「外科医として身につけて欲しい仏教的素養」田畑正久 第109回日本外科学会定期学術集会;特別講演2.(2009年4月3日福岡にて) はじめに ただいまご紹介いただきました田畑です。伝統ある日本外科学会総会でこういう講演の場をいただきまして光栄に存じています、本当にありがとうございます。 私は会頭の田中雅夫先生より学年が一つ上になりますが、大学で一緒に仕事をさせていただきました。私は大学に残らずに一般の外科医として、ずっと仕事をしてまいりました。ただ私は、学生時代に九州大学には仏教青年会(以後仏青と略す。約百年の歴史があります)という、医学部と法学部の先輩方がボランティア活動をする団体がありまして、その活動を加勢する学生は部屋代がただで生活ができる寮があります。その仏青に学生時代からご縁があり、たまたま仏青の先輩で1年上、2年上の先輩が第一外科に入ったものですから、私もそれにつられて九州大学第一外科に入局しました。 今日まで外科を中心に仕事をさせていただいてまいりましたけれども、最近はメスを持たないような生活になっております。外科の仕事をしながら仏教の学びを細々ではありますが30数年行ってまいりました。これを通して、私は今は外科医ではありませんけども、外科医がこういうことは分かっていた方が良いのではないだろうか、こういうことをある程度知っておった方が幅が広く、患者さんへの対応ができるのではないか、ということがあります。そういうことを、是非とも心の片隅においていただければと思って、今日はお話させていただこうと思っております。 仏教へのご縁 私は大学生になった時に、仏教は現代には役に立たないものだと思っており、ある意味では無宗教で生きていけると思っておりました。多くの皆さん方とほとんど同じような科学的合理主義の思考の世界を生きてきたわけです。たまたま大学の5年生の時に、化学の教授が仏教の研究会をしているというご縁にめぐり会いまして、「化学の先生がどうして仏教なのか」という好奇心から仏教の学びが始まり、今日まで30数年の仏法とのご縁をいただきながら生活をしてまいりました。 外科の仕事をしながら、ある時に仏書を読んでおりましたら、埼玉医科大学の秋月龍a(禅宗の師家)という哲学の教授が、こういうことを学生に語りかけていたということが出ておりました。それは、医学部の学生さんに「皆さん方が今から仕事をしていく医療の世界は、人間が生まれて老いて病気で死んでいくという生老病死の四苦に取り組むということです。仏教もその生老病死の四苦の課題に取り組んで2500年の歴史があり、それなりの解決の方法は見出しているのです。医療という仕事に携わる者は、ぜひとも仏教的素養をもってほしい。」ということです。その文章を読んで、自分が仏法を学ぶということと、外科医として仕事をするということは同じ課題に取り組んでいるのだなということを知らされて、非常に勇気付けられたことがありました。 しかし、私たちが受けてきた日本の医学教育、外科医としての教育の現状は、ほとんど宗教抜きで医学教育がなされてきました。そのことがやはり今、司会の安井先生がおっしゃったように多くの人たちが老・病・死という現実に出くわしたときに、それにどう対応していったら良いのかということについて私たちはほとんど学びということをして来ませんでした。そのためにいろんなひずみ、摩擦がおこってきているのではないかということを非常に痛感しています。そういう意味では、医療という仕事と仏教は同じことを課題としているのです。是非とも協力関係をつくっていくことができたらよいと願っているところです。 医療の限界 そこでどういうところで問題点が出てくるかといいますと。外科医としての修練の時期は、先輩から学びながら、若い時期は赴任しても1年とか2年で異動しますから、患者さんをずっと続けて長い間、診るような機会はありませんでした。しかし、責任ある立場にたって、そこで5年、10年、15年と仕事をするようになってきますと、一人の患者さんの経過をずっと診ていくという経験をするようになっていきます。治癒していく患者さんは良いわけですけども、よくならない患者さん(ガンの再発や、進行ガンなど)ときは悩ましいことになります。まして長く人間関係、付き合いがでてきますと、よい人間関係ができた患者さんがよくならない場合に、どう対応していったら良いのか、ということは非常に悩ましい切実な問題としてありました。 非常に印象的なことで思い出されることがあります。私は現在の国東市民病院というところで16年間、仕事をしました。ある時、そこで70歳過ぎの大腸がんの患者さんの手術を私たち外科チームがやりました。そして5年間ずっと外来で経過を診ていきました。そして5年過ぎたところで、「よかったですね、もう大腸がんの影響は心配ありませんよ」と説明して、紹介医の先生にお返しをしました。そしたらその2年後、今度は黄疸が出て、病院に診察に来られました。調べてみましたら、すい臓ガンが肝臓に多発性に転移していて、手術できない状態で、それで亡くなりました。 このとき私は、私たち外科チームが大腸がんの手術をし、取り組んできたことは老病死につかまるのを5年ないし7年先送りしただけだったのではないか、ということを思わせられました。ある意味では私たちの医療という仕事は老病死につかまるのを先送りする仕事であって、結局は、老病死につかまったときに、私たちがしてきた医療は敗北という形で終わるのだということです。それに比べて仏教が教える生死を超える道というのは、我々の思考を超えた智慧の世界で迷いを超える、四苦を超える道で人間を救う世界だな、ということを思うようになってきたのです。 私たちが外科手術や医療という仕事で、この病気を治療によって治癒に導いたり、良い状態に保つことで患者さんを確かには救うわけですけれども、それはずっとそのことが実現し続けるか、というと決してそうではないのです。老病死の現実に医療の限界ということに気づいてくると、「生死を超える道」という智慧の世界を仏教が教えてくれていることにも関心を持って欲しいのです。そういう世界があることを私たち外科医が学ぶというか、そういう世界があるということが分かると患者さんに対する対応がもう少し幅の広い、優しい対応ができる可能性があると思われます。 そういう領域を自分が身につけることができないとするならば、そういうことのできる人にバトンタッチをする、そういう人たちと協力関係を結んで、そういう人たちと協力してそういう一人の悩める患者さんに取り組んでいくということができるのではないでしょうか。 医療は老病死に十分対応できているか 今、国民の8割は病院で亡くなっているというのが国の統計で公表されております。その老病死の現場で働く我々医師、看護師、そういう職業教育は老病死をどう取り扱おうとしているか、特に医師が行う医療の場合は、私たちが目指している治療という概念は、老病死はあってはならないことだ、不老不死を目指すという概念が基礎にあります。元気で生き生きとした健康な「生(せい)」にもどすということが、医療の目指す方向性だ、という形で多くの取り組みがなされているわけです。その結果、老病死に実際直面したときにはどう対応したら良いのかということがわからない。そういう老病死に対する対応が十分にできなくなっているがために、ついつい、そういう患者さんが入院して居るときに、病室を訪ねて顔を合わせるのが苦しくなる、いや訪問するのがストレスになる可能性があります。言葉かけ、対話が難しくなるからです。 嘘をいう訓練をしてきた 私は今から20年ぐらい前でしたか、中津の国立病院の外科の医長、責任者として仕事をしていた時に、まだその当時は患者さんに本当の病名を、ガンという病名をまだ正確に言わない時代でした。パターナリズムの医療の時代の最後の頃でした。ある宗教系の短大の学長さんの胃がんの手術をしましたが、進行がんでした。その数年後再発をして、内科入院となりました。内科の主治医は私と同じ仏青の後輩の内科の医師でした。入院してしばらくしてその内科の医師が「先生、あの患者さんは病気がよくなったらあの仕事を仕上げよう、病気が良くなったらあの論文を書きあげようといっていますけれど、もうよくならないわけですから、先生、本当の病名を言わないとそういう仕事も終わらないし、人間関係がうまくいきません」とこう言ってきたわけです。そして家族とも相談して患者さんに本当の病名と病状を説明するというふうに話がすすみました。 まだその当時はガンという病名告知が十分になされてなかった。日本の医療界の雰囲気がパターナリズムで対応することがまだ圧倒的な雰囲気の時代でした。しかし、この患者さんには正確に説明するということで内科の医師が「事実を告げる」ということになりました。そして私も「先生、もう本当の病名と病状を言ってますからね」と連絡を受けました。私は外科の仕事が終わった後、ほぼ毎日でしたけども、仏教徒としての先輩でもあり、その患者さんのところに訪ねていっておりました。そしたら、本当の病名を言ったという後、部屋(個室)に入ってびっくりしたわけです。それはなんでびっくりしたかというと、患者さんのことでびっくりしたのではなくて、私の「心の用意のなさ」にびっくりしたのです。 もう外科医として20年近く仕事をしておりましたので、患者さんからどんな質問があってもさっと答えるだけの自信は持っていたわけですけども、そのときは、この患者さんにはもうガンという病名は言っている、という状況でその患者さんとどういう対話をしたら良いのかということへの心の準備が全くできてなかったのです。今まではうその病名を言っていましたから、どんな質問を患者さんがしてきても、さっと答えられる。いや、あれは「嘘を言う」練習ができていたわけです。嘘を言ってごまかす練習はできていたわけです。そこに本当にガンという病名を言って、そしてその患者さんとどういう対話をするかという医師としてのコミュニケーションのノウハウというか、そういう素養がほとんど育てられてなかった、ということに驚いたわけです。 いや、これは私がこうだったらたぶん日本の外科医、いやそれはみんなじゃないというかもしれませんが、多くの医師の方々も、ガンという病名を言った後、患者さんとどういう対話をしていったら良いのかということへの準備というのは、ほとんどできてなかったんじゃないかと思ったのです。その当時から約20年経過しており、現在は、病名をほとんど正確に告げるような時代になってきています。いや、それでもまだ8割くらいだという話しを聞いております。そういう病名を正確に告げた後の患者さんとの対話、これは私たち医療の世界に携わるものにとっては避けることができない課題です。 患者と共に老病死に取り組む協力者としての医師 私の尊敬する先輩の外科医が、入局して研修医の頃、私たちに「入院した患者さんには必ず朝と夕方顔を合わせなさい」と教えてくれておりました。私たち外科医は、手術の前後で患者さんとのある意味ではほとんど毎日朝夕、患者さんとの顔を合わせることを繰り返すうちに、そこにほんとうにある意味では濃い人間関係ができて、手術をしたあと、良い人間関係ができて、病気がよくなった場合は「よかったですね」といって退院されていくわけです。 しかし、病気がよくならない状態で悪くなっていく患者さんに対して私たちはどう対応していけば良いのか、どういう対話をするかについて、心構えについてほとんど準備ができてかった。これはどうしてだろうかと考えてみますと、患者さんに対してはいわゆるパターナリズムといって、医師が患者さんのためによかれということをしていく、という形で対話の訓練を受けていた場合は、ある意味では医学的知識においては確かに患者さんよりも私たち医師の方が豊富ですから、そこに医師と患者という関係で、専門家と素人ということで対話ができるわけです。しかし、病名を正確に告げるということになると、医師と患者の対話ということとは別に、人間と人間との対話、同じ人生を生きる人間としての対話が求められるようになるのです。 患者さんは老病死を経験するということにおいて、多くの医師よりも患者さんの方が人生の先輩になるわけです。老病死を具体的に経験することにおいて、医師は経験が浅い、厳しい老病死を経験してない、経験から学んでない。一方、患者さんはまさにそういうことを今経験されている。そういう現場で私たちが旧来のパターナリズムで対応できるはずはありません。そこに患者さんとの対話の中で、ある意味では人生の先輩としてそういう患者さんと対話をしていくことになります。そういう老病死の現場、医療の現場においては今までのパターナリズムでは多くの若い外科医にとっては未熟なこと、経験不足が露呈せざるをえないわけです。 そういう医療の現場で私たちはどういうふうな対応ができるだろうか。そこで、医学・医療がとっている思考方法と仏教が考えている思考方法の違いを2,3ご紹介したいと思います。 生きているのが当たり前 最近、ある患者さんとの対話で感じた事ですが、この方は高血圧症、糖尿病、C型肝炎で癌になる率を少なくするために週に三日、注射に通院する83歳の元中学の教師です。私たちは生きていることが「あたりまえ」と思っています。そして病気になって死んで行くのは、「あの人は運が悪かった」、「交通事故にあって亡くなった」、「ガンになって亡くなった」というように、死ぬのは偶然というふうに思っているわけです。だけど仏教はそうは言わないのです。生きているのが偶然、有ること難しなのだ。死ぬのは当たり前、死ぬのは必然だとこういうふうに考えるのです。 私たちが生きていることを「当たり前」と考えると、生きていることへの喜びとか、感謝というものはついついなくなってしまいます。多くの命をいただいて生かされていることを当然として、そのうえにさらに「何か良いことないかな」とこういうふうに求めていくわけです。私たちが考えている「生きるということの意味」を私たちはよく考え直してみないといけないと思います。 不幸の完成 それはどうしてかというと、これは哲学者のソクラテスが言っていることですが。「私たちは誰からも教えて貰わないのにみんな幸せになりたいと思っている」と。そこで「幸せになる」ということはどういうことだろうかと考えると、私たちは幸せのためのプラス条件をできるだけ集める、マイナス条件をできるだけ少なくしていく。健康はプラス価値、病気はマイナス価値、役に立つ人間はプラスだ、役に立たない人間はマイナスだ、迷惑をかけることはマイナスであり、迷惑をかけないことはプラス、体が若々しいことはプラス、老いることはマイナスとこういうふうに考えていく。で、プラス価値を集めてみんな幸せになりたいと思って日々取り組んで生きているわけです。しかし、その結果どうなっていくのかというと、みんな幸せになれるはずだとがんばっていきながら、今、診療の現場で接する多くの高齢者の方々がどうなっているか。多くの患者さんが「年をとって何もいいことないですね、腰が痛くなり、目はうすくなる、耳は遠くなる」とこういうふうに愚痴を言う人が多いわけです。 これはどういうことかというと、老病死につかまったときに、私たちのプラス・マイナスの物差しでいうと、老病死はマイナスのマイナスのマイナスなのです。ということは、「幸せ」になりたいと目指しながら行き着くところは「不幸の完成」になっていくということに気づかないわけです。 私たちは必ず幸せになるのだ、幸せになっていくのだ、明日こそ幸せになるぞ、と頑張りながら、結局は老病死につかまったときにマイナスのマイナスのマイナスですから、「不幸の完成」なのです。 パスカルの原理などで有名なパスカルは「パンセ」という本の中で、幸せを目指しながら結局は「不幸の完成」になるということが分かっているのだが、「不幸の完成」という現実の前に「幸せ」という立て看板をたてて、見えないようにして、結局は「不幸の完成」目指してつっぱしっているというのが私たちの生き方なんだと、書いています。 明日が目的ではなく今日が目的になる生き方 そしてもうひとつパスカルさんは面白いことを言っています。私たちはいつ幸せになるのかというと、このことが解決できたら、このことがうまくいったら、「明日こそ幸せになるぞ」と夢を追いかけている。明日こそ幸せになるぞと、いつのまにか今日が明日の幸せのための準備になっている。そして、明日こそ幸せになるぞ、明日こそ幸せになるぞと、死ぬまで幸せになる準備ばっかりしていると言っています。 私たちも、外科の仕事しているときには、患者さんの術前のカンファランスがあり、患者の手術をする。手術をしたら次は術後の管理と経過観察が続く。術前検査、術前カンファランス、手術、術後の管理、術後の経過観察と、次から次へと、もうちょっとよくなるぞという、そういう繰り返しの中に何か、明日こそ、明日こそと、言われてみれば、パスカルさんの言うことが何か本当に身につまされるような思いがいたします。 そこに、明日が目的であって、今日がいつの間にか明日のための手段、方法の位置になってしまってしまうようなあり方になっている。この繰り返しでは、終わってしまったときに虚しくなっていきますよ。「空過流転になります」と仏教では教えてくれています。それに対して仏教は空過流転を超える道を教え示しています。今日が目的であるような一日にどうしたら成るのかということを教えてくれているのです。いつの間にか私たちは明日が目的になっているけども、そこの発想を変えて、今日が目的であるような一日一日にどうしたらすることができるか。これを仏教が教えてくれている「生死を超える道」の一つではないかなと思います。でも、このことはどうしたら実現できるかというのはなかなか難しいわけです。 死の不安 私の恩師が、最近脳梗塞を発症して入院しました。保存的治療のあと、リハビリをしてなんとか麻痺もなく退院できました。その恩師が私のところに通院しておられるのですが、たまたまその恩師の同僚が脳梗塞になりまして某脳外科で入院治療を受けて、リハビリをしてなんとか退院できたそうです。だけど、この恩師の同僚は退院のときに「死の不安」で、非常に気の小さな真面目な先生だったらしくて、不安に襲われたそうです。それで退院してから自宅で奥さんに、「夜間に脳梗塞になってもすぐわかるように隣におっとってくれ」とこう言ったらしいのです。そしたら奥さんが、「そんな子供みたいなこと言いなさんなよ」と言って相手にしてくれなかった。それでまた不安が高じてパニック障害になってまた脳外科に入院したそうです。で、その恩師がこの同僚にこう言ったのです。「あなたは死の不安で脳外科に行ってもダメです。」私たち医師はこういう死の不安ということになってきた時に患者さんにどう対応するか。最近は、抗不安薬というのがありますから、それと睡眠導入薬を処方したりします。その不安で眠れないという患者さんには抗不安薬や睡眠導入薬でなんとかその夜は対応できても、次の日、目が覚めたときにその「死の不安」は解決できたのか。これ、解決できてないわけです。先送りしただけです。 私たち医師はそういう「死の不安」を訴える患者さんに、医療的な知識だけでは適切に対応ができないわけです。この「死の不安」は多くの人たちも解決できない、あきらめるしかないと思っています。 死の不安への仏教的対応は 私は今日、その死の不安ということを仏教ではどういうふうに考えているかということをご紹介させていただきたいなと思っております。これは医療に携わる多くの人にとっても、「え、そんな発想があるの」、そういう超え方があるの、というように少し驚いていただけたらなと思っております。 私たちは時間というものをどうしても直線的に考えているのです。過去があり、現在があり、未来があるとこういうふうに考えます。そして自分は過去に生まれて、今・今日、現在、生きている。そして未来に死ぬであろう、こう思考をしています。多くの患者さんたちは死ぬ、死ということへの不安に襲われたときに、これはもう解決できないものだと思っているわけです、「死はあきらめるしかない」。しかし、仏教ではどう受け取るかということをご紹介したいのです。 区切りを付ける 一つは東大の解剖の教授をしておりました養老孟司という先生がそういうことに関しておもしろいことを言っています。どういうことかというと、昨日の夜、「昨日の私」は死んでいるのです。そして、今日の朝、「今日の私」が誕生して、今日、4月の3日を皆さん方といっしょに、初体験の今日を過ごしているのです。そして今日の夜、「今日の私」は死んでいくのです。そしてまた明日の朝、「新しい私」が誕生していくのです。こういう受け取りです。 そこに昨日と今日、その間に「区切り」をつける。そして今日と明日との間にも「区切り」をつける。この「区切り」をつけるということが非常に大事なのです。私は今年度から龍谷大学で仕事をすることになっています。龍谷大学は浄土真宗の僧侶教育施設から発展した大学なのです、浄土真宗の場合は「南無阿弥陀仏」というお念仏の心を非常に大事にします。南無阿弥陀仏という念仏によって智慧をいただくことになります。どういうふうにするかというと、今日の朝、今日の目が覚めたときに「今日のいのちがいただけた、南無阿弥陀仏」とお念仏でスタートするのです。そして今日の夜、今日、寝る時に「今日、私なりに精一杯生きました、南無阿弥陀仏」、「今日の私」はこれで死ぬんだと思って南無阿弥陀仏と死んでいく(眠っていく)のです、とこういうことです。「南無阿弥陀仏」と区切りを付けているわけです。この区切りをつけるということが、私たちはあまり大したことではないと思いがちですが、非常に大事になってくるのです。そういうふうに昨日の夜、「昨日の私」は死んでいるのだ。そして今日の朝、「今日の私」が誕生した。そして今日の夜、「今日の私」は死んでいく、という区切りをつけてくると、死というのは未来だと思っていたことが、それが、昨日の夜、終わって(死んで)いた。いや、ずっと毎日、死を繰り返してきたんだなということがわかってくるわけです。 区切りをつけるということの大事さを、次の事例を使ってお示しします。これは加賀乙彦さん(精神科の医師で作家)がおもしろい研究をされています。この先生は、死刑囚の心理と無期懲役囚の心理を研究しています。まず死刑囚の人たち50人と面接をしていったそうです。東京の刑務所では、死刑囚の人たちはみんな個室で静かにしていないといけないという規則らしいのですが、その死刑囚を収容した棟は、ものすごく騒然としているのだそうです。歌を歌ったり、お経をあげたり、隣同士で将棋を指したり、騒然としている中で面接を50人程していったのだそうです。たまたま別の日に朝7時に行った時に、シーンとしていたそうです。あんなににぎやかなところがどうしてシーンとしているのかと聞いてみたら、日本では死刑執行の宣告を朝の7時から7時半の間にするのだそうです。だから、今日は私の番かもしれないと思ってみんな7時半まで「シーン」としているのだそうです。そして、7時半が過ぎたとたんに「わーっ」とにぎやかになるのだそうです。これが毎日繰り返されているということです。 それでは、無期懲役の人たちはどうだろうかということで、千葉県のほうに無期懲役の人たちを集めている施設があるらしく、そこでは今度100人の無期懲役囚に面接をして調べたそうです。そこは、死刑囚の人たちとはうってかわって活気がない。たまたまソフトボールのレクリエーションの時間にでくわして、よく見ていたら、一人がホームランを打ったけれども、誰も拍手をしない。まさに生ける屍のごとく、なんか時間つぶしをしているという感じで、1塁、2塁、3塁と回って、みんなぼーっとしていたそうです。 これを加賀乙彦さんは「刑務所ボケ」というネーミングをしています。そして、たまたま東京で面接をした人が裁判で無期懲役に減刑になって移ってきた。あんなににぎやかだった人が1週間もしないうちにみんなと同じようにボーっとなっていったそうです。これらを踏まえたディスカッションの中で加賀乙彦さんは、死刑囚の人たちは残された日がいつも、一日しかないものだから、残された一日をいかに使うかと考えて凝縮された一日になっている。それで躁鬱でいうならば躁状態になっていると。一方、無期懲役の人たちはずっと死ぬまで衣食住が保障されている。そして死ぬのはずっと先だということで生きている、死ということが切実ではない、ということです、区切りがないのです。そのために、いつのまにか生きている一日の輝やきがなくなってきていると。ということは「区切りをつける」ということが私たちには非常に大事になってくるわけです。智慧の念仏で区切りがつくというのが浄土真宗での念仏です(念仏は呪文とは違って、南無阿弥陀仏という名前となって仏の世界から我々の所に来ている如来、仏そのもの、智慧のはたらきとなって来ているといういただきになります)。 朝、生まれて、夜、死ぬ 昨日の夜、昨日の私は死んで、今日の朝、今日の私が生まれた。そして今日の夜、今日の私は死んでいく、という形の繰り返しの中で一日一日を私たちが本当に生きていることがあるということです。明日はないかもしれないと仏教の智慧(仏智)で知る(感得)と、死に裏打ちされて生きているということがある、ということです。仏智では、今日、生きていることの「有ること難し」ということが自然と思われるように展開していくのです。生きているのは有り難い、偶然なのだと。死ぬのはあたりまえなのだと。こういう発想の中で、生きていることの有ること難し、有り難しという、そういう世界に気づくということになってきたときに、自分という存在は多くのものによって生かされている、支えられている、願われている、おかげさまの中に存在していることにビックリするようにも導かれるのです、そして私たちはその一日一日を精一杯生きて、未練なく完全燃焼していくという道に導かれていくわけです。 ギリシアの哲学者がおもしろいことを言っていまして、私たちは昨日の夜、眠る瞬間をほとんどの人は、いや誰も解らなかったわけです。ということはどういうことかと言ったら、「生きているうちには絶対に死でいない」、そして、「死んだら死なんて考えない」とこう言うのです。ということは、私たちが死の心配をするということはほとんど「取り越し苦労」なんだと、こう言うのです。で、そのことから導かれることはどういうことかというと、生きている、生かされていることに精一杯、生ききっていけば良いのだ。そして、後はお任せで良いのだ。と、こういうふうに生きる世界に、いつのまにか導かれてくるわけです。このことが頭ではわかっても、自分の生活の中ではどう実現できるかということはいろいろな工夫が要るかもしれません。 仏法は実験、そして感得する世界 仏法というものの考え方というものを身に付けるということは、ある意味では実験なのです。実験をしてみて、本当にそのことが、仏教が言っていること、教えていることが「本当だったな」と頷(うなず)ければそれが真実であったといえる一面があります。だから仏教が言っていることが「真実である」ということは決して私たちと無関係に一人歩きしているわけではなくて、私たちの日常生活の中でそのことが、仏法が言っていることが私の人生において実(本当であった)であった、言っている通りであったと頷けたときに、私たちが出合った仏教が「真実の教え」であったと、こう言うことができるわけです。それが私の人生で本当に実であったということにならなければ、それは教えでもなんでもないわけです。 成仏する道、仏道 私たちの発想からいくと、幸せをめざしながら結局は「不幸の完成」になるという終わり方になっていくわけですけれども、一昨年のある新聞の医療相談の係に、某大学の泌尿器科の教授がこんなことを書いていました。最近、頻尿、トイレに何回も行く、頻尿で泌尿器科を訪れる患者さんが多い。私たち、医療の世界では、頻尿、残尿感、排尿痛で膀胱炎の症状ですけど、それは尿の検査、沈査をすればすぐ判明するわけです。頻尿で来られた患者さんを検査をしてみても尿所見に異常ないとこういうわけです。尿所見に異常のない患者さんが頻尿の訴えで泌尿器科を訪れることが多い。そしてよく聞いてみると、糖尿病とか高血圧をわずらっている患者さんが脳梗塞とか心筋梗塞にならないように血液をさらさらするように、お水をたくさん飲みなさいという指導受けている。で、そのお水を飲みすぎている人が多い。私も実際、日常診療の中でそういう患者さんに時々出会いますけども。その先生はこう言っているのです。「もうある年齢を超えたら、健康で長生き、健康で長生きでなくて『成仏する道』を教える人はおらんのか」と書かれていました。私たちは成仏するというと「死ぬ」みたいに思う傾向がありますが、この成仏、仏に成るということはこれ仏教で言うならば人間として完成する、人間として成熟するということを教えてくれているのです。成仏するということは死ぬことではなく、人間として成熟して仏に成るということを仏教が教えてくれているわけです。仏教の教えと人間としての成熟ということに関して、大事な点が仏の智慧ということです。 世間の知恵と仏の智慧 これは普通の知恵と仏教の智慧はどう違うかというと、世間でいう知恵というのはだいたい知識的なところが強いわけです。世間の知恵というのは「ものごとの表面的な価値を計算する見方だ」といいます。あれは役にたつ、役にたたない。迷惑をかける、迷惑をかけない。1万円の価値がある、10万円の価値があると考える判断を世間的な知恵といいます。仏教の智慧は、「そのものの背後にある意味を感じ取るというのです」。だから、表面的には出ていないのだけど、その背後にある意味を感じ取るとこういうのです。そういう意味で考えてみますと、私たちがよく使う日常の言葉に、そういう日本語がたくさんあります。 先ほどの「ありがたい」とか、「もったいない」とか、「かたじけない」とか、食事の前に「いただきます」と、こういう言葉は全部そのものの背後にある意味を感じとって表現した言葉なのです。そういう仏教のそのものの背後にある意味を感じ取るという智慧の世界が分かって来ると、私たちはもうすこし興味深い世界が展開してきます。 私たちが育てられた医学教育だと人間に生まれたという意味(物語)はなかなか分かりません。生きるということの意味もあまりよくわかりません。死んでいくということの物語もよくわかりません。けれども、仏法の智慧という世界がうなずけてくると、人間に生まれたということの意味が「そういう意味があったのか」と驚き、生きていくということの意味(物語)は先ほどいう、人間として成長し、成熟してついに成熟した人間になっていくという歩みがあるのです。そして死んでいくということは、またもとの世界に戻っていく(生まれてきたもとの世界に戻る。浄土に還る、等)のだ。これはちょっと時間が短くて十分に説明できませんけども、そこに、人間として成熟する、仏の智慧の目で見ると、今まで見えなかった世界が見えてくるのだということです。 私の尊敬する東本願寺の専修学院の院長先生であった信国淳という方は。もう亡くなられましたけれども、著作の中で、「年をとるというのは楽しいことですね。今まで見えなかった世界が見えるようになるんですよ」とおっしゃっています。たとえば私たちは年をとってきて少し腰が痛くなるということを通して、腰が痛くなるということは、腰が痛くないということはあたりまえだと思っていたけども、腰が痛くなるということを通して、あたりまえではなかったんだなということへの気付きのチャンスになっていくんだとこういうのです。こういう気付きのチャンスになるという受け取りができるということは、仏教的な智慧の素養がないとなかなかこういう受け取りはでてこないですね。 医療と仏教(宗教)の協力 私たちはその医療の現場で老病死に直面している高齢者の人たちからいろいろ話を聴いていく中で、病気に対する対応と同時に、その人なりに完全燃焼の人生を生きていっていただくためには、どういうふうにしたら良いのだろうかと思うことがあります。そこで我われ医師がそのことで十分対応できないとするならば、対応できる人たちの智慧を借りる、そういう人たちとチームを組んで、そういうことに取り組んでいくことが大事だと思うのです。両方とも外科医がするとするならば、これはまさに、スーパーマンになっていかないといけないわけですけども、そこに自分ができない領域は出来る人に協力を求めて、いっしょにやっていくという、そういう協力関係を持つという謙虚さを医師の人たちにもっていただけたらと思うことです。 我々医療関係者(私を含めて)はいつの間にか「自分たちで十分やっている」と、「それ以外に何があるか」とこういうふうに傲慢になりやすいのですけども、この老病死を受容するというこの文化を私たち医療界はほとんど持ちえてなかったんではないだろうかと思います。 どういうことかといいますと、苦というものはどういう原理でおこってくるかといいますと、「私の思い」と「私の現実」に差があるということが苦になるわけです。私たち医療界では、病気の人をその人の思い、健康な状態にもどすという形でその苦を救うという取り組みをしているわけです。しかし、これには前提条件がありまして、よくなる病気の時だけ可能だろうということです。私たち外科医が手術をして治癒可能な病気のときはよくなっていって、その人の苦はなくなるわけです。しかし、私たちが高齢社会で最近、経験するのは、老病死の現実に直面して、もうよくならない状態、そういう病気とつきあっていかざるをえない多くの患者さんと接する機会があります。そういう人たちに対して、私たちの医療・医学は病気を元の状態(健康)に戻すという形の方向性だけでは救うことはできないわけです。 もう一つ差を縮めて、苦を少なくする方法があるのです。それは、私の思いが私の現実を受容するというこの方向性においてこの人の苦しみが少なくなるという事実があるのです。私たちはいつの間にか、病気を健康な状態にするという形で苦を救おうとしてきました、それ以外にはありえないと思っていたものが、その現実を受容するという形の中で苦しみ悩みを少なくするという取り組みが可能なのです。キリスト教の方で救われた人ですが、星野冨弘さんという方がいます。この方は20代で体育の教師をしていて、授業中に首の骨を折って、脊椎損傷。そして、今は車いす生活で、口に筆をくわえていろんな植物の絵を描いて、そこに詩を書いている人ですけれども、その人の詩に 「いのちが一番大切だ と思っていたころ 生きるのが 苦しかった いのちより大切なものがある と知った日 生きているのが 嬉しかった」 というのがあるのです。 確かに健康が大事ですよ、障害がないということが大事ですよという場合は、回復不可能な障害をかかえて「生きるのが苦しかった」。だけど、いのちより大切なものがあると知った日に「生きているのがうれしかった」。ということはどういうことかと言ったら、そういう世俗的な価値を超えた世界に気づいたときに、今、生きている、生かされている、ということが本当に「有(あ)ること難(かた)し」というふうに受け取れて、「生きているのがうれしかった」とこういう表現をされています。 そういう宗教的な世界へ接点をもつことにおいてこの老病死を受け止めて生きていく勇気をいただく方向があるという事実です。私たち外科医の教育の中でなかなかそういう実例に出会うチャンスがないわけですから、そういう視点を待ちにくいわけです。それで「そんなことあるの」、「負け惜しみじゃないの」とこう言いたくなるわけです。私自身もこの仏教の学びということを通しながら、死を超えていかれている人たちがいるのだな、ということを目の当たりにすることがあるのです。 生老病死の四苦を越えるためには仏教の智慧、仏教と接点をもっていくことが大事になります。仏の心に触れる、智慧をいただくことは「人間に生まれてよかった。生きてきて良かった」という世界に導かれるのですから、現実(老病死)の受容には智慧の世界が大事になります。老病死を受容するために仏教を使うというような、仏教は決して道具・手段・方法の位置に有るものではないのです。しかし、悟り、仏の智慧をいただく信心の世界において結果として、現実の受容に導かれるということです。生老病死の四苦を超える道から学ぶ、そして医療と仏教の協力ということがほんとに大事だなということを強く思わせていただいています。 不老不死(長寿)を目指す医療ゆえのゆがみ 私たちが外科の領域で扱う多くの悪性腫瘍の場合、治癒できる病気の時はよくすることが出来ます。しかし、いったん治癒したとしても加齢現象とともに、次なるガンが発症する可能性はあります。そうすると治療の繰り返しをしていくでしょうが、繰り返すうちに治癒できない状態になり、最終的に老病死につかまることになります。その現実を受容できるかどうかが大きな課題です。 この現実も仏さんよりの頂き物、私の背負うべき現実と智慧をいただいている者は受け取っていくのです。老病死の状況次第では、どんなにでも患者の様態は変化する可能性を秘めていますが、苦痛への症状コントロールができれば、医療者に「今、できる最善の治療をしていただき、ありがとうございました。」と労をねぎらい、周囲の人たちへ感謝の気持ちが示されるでしょう。そして最後の最後まで「今、生かされている」現実を精一杯生き、「死んでいくことも仏さんにお任せしています。」と、完全燃焼して生き切るのです。普段仏教の内容に縁のない外科医にとっては「エヘー本当!?」とびっくりするかもしれませんが。そういう文化を患者、家族、そして医療者が共有することが出来るならば、医療と仏教の協力関係というのが実現できると思うのです。 そういう世界を共有できないと、どういうふうになっていくかというと、これは象徴的なことなのですけど、私の知り合いの外科医が今、大分県のある大きな病院の副院長をしておりますけれども、この彼がこういうことを私に教えてくれました。 ある責任ある立場の人の大腸がんの手術をした。十分にガンという病名を説明して手術をしたのだと。その2年後に運悪く肺転移をきたして、それで、転移性肺ガンという説明を十分にして、また手術をした。これもまあなんとか乗り越えた。そしたらまた数年後、今度は肝臓のほうに転移が見つかって肝臓の手術をした。しかし、その入院中に検査をしたら骨への転移が見つかり、化学療法が始まった、化学療法をしたけれども。だんだん状態が悪くなっていった。毎日病室訪問をして状態を診ていたそうですが、亡くなる3日前に病室訪問をしたときに患者さんから「だましたな」とこう言われたのだそうです。そして気まずい関係のまま亡くなっていったそうです。 今までは患者さんはよくしてくれている医師と思っていたものが、だんだん状態が悪くなってきて、よくならないという状態を自覚するようになった時に「だましたな」とこう言われたのです。そして3日後に亡くなっていったというのです。こうふうに老病死という現実を受け取れない文化の中では、こういう現象も十分に起こりうると思われます。言われた医師としては、何か虚しさと疲れがどっとでることが想像できます。 分段生死(ぶんだんしょうじ) そこに、私たち医師が患者さんといっしょに老病死を受容できるという文化がないがためにそういうふうな、いうならば「燃え尽き症候群」にならざるを得ないようなそういう局面に出くわすことがあるわけです。これは、私たちが考えている医療という世界の考え方の偏(かたよ)りという、どういうふうな偏りかといいますと、生老病死という人間としての自然な経過・過程があります。そこで「生(生(う)まれて生(い)きる)」と「老病死」を分ける、分段生死とこういいます。 私たちは生まれて、生きて老いて死んでいくというのは自然の経過なのですけど、いつのまにか医療者の考え方は「生きている」ことと「死」を分段してしまうわけです。確かに私たちは救急外来では、この人は「生きている」か「死んでいる」かをはっきり区別しないと仕事になりませんから、「生きている」ということと「死んでいる」ということをはっきり区別するわけです。「生きている」ということは「死んでない」ということなのです。「死んでいる」ということは「生きてない」ということだ、という思考が医療現場を覆っているということです。 しかし、仏教の縁起の法では一刹那(ある説では75分の1秒)ごとに生滅を繰り返していると教えてくれています。「生きている」ということの裏に「死」があるのだと教えてくれているわけです。分段するのじゃなくて、裏表の関係、混在しているということが生命現象(命、いのち)の事実なのだということです。 私たち医療現場では、「生きている」ということと、「死んでいる」ということを別々のことだとしています。そうすると、いつのまにか私たちが生きている、生きていくことを邪魔するものが老病死だとこういうふうになっていくわけです。老病死は元気に生きることを邪魔するもの、この老病死をなくしていけば生きることが輝く、とこういうふうに考える傾向になりがちですけど、哲学的とか宗教的に言いますと、老病死をなくしたら「生きる」「生きている」ということの意味もなくなっていくのだということのようです。 死は敗北か これは私たち理科系の人間の発想では分かりにくいところですけど、そこに死に裏打ちされた「生」を私たちは一日一日生きている、たまたま偶然に生かされている、ということへの視点が本当にもてるようになってきたときに、「生きている」ことが「あることかたし」、死ぬのは必然ということの状況の中で、その生老病死の四苦の課題にともに協力をして取り組んでいこうとなるのです。我われ外科医は病気の治療に当たって治癒を目指して最善の知識、技術を総動員して努力することは当然求められることであります。しかし、全力を尽くした後は、本来の治癒力に期待して正に自然の経過に任せるしかありません。 しかし、病気の経過として、治療(最善を尽くし)の甲斐なく病状が進んだり、老化現象として死んでいくことは決して不幸の完成ではないのだという、こういう世界観をも幅広く持ちえるような発想が私たち医療関係者の医学教育の中に求められていると思われます。外科医としての仕事をしている間は、病気を良くしようという熱意の強さから死は敗北と考えて取り組まざるを得ないことも多いでしょう。 しかし、一歩距離を置いて大局から見て、老病死を受容するということの文化への素養を持つことも大事であると思われます。仏教の智慧の世界は世俗の思考をも包み込んでいる発想(矛盾なく成り立つ)と教えているのです。 仏教の智慧を身に付ける人格へ 今、私たちが外科という仕事をしておりますと、そういう分段生死という発想の中にいつの間にか落ち込んでしまいがちです。この老病死を受け取り、受容する生き方、これは決して患者さんのことではなくて、自分自身が医師としての仕事をしていく場合に、仏教の智慧の視点を持ち得るならば、一日一日を精一杯に生きて、人生を完全燃焼していく道、未練なく生き切る道を仏教は教えてくれているのです。 一人の医師として、自分の人生を満足して生きる、完全燃焼して生きることを考えるときに、仏教の智慧の世界が分からないと、いつの間にか私たちは明日こそしあわせになるぞ、明日こそ幸せになるぞと、死ぬまで幸せになる準備ばっかりで終わってしまう危険があるのです。今日が目的であるような一日一日にするためには、そこに仏の智慧(光明無量、南無阿弥陀仏)によって区切りをつけるということが大切になります。この区切りをつけるということをしていくことによって、この生きるということが輝いてきます。そしてその生きるということが輝くことによって、自然と「足るを知る(知足)世界」に導かれるのです。知足の世界を感得する者はその溢れる感動の中で摂取不捨の救いの世界を恵まれ、智慧によって死ぬ心配(不安)は取り越し苦労だと受け取り、今生かされていることを精一杯やっていけば、あとは仏へお任せでいいという世界に導かれていくわけです。 この「お任せ」という世界がなかなかすんなりとうなずけないわけです。この生きていることが“あることかたし”ということへの気づき、生きていることが大きなものによって支えられている、願われている、教えられている、生かされているのだということへの気づきがでてきたときに、そこに一日一日を大事にして生きていこう、そして一日一日を精一杯生ききっていけばよいという世界に導かれるのです。 仏の智慧と慈悲の世界を通して知らされることは、いつの間にか死ということは毎日経験しています。私は今、生かされていることを精一杯、一日一日を大切に、今日が目的であるように生きていく、そういう世界観を医師が持ち得るとするならば、患者さんとの対話の中で、幅の広い、時には内容の深い対応をすることができるようになるのではないでしょうか。 医療と仏教の協力関係が願われる 医療現場に老病死はあってはならないことだというふうに、その老病死の受容、受け取りの文化を持ち得なかったならば、どうしてもそこに老病死でいろいろ愚痴をいう人たちに対しての言葉かけがなかなか実現できないのではないでしょうか。そういうコミュニケーションの一つの幅の広さを培うためには、私は仏教的な視点、仏教が教えてくれている生死を超える道、そういうことを外科医の方々にも関心をもってもらいたい。生老病死の共通の課題に、仏教が生死(しょうじ)の迷いを超える道として教えてくれている。老病死を受け取っていく道としての文化が仏教ということです。お釈迦さんの時代から今日まで2500年の歴史で仏法が伝わってきている。決して仏教は過去の遺物ではない。私自身は学生時代まで仏教は過去の遺物で役に立たないと思っておりました。それは全くの無知と言うことであると気付かされたのです。 今日はみじかい時間で、言い尽くすことはできませんが、ぜひ皆さん方に老病死を受容する文化が仏教の中にあると。そして死というものは決して未来ではなくて、毎日経験していることだという仏の智慧の視点、そしてそのことを通しながら生きているということの「あることかたし」ということへの目覚め、気づきが非常に大事、そういうことが仏教が教える生死を超える道の内容の一部です。患者さんのため、そして医師としての自分お人生を意味あるものとして生きるためにも、仏教の智慧の世界へ是非とも先生方に関心を持っていただきたい、そして『医療と仏教の協力関係』へのご理解とご協力をお願いしたいということであります。 医療界の先輩の京大の総長をされた平沢 興先生が残された言葉に「愚かさとは 深い知性と 謙虚さである」があることを紹介してお話を終わらせていただきます。ご清聴をありがとうございました。 特別講演2;(2009年4月3日(金)12:45−15:30)抄録: 生まれて,生きる,そして老いる,病む,死ぬは人間として必ず通る道であります.この生老病死に関係する苦しみを四苦という,これはまさに医療の課題です.しかし,生死の四苦は仏教によって2600年の間,取り組まれてきた課題でもあるのです.同じ課題を取り組みながら日本の文化状況では協力関係は出来ていません.日本の医学教育,外科医教育はほとんどが宗教抜きでなされてきたからです. 今日まで,外科医は悪性腫瘍などに代表される外科的適応のある疾患に手術的治療で治癒を目指して努力を積み重ねて,治療成績の向上を実現してきました.外科医は手術などの治療で関わりのできた患者さんとは周術期の濃厚な接触を縁として病気に共に取り組む協力者としての人間関係がいつしかできています.治癒可能なときはよいが,治癒不可能となったとき,患者さんとよい関係のできた医師ほど,その後の対応への無力感を痛切に感じることになります.外科医としては医療の敗北としてあきらめるしかないわけですが,長年外科医として仕事をしてくると,治癒できない患者さんへの対応はどうしたら善いのかという人間的な悩みを潜在的に持つのは自然な流れでしよう。 老病死の四苦への対応は,老病死の受容,生死を超える道として仏教の悟り・信心の世界に解決の道が示されています.我われが受けて来た医学教育は唯物論的な科学的合理主義の思考方法です.仏教はそれらを包含する,四苦を超える智慧の世界を示しています。 患者さんだけでなく医療人の我われも人間として完全燃焼,満足度を考えるとき,我々が受けた医学教育の足りない面を補うだけでなく,それを超える世界観の仏教の教えに謙虚に耳を傾けることを考えてもよいのではないでしょうか.仏教の智慧は我われの分別を超えた思考として外科医を人間として幅の広い,そして深い思索へと導いて,人間として成熟し,生きてゆく勇気を育んでくれることでしょう.医療界の先輩で仏教の智慧に触れた,平澤 興元京大総長はその感動を「愚かさとは 深い知性と 謙虚さである」という言葉で表現されています。 |
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