第20回真宗講座『仏教と医療の協力』田畑正久講演録

「中央仏教学院報」;2008年2月1日発行)

 ご紹介いただきました田畑です。医療の仕事の中で「医療と仏教の協力」という取り組みをしています。仏教の師が、「世間の仕事は余力を残してやめなさい、後生の一大事の解決がなくてどうしますか」と教えていただいておりましたので、五十五の時に公の仕事は辞めまして、仏教の勉強をしたい思い、今の職場に移りました。職場では外来で地域の方を少し診て、あと高齢者が三十五人入院していますので医療的な面を担当しています。そういう現場で今、医療と仏教の協力ということが求められる時代だと強く感じています。日本の中に医療と仏教とが協力できる関係を作っていきたいと思っています。
 医療の現場にお坊さんが、袈裟を着て入って行くのにフリーパスで入れる病院はなかなか日本の中ではありません。私は米国に留学していた時に、シカゴの西本願寺別院によく行っていました。九条英淳という方がおられまして、お話の中で、米国ではメンバーの方が入院すると必ず僧侶がお見舞いに行きます。お見舞いに行かないと職務怠慢だと言われます。お見舞いに行けば、宗教関係者という資格でどんな所でもフリーパスで入れていただけます、と言っていました。そこには老病死の四苦の課題は、医療と宗教が協力して実現できるという文化が生きているということでしょう。それに比べて日本の医療現場は、そういうことが実現できていません。しかし医療だけで十分に対応が出来ているのかというとそうではないのです。現在の医学・医療は、症状を聞いて診察、検査をして治療をする、まあリハビリぐらいまで、それらの情報はいっぱい教科書の中に書かれてあります。しかし、治療をしたあと病気がよくならない状況になった、老化現象の病気、ガンが再発、というところから、どう対応をするかということはほとんど書かれていない。人間に老病死の苦しみ悩みが起こってくるのは、それ以後です。
 日本の現状では、病院で亡くなる方が八割以上。昭和二十五年までは病院で亡くなる方が20%を切っていた。それが平成六年に逆転して自宅で亡くなる方が19・6%になり、その後は80%以上が病院で亡くなっているのが現状です。そこで働く医師・看護師は、老病死にどう対応したらよいかという宗教的教育を受けてない。国民の八割の死が病院であり、そこで働く医師や看護師は十分に対応しているだろうか。延命治療はできているけど、穏やかに亡くなっていくという世界が見えてない。そういうことがあるということを思いもしないわけです。
 最近、恩師の同僚が七十歳で脳梗塞になり、脳外科に入院した。治療とリハビリを受けてなんとか麻痺もなく回復した。この先生は気の弱い先生だったそうで、退院後、「今度、脳梗塞が再発したら死ぬんじゃなかろうか」と非常に死の不安に襲われて奥さんに「夜、寝とる内に脳梗塞になってもすぐ分かるように隣におってくれ」と。そしたら奥さんが「子供みたいなこと言いなさんなよ」と相手にされず、それで非常な不安になって再入院した。
 私の恩師は同じような経験をしていまして。退院後時々めまいがするという症状が続いていまして、耳鼻科、循環器科、脳外科、眼科でも異常はないといわれたそうです。しかしめまいが時々あるというわけで、教え子ということで私を訪ねてこられました。話しをする中で「田畑さん、脳梗塞になったものはまた脳梗塞になって死ぬっていうけどこれは本当ですか」ってこういうわけです。「先生、そんなことはないですよ。脳梗塞でよくなった人が交通事故で死んだり、他の病気で死ぬ人はいくらでもおりますよ。ただね、先生、どんなに養生しても老病死にはつかまりますよ」と、そしたら、「こんなに養生してもやっぱり死ぬのですか」って言うんです。現代人は養生したら死なないみたいに思っていますからね。「どんな養生していますか」と聞いたら、「タバコは止めました」、「お酒も止めました」と言われました。話をいろいろ聞いていたら、安静にいていたらいいだろうと思って、一日十二時間寝とりました、というのです。「先生、それが悪いんよ」ずっと寝たきりになっていますから、頭を起こすとフラフラめまいがするわけです。いろんな専門医が診たけど原因は分からなかった。狭い範囲の専門家であって人間の生活全体が見えてない。生活全体が見えないっていうのは、仏教では智慧がないって言うのです。この恩師は、私の所に通ってきて、自分が養生したほうがいいこと、養生してもどうしようもないこと、おまかせするしかないってことがだんだん話しをしているうちに少しずつ分かっていただいたようです。
 その恩師の同僚が死の不安で再入院ときに見舞って、話の中で同僚に「あんたは、脳外科に入院してもつまらん、田畑先生とこに行った方がいい」とこう言ってくれたらしいです。世間では死の不安をどう考えるか、世の中を見て、百二十才を超えた人は一人もいない。ということは死の不安は解決つかないだと思っているわけです。だから仏教にこの課題を尋ねようとはしないわけです。たしかに量的には超えることはできないが、仏教の質的に「超える」という世界、生死を超える世界が分からないから仏教に尋ねようとしないわけです。
 脳外科ではどういう治療をするかといいますと、死の不安で眠れないということになたら、抗不安薬という薬があります。その薬を服用してもらう、そうするとその日は眠れますよ。しかし次の朝、目が覚めたら「死の不安」は解決がついているかっていったら全くついてない。だからお医者さんに行ってもダメなんです。この老病死の不安の解決を医学に求めても、それは解決つかないんです。仏法の生死を超える道でないと、不安は超えられないと思います。今、医療現場ではそういう医療と仏教とが同じ生老病死の四苦を課題としているという認識と、協力して取り組んでいこうという雰囲気がないわけです。
 某医科大教授であった故秋月龍a師が、学生さんに「皆さん方が医療という領域で仕事をするということは、人間の生老病死の四苦の問題に取り組むということだ。その同じ課題に取り組んでいるのが仏教です。」と、「医療という仕事に取り組むのであれば、ぜひとも仏教的な素養というものを持って、医療の世界で仕事を欲してほしい」と学生に語りかけていたということが本に出ていました。私はその言葉に勇気づけられたことがありました。医療の現場にはこういう老病死に関する不安というものが姿形を変えて露出してくるわけです。しかし、医師は症状を薬で一時的にとるということはできるかもしれないけれど根本的な解決はできないのです。
 私の家は西本願寺の末寺の門徒です。昭和二十四年生まれで、戦後教育を受けて、小賢しく生きてきたから「仏教なんか無くても生きていける」、と大学に入る頃、思っておりました。仏教とは、死ぬ前の人がわらをもつかむ思いで南無阿弥陀仏と、言っているぐらいにしか思っていませんでした。
 九州大学には、医療相談とか法律相談のボランティア活動をしている仏教青年会という団体があります。先輩方のボランティア活動を加勢する学生は、部屋代がタダで生活できる寮があります。私は仏教に惹かれたわけではなくて部屋代がタダに惹かれ、同級生がそこに居たから、寮生活をするようになりました。その後、責任者の立場になった時に、自分は仏教なんてなくても生きていけると思っているのに、仏教青年会の学生の代表をしていますから、なにかジレンマを感じていました。
 福岡教育大学の化学の教授が、仏教のお話しをしているという情報を得て、細川巌先生と御縁ができて、以後、浄土真宗のお育てをいただいて、医療では消化器外科という外科医をしてきました。平成六年に田舎の病院の管理者になり十年間勤めました。今は一医師として医療・福祉の分野で仕事をしています。仕事をしながら、医療・福祉の現場では、仏教的な素養が求められていると感じています。
 現場では、お念仏が、なかなか理解されていません。私が担当している三十五人の中に、よくお念仏する人がおりました。この方が、こう言うんです。「先生、私が念仏すると、看護婦さんが笑うんですよ」。お念仏の心が医療現場の人たちには分かってもらえていない。
 どうしたら医療と仏教との協力ということが実現できるのか。人間の苦しみ・悩みは思い通りにならない≠アとから起こります。私の「思い」と「現実」の差が苦悩のもとになるのです。どういう現実か、病気という現実、思いは健康でありたい。だから、差を縮めることで、苦しみを少なくすることができるはずです。病気を健康の状態にするところで医療がはたらくわけです。しかしこの病気を健康にする働きの中で、医学の専門知識、技がどの程度貢献をしているのかというと、米国の有名な医学雑誌の編集者が、病気の80%は、だいたい自然の治癒力で良くなっていく、医学の関わり、医学のおかげというものは12%だと言っています。あとの8%は医師が手を出したばっかりにかえって悪くなった、とこういうのが8%だと言うのです。この数字を見ると医学が、過小評価されているような感じがしますが、私は外科の仕事していましたから、うなずけます。
 私たち外科の手術は単純で、胃ガンでも悪い所からある距離を置いて健常なところまで切り取って、健常な所と健常な所を縫い合わせる。手術終は開腹した所を縫い合わせるというのが、外科医の仕事です。縫い合わせるという仕事は私たちがするのですけども、傷がくっつくというのは、本人の自然の治癒力です。自然の治癒力に乗っかって医療技術、薬が働くわけです。病気を健康にする働きの中で、医学ができることを過大評価してもいけないし過小評価してもいけない。
 病気を健康にする上で、自然の治癒力が大きい働きをする。だから専門家でなくても、関われるのです。例えば、お見舞いに行ったら部屋が殺風景だと。そうすると、部屋に花を飾ってあげるとか、療養環境を良くしてあげる。話をしてみたら職場のこととか家庭のことばっかり心配して、療養に専念してない時には、あなた治療に専念しなさいと、家庭・職場のことは私たちがしてあげるから、こう言って療養環境を整えてあげることによって、この80%のところにかなり影響を及ぼせるわけです。そこには医師や看護師でなくても支えることができるのです。
 差を縮めるときに、それができるのは治癒可能な病気の時だけです。有名な日野原先生が、講演の中で「今、良くなる病気と良くならない病気とどちらが多いと思いますか」と問われ、皆さんがととまどっていたら、「今、良くならない病気の方が多いんです」、と言われました。良くならない病気の時は差を縮めることができないわけです。そうするとこの差はどうするのか、苦しみ悩みはもう救えないことになるわけです。どういう状況かというと、(1)ガンが手遅れで見つかったり、再発をしたという末期の状態。(2)老化現象に関係した病気は若返らせることは不可能。(3)未だに原因が分からない、治療法も確立していない難病。(4)脳血管障害でリハビリを一生懸命したけれど麻痺が残って固定をした障害、その状態はもう健康体に戻せないわけです。そうするとその人の思い、健康でありたいという思いは実現できないということになります。その結果、差は縮まらない。
 しかし、もう一つ理論的に、この差を縮める方法がある、それは私が私の現実を受容するという形の中でこの現実と思いの差が小さくということです。某大学に、難病に一生懸命に取り組まれているS医師がおられます。この先生はメールの交換の中でこうおっしゃっています。
 S先生が中学校の時にお母さんがSLEという難病にかかった。そして病気の愚痴ばっかり言っていたそうです。家庭が暗くなるようなお母さんだった。しかし、若い時に御縁があったお寺さんと接点ができて、聞法するようになった。そのことを通してお母さんが変わられた。今まで家のお荷物であるような存在であった母がだんだん明るくなって、ついには家を支えるような展開を遂げたんですよ、中学生であったS先生には非常に印象的なことだったそうです。その影響でS先生も聞法するようになり宮地廓慧師について聞くようになったそうです。そして40歳を超えたころ念仏の心を頂けるようになったと書かれていました。治療の難しい難病を患っている現実、この病気は健康に戻すことが難しい病気で差が縮められない現実を本当に受け止めて生きていく世界を見出された姿があります。この人は浄土真宗でした。
 星野富弘という方が、この人は大学卒業後、教師をしていた時、首の骨を折って脊髄損傷で首から下が運動麻痺、この方がキリスト教に出会って、その後、絵を描いて、心境の詩を添えて書いています。その中に、「命が一番大切だと思っていたころ生きるのが苦しかった 命よりも大切なものがあると知った日に生きているのがうれしかった」があります。健康が大事だ、命が大切だ、と思っていた頃、差が縮められない現実に、生きるのが苦しかった。しかし、命よりも大切なものが、浄土真宗でいうならば、お念仏の世界があると本当にうなずけたとき、生きているという現実がうれしかったと。この現実を受け止めて生きていくというたくましさ、勇気をいただいているという姿です。こういうふうに、現実と思いの差を縮める両方の取り組みをすることによって、この苦しみ悩みを少なくするということができるということです。
 最近、私の話を時々聞いてくれるようになりました先輩の九大名誉教授のT先生が、こういう話をしたときに私に「私は現役の時には、病気を健康にするということが全てだと思って治療に取り組んでいました。現実を受容する方法があるなんて思いもしませんでした」といわれました。医療関係者は病気を治療する取り組みでいいわけですけども、それで十分やっているんだという、いうならば傲慢さの中にいて、それ以上なにもしてない。よくならない病気の時は仕方ない、なにも方法がないんだ、こう考えてしまっているわけです。思いと現実の差を縮める両方の取り組みにおいて、一人一人の苦悩が少なくできるという智慧がなかったのです
 医療界と仏教界が、自分にできることはどこなんだ、自分にできないとこはどこなんだと十分にわきまえて、できることはする、できない処はできる人に協力を求めて、一人一人の苦しみ悩みを少なくするという取り組みが今、求められているのです。残念ながら、医療の現場は、今、八割の国民の(老病)死を扱いながら、死の受容という取り組みは全くと言っていいぐらいなされてないのです。どうしたら延命させることができるかということはされていますが、それは患者本人が希望してるというよりは、生物学的な命を長らえることに価値がある、という一つの価値観でなされてるわけです。結果として苦しみを長引かせているという可能性もあるわけです。そこに一人一人の苦しみ悩みをとるという取り組みに医療と仏教が協力をして、本人の為になることが日本で実現できるといいと思っております。
 医療の世界での関心事は「健康で長生き」です。この健康で長生きということが今、医療と仏教とが協力しなければ本当に実現できないのだという時代になってきています、健康と言うことをご紹介したい。健康は、今までは医師、看護師、保健師さんたちが、健康指導ということで、やってきました。そこに仏教がどう関わるか、なんてことはほとんどの方は考えてもいないかもしれません。健康の定義が、WHOで決まっています。日本の法律の中でも定義付けされているのです。それは、(1)身体的に健全、(2)精神的に健全、これは英語でメンタルということです。このメンタルを精神的と訳したから今、非常に戸惑いが起こってきているわけです。そして三番目に(3)社会的。どういうことかというと、体と心が健全であっても、なおかつ人間関係が良いことが大切。家庭での人間関係。職場での人間関係。地域社会での人間関係。社会性、関係性が健全であるということが、人間としての健康だということです。この三つが1940年代から今日までずっと、健康の三つ要因としてされているのです。
 近年、その三つだけでは人間全体をカバーできないということが、多くの関係者の認識になってきて、四番目に、(4)スピリチュアルに健全である、ということが提唱され始めているわけです。このスピリチュアルの訳に、いい日本語がないのです。これは真宗的に言うならば、一つは(1)人間として生まれた意味。そして(2)生きることの意味、生きることで果たす私の使命。そして三番目、(3)死んだらどうなっていくのかということに安心といいます、「お任せします南無阿弥陀仏」という世界を持ちえているか。そして、四番目で、(4)罪悪感からの解放。これらはお念仏の教えでいうならば、後生の一大事の解決はついているか!、ということで教えてくれているところです。
 どうして、スピリチュアルという項目が、今、加わろうとしているかというと、福岡で、三十代の方が大腸癌になって手術を受けた。手術は乗り越えたのですが、運悪く二年後に再発。だんだん痛みが出てきた。今は、ガンの痛みには麻薬を使うことで痛みが八割から九割はとれるという時代になりました。患者さんは痛みがでてきたので、手術をしてくれた先生に痛みを訴えて行った。痛み止めをもらったけど十分に痛みが取れてなかった。それで、緩和ケアのホスピス(真宗ではビハーラ)という、医療機関で、モルヒネを使って痛みを十分にとる治療をこの人は受けたわけです。小康状態を得ていたときに、今度はお腹のガンの再発だったから腸閉塞になった。ガン再発による腸閉塞というのは、閉塞部位が一ヶ所でない、ガンの中に腸が何ヶ所もねじれこんでいて、二十人に一人ぐらいしか手術できない。手術できないという判断がされて、点滴で入院治療を受けておりました。この患者さんが回診のとき「先生、私は死ぬために生きているのですか」と。あと数ヶ月で死ぬということが分かっている「私に生きる意味はあるのか」、とこう問うてきたのです。この人は身体的とか、精神的とか、社会的には問題ない。生きる意味はあるのか、と訴えてきたというわけです。そのことに応えることのできる医師、看護師はどれくらいおるでしょうか。こういうガンの末期の患者さんたちから、訴えがなされたときに対応できない。
 米国では、キュープラ・ロスが日本での講演で紹介しています。ガンであと数ヶ月の命という患者さんが、先生に「先生、私はいい生活をしてきたけども本当に生きたことがない」と言ったそうです。負けちゃならぬと、経済的なこと、家庭の管理、子どもの教育、いろんなことはそこそこのものはやってきたけども、あと数ヶ月の命だということが見えてきたときに、私は、本当に生きてきたんだろうか。なにか本当生きた、という実感がない、という思いが「いい生活はしてきたけども本当に生きたことがない」と訴えてきたということです。この課題に応えられる医師・看護師はどれくらいいるだろうか。
 大分県にホスピス「ゆふみ病院」があります。外科医をされていたF先生がホスピスの責任者をされていました、この先生が、「外科医をしてた時は十分痛みをとっていたつもりだったけども、ホスピスに移って実際やってみたら、外科医としてやっていたときは、十分痛みをとれてなかったなあと反省させられる」と。そして、緩和ケア病棟で痛みを十分にとるということを実施し、看護師も普通の病棟よりも多めに配置して、手厚い看護できるようにする、家族の寝泊りができるような設備を造って対応していく、そうすると、「私に生きる意味があるのか」、「私は悪いことしてないのにどうしてこんな病気になったのか」、「死んだらどうなっていくのか」、という訴えが露出してくるというのです。痛みに対する治療・対応、そして看護・介護が十分になされてきたら、スピリチュアルな課題が露出してくると言われます。こういう課題が今の医療の現場では問題になろうとしているのです。急性期の医療現場では、少し違うかもしれません。だけども、ガンの病気の人たちにとって切実な課題です。昨年の死亡原因の30%はガンです、これはゆくゆく50%まで増えるだろうといわれています。
 私が以前、外科で仕事をしていたときに私たちの外科で、大腸ガンの手術をした七〇歳代の人のことは非常に印象的に残っています、術後五年、ずっと経過を見ていきました。そして五年経ったときに再発の兆しがないので、「あなたよかったねえ、ガンの影響はもうなくなりましたよ」と言って、開業医の先生にお返しをした。そしたら二年後、今度は体が黄色くなって帰ってきました。黄疸です。調べてみたら、すい臓ガンが見つかり、肝臓にたくさん転移がある状態で手術できませんでした。これが原因で亡くなりました。このときに私たち外科医がしてきたことは、老病死につかまるのを五年、七年、先送りしただけであって、結局は老病死につかまったなあ、そしてつかまったときに後は何もできない、というのが私たちの医療だったんだなあ」と思いました。現代の医療は老病死を先送りすることはできるけども、最終的につかまったときにどうするかーーー、結局敗北です。
 昨年の秋、七十九歳の肺ガンの患者さんが入院してこられた。このかたは、肺ガン診断でいろんな治療を受けたけども効果がない。そして脳転移をきたした。脳転移に対しては、最新のガンマナイフで治療をした、治療の途中で意識障害がでてきた。それで私たちの所に入院していました。入院中に姉妹の方が見舞に来られた、私が部屋に行き病状説明をしてしばらく私と妹さん二人と寝たきりのお姉さん(素人目にも、もう一ヶ月以内に亡くなる状態、)が同じ部屋にいたとき、この妹さん二人が、帰り際にこう言ったんです。「お姉さん、また元気になっておいしいもの食べに行こうよね」。言葉かけというのは悩ましい課題です。
 最近、ある新聞に、お見舞い時の対応で非常に印象的なことがでていました。「おじさん図鑑」といって、六十歳くらいの人がエッセイを書いております(H18年十一月八日)。
 おじさんは友人を病院に見舞った。友人はまだ四十代なのにガンに侵され医師から家族に余命を宣告されていた。久しぶりに見た彼は衰え、おじさんはショックを受けた。が、「元気そうじゃないか」と思ってもない言葉が口をつく。「元気だったら入院なんかしてませんよ」いかにも辛そうに友人は力なく応えた。おじさんは口ごもった。「その、まあ、君は若いんだからせいぜい頑張って一日もはやく良くして・・」さえぎるように彼が言った。「頑張れって私は必死に頑張っています。これ以上どう頑張ればいいんですか、教えてください」彼の目から涙がぼろぼろ噴きだした。全身が痛くて身の置き所がないような毎日なのだとも、泣きながら訴える。おじさんは顔をそむけて涙をかみ殺した。「俺は死にたくないんです、まだ死ねないんです、助けてくださいよお」訴え続ける彼から目をそらし、おじさんは心の中でひたすら、「頑張れ、頑張れ」、と繰り返すばかりだった。こんなとき、「頑張れ」という言葉のほかに一体どんな言葉があるのだろうか。
 これが私たち、仏教抜きの、教育を受けてきた者の言葉かけです。どういう発想かというと、生きるということは、みんな幸せになりたい。幸せになる為には幸せのための条件を増やしたらいい、病気と健康といったら健康が(+)、病気が(−)、役立つ人間はいい人間で役に立たない人間は(−)、迷惑をかける人は(−)で迷惑をかけないことが(+)、という発想です。その延長線上で、元気は(+)であり、おいしいものが食べれることは(+)であるから「元気になっておいしいもの食べに行こうよね」ということになるのです。
 終末期の医療の現場で働く看護師、医師が言われることは「生きてきたように死んでいく」、と。生き様が死に様である、こう言うんです。だからどういう生き様をしてきたかということの延長線上で、死に様になるというわけです。頑張ったら必ず幸せになれるという価値観を私たちは生きていますから、頑張れ、頑張れ、それ以外にどんな言葉掛けがあるのかと、こういうことになるのです。
 現代人は生きることの方向性を幸せを目指し、幸せのプラス条件を増やし、マイナス条件を減らして行くことが生きるということだと思っています。そのために日々の取り組み、努力をしています。しかし、高齢者の医療・福祉の現場では、多くの人が老い、病、死につかまり、愚痴の訴えが多いです。現代人の発想の生きるという方向性の延長線上で、結果として老い、病、死につかまりますから、これはマイナスのマイナスのマイナスですから不幸の完成です。不幸の完成で人生を終わる。
 去年、秋、大分県公民館大会がありまして。私は言いました、私たちは、幸せになる為には幸せの為のプラス条件をできるだけ上げて、マイナス条件を下げていけば必ず幸せになれる、とほとんどの人が頑張っています。もしそうだとするならば、最後は不幸の完成で人生を終わるんですよ。大分県民、百二十万人が、最後は不幸の完成で人生は終わります。いやあ、大分ってすばらしい所ですね、って誰も言いませんよ、だけど現実はそうですよ。
 八十八歳のご夫人で高血圧と不眠症でかかっていた患者さんがおりました。この人は毎日『正信偈』をあげているというおばあちゃんでした。一昨年の秋でしたか、自宅で意識がなくなって倒れていた。高血圧があったので、脳出血か、脳梗塞かなというので脳外科に入院、CTなどの検査をするけども、異常なし。そのうち意識が戻ってきまして、本人に聞いてみたら私が処方した睡眠薬をたくさん飲んだということでした。
 この患者さんが退院して再び外来で来られるようになって、最初に「私なんかは役に立たない。みんなに迷惑をかける。本当なら姥捨て山に捨てられてしかるべきしかるべきなのに。あの時あのまま眠りたかった」と言われました。この人に治療をして長生きしましょうと言っても間に合わないのです。この人は、いろいろ対話をしながら、仏教の法話のテープを少しずつ貸してあげることを通して、少しずつ現実を受容しながら、生き切られました。
 世間ではこの世俗の価値観、ものさしで多くの人たちは生きています。そして最終的には愚痴を言いなが老病死につかまっています。このことに関して。ボーボアールという、哲学者で作家のフランス人が、「人生の最後の十五年、二十年が単に廃品としか思われないような文明は、挫折していることの証明だ」と言われています。人生の最後の五年、十年が役に立たん、みんなに迷惑をかける、という片身の狭い思いをさせるような文明は挫折していることの証明だ、ということは、まさに仏教の智慧抜きの理知・分別の思考の行き着く先は単に廃品としかおもえないような生き様になっているわけです。多くの高齢者の方はこう言います「年とってもなんもいいことない。腰は痛うなるし、耳は遠なるし、目は遅うなるし、」。人間に生まれてよかった、生きてきてよかった、とこういう人たちに出会いたいですけどなかなか出会えない。東本願寺の専修学院の院長をされていました信國淳先生は本の中で「年をとるっていうのは楽しいことですね。今まで見えなかった世界が見えるようになるんですよ」とこう書かれています。私たちは仏教のお育てをいただいて、智慧の目を通して、今まで見えなかった世界が見えてくるんですよ。こういう世界が見えてくるときに、私たちは「不幸の完成」を超えていく世界にださせていただくということでしょう。
 健康の定義の中に、生きることの意味、生きることで果たす使命、役割、こういうことが本当にしっかりしているということが、人間としての健康というか、健全性を示しているのでしょう。お念仏のお育てをいただきますと、人間に生まれた意味、生きることの意味、死んでいくことの……、お任せします、南無阿弥陀仏、とそういう世界にださせていただくことが、真実信心という世界にださせていただいているわけです。こういう課題の解決が出来ているということが、人間として健康だということを、今、世界の認知を受けようとしているわけです。これは、一九九九年にWHOの理事会で決定がなされたのです。しかし、総会に移そうとした時に日本などが、加えるには時期が早いんじゃないかという考えで、かなりの国が棄権に回ったから、まだ総会の審議になってないんです。しかし、スピリチュアルという課題をもう無視できない時代になってきているわけです。健康ということは、医療と仏教とが協力をして初めて人間としての健康・健全が実現できるという時代になってきているのです。
 「健康で長生き」という、長生きも医学界の目指していることです。この「長生き」も今、医療と仏教とが協力をして初めて実現できるということです。しかし多くの人は長生というのは、仏教は関係ないじゃないかと思われるでしょう。長生きということを考えるときに、私たちが本当に願っている長生きとは何であろうか、ということです。生きている時間を延ばすことが多くの人は長生きだと思っているわけです。田川市の元市長は医師で市長もされていました。この方とある会合でお会いして、ゆっくり話す機会があった時に市長さんがこう言いました。「田川市で百歳を超えた人が七人おった時、敬老の日にお祝いを持っていきました。七人の内の二人は、なんとかおめでとうございます、という状態だったけどあとの五人は決しておめでとうございます、という状態ではなかったです」。
 仏教では長生きをどういうふうに考えているかと考えてみますと、『大無量寿経』の四十八の願の中の第十五願にこの長寿のことが書かれています。その内容は「浄土の世界に生まれるものは本当の長寿が実現できます。ただし、命の長い短いにとらわれる人は除きます」と書いてある。「除く」というのはどう受けとるか、ということは非常に大事なことだとお聞きしています。この本願の心はどういうことかと考えてみますと、私たちは時間というものを学校教育を受けてくると、特に歴史を習いますと、時間というものは直線的なものだと考えます。千九百年になんかがあった、そして二千七年は今である、そして二千十年、私は生きていても生きてなくてもなにかがあるだろうとこういうことです。これは過去、今、そして未来、と時間は直線的に私と無関係に経過していくと考えています。しかし仏教は「今、今日しかない」と言います。仏教では「今、今日しかない」というのに、過去もあり未来もあると学校では習うわけです。
 私のところに今、八十二歳になる元中学校教師が通院してきています。この方は真宗の門徒さんです。糖尿病、高血圧、慢性肝炎。この慢性肝炎でガンになる心配をされて、週三日、通ってきています。私が、「もう八十二歳ですからもうガンになる心配とかせんで、もうちょっと、おうように生きていける道がありますよ。先生、少し仏教の勉強をしませんか、浄土真宗の門徒なんですから」と言ったんです。そしたら「わしゃまだ早い」。
 その後しばらくしてから、私が「先生、南無阿弥陀仏の意味がわかるともうちょっと、鷹揚(おうよう)に生きていけますよ」と言ったんです。そしたら「わけのわからん南無阿弥陀仏だけは言いとうないんじゃっ」と言われました。それで私が「先生、浄土はどう思われますか」と聞きました。「浄土なんてどこにありますか?地図の上にどこにもないじゃないですか」ってこういうわけです。「先生、そしたら明日はあると思いますか」って聞いたんです。そしたら、「そりゃ、明日はありますよ」って確信を持って言われます。そこで「先生、明日を見せてください」ってこう言ったんです。そしたらキョトンとしているわけです。「先生、あのね、明日と浄土というのは非常によく似ているんですよ。明日っていうのは場所の概念じゃないんですよ。先生、明日は、まだ来てない今のことなんですよ。浄土というのも場所の概念じゃないのです。浄土とは迷いの覚めた今なんですよ」ってこう言ったんですけど、なかなか分かってもらえない。それぐらい私たちは明日があると思っているわけです。見せてくれって言っても見せられないんですよ。こういうのを智慧がないっていうんです。
 私が以前、医療関係者の人に「医療と仏教の協力」という話をした時に、「今しかない」と仏教はいいます、と話をしたら、ある病院の院長が手を上げて、「田畑さん、私たちは明るい未来がある、明るい明日があるというのが今、今日を生きるエネルギーになっているんですよ。明日はない、今日しかない、なんて言われたら困りますよ」と質問してきました。非常に素直な質問ですよね。どう答えるか。私たちは理性、知性、分別では、今という一瞬をとらえることができないのです。なぜかっと言ったら常に変化していますから。「今」といった瞬間に「い」は過去になっていいますから。それぐらいとらえようがないのです。
 そうするとどうなるか、今がとらえられないものだから、いつの間に過去のことを考える、その結果は過去を自慢をするか、後悔です。終わったことを今持ってきて、いろいろ悩むのを「持ち越し苦労」といいます。一方ではまだ来てない未来のことを持ってきて「取り越し苦労」。現代人は理知・分別で生きていけると豪語していますけど、ちょっと暇になると、取り越し苦労、持ち越し苦労ばっかりしています。そして気づいてみれば、あっという間に五十年が過ぎて八十年が過ぎた、となるのです。仏教はこういうの、空過というのです。先ほどの、「いい生活はしてきたけども本当に生きたことがない」、という感覚はまさに空しく過ぎたということです。
 これは長生きに関係してくるわけです。北九州に産業医科大学があります。そこの非常勤講師の古川泰龍という熊本在住の真言宗のお坊さんが、仏教全般をよく勉強されている先生でした、こう言われています。私たち人間は、過去に生まれて未来に死ぬという有限の命を生きている。大きな病気をした人や、高齢になった人たちが、「死にたくない」と。死なないわけにいかんから少し要求を下げて「長生きしたい」というのです。だから「死にたくない」とか「長生きしたい」は、心の根は同じだと言います。
 便宜的に仏さんの無量のいのち、仏の世界を無量寿というかたちで書いておきます、無量寿、永遠ということでもあります。古川先生は次のように説明しています。多くの人たちは生まれてから死ぬという有限の命を生きてきて大きな病気をしたり、高齢になった人たちが「死にたくない」、「長生きしたい」と言われる。この死にたくない、長生きしたいという心を訪ねてみると、私は今、有限の命を生きてきてその死が近づいてきた、何か出遇うべきものに出遇わんまま人生を終わろうとしている、こんなはずじゃない、何か出遇うべきものに出遇うのを忘れて人生を終わろうとしている、何か死に切れない、ということは何かといったら、「死なないいのち、無量寿にめぐり遇いたい」、と言っているんだ、と言われています。
 お念仏の心ではどうだろうかと思って、お念仏を喜ぶ妙好人みたいなお年寄りの方がおられて、その方とタクシーの中で一緒になる機会があったのでお聞きしました。「真言宗のお坊さんが死にたくないとか長生きしたいっていうのはお念仏の世界にめぐり遇いたいんだ、無量寿の世界にめぐり遇いたいんだと言われていますが、どう思われますか」と聞いたら、「死にたくない長生きしたいっていうのは宗教的目覚めを求めている叫びである。その、通りですね」と言われました。真宗的に言えば「お念仏の世界にめぐり遇いたいんだ」という叫びなんだと言われるのです。だから出遇うべきものに出遇っていないものは死に切れないわけです。
 なんで私たちは明日がなければ困るのか、ということです。先ほどのプラス・マイナスで言うならば、プラスをいっぱい増やして、私は幸せになれるんだ。これがうまくいったら楽になれるんだといって、「明日こそ幸せになるぞ」、「明日こそ幸せになるぞ」と、こう思っている私たちは、明日が目的になって、「今」、「今日」がそのための手段・方法の位置になっているというわけです。パスカルという人がこう言っています、「明日こそ幸せになるぞ、明日こそ幸せになるぞ、と死ぬまで幸せになる準備ばっかりで人生終わってしまう」と。
 そして、明日がなけりゃならない人たちはどうしてなのかと考えてみたら、このことがうまくいったら∞あれが手に入ったら≠チていうのを英語で言うと I WANT〜 とこういう英語で表現します。このWANTというのは、欲する≠ニか欲しい≠ニいう意味ですけど、この名詞での意味をみたら、必要という意味、ついで不足・不満・欠乏という意味だそうです。ということは、あれが欲しいこれが欲しい、これがうまくいったら将来よくなるぞと思っている私たちの今は、不足・不満・欠乏におるってことです。
 今、今日、死に切れないのはなぜかといったら、今、不足・不満・欠乏におるからです。このことが満たされるであろう明日がなけりゃ困るんです。だから死に切れないわけです。どれくらい長生きしたら満足の世界に行き着くか、というと、これはあるお坊さんから聞いたんですけども、九十五歳のおじいちゃんにお孫さんがかわいらしくこう言ったんだそうです。「おじいちゃん、あと五年は生きて百歳まで生きてね」、そしたらおじいちゃんがね、「たった五年か」とこう言ったそうです。当事者は不足・不満・欠乏におるから九十五歳でも百歳でも不足・不満だけなんです。お孫さんは百まで生きたら満足だろうと思ったけれども、当事者は不足・不満・欠乏だからどこまで行っても、いや千年続いても不足・不満・欠乏が千年間続いただけなんです。こういう私たちに、本当によかったという世界はでてこないわけです。しかしここでお念仏の世界に出遇うと。「弥陀の誓願不思議にたすけまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつ心のおこるとき」、念仏申さんと思った時「すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまうなり。」と。この世俗の命を翻して、お念仏の世界を生きていこうと、そういう展開が起こると、本当に出遇うべきものに出遇ってよかった、と言ってそこに無量寿と通じる世界を生きさせていただくんだ。
 この無量寿に通じる為には、この「今」の大事さというか、「今」・「今日」が大事なのです。この「今」の大事さが理論的にはそうだけど、どうすれば良いのかと言うことが分からないところがあります。坂東性純先生が、お話の中でいわれたことですが、鈴木大拙先生は九十六歳まで長生きされました。
 鈴木先生が九十歳を過ぎたころお祝いの席で、お弟子さんが「先生、長生きの秘訣を教えてください」と質問したそうです。そしたら鈴木先生は「今、鎌倉のあるお寺の裏に住んでいまして、鎌倉の町に出るのにいつも百二十段の石段を上がったり下りたりせんといかんのですよ。この石段を上がったり下りたりするときに私は、今、足を置く石段だけ見るようにしております」と言ったそうです。私たちはこの百二十段の石段を上がるときに、あれ、まだ百二十段も上がらないといかんのか!と取り越し苦労するわけです。それをせずに、今足を置くべき石段だけを見るようにしてます、今を大事に生きた結果、別に長生きしようということじゃなくて、結果として長生きになったんですよとこう言われたそうです。
 ある同行さんがお念仏のいただきを、「お念仏するとき私が仏のはたらきの場になる」といわれています。本当に無量光・無量寿と通じる世界をいただく。その世界が感得されると、どうなるのかといいますと、新潟に良寛さんという方がおられて、檀家で非常にわがままな人がおったそうです、「わしゃ地位と金は十分に手に入った、あと百年生きるということさえ実現できれば別になんの望みもない」と言ったそうです、そしたら良寛さんは即座に「そりゃ、たやすいことでございます」と言った。そしてどう言ったかといったら、無量寿に通じていますから、「今まで百年生きたと思えばそれでいいじゃないですか」と言ったそうです。
 お念仏に出遇ったものは「本当に出遇うべきものに出遇ってよかった」です。だから「不足・不満」から本当に出遇うべきものに出遇った者は「知足」という世界に導かれていくということでしょう。そうすると「いつ死んでもいい、いつまで長生きしてもいい。お任せします、南無阿弥陀仏」そういう世界に出させていただく。
 そうするとどうなるか、第十五願で教えてくれていることは、私たちの願っている本当の長生きとは時間の長さじゃなくて、いつ死んでもいい、いつまで長生きしてもいい、お任せしますというそういう世界に出遇いたいんだ、というのが私たちの願っている本当の長寿なんですよということでしょう。
 私のところに、今年、一〇二歳になる真宗の門徒さんが入院しています。、聞法はしていなかった人です。私が三年前から主治医になっています。この人が私に「死にたい、死にたい」と言います。「どうしてそんなに死にたいんですか」、と聞いたら「私の縁のあるものはもうみんな死んでしまったんです。もう甥とか姪のその次の代にいろいろ世話をしてもらって私は寂しいんです」というわけです。そこで私が「あのね、頭は死にたい、死にたいって言っているかもしらんけどね、体の言うことを聞きなさいよ」と話しかけました。人間関係ができてから「あなた、心臓や肺に一回相談してみませんか、頭は死にたいと言っているかもしれないけど心臓も肺も本当に死にたいと言っているかどうか、今晩ゆっくり寝て相談してみてくださいよ」とこういう話をしました。しばらくして私が「どうでしたか」と聞いたら「心臓も肺も死にたいって言っとりました」と言われるのです。そこで私が「そうですか。そしたら一回、死ぬ実験をしませんか?あなたがね、一週間飲まず食わずでいったら希望どおりに死ねるから、一回死ぬ実験をしてみませんか。しかしね、途中で、ノドが乾いたと感じるようになったら、あれはあなたの頭は死にたいと言ってるかもしらんけど体のほうはね、お水を飲んで生き延びたいっと言ってんのよ。もしお腹が空いたっと言い始めたら、あれは頭は死にたいって言ってるかもしらんけど、体のほうは食べて生き延びたいっと言ってんのよ。ね、一回死ぬ実験をしませんか?」こう言ってお勧めをしています。百歳の人との対話ですからそんなにポンポンと進みませんから、ゆっくりと。一週間単位でしょうか。
 この人は死にたいとよく言いますけど、看護婦さんがこう言うんです。「先生、あの人はね、死にたい、死にたい、と言っているけどね、病院の食事とは別に健康食品を三種類、毎日食べてますよ。」こういうおばあちゃんです。しばらくして食堂に朝行ったら、りんごを、ちょっと手が震えながらりんごを剥いていました。一年中食べている健康食品だそうです。私が「なかなか実験始めんねえ」って言ったんです。そしたら「先生、手が勝手に動くんですよ」って、頭はちゃんとしっかりしていますよ。この人が「先生、仏さんは私を、お迎えに来るの忘れちょんじゃなかろうか」と言うんです。だから私がこう言ったんです。「いやあ、この前ね、あなた、仏さんがお迎えに来たけどね、あなたが、一刻も早く死にたい、死にたいって言いよるから仏さんが、もうちょっと人間として成熟してもらわないと困るって言ってまた帰って行ったのよ。あなたがね、お任せしますナマンダブツになったらちょうどいいとき、お迎えが来るのよ」と言ったんです。聞法してないおばあちゃんですから、なかなか分からないですね。
 このおばあちゃんはいろいろ教えてくれる人です。最近のことをご紹介しますと、よく「死にたい」と言っていましたから。今年のお正月過ぎ、下腹部が気持ちが悪くて食欲が落ちたということで連絡があり、診察をしに看護婦さんと一緒に部屋を訪ね、結果としては膀胱炎を起こしていまして、治療したら良くなったのですけど、その診察をしながら、私が「○○さん、お迎えが近づいてよかったね」と言ったんです。そしたらこのおばあちゃんが、即座に「追い返してください」と言われたのです。看護婦さんも、ビックリしていました。あんなに「死にたい、死にたい」といっていた人が、いざお迎えが近づいてよかったね、と言ったら「追い返してください」と言うんですから。
 医療の現場というのは老病死にまつわる現実をいろいろ教えていただけます。まさにその人間の生き様の、その老病死の現場に何にか人間の本音が渦巻いています。しかし、お念仏で、そういう現実の四苦を超えていく世界があるということを、本当に分かっていただきたいわけです。
 最近、ある新聞の医療欄に、東大の泌尿器科の教授がこんな趣旨のことを書いていました。最近、頻尿で患者さんが泌尿器科をよく訪ねて来る=Aそういう患者が増えたのでいろいろ聞いてみると、糖尿病とか高血圧の人たちがお水たくさん飲んで血液をさらさらにしなさいと健康指導を受けているから、水分摂取が多いと。そして夜、食後にもいっぱいお水飲んでいるから寝て数時間してトイレに行く、そしてトイレから返ってきて、寝る前にまたコップ一杯お水をグッと飲む。そうするとまた数時間後にトイレに行くと。その繰り返しになっている。頻尿で眠れない。検査しても尿に異常ない。こういう人が今、泌尿器科を訪れる人が多いと書いてありました。そしてその後「ある年齢を過ぎたら健康で長生きではなく、成仏することをもうちょっと教えたらどうか」と書いていました。「これを医療関係者の私が言うとどうも立場がないけども」と書いてありました。死ぬ時期が来たらナマンダブツで死んでいける世界を持つと言うことが大事になっていると思います。これが本当に健康だということです。人間に生まれた意味、生きる意味、死んでいくっていう世界が本当にうなずけたら、お迎えが来た時、「あっ、お迎えが来ましたか、ナンマンダブツ」で未練なく浄土に帰っていく世界。
 それを死ぬ時期が来てないのに早く自分を殺そうとしたり、死ぬ時期が来ても、死にとうない、死にとうない、といって悪あがきをする。そういうのは不健康だというわけです。だから健康という概念は、病気とかそういうものと対立する概念じゃない、健康に生まれて、健康に生きて、健康に病気になることもあり、健康に病気が良くなってきて、健康に死んでいける世界があるのです。それはまさにスピリチュアルというものが健康の定義に入ってきたらそうなっていけるのです。
 今は死んでいくことは全部「敗北」と思っているのです。そして長生きということも、生きてる時間の長さを延ばすことに囚われているように思われますけど、そうではないです。本当に出遇うべきものに出遇って、いつ死んでもいい、いつまで長生きしてもいい、お任せしますナンマンダブツの世界に出ていったら、そこに、命の長い短いにとらわれない、ということが実現できるわけです。
 この長生きということは、今の医療技術で病気をよくして長生きさしていただくことも大事でしょう、だけども、それがうまくいってもうまくいかなくても、いつ死んでもいい、いつまで長生きしてもいい、お任せします、という一日一日を生きる存在になるということが、私たちが本当に願っている長生きということではないでしょうか。長生きということさえも、「医療と仏教が協力」をして初めて実現できるという時代になってきているわけです。今までは、健康で長生きというのは、なにかお医者さんや看護師・保健師さんたちが専門みたいに言ってきたかもしれないけども、今、大きな時代の変化の中で、医療と仏教が協力をして初めて人間の苦しみ悩みがとれ、そして健康ということも実現でき、本当に長生きということも実現できるという時代になろうとしているわけです。
 しかし、この医療の世界で、老病死の現場で、入ってくる情報は、仏教界からはほとんどこないのです。医療界の中に来る情報はキリスト教からの情報が多いのです。老病死を超えるという仏教のお念仏の世界が、本当に今、、高齢者の医療・福祉の現場で求められている時代なんです。お念仏の世界を多くの人に理解していただくということが、多くの人たちが、人間に生まれて良かった、生きてきて良かったという人生を生きる者になる世界に導かれるのです。医療と仏教とが協力をして、このようなことが実現できる時代になろうとしています。
 老病死の四苦の課題は、仏教の課題であり、医療の課題でもある。医療の現場で本当に四苦を超える道があるということを理解する多くの仏教ファンを増やしたいと取り組んでいるところです。

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