「医師が読む歎異抄」

よき師の教えと『歎異抄』

私は学生時代に故細川巌先生(福岡教育大名誉教授)にお遇いして以後、浄土真宗のお育てを30数年頂いてきました。消化器外科の専門医として仕事をしてきましたが、現在の国東市民病院の管理職に就いてからは外科の仕事はやめました。その後、医師としての仕事をつづけてきましたが、約4年前に10年間、管理職を務めて勇退し、現在民間病院で医師として地域の家庭医のような仕事と介護を必要とする入院高齢者、約50名を担当しています。
仏教の方は大分県下数か所で毎月「歎異抄に聞く会」を主催して講師としてお話をさせていただいています。よき師の残された歎異抄の講義録を味読しながら、お話をさせていただいています。最も長いところではもうすぐ20年になろうとしています。
歎異抄は、職業、年齢、性別を超えてすべての人が救われる浄土の教え、念仏の心が説かれているということはいうまでもありません。法然上人亡きあと、念仏の教えをさらに深くいただき、我々には「教行信証」等の書物として残してくれた親鸞聖人ですが。その親鸞聖人の生身の息遣いを伝えてくれる歎異抄(お弟子の唯円によって書かれたとされる)は漢文ではなく、一般の人にも馴染みやすい日本語で書かれた仏教書です。歎異抄をいただくうえで注意しなければならないことは歎異抄の背後には「教行信証」があるということですと師からお聞きしています。歎異抄を読んでいくうえでは親鸞聖人の著作にかえり念仏の教えを深くいただいていくことが大切と自戒しています。

現代医療と仏教の教え

現代の医学教育は、明治以来、宗教抜きの医師教育がなされてきたために、多くの医師は仏教に無関心で人間の理性知性を拠り所とする思考にどっぷりと漬かっていると言っていいでしょう。そのために宗教に関心のある医師は少なく、関心はあっても分別での知識的な仏教理解にとどまり、仏教の救いは「自分自身の救いの課題なんだ」というところまで学ばれる医療関係者は残念ながら少ない。医療関係者に歎異抄という名前を知っている人が珍しいぐらいになろうとしています。
ある大学の医学部学生に、歎異抄という本を知っていますか、と質問すると反応する人は少ないのが実態であります。多くの現代人には念仏の教えはレベルの低い人の、まさに死ぬ前の弱者が、ワラをもつかむ思いで“南無阿弥陀仏”と称えるものという先入観が強く、仏の心を本当にいただく人の少ないことは悲しいことであります。
禅宗の師家で哲学教授をされていた秋月龍a師が医学生に「皆さん方は人間の“生老病死”の四苦を扱う医療の仕事に将来携わるのでしょう。仏教は同じ“生老病死”の四苦に取り組み解決の道を見出して2千数百年の歴史があるのです。同じ課題に取り組んでいくわけですから、医療の仕事に携わる者は仏教的素養をもってほしい」と語りかけていたとの記述を読んだことがあります。しかし、世間常識では“生きているうちは医療、死んでから仏教”という偏見が多いという事実があります。福永光司先生は日本医学会総会の開会記念講演で「今の医師は技を求めることに急であって、道を求めることをおろそかにしたがために、人々の尊敬を受けなくなった」と、医師に宗教的素養の必要なことを訴えられていました。またある識者が道を求めることをおろそかにした医師の実態を「医者の傲慢、坊主の怠慢」と書かれていました。
生老病死の四苦の課題に取り組み、避けることのできない老病死の壁にぶつかった時、仏教抜きの医療で救いの方向性が見出せるのでしょうか。患者さんが本当に老病死の苦悩を感じるようになるのは医療の限界を超えた老病死の状態になってからでしょう、治癒可能なときは患者さんとの対話は良いが、治癒できない状態になってからの患者さんとの対話は、生死の世界を超えた宗教的世界との接点を持たずに対話をしていこうということは大変のことです。死は敗北としてしか考えられない医師はそんな患者さんとの対話を避ける傾向になる医療現場の現状があるのです。縁起の法による人間理解を深くする時、医師は医療の専門家ではあるが老病死に関しては患者さんの方が先輩である、人生の先輩になるのです。そんな患者さんと平等(いや先輩としての敬意をもち、学ぶ姿勢)の対話の場を持つ関係ができていくことが大事です。念仏の教えとの接点を持ち続けるとき、老病死の現実を縁として多くの学びに導かれ、人間としての成熟、完成した人間(仏)になる歩みになるのです。
知らないものを学び、知識を増やすという学びの方向性だけでは仏教は理解できません。仏教の博学になることはあっても、自・他の救いに導かれると言うことは難しいでしょう。本願の教えに育てられる、成熟し、自我の殻を照らし破られる。破られてはじめて、大きな仏の世界のあることを、そして自分が自我の狭い殻の中にいたことを気づかされるのです。殻が破られてから本格的な仏道が始まるのです。

現代医療者の発想を超える『歎異抄』の教え

歎異抄第1章の、「念仏申さんと思い立つ心の起こるとき、摂取不捨の利益にあづけしめたもうなり」では、現代の多くの知識人は訳の分からない念仏を称えることは生理的に拒絶反応を示します。なぜ念仏なのか。仏の心に触れなければうなずけないことであります。その心を知ることが弥陀の本願を聞いていくことでしょう。
弥陀の誓願とは?。阿弥陀仏の世界を知ろうとして阿弥陀仏についての情報を集め、知識を増やし、阿弥陀仏の総合的な理解をして阿弥陀仏の核心に近づこうとする医療者の発想ではわからないであろうと思われます。阿弥陀仏の智慧の光に照らされて自分の姿を照らし出され、知らされていくことが大切なのです。見る眼すらも仏から育てられていくということがあります。
病気に対して分析的に解明しようとする医療者の発想方法からは「南無阿弥陀仏」は全く受け取れないでしょう、大きな世界、無量光、無量寿で示される、分別を超えた大きな智慧と慈悲で示される世界は人間の分別では把握出来ないのです。「大きな世界は感得するしかありません」とお聞きしています。書物での仏教の理解も大切ですが、限界があります。仏の働きに触れる為には僧伽(さんが)と接点を持つことが大切です。
第二章では、よき師、よき友との出会いについて書かれています。人生の師との出会いは得難いものであります。我々の自分の人生を成就するために、種々の情報を集め、その中から良いところを取り込んで行こうとする方法では、なかなか自我の壁はこえられません。よき師に出会い、人格的な出会いや僧伽の雰囲気から感得される仏のはたらきに触れることを通して、念仏の心がうなずけていけるのでしょう。

悪人とは、慈悲とは

第三章で示される悪人とは何か? 世俗的な世界にどっぷりと漬かっている現代人には評論家的な人が多いと思われます。対象化という思考の方法では自分を問わずに客観的にものを理解しようとすれば、自分は除かれて、自分を問うことが疎かにになります。その思考で自分を見つめても、自分の煩悩性、凡夫性、悪人の自覚をすることは難しいことになります。対象論理で傍観者的な発想では仏法の周辺をうろうろすることはあっても仏法の核心は全く分からないままに終わるでしょう。仏法のはたらきが分かるのか? 圧倒的に大きすぎて人知の及ばない世界です。しかし、仏の無量の光に照らされた私の姿は、はっきりと自覚されてくるのです。煩悩具足の凡夫(必ず頭が下がり、念仏する)、すなわち、仏の目当ての存在、本願のかけられた悪人(仏法無視の私)と自覚させられるのです。
第四章の慈悲の課題、すなわち抜苦与楽、本当に人間を救うことはどうしたら出来るか? 医療は確かに病気の患者さんを助けます。しかし、その結果120歳を超えた高齢者が増えたということはありません。病気をいったん治癒させたとしても必ずその後、老・病・死につかまるのです。仏教の生死の四苦を超える世界、阿弥陀仏との出遇いがなければ本当の救いにはならないでしょう。念仏に出遇い、念仏する身になるとき、出遇うべきものに出遇ったと感動して足ると知る世界に導かれ、いつ死んでもいい、いつまで長生きしてもいい、仏さんにお任せします、南無阿弥陀仏と。生物学的な命の長い、短いにとらわれない、今日を永遠と通じながら完全燃焼して生きる身に導かれていくのです。
聖道門(私が立派な仏みたいになる道)の教えは医師の指導を守り、よく実行する優等生の患者の救われる道に似ています。優等生ばかりを治療する医師は苦労は少ないでしょう。しかし、その場合、医師の指導をよく聞き、守る患者さんが老病死につかまった時、医師は自分の指導の限界を身に染みて知らされるでしょう。知人の医師から、一生懸命に治療をして数回の手術で癌の治療を乗り越えた、しかし多発転移と病状が進んだとき、患者が亡くなる3日前、主治医に「だましたな」と言って、その後意思の疎通のないまま亡くなったという話を聞きました。患者、医師ともに救われないのではないでしょうか。
医師の指示をなかなか守らない患者さんを治療するときに医師としての力量が問われます。病識のない、生活習慣を正さない、健康に気をつけない患者さんを治療するのに苦労するのです。まさに浄土の教え、念仏の教えはそんな難治の患者さんをもまるごと救う教えといただいています。

「無碍の一道」を歩む

第五章は対家庭について語られています。親孝行で思い出すことが最近ありました。99歳の老婆が入院中、夜眠れないと訴えだした。看護師がよく聞いてくれて、親不孝の自責に念で夜、眠れないというのです。睡眠導入薬を処方しようと思ったが、この方は最近聞法をしてくれている人でしたので、ゆっくりと30分ぐらいかけて本願、南無阿弥陀仏の話を食堂でいたしました。親不孝の自覚の者を目当てに本願がかけられている旨の話をしました。その後、看護師の話では眠れるようになったとのことでした。薬を処方せずによかったと思いました。
第6章では師弟関係を通して、仏の働きによって与えられ、知らされる関係性存在としての在り方を教えられます。見える世界は見えない世界によって支えられている、生かされているという縁起の法に目覚めさせられるのです。師に教えていただいたものをも、私が理解したものと私有化しやすい私の餓鬼性を思い知らされます。
第七章には無碍の一道なりと示されています。念仏の教えは「人間に生まれて良かった、生きてきてよかったといえるような人生を歩む者になって欲しい」、という願いです。念仏の智慧を頂く歩み、人間としての成熟に導かれる道において、私という、欲望する存在が、存在の満足に導かれてゆき、欲望に振り回されることの少ない歩みが出来るようになり、世俗のいろいろな事柄を念仏の教えへのご縁として受け取り、自在に生きる道に導かれるのです。それを念仏者は無碍の一道なりと頂くことです。 
後序の「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は よろずのこと そらごとたわごと まことあることなきにただ 念仏のみぞ まことにておわします」、この頼りにならない世俗の人生だけども、頼りになる世界のあることをわかってもらいたいとの願いで菩薩の道を究竟する歩みに導かれるのです。
仏教は一生被教育者としての歩みです。謙虚に道を尋ね、聞法していくことが大切だと思うことであります。

雑誌『大法輪』2008年2月号掲載

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