過去のことを振り返って自慢をする人が多い。だけど私自身は過去を振り返って、あの時ああしとけば良かった、この時こうしておけば良かったという後悔ばかりが思い出される。出来ることならやり直しをしたいと思う今日この頃です、と。謙虚ではありますが、しかしもう終わったことには区切りをつけるべきなのに、どうしても今持ってきて、持ち越し苦労をして愚痴を言うことになってしまう。それは「今」を生きていないということです。 私の仏教の先生は、朝起きた時、ああ今日のいのちがいただけた、今日のいのちが誕生したんだ、南無阿弥陀仏、と一日の生活をスタートさせていただく。そして今日が終わる時に、今日これで私の命が終わるんだと、南無阿弥陀仏でやすませていただく、こういう一日を繰り返しすことが大事だと教えてくれていました。これは念仏が時間を区切ってくれているわけです。 養老孟司先生は、昨日の私は昨日の夜で終わっているんだ、今日の私は朝目覚めた時に今日の新しい私が誕生し、そして夜、今日の私は死んでいくんだ、とおっしゃっています。科学的に見ても、人間の肉体は分子レベルで二年で入れ替わるといいますから、そういう意味でも今日の私が朝に始まり夜に終わるという区切りは理解できます。 これは別の表現をすると、取り越し苦労、持ち越し苦労をここで区切ってくれるわけです。過去からここで区切る。未来からここで区切る。私たちは、今、今日という区切りを持つことが今、今日を大事にすることにつながっていくのです。 まだ大丈夫だと思っている 私たちに智慧あらしめたい、いのちあらしめたいという本願が、私たちにはたらきかけられている。仏法の教えを聞いて、仏の心を受けとれるようになると、今までは分別を依りどころに生きていたものが、仏の教えの如くに人生を生きてゆこうと思う。浄土真宗でいうならば「お念仏して生きてゆこう」となってゆく。そうすると南無阿弥陀仏のわけがら、無量光・無量寿と通じて、一体となって生きることになります。 こういう無量寿の世界に通じた者の心意気とは、たとえば良寛さんの逸話にこんなお話があります。ある檀家さんが「わしゃ地位も名誉も十分に手に入った、お金も手に入った。あと百年生きることさえできれば私の望みはもう何もない」こういう厚かましい願いを良寛さんの前で述べたらしい。そうしたら良寛さんは即座に、「そりゃたやすいことです。今まで百年生きたと思えばそれでいいじゃないですか」と応じたという。無量寿の世界に比べたら、百年なんてほんのちょっとだ、というわけですね。法句経ほっくきょうの言葉では、仏法の最上の真理を見ないで百年生きるより、最上の真理を見て一日生きることのほうがすぐれているんだ、という表現もあります。 作家であり精神科医でもある加賀乙彦先生の講演の中で聞いたことですが、先生は死刑囚と無期懲役囚の心理という研究をされています。刑務所で死刑囚を収容しているところは個室だそうです。規則としては隣同士でしゃべってはいけないらしいのですが、そういうことをおかまいなしに隣同士でしゃべったり、歌を歌ったり、お経をあげたり、お互いに将棋を指したりして、ものすごく賑やかなのだそうです。ところがたまたま朝七時くらいに行ってみたら、しーんと静まり返っている。どうしたのかと尋ねたら、日本では死刑執行の宣告が朝の七時から七時半の間にあるのだそうです。だからみな、今日は私の番かもしれないと固唾を呑んでシーンとしている。これが七時半を過ぎたとたんに、ワーッと賑やかになる。こういう毎日が繰り返されているのだそうです。 そこで加賀先生は次に、無期懲役の人たちはどうだろうかと、そういう施設に行ってみた。しかし無期懲役の人たちは、打って変わって静かで活気がなく、おとなしい。たまたまソフトボールをしている場面にでくわした。あるバッターがホームランを打った。ところが誰も拍手をしない。生ける屍のごとくに淡々と時間を潰していた。 加賀先生は、無期懲役の人たちがボーッとしている状態を、刑務所ぼけとネーミングしていました。そしてこうおっしゃいました。死刑囚の人たちは明日死ぬかもしれないという毎日を常に生きているから、残された一日をいかに使おうかと考えて、躁状態になっている。一方、無期懲役の人たちは、住む所も食べることも保証されて死ぬまで大丈夫だというわけで、そのせいで生きる活気がなくなってきている、と。 つまり区切らずにまだ大丈夫となり、マンネリ化するわけです。そのために生きることが輝かなくなってくるのではないでしょうか。 私が受け持っている、中学教師をしていたという八十歳の男性は、浄土真宗の門徒さんだというので、せっかくだから仏教の勉強をしてみませんかと私がちょっと誘いをかけたら、わしゃまだ早い、と断られました。一体いつになったらいいのかなあと思いましたが、それぐらい私たちは、まだ大丈夫だと思っている。私はよく言うんです。日本は医療や福祉が充実していますから、刑務所の外か内かの違いだけであって、みんな無期懲役かもしれませんね、と。 先送りばかり考えて… 筑紫女学園大学学長の小山一行おやまいちぎょう先生はしばしば、女子学生たちに「みなさん方は誕生日というのはどういう日か知っていますか?」と聞くのだそうです。そうすると若い学生たちは、誕生日はみんなからお祝いをもらって、楽しく遊んで、楽しい時間が誕生日ですよ、といった答えが返ってくる。そこで小山先生は、誕生日というのは死刑宣告の日なんですよ、と言うのだそうです。 人間に生まれたということは、もう必ず死ぬということになっています。生まれなければ死ななくても良かったのですけれども、人間に生まれたという誕生日がまさに死刑宣告の日だというわけです。そう言うと学生たちがみんなあきれた顔をするそうですけれども。 でも言われてみればそのとおりで、ただそれを意識しないだけであって、人間に生まれたということは必ず死ぬ運命を背負っているのです。それはまるで無期懲役囚と同じです。 今という時間を受けとめる時に、仏教の縁起の教えでは、一刹那ごとに私たちは生滅を繰り返していると説明するのです。私という存在はいろいろな因や縁が仮に和合して、たまたまここに一時的にあらしめられている。そして常に死に裏打ちされていることが、私たちが生きているという姿なんだ、という。知恵の眼で我々のあるがままの全体像が見えてきたとき生きることが輝いてくることにつながる。だから一日一日を大切にしましょう、となるのです。 ところが、現代教育の客観的な世界ではそれが、私は過去のどこかで生まれた、そして未来のどこかで死ぬ、とこうなっています。例えば病院では、救急車が患者を運んで来ますとまず、医師はまずバイタル・サインと言って、この人は生きているか死んでいるかを確認するのです。もう死んでいる人はいくら蘇生術をしても無駄だからしない。まだ生きている人には蘇生術をして治療するという判断をするわけです。だから生きているということと死んでいるということをはっきり区別しないと仕事にならないのです。 生と死を区別しないと医療の仕事は始まらない。そうすると生きているとは死んでいないことである。死んでいるとは生きていないことなのです。その発想は次には、私は今、元気で楽しく快適に生きているのに、それを老病死が邪魔をする、となってくるわけです。私を邪魔するのが老病死、癌になったらおしまい、目が不自由になったらおしまい、寝たきりになったらおしまい、そうやって怖い物として対象化して見ていくわけです。そうなれば、歳はもうとりたくない、若くありたいとなる。老いるということは本来ならば老成と言って人間としての成熟を示すという一面があるのに、いつの間にか私たちは若さを維持して生きようとしている。若さを維持するとは未熟であることにとどまろうとしているわけです。 そもそも人間のことをホモサピエンス=知恵のある生き物と言うのですが、物事を客観的に見ようとする知恵とは、困難に出遭ったとき、どうしたら避けることができるか、どうしたら逃げることができるか、どうしたら先送りできるかと考えるのです。医学の世界でいえば、病気の予防だとか治療と言っては病・死を先送りする。結局は老病死につかまってしまうのに、逃げ回っている。 人間の知恵では寿命を延ばすことが目的になっている。仏教では寿命を延ばすのではなくて、いのちの充実を目指すのです。これは聞いた話ですが、努力と精進とはどう違うか。世間では努力と言い、仏教ではたいてい精進と呼びますね。努力は流れに逆らって頑張ること、精進とは流れに逆らわずに頑張ることだそうです。若くありたいとたっぷりお化粧したり、派手な服装を着用して若く見せようとすることを努力と言う。いい年寄りになっていこうというのが精進だと言います。仏教の智慧に触れながら老病死を真正面からうけとり、受容する歩みによって、人間としての成熟への道に導かれていくのでしょう。 今日を精一杯生きる 人間の心の働きは、知、情、意の三つに分けて表現されます。知とは私たちの理性、知性、分別です。情とは感性。意というのは意欲です。私たちの知というものは、さきほどの元中学教師のように八十年近く理・知分別を拠りどころとして生きて来たその人にとっては、自分の頭でわからないことがあるなんて考えられない。しかし、例えば私たちが英語のニュースを聞くとする。英語に精通している人ならともかく、中途半端な私たちは、よくわからんけど途中で福岡とか東京とか知っている言葉があればパッとそこだけわかるのです。自分の知識の範囲しか分からないとはそういうことです。その程度なのに、世の中のことが全部わかっているんだと傲慢になっている私たちの知なのです。 情とは、なんだか暖かい感じがした、素晴らしいと思った、うーんなるほどとうなずけた、そういうのが感性の情ですね。私は以前、仏法の先生に、なぜ南無阿弥陀仏なんですか、と何回か質問しました。そうしたら先生は、なぜ南無阿弥陀仏かは説明できない、一たす一は二というふうには説明できないんだ、でもその大きなものにぶち当たって感得するしかありません、と言われました。まさに感性で感得する世界なんです。 私の頭ではわからない世界もあるんだという謙虚さがなくてはいけません。京都大学総長を務めた平澤興先生の言葉に「愚かさとは深い知性と謙虚さである」という言葉があります。中途半端な知性では世の中がわかったと思う。これが深い知性になってくると自分の愚かさに気づいていく。お釈迦さまは仏の大きな世界を体解されたのでしょうが、我々にはなかなかそういう大きな世界はわからない。でも良き師、良き友を通してその仏の大きな世界に触れた者は、そこに生きる姿勢が定まり、往生浄土の歩みがはじまります。そこでは生きることが楽になります。そして「今」、「今日」を大事にして行きましょうという世界に導かれて行くわけです。そして「念仏者は無碍の一道なり」という世界に通じていくのです。 だから私たちは朝起きた時に、今日のいのちが誕生した、今日精一杯生きさせていただきます、南無阿弥陀仏。そして夜お休みする時に、ああこれで私の人生はこれで終わるんだ南無阿弥陀仏と休ませていただく。もし目が覚めなかったらそれでおしまいですけれども、もし運良く明日の朝また目が覚めたら、また今日の私の命がいただけた、また精一杯生きさせていただく、そこに一日一日を本当に大切に生きるという姿勢に導かれていくのです。 私たちは世俗の世界で、どうでもいいようなことも一杯抱え込んでしまうわけですが、そこを仏さまの智慧で執われを切っていただく。私たちはつい、明日こそ幸せになるぞ、これが上手くいったらもうちょっと楽になるぞと、幸せになる準備ばかり続けてしまう。プラス価値を上げてマイナス価値を下げることが人生だと思って、そういう物差しで一生懸命に頑張って行くと、結局は残念無念、不幸の完成で人生を終わってしまうのです。 そういう私たちが、人生のいろいろなことを経験しながら、うまくゆくこともあれば、うまくゆかないこともある。そういう現実を私が人間として成長、成熟する縁として受けとめながら、「今」、「今日」を生きるという世界を一日一日念仏して、仏のはたらきの世界を、存在の満足を感得しながら生きさせていただくということです。 いのちの充実を目指す仏法の智慧の世界があって初めて、この豊かな人生というものが実現する。本当に豊かな人生、人間に生まれて良かった、生きていて良かった、そして生きるも死ぬもお任せしております南無阿弥陀仏となっていくのです。そういう「今」、「今日」のたし算が結果として一週間になり一ヶ月になり、一年になり十年になってゆくわけです。もう「今」、「今日」しかないんです。そういうふうに、私たちは仏法を通して教えていただくのです。 このお話は2007年10月の福岡会場での講演に加筆していただいたものです。 編集部)2006年10月27日在家仏教協会福岡講演『在家佛教』2007年9月号より抜粋 |
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