誰もが世界の中心に居ると感じる世界A「物事を向こう側に見る分別」田畑正久
同朋(真宗大谷派宗務所発行)通巻706号(第62巻第二号)
2010年,2月1日 真宗シリーズ44ー48頁

責任範囲は生まれてから死ぬまでか

 私は二十数年前、シカゴのノースウェスタン大学に留学していました。そのとき私を指導してくれた人や、研究者たちといろいろ話をする機会があったときに、第二次世界大戦の話になったことがありました。そのとき私は、「私は昭和二十四年生まれで、戦後の生まれだから戦争は関係ない」という発言をしたわけです。私たちはどうしても自分の責任範囲は生まれてから死ぬまでであって、生まれる前とか死んでからは責任の取りようがないじゃないかと、どうしても分別で思うわけです。だからついそういうふうに言ったわけです。そうすると、何となくその場がしらけたような雰囲気になったと感じることがありました。そういうことがありまして、あるとき、法藏館から出版されている『ひとりふたり』という小冊子の中に、福井県坂井郡のある記録の話が掲載されていたのを見ました。どういう記録かというと、あるお寺さんの過去帳が残っていて、毎年、半紙一枚くらいに五名から十名ほどの名前が書かれていたらしいのです。そしたら、天明の飢饉のときだけは数十枚の紙が費やされていて各紙に子どもの名前や女性の名前、老人など、無機的に羅列された名前の記録が二年間残っている。たぶん、村が半分くらい全滅するような飢饉だったかもしれませんね。その記録を見た方が、この天明の飢饉というのは今から六代から七代前の事実だったんだと。この時代に、一家の家訓を「清く、正しく、美しく」としている家庭はまず全滅だろうと書いてありますね。「親殺し、子殺し、妻殺しの生き地獄を生き抜いた人々のみが、今日私に命をつないでくれた先祖の人々だったのである」と書いてあります。
 これを見たときに、「えっ、そうか」と思いました。私は生まれてから死ぬまでが私の責任範囲と思っていたけれど、私に命を継いでくれた過去というのは、決してきれいごとではすまされなかったんだなと。そのとき、そのときの時代状況、社会状況をみんな一人ひとりが抱えながら、過酷な人生を生き抜いてくれて、命を今日までつないでくれたということです。
 今ここにいるというのはまぎれもない事実であると。自分の見える世界だけしか見てなくて、その背後にあるものが私には見えてなかったんだなという思いがしました。本当に時間的空間的無量の因や縁によって生かされ、支えられているということですね。
分別で仏教が分かるか

 仏さんの智慧の世界によって照らされて見える私というのは、「遇縁の凡夫」。自我の殻の中で、善悪・損得・勝ち負けを一生懸命、理性・知性・分別で考えていけば、きっといい人生が送れると考えているわけですけれども、仏さんの光に照らされてみると、私の理性・知性・分別というものの汚れというのを知らされてくるわけです。それは、唯識の末那識として教えてくれています。私たちの理性・知性は、我痴・我見・我慢・我愛、こういう煩悩によって汚染しているんだと、仏法のお話を聞いて、お育てをいただく中で知らされていきます。いくら私が正しい判断と思ってやっても、結局は我見・我慢・我愛ということで歪められる。言われてみれば、仏さんが私たちを見抜いている姿は、本当にそのとおりだなと感じざるをえないわけです。光明無量によって照らされる私の本当の煩悩性や愚かさ。まさに、殻の中にいて、そういうことで汚染されているわけですね。
 私が仏法をどういうふうに考えるかと言いますと、この殻の中ではいろいろなものの中の一つのように仏教を考えます。仏教は私にとって利用価値があるかないか、というふうなかたちで見るわけです。どういうふうに考えるかといると、仏法が全部わかったら、私は仏教を信じます。仏教が全部わかったら、私はお念仏をします、という根性がどうしてもあるんですね。
 どうしてかというと、私たちは向こう側に眺めて、この人は信用するに足りる人かどうかということを考えると、この人の考えていることや日々の行動、みんなの評判、そういうものを聞いて、「この人は信用するに足りる人だ」ということになってきたらこの人を信用します。それと同じように、私たちは、「私」という分別から、仏教を向こう側に眺めて、仏教が全部わかったら、私は仏教を信じます、仏教が全部わかったら、仏教の教えるお念仏をします、仏教がわかるまではお念仏をしません、という人が多いですね。その発想で本当に仏法がわかるのかというと、前提が間違っているわけです。仏教というのは、私のわかる範囲のものだと想定しているんです。言うならば、仏さんよりも私が偉くなっていますよね。
分別の基本に疑いあり

 七十歳過ぎの神経質過剰な人が、私のいる病院の心療内科に来られています。少しアルコール依存症の気もあるんだそうですけれども、心療内科の医師が、「動悸がするというから、先生診てくださいよ」と私の方に回してきたわけです。
 私が話を聞いたり、心電図を調べてみたけど、どこも異常がない。気持ちの問題だろうと感じ、本人も「先生、ワシは焼酎を飲めば治るんだけれど、なかなか嫁さんが飲ませてくれない」と言うわけです。私が抗不安薬という便利な薬があるから、抗不安薬を処方しようかなと思っていましたら、もう心療内科の医師が既に処方していたので、それに上乗せして処方してもしょうがないなと思って、話をしている中で、「あなたの宗教は何ですか」と聞いたら、「浄土真宗です」とおっしゃいました。
 それで、「今度、ドキドキっとしたときに、ナンマンダブツ、ナンマンダブツと念仏してみなさい」と言ったわけです。そしたら患者さんがニタニタしながら、「田畑先生、念仏したくらいじゃ良くなりませんよ」と言うわけです。奥さんが隣におりまして、すぐに「先生、この人は無信心で、仏さんにも参らないんですよ」と言うわけです。私が奥さんの方に、「あなたは浄土真宗ですから、毎日『正信偈』をあげてるんですか」と聞いたら、「私は『般若心経』をあげております」と言うわけです。
 私たちは、このお経が良い、悪いとか、『般若心経』が良いとか「正信偈」が良いとか、そういうのを選べると思っているわけでしょう。だから仏さんよりも偉くなっているわけです。だいたいそれが私たちの発想です。仏法というのはわかるものだ、私が品定めできるものだとついつい考えているんです。
 それが、私たちが殻を持って、外側を眺めるということの限界なんです。私と外側を対に立てているわけです。対に立てるということは、私と外側が二つ対立してあるという関係なんです。
 仏法の智慧の視点は私と外側が密接な関係なんです。一という関係です。仏教では身土不二とか依正不二。二つではなく、その身とあなたの周りの環境がぴったりと一の関係なんだと。その主人公と環境が一の関係なんだと。これがまさに私というものがガンジス川の砂の数ほどの因や縁との関係性の中で、私がここにあるという関係ですね。これは一という関係です。分別では二という関係です。
 一という関係と二という関係で、どういう特徴があるかといいますと、二という関係は常に私の向こう側にあるものを眺めて、これは利用価値があるか利用価値がないか、これは信用するに足りるか足りないかという、対象化の考えの基本は「疑い」なんです。理性的・知性的ということは、疑うということがまさに理性的であり、知性的であるということのプライドなんです、矜持といいますか。だから、理性的・知性的という人が疑わないとするならば、理性的でない、知性的でないということですよね。ということは、私たちの理知分別というあり方は、疑いを除くことは無理なんです。理性的・知性的分別というのは疑うことを基本に置いていますから、仏教を無理やりに、「私は信じます」と言ったらそれは狂信・妄信になるでしょうね。
 私たちは信心ということを、「私が信じます」というかたちでの信心ではないということを、仏教では教えていただいていると思います。そこのところをどうしても私たちは無理矢理に向こう側に眺めて、全部わかったら信じますというかたちで何とかやりくりしようと苦労することが多いわけですが、その思いが翻されない限り、これは無理だろうと思います。
 だから二という関係で、信ずるということは狂信・妄信になる危険性を抱えていますね。殻を越える、卵の殻が割れるということはものすごく意味が深いことですね。ひよこは周囲と一体というあり方をしているわけです。依正不二というね。ちょっと極端な言い方をしますと、私と外側はぴったりと一体になった関係ですね。
(つづく)

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