誰もが世界の中心に居ると感じる世界B「物事を向こう側に見る分別」田畑正久
同朋(真宗大谷派宗務所発行)通巻707号(第62巻第三号)
2010年,3月1日 真宗シリーズ42ー47頁

私と周囲は密接な関係

患者と主治医の関係性

 私のところに、元中学の数学の教師が今、高血圧と糖尿病とC型肝炎で通院してきております。この方は、東本願寺の末寺の門徒さん。しかし、数学の先生をずっとしていただけあってか、八十歳過ぎまでほとんどお寺に参っていない人です。この方が、私のところに通院してお元気なんですけど、C型肝炎があるので、がんになる心配を非常にするわけです。そして、膝が痛くなると、寝たきりになる心配をするんです。今お元気なのに、いつのまにか未来のとり越し苦労を一生懸命しているわけです。私がその方に、「先生、平均寿命はかなり超えていますから、もうちょっと鷹揚でいかがですか。仏教の勉強をしませんか」と誘いをかけました。そうしたら、「ワシはまだ早い!」と、こう言われました。とり越し苦労や愚痴を言われるから、「先生、南無阿弥陀仏の心がわかると、もうちょっと鷹揚に生きていけますよ」と言ったら、「訳のわからんナマンダブツだけ言いたくない」とこう言われました。
 わけのわかるものを集めて、八十数年間の人生を積み重ねてきたわけですから、南無阿弥陀仏の世界というのはまさに異質な世界としか思えないわけでしょうね。そういう人たちは、私の周りに良いものを集めて、いい人生を生きると思っているわけです。しかし、迫りくる老い・迫りくる病・迫りくる死というものに出くわしたときに、それが受け取れないわけです。
 この先生があるとき手が腫れてきたことがありました。私は噛まれた痕があったから、「これは虫刺されじゃないですか」と言うんだけど、本人は「右手首が腫れているけれど、左側も一緒にしびれている」と、こう言うわけです。元教師の教え子で私の大学の先輩にもなる方で、同じ市内で整形外科を開業している先輩がおられまして、その医師がその先生の教え子ということで、そっちに行ったわけです。その恩師がが両方がしびれるとかいろいろ訴えるもんだから、「両方がしびれるなら、それは局所の問題じゃなく、頭の問題だろう。田畑先生に診てもらいなさい」と言われて、また私のところに帰ってきたわけです。私は局所の問題だろうと思っていましたから、冷やして落ち着いてきたわけです。私が「先生、やっぱり局所の問題で虫か何かに噛まれたんじゃないですか」と言うと、「いや、噛まれていない」としきりに訴えるわけです。「先生、頭の問題じゃなくて局所の問題で、良くなったということは、そういうことじゃないですか」と言ったら、その自分の教え子を、診断を間違えた意味あいで悪く言うわけです。私が「先生、考え方間違っていますよ。先生が教えた子どもが医師になって、もし誤診をしたとしても、それは先生の責任ですよ」と。これはちょっと極端な言い方なんですけど、自分の教え方の結果、その延長線上で教え子が医師の仕事をしていると気づくことが好ましいわけです。
 私たちは自分を教えてくれた先生たちの看板を背負って仕事をさせていただくわけでしょう。先生たちも自分の教えた子どもがそうなっていくとするならば、それは私の責任だと。そういった非常に関連性のある考え方が社会の中で出てくると、非常にいい社会になるわけでしょう。自分の責任は考えずに、自分が良いもの取りができるんだと、ついつい考えていくわけです。私たちの分別がいつのまにかそうなるんですね。
 時々、気心の知れた恩師が通ってきますから言ってるんです。「先生、私が誤診して先生が死んだとしても、先生の教え子が誤診したと思って、先生の責任も一部あるとあきらめてもらわなければいけませんよ」と、こう言ったんですけれども、それは本音でそういうことだろうと思います。
 私たちは平成という時代を私が選んで生まれてきたわけでもない。日本という国を私たちが選んで生まれてきたわけでもない。皆さん方が京都で生活をしているということは、京都を選んだ人もいるかもしれないけども、かなりは否応なしにそういう場所性・時代性を生かされているわけです。多くのものは、すでに関係性の中であったというのが本当の相(すがた)でしょう。 自分が除かれたら全体ではない

 「遇縁の凡夫」というように、縁次第では何をしでかすかもしれない私(あらゆる可能性を秘めた私)、ということと同時に自分の愚かさがだんだん照らされてくると、どういうふうになるかと言ったら、対象化の思考では私は自己中心の思いで生きているんだけれど、みんなの中ではちっぽけな存在で、吹けば飛ぶような意味のない存在だと思えるわけです。しかし、仏法のお育てをいただいてみると、この「私」というものは、ガンジス川の砂の数ほどの因や縁によって生かされている。すべてのものの関係性の中で生きているんだ。そんな私が救われるというのはどういうことだろうかと考えます。
 対象化の思考ではどういうふうに考えるかといったら、理性的・知性的に考えますと、「最大多数の最大幸福」というのを求めていくんです。だから、インフルエンザのワクチンにしても、公衆衛生学的に日本全体では、被害を少なくするためにはどうしたらいいかということであって、その中の個人がどうこうというよりは、全体が最大多数の最大幸福なんです。そこでは、私なんかちっぽけな存在だと思えるわけです。
 救われるということは、私にとってはどういうことだろうかというと、私の周りに都合の良いものをいっぱい持って、困った状態から助かることが救われると思いがちです。しかしそれでいくと、迫りくる老病死は解決できないわけです。そこでは愚痴を言いながらあきらめるしかない。こういうふうになってくるんです。
 一方、仏法の世界でいいますと、いかに世間的にときめいている人であろうと、ときめいてない人であろうと、みんな同じ「遇縁の凡夫」なんだとの確信です。そして縁次第では、どうなるかわからない。
 私は今年六十歳になりますけれども、定年を迎えた、いわゆる社会的な仕事を一区切りつけて肩書きがなくなって、ただの人になった多くの人たちにとっては、みんな同じあり方をしているということに気づかされてくるんですね。そのような私が生死の迷いから救われるか救われないかということは大きな課題です。智慧に照らされてみると、私一人の在り方は、すべての人間と同じあり方をしている。大乗仏教としてすべての者を救う教えが私一人を救いから除くようであれば、仏教は本物でない。私が仏教で救われるか救われないかは人類の課題としての意味があるということです。私が含まれないような全体はありえないんだ、人類の課題を背負った私ということに気づいてくるわけです。仏法が私を救えないようであれば大乗仏教としての意味がなくなるということです。すべての人を無条件に救う大乗仏教、大乗の至極、本願の教え(浄土真宗)が私一人を救えるかどうかが、仏教の存在意義に密接に関係するということです。すべての人を救うかどうかは、私一人の救いの可否に懸かっているということです。私一人の生き様が人類の代表としての課題を背負った存在であるということでもあるのです。
 理性・知性ではどういうふうに考えるかといいますと、対象化していつも外側を見ていますから、私が問題になることは非常に私的なことだと考えられているわけです。公的な場合は、私というものをあまり表に出すべきものじゃないと考えています。私の弱さだとか、私の足りなさ、私の怠け心というのは克服されるべきことであって、世間的な建前をよくしながら、みんなが最大多数の最大幸福ということになるわけです。
 しかし、仏教は私一人がのぞかれているという全体はありえないんだ、と言うんです。私一人がのぞかれていたら、全体にならないんだというわけです。
 分別の対象化した思考は全体を考えたつもりですよ。最大多数の最大幸福とこういうわけですから、全体を考えていますと言うけれど、「私一人は」といったら、ほとんど問題になっていないわけです。だから、いつも私はのぞかれているんですね。
 どうしてかといいますと、いつも対象化する考えの中におりますと、いつも私の内側から外を眺めるわけです。眺めて物事を客観的に見るという訓練を小学校、中学校、高校、大学とずっとしてきますから、私自身が問われるということがおろそかになるわけです。私自身も、小学校、中学校といえば、学校に行って勉強をして、試験の点数がいいとなんとなく褒められますから、自分の弱さとか怠け心は関係なくて、テストでいい点数取ろうと一生懸命やったわけです。その延長線で高校にも行き、入試にもなんとか合格できるようにと一生懸命デスクワークをする。それは自分の内面性は問われない。そして、大学に入っても、私は医学部でしたから、なんとか大学を無事通り越して、医者にならなきゃということで、頭だけで、自分自身がどうのこうのと自分の内面を考えるじゃなくて、知識を増やせというかたちで、ずっと自分自身は問われず、外だけを問題にしてきました。そうしたら、昭和四十二年から四十五年の学園紛争の時代に入り込みました。否応なしに私という問題を考えざるをえないようになってきました。そのときに初めて自分が問われるということが身近に感じられました。ああいう経験がなかったならば、まさに外側ばかり眺めながら、あれがいい、あれが悪いというような評論家の一生を送る可能性が十分あったわけです。この対象化というのはいつの間にか「傍観者」になっているんです。
傍観者、傍生(畜生)

 傍観者というのは何かと言いますと、私が知り合いの家に行ったとき、そこに犬がいまして、私は犬とか飼ったことがないものですから、扱いに困るんですけれど、盲導犬になる種類だそうで、訓練する人に時々来てもらっているそうですが、その訓練士が言った言葉を教えてくれました。「どうも犬は、自分が犬だという自覚がないみたいだ」と言うんですね。「へえ〜」と思いました。犬は自分が犬だという自覚がなくて、飼い主のことを仲間みたいな感覚に思っているというのです。「あ、こういうことだろうな」と思いました。
 傍観者というのは、いつも向こう側を眺めて、自分が問われたり責められることからは、できるだけ逃げて回るわけです。そしていつも眺める人生なんです。仏教に似た言葉がありまして、「傍生」というのがあるんです。傍らで生きる。なんのことかといったら、「畜生」のことなんです。動物のことなんです。どういうことかというと、いつも眺める人生を生きているわけですよ。自分が問われることからはできるだけ逃げ回るのです。
 動物の中でも金魚鉢の金魚を考えたらわかりますよね。金魚鉢の中でいつも外側をキョロキョロ眺めながら、金魚の一生を終えるわけです。金魚にとっては、人間的表現をするならば「人間に生まれてよかった。生きていてよかった。死んでいくことも何の心配もない。南無阿弥陀仏」という世界を持てているかというと、金魚は自分という意識がありませんから、眺める人生を金魚の寿命としておくるわけです。自分が問われたり、責められたりしない一生というのは、いつも眺める人生。それはどうなるかといったら、生きても生きたことにならないという「空過」という危険をもっているわけです。
(つづく)本稿は、二〇〇九年九月二十七日に、京都・高倉会館で行われた「日曜講演」講演録に加筆・訂正いただいたものです。

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