「医師が語る死の受容」 (「大法輪」平成20年(2008年)第11月号、p108-113)

はじめに
 平成19年度の統計では平均寿命は世界のトップグループに位置しています。この20年ぐらいは同じ傾向で延びてきています。しかし、平均寿命が単に長いだけではいけない、やはり質も問題にしなければ……と言って、健康寿命という考えが出てきて、「健康で長生き」が一段と追求されるようになりました。日本人として生まれた人の50%以上が80歳まで生きる時代になってきています。人生50年と謡われた織田信長の時代から戦前まで平均寿命は50歳を越えませんでした。戦後栄養状態の改善と感染症の治療法の進歩の成果として、平均寿命が50歳を超え、さらに30年間のプラスがなされたのです。死ぬことが身近な時代から、30年の寿命の延長は「老・病・死」の受け取りを難しいものにしたという現実があります。
 結核を代表に不治の感染症、それに戦争の時代は、常に死と向き合わざるを得ない状況だったのです。しかし、死と向き合う時代は「生」が貴重であり、生を輝かせて生きた時代ではなかったでしょうか。死がまさに30年先送りされた現在は、生が輝きを失い、老病死に愚痴を言いながら生きている高齢者のなんと多いことでしょうか。老病死を受容する文化が失われたのではないでしょうか。
治療の概念
 人間は必ず「生・老・病・死」する存在である。しかし、治療という概念は、人間の「生まれて、生きて、老いて、病んで、死んでいく」生老病死の自然な流れを、健康で元気で生き生きと楽しく生きる「生」のあり方が人間本来のあり方であって、老病死することはあってはならないということです。 端的に言えば、「不老不死」を目指すのが医療の治療という概念であります。一方、医療を支える看護の人間観は生老病死するのが人間の本来のあり方で、生老病死することは自然なことで、生老病死の人間をお世話(看護・介護)するのが看護であるという考えであると思います。どちらが人間を正しく把握しているかといえば、看護の概念の方であると思われます。
分段生死
 現代教育の基本に対象論理(対象化)があります。工業製品の生産には、その発想はすごい力を発揮して現在の日本の物質的な繁栄を築いてきました。しかし、その発想は生き物(人間を代表として)を考えるには、大事な点(感性や見えないはたらきなど)が抜け落ちてしまうことに注意しなければなりません。
 命を考える時、物事を対象化して、客観的にみて細分化して分析して、その後再統合して命の全体を考える理性知性分別の受け取りは、命の全体像を把握するには十分とは言いがたいということです。現代の医学・医療は唯物論的な思考で大きな展開を遂げ、さらに遂げつつあります。しかし、その考え方の限界を医療関係者は十分に理解する必要があります。理知分別の考え方は、健康な「生」と「老病死」を分ける、分段(分断)して考える。救急外来の現場では「生きている」ことと「死んでいる」ことをはっきり区別しないと医療の仕事になりません。すなわち、「生きている」ということは死んでないということである。「死んでいる」ということは生きてないということであります。「生きている」ということと、「死んでいる」ということは、はっきり区別がつくものと考えている。いや、はっきり区別しないと救急救命医療の現場の仕事は始まりません。
 その思考の延長線上で、健康で生き生きとした「生」があるべき姿で、老病死はそれを「邪魔するもの」という発想になろうとしている現在です。そこからは、老病死を受容する発想は出てきません。そのため、ひたすら救命、延命への偏った医療になっているのが現状ではないでしょうか。老いることが人間として成熟する歩みということが忘れられ、若さ、健康を誇る世相、それは未熟ということにつながり、仏の智慧を身につける成熟への道を失いつつあるのです。
縁起の法
 仏教の基本は縁起の法です。ガンジス河の砂の数の因や縁が仮に和合して私が存在すると教えています。仮と言うことは「我」はなく「無我」だということです。そして一刹那毎に生滅を繰り返しているということです。生物学・医学から考えて、それは矛盾しない思考です。命を支える生命維持の代謝を考えれば、縁起の法は釈尊の時代の目覚めの内容ですが、深い洞察による仏の智慧の世界です。
 この思考によれば、ある識者が、「昨日の夜、昨日の私は死んだのです。今日の朝、今日の私が誕生したのです、今日は初体験の一日です。そして今日の夜、今日の私は死んでいくのです」と発言されていることは正しい生命の把握であります。
 仏教で教える生き方は、朝、目が覚めたら、「今日の命をいただいた、南無阿弥陀仏」と生活の開始です。そして生かされていることを精一杯感得して、一日生きる。夜、「私なりに精一杯生きました、南無阿弥陀仏」と完全燃焼の一日を死んで行く(終わる)のです。その一日一日の積み重ねが一ヶ月、一年,十年となるのです。死ぬことを毎日経験していると言っていいのです。仏教を生きている者は一日、一日が区切られていくのです。
 今日を精一杯完全燃焼の一日を生きるのです。仏教者に明日はないのです。明日はお任せの世界です。ギリシャの哲学者が言われた如く、「生きている間は絶対に死なない」のです。そして「死んだら死なんか考えない」。死の不安が出てきたら、「また自力の迷いが出てきた、南無阿弥陀仏」と念仏で切ってもらうのです。
現代人の思考
 大分県医師会雑誌の正月号に年頭の所感を各地の医師会長さんが書いています。ある年、八十才になるという医師が所感の中で、「(前略)……同級生は過去を自慢する人が多いが自分の過去を振り返ると、あの時、ああしとけばよかった。この時、こうしとけばよかった、といろいろ思い出される。できることならやり直しをしたいと、思いこの頃です」と書かれていたのが印象に残っています。自分の老病死を含めて、「私は私でよかった」となかなか受け取れないのです。そして死んだらどうなるのか、考えれば考えるほど分からないのです。
 慢性肝炎から肝癌になり、種々の治療を何度か受け、小康状態の70歳代の患者さん(近医ということで一般的な医療は私が担当)が最近、専門医で検査を受け、小さな癌が再発したのでまた治療入院しますと私に言われるのです。私は、どういう対話・言葉かけをすれが優しい対応になるのでしょう。医療に携わる者には避けることの出来ない課題です。宗教を拒んだ医療の世界では種々の痛みをとる緩和ケアはできても死の受容は無理なのではないでしょうか。
死の受容
 仏教は「人間に生まれてよかった、生きてきて良かった」という人生を生きる道を教えるものです。言い換えれば
「私は私でよかった」「私が私になりきる」「未練のない完全燃焼の人生」
を生きることに導いてくれる教えといただいています。
 人間が死ねばどうなるのかというような問題は、肉体的には生命活動が終わり、火葬されれば肉体としてはなくなると医学の根拠の対象論理ではいうことでしょう。しかし、私の意識はどうなるのでしょう。もともと形のないモノですから、死んだらどうなるかは全く分からないというのが、現代の理知分別を拠り所とする人間の真面目さではないでしょうか。死んでしまえばお終いというのはあまりのも俗物的です。人間が死んだらどうなるかというような魂の問題には、論理の言葉はとどかないのです。死ぬということは永遠のなぞですから。死んだらどうなるかということは、私たちにはわかりません。私たちは誰でもこの大きな無知の中にいるのだということが本当でしょう。それに気づくことが本当の智慧です。自分が無知であるということを知る智慧は、何かを知っているという状態じゃなく、無知を知るという一つの覚醒を意味します。哲学とはそういう無知の知に他なりません。科学の知と哲学の知とは次元が違うのです。ある作家が「生きることを考えるにあたって、『死ぬ』とはどういうことかを知っている必要がある」。しかし、『死ぬ』とはどういうことか。言うまでもなく、死は無であり、無は無いのだから死は存在しない。また別の哲学者が「死はこの世の出来事ではない。経験不可能なことである。超越的な問題である。だから我々は死を知ることは出来ない」と言われています。臨床現場では、肉体の死、死に様を医療者は多く看ています。しかし、意識の死そのものは不可知であって、本当は分からないのです。大阪大学名誉教授(宗教哲学)の大峯顕師は「今ここにいる人は私を含めて、まだ死んだことがないのですから、死とは何かは分かりません。患者さんの死に立ち会う事の多い医師や看護師でも、死そのものは見たことがありません。死に様、死体を見ているだけです。死そのものは見たことがありません。死体を見ているだけです。我々だって家族が死んだといっても、やはり死体を見ただけであって、死そのものは絶対見ることは出来ないのです。だから死について独断や偏見を言っちゃいけません。例えば、死んだ人は消えて無になるなんて、わかったようなことを言ってはいけません。あれは死体や身体上の変化を言っているだけであります。死者は、我々生者の目から見えなくなっただけのことであって、存在しなくなったなんてことは言えないと思います。人間にとって一番悪いことは、知らないくせに知ったかぶりすることです」と言われています。
 仏智に照らされ、自分の煩悩性を知らされ、信心・悟りの世界に出遇う者は、浄土を生きる場として、今の一瞬に永遠を生きる世界に導かれるのです。そうすると、苦しみとか不安・心配の一番根本は「我見」であり、今までの人生は迷いの生き方であったと翻される時、自分の小さな迷いの生を離れて、大きな目覚めの世界(無量寿、永遠)を与えられるのです。自分中心の我見が打ち砕かれる、そうすると不安・心配は何もなくなるのです。歳をとるのも病気するのも死んでいくのも、いつ死んでもかまわんというようになるのです。いつ死んでもかまわんというより、生きている限りはご恩に報いたい。ご恩に報いるために出来るだけ生きていたいと思うようになるのです。
 仏の智慧に育てられると、心も成長して、今、今日を大切に真剣に明るく生きるようになり、未練などなくなるのです。未練は、まだやり終えてない、まだ満足していない人の感覚だから。一瞬毎(ごと)を真剣に生き終えた人は、どんな楽しいことが終わっても、それが途中で終わっても、あっそう、時間切れですか、じゃあね、という感じで、さばさばと人生をおわることができるのです。この今にだけ集中して、今日、しっかり頑張って一日生きたら、済んだ事に未練も後悔もないし、まだ来ない未来のことを心配したり当てにしたりしないで、しっかり生きていられるのです。
 仏教の教えの深さ・広さ・大きさに圧倒される者は、仏教が分かったとは言えなくなるのです。確かに言える事は、仏智に照らされて知らされる私の愚かさ、小ささでしょう。その自覚において生きるも死ぬもお任せで、生死を超える、無碍の一道を歩む身にさせられるのです。
法句経に、
「人もし生くること 百年ならんとも すべてのものの いかにおこり いかにほろぶるやを 知るなくば この生滅の理(ことわり)を知りて 1日生くるにも およばざるなり」
「人もし生くること 百年ならんとも 不死の道を 見ることなくば この不滅の道を見る人の 1日生くるにも およばざるなり」
「人もし生くること 百年ならんとも 無上の法を 見ることなくば 無上の法を 見る人の 1日生くるにも およばざるなり」
と教えています。
 「仏法に出会って良かったね、念仏して生きていきましょう」ということを共有できる文化が求められているのです。

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