誰もが世界の中心に居ると感じる世界C「物事を向こう側に見る分別」田畑正久
同朋(真宗大谷派宗務所発行)通巻708号(第62巻第四号)
2010年,4月1日 真宗シリーズ44ー48頁

私の周囲の事物は恵まれたもの

良いものだけを集める分別

 最初は生きることの意味が、プラス価値を上げて、マイナス価値を下げて幸せになっていくんだと思って生きてきた。順調にいっている間はよかったんですけれど、だんだん老病死が迫ってきて、プラス価値が減っていくという状況になってきたときに、生きることの方向がわからなくなってきた。まして、自分が問われずにいつも眺める人生でいいとこ取りをしようと思っていたから、終わってみればあっという間に人生が空しく過ぎているという現実に直面するのです。医療や福祉の現場において多くの患者さんたちの心や精神的な訴えの多くは、そういうことが絡んでいるわけです。その老病死をどう受け取ったらいいのか分らず、いつの間にか眺める人生なんですね。
 前回お話した数学の先生が、週に三日ほど注射に来ますから、そのとき話をするわけです。そうするとだんだん仏教のほうにもなびいてきます。もともと浄土真宗の門徒さんですから、私はどっぷりと浄土真宗の対話をするんです。しかし、家に帰ると、元の木阿弥。いろいろ話しているうちにこう言うんですね。ちょっと距離を置いて「いろんな考え方がありますからね」と。眺めるわけでしょう。仏教もある。いろんな宗教もある。「いろんな考え方がありますからね」と眺めて言うわけです。そして、「仏教は難しいですね」と言う。それは何かと言ったら、わかる範囲のものだと思って見ていますからね。仏さまを数学的に言うならば、不等号がいくらあっても足りないぐらいの、次元を超えた大きさのものを小さな私がわかろうとしているわけです。ですから「難しいですね」というのは、自分に理解できる範囲のものだと考えているからです。
 言い方をフライング気味に言うならば、「私の頭が悪いからわからん」と言えばいいのに、言わないんです。やっぱり理性・知性というのは、自分を超えたものがあると認められないわけです。理性・知性というのは世の中のことは全部わかる範囲のものだと。これは養老孟司先生が言っていますね。講義をすると学生が、「そこがわからないからもうちょっと説明してください」と。非常にいいことなんですけど、先生は「説明してくれればわかるという傲慢さの中にいるということに気づかない」と、こうおっしゃっています。
 私たちは理性・知性からいって、物事を向こう側にみるという対象化の世界では全部わかるはずだという前提で推し進めていますから、そう言わざるを得ないわけです。けれども、この世界のことを少しずつ知らされてくると、説明してくれればわかるということは、これは無理なんだと。私が圧倒的に大きいことをわかるということは無理なんだということがわかりますよね。

彼岸、浄土はあるのか?

 仏の世界を、彼岸とするならば、私が殻の中で右往左往している世界は此岸ですよね。此の岸ですよね。彼岸と此岸の関係はどういう関係か。まさに殻の中と、ひよこになった世界はどういう関係なのかというと、彼岸の世界は、この此岸の世界である迷いの世界を教えてくれる。善悪・損得・勝ち負けで、一生懸命生きているつもりで、迷いを繰り返している私の状態を照らし出してくれるということにおいて、彼岸はあるわけです。
 だから、いわゆる場所として彼岸があるとか浄土があるんじゃなくて、自分のこの世での理性・知性・分別での生き方が迷いでありますよ、ということを知らせるはたらきにおいて彼岸はあるんです。浄土はあるわけです。だから、物理的とか地理的に浄土があるのではなくて、自分の生き方の迷いを照らし出すということにおいて、確かに仏さまのはたらきはある。仏さまはいらっしゃるわけです。けれども、見せてくれといっても、見せることができないわけですね。だから、この圧倒的大きいものが、私のあり方を煩悩具足、遇縁の凡夫というふうに照らし出すことにおいて、この光明ははっきりしているわけです。
 この迷いを繰り返している私に、大きな世界から熱が届けられる。教えが届けられる。それを、本願・南無阿弥陀仏というわけです。名前となって、あなたに智慧といのちを届けたい。南無阿弥陀仏のこころは、「汝、小さな殻を出て大きな世界を生きよ」ということです。小さな殻の中で振り回されていることを明らかにしてくれるということにおいて、このはたらきはあるわけです。「如来まします」と。私に真実なし。真実は如来であった、といって私の迷いを知らせてくれます。
 私たちの理性・知性の発想は、善か悪か、得か損か、勝ちか負けか、好きか嫌いか、利用価値があるかないか、正しいか間違いか。だいたいこの物差しが、殻の中で分別で考えているほとんどですよね。そこには、真理とか、真実ということは話題にならないわけです。数学の問題では、この式が正しいことを証明しなさい、というわけですから、この式が正しいか間違いかですよね。けれども、この世間的な物差しを繰り返していってしまったら、その生き方は空過流転になります。それは、聖徳太子が世間虚仮・不実といって、まさに指摘したごとく、我痴で生きる私たちの理性・知性の分別のあり方は、結果として虚仮不実になりますよ、ということを教えてくれるということにおいて、それは真実であった。だから真実だということが話題になるのは、世間ではほとんどないわけですね。私の虚仮不実を教えてくれるということにおいて、それは真実であったと気づかされてくるわけです。

浄土ははたらきの世界

 自分の虚仮不実のあり方を知らされてみると、遇縁の凡夫とか煩悩具足の私のあり方は、私が救われないとするならば、無条件の救いを説く仏教は本物ではないというあり方です。これはちょっと、展開が極端かもしれませんけどね。世間、分別の考えでは、私が救われるか救われないかよりも、全体が、最大多数の最大幸福ということを目指してきたわけです。しかし、本当の全体とは、私を含んでの全体なんだと。私個人が救われないような全体はあり得ない。私を含んで全体になるんだ。と同時に、本当に仏教が救うか救わないかは、仏教が本当に真実かどうかが問われてくるんだ。私を救えないような仏教は真実ではない、本物ではないといえるわけですよね。

『浄土論』の中に、
観彼世界相  かの世界の相を観ずるに、
勝過三界道  三界の道に勝過せり。
究竟如虚空  究竟して虚空のごとく、
広大無辺際  広大にして辺際なし

 という言葉があります。これはどういうことかといいますと、仏さまの世界を観ずるに、いわゆる私たちの迷いの世界を超えているのだと。そして、仏さまの世界は、ものすごく広くて辺際がないんだと。私は初め、広大にして辺際がないというのは、それくらい浄土が大きいんだろうなあと、大きさを表現したことだろうと思っていたわけです。そしたら、故平野修先生の講演録に、辺際なしというのは、私が中心にいると感じる世界なんだと。辺際がないということは、ただ広いんじゃないんですね。私が中心にいると感じさせる世界なんです。あなたこそ仏教の目当てですよ、といって、仏法の教えが私たちに迫ってくる世界なんですよと。誰もが中心にいると感じる世界が、まさに仏さまの智慧の世界、浄土なんですね。
 私たちは分別で生きていけるといって、自己中心の思いなんですけど、私なんか大したことないという辺際にいるわけです。けれども、仏さまの世界は圧倒的に大きいという関係性の世界から、私は生かされている。願われている。教えられている。あなたが救われなければ本物、真実でない。私が救われなければ、本物でない。いや、人類の代表としての私なんだ。私たちはそういう使命を背負ってるんだというんですね。私という人間を救わないとするならば、仏教は本物でないんだ、とまで言えるわけです。私はそういう人類の課題を背負って、私が生きていくということは、そういう課題を背負って、仏教が本物かどうかを証明していく役割というか責任を、私たち一人ひとりはみんな持たされている。
 『歎異抄』に、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」(『真宗聖典』六四〇頁)という言葉がありますね。私ひとりのための本願、教えであったと。全体からみると、仏さまからみると、私なんか本当にちっぽけな存在なんですけれども、それが私こそ仏さまの目当てでありましたと考えていくと、私が本当に中心なんだと。この私を救わんがために、いろんな役割を演じながら、私に仏法に気づけとはたらきかけてくれているわけです。
 私は殻の中にいる世界から、ひよこになるという展開ですね。仏法を聴き始めた最初のころもそうでしたけれども、今もってこのたとえ話というのは、私たちを教える内容が含まれているなと思います。殻の中で私が中心だといって、自己中心でいる。結局それは暗い世界で仏教なんかなくても生きていけると豪語しているけれども、結局それは理知分別で有り、智慧がないから一生懸命考えても、虚仮不実、生きても生きたことにならないんじゃないだろうかと思います。
(つづく)本稿は、二〇〇九年九月二十七日に、京都・高倉会館で行われた「日曜講演」講演録に加筆・訂正いただいたものです。

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