誰もが世界の中心に居ると感じる世界D「物事を向こう側に見る分別」田畑正久

同朋(真宗大谷派宗務所発行)通巻709号(第62巻第五号)
2010年,5月1日 真宗シリーズ44ー49頁

分別を超えた世界

 エリザベス・キューブラー・ロス(一九二六―二〇〇四年)という女医さんがいました。その先生に、余命数カ月の末期癌患者が、「先生、私はいい生活はしてきたけれども、本当に生きたことがない」と、こういう訴えをしたそうです。世間的に、経済的には安定して、そこそこの生活を過ごしてきたけれども、あと数カ月のいのちだというときに、私は生きていたんだろうか。何か負けちゃならないと思って、走り回っていただけじゃないだろうかと思うわけです。空過流転の思いというか、いい生活はしてきたけれども、本当に生きたという実感がない。それは、外側を眺める人生で自分が問われることがない。責められることがない。そういう人生をずっと過ごしてみて、傍観者の人生で終わったときに、「いい生活はしてきたけれども、本当に生きたという実感がない」、という愚痴みたいになるんじゃないでしょうか。
 私の受け持ちの患者さんでの元中学の数学の先生が、「私たち凡夫には、覚るのは難しいですね」とおっしゃいます。これはどこが問題なのかと考えてみました。凡夫というのは覚りの言葉だと聞いています。仏さまが圧倒的に大きいという関係が感得されると、目覚めの言葉には懺悔(さんげ)と感謝を伴うと教えていただいています。仏を仏と思わない、本当に申し訳ない私でございます、南無阿弥陀仏、という懺悔と、本当に多くのお育て、生かされている私でございますという、感謝です。しかし、先程の言葉では「凡夫」とは言っているが懺悔が伴っているように思われませんでした。

照らし破られる私の殻

 いろいろな医療関係者の人とお話したときに、私が仏教に関わっているというのを知っている人たちがときどき、「特定の宗教というのは私は信じていません。宗教に入っていませんけれども、私には宗教心があります。私には信仰心があります」と、こういう言い方をされることがあります。
 サムシング・グレートというか、何か大きいものに対して仰ぐというかお参りをするというか、そういうものを崇(あが)めようとする気持ちはあるんだというわけですね。でも、何となく私は違和感を感じるわけです。どうしてかなと考えてみたら、根は同じなんだと思いました。「宗教心があります」「信仰心があります」「凡夫には覚るのは難しい」と、言葉は宗教用語を使っているわけです。けれども、それを使っている人の内面性に、懺悔と感謝が伴っているかというと、伴っていないわけですよね。凡夫ですと気づいた人は、「参った、ナンマンダブツ」と頭が下がっているはずなんです。それが、頭を上げて「凡夫には覚(さと)るのが難しい」ですね、とこう言うわけですよ。内実の懺悔と感謝が伴っているかどうかというと、これはどうかなと思います。
 さきほどの信ということですが、信心ということは、物事を対象化して、殻の中から仏教がわかったら信じます。仏教がわかったらお念仏をしますというかたちでの信心ということであれば、仏と私の関係を考えたら自然とわかると思うんですけれども、圧倒的大きいものを私がわかるということは無理なんですね。そしたら、私たちが仏教がわかったら信じますというのは、一生かかっても無理なんですよね。これは、私の独断と偏見かもしれません。
 どうなっていくのかと言いますと、仏さんに照らされて見える私の愚かさ、私の煩悩性、これははっきりするわけです。ある方が、信心というのには条件があると。一つは、疑いなしということだ。もう一つは、その心が清浄な心である、と。私たちは自分の心をきれいにして、仏教がわかったら信じます。仏教がわかったらお念仏しますという発想ですけれども、この大きいものというのは、私の姿を知らせるというはたらきにおいて、光明無量ですね。そして、その空過流転を繰り返す痛ましい存在の私に、何とか本願・南無阿弥陀仏が名前となって智慧を届けたい。いのちを届けたい。光明名号ですね。
 「正信偈」の中の善導大師のところに、「善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁」(東聖典二〇七頁)とあります。私たちに信心が起こってくる展開は、光明と名号が因縁なんだと書いていますね。だから、仏さまの光明によって私の愚かさがはっきりした。そして、その者に何とか智慧を届けたい。いのちを届けたい、という本願・南無阿弥陀仏の名号が私に至り届いた。私がお念仏して生きていこう、私の思いを翻して、仏の教えのごとく生きていこうと一歩踏み出すときが、まさに信心をいただいたという展開になっていくんじゃないでしょうか。そこに、自分の愚かさと煩悩性は疑いなしにはっきりしたわけです。と同時に、そのことを知らせていただく光明無量は、まさに清浄な心だった。私が自分の心をきれいにして、そして仏教は全部わかって、自分が疑いなしで清浄な心で信心をつくろうと思っても、これは無理なわけです。

空過流転から実りある人生へ

 仏さまの教えに照らされて、私の愚かさが百パーセントわかった。疑いなしにわかった。そして、その者を何とか救いたいというお念仏が、本当に本願として私の迷いの姿を照らし出す、あばき出すというはたらきとして、私たちは間違いなしにそのことのはたらきがありました、と。そのことを知らされるときに、光明と名号をもって、私たちはいつのまにか、私の思いを翻して、仏の教えのごとく、お念仏して生きていこう、と。それは、決して吹けば飛ぶようなちっぽけな私じゃなくて、まさにあなたを目当てに、あなた一人が救われなければ人類は救われませんよ。いや、あなたが救われるか救われないかが、人類が救われるか救われないかの試金石として今あなたがそういう責任を担い、そういう場に立たされているんです。ぜひとも人生を生ききって、仏教が本当か本当でないか確かめてくださいという場を、私たちは今いただいているんじゃないでしょうか。
 まさに人類の課題を背負わされて、本当に私が救われるか救われないかということの中で、人類の救いが実現できるかできないかが問われてくるわけです。そこに、仏さまのまことの教えを、私が殻の中で受け止めてみて、もし仏さまの教えに出遇わないとするならば、まさに空過流転というか、眺める人生を送って、生きても生きたことにならないだろうということです。そして現在、迷いの世間の表層を、勝った負けた、損だ得だで振り回されている私でございます。けれども、その私を目当てに、本願・南無阿弥陀仏が、よき師、よき友を通して私たちにはたらきかけられている。その教えを聞法という歩みをとおして、仏さまが言っていることが本当に空過流転を越えて私を実(みの)りある人生に導くものでした。実りある人生に導いてくれる教えでありました。というときに、この実りあるということは「実」ですよね。我が人生で「実」であったということが、頷(うなず)けていくときに、それが真実の教えであった。ということは、浄土の真宗ということは、まさに私がそういう迷いを超えて歩ける道なんだということを教えてくれている、まことの道なんだ。この我が人生において仏さまがおっしゃっていたお念仏が「実」であったと、そういう人生を生きていくという歩みに私たちは導かれていくんです。

人類の課題を背負った私一人のために

 真宗大谷派の小倉の方のお坊さんで、伊藤元(はじめ)という先生が、「南無阿弥陀仏というのは、人間に生まれてよかった。生きてきてよかった、という人生を歩む心になってほしいという心ですよ」と言われています。人間に生まれてよかった。生きてきてよかった。生きてきてよかったというのは、現在完了ですよね。そして継続です。だから本当に今までの人生で無駄なものは一つもなかった。いろんなことがあったけれども、今ここでお念仏に出遇うためのご縁であった。本当にそのことに出遇うべきものに出遇って、あとは仏さまにお任せ。南無阿弥陀仏と生きていける道に出遇えた。それがまさに、実りある人生を今生きる世界に立たされております、ナマンダブツとお念仏させていただくときに、それが真実であった。だから、大谷大学の学長さんが、あなた信心は大丈夫ですよと証明してくれるわけでもないし、門首が、あなた大丈夫ですと証明してくれるわけでもないわけでしょう。
 私たち一人ひとりが、この人生において、本当に仏さまが言っていることは本当でした、と。そういう歩みを確認することを一つの使命として課せられているということではないでしょうか。本当にこれは本物でした、真実でありましたということを、お釈迦さま以来、七高僧、法然、親鸞さま、そして、お念仏の道を歩まれた先輩方が、真実であることをお念仏を讃えるというかたちで私たちに身をもって示してくださっている。また、そういうものに私たちは出遇って、本当にお念仏を我が人生の中で確認していく実験をしながら、お念仏が本物でした、本当でしたという確認を一歩一歩歩んでいくという仕事が、私たちには与えられていると思います。
 そういう意味では、理性・知性・分別で、仏教なんかなくても生きていけるというのは自己中心の思いなんだけれども、結果とすれば、自分というものをつまらないものに感じさせていた世界。しかし、お念仏、仏さまのはたらきに触れていく(浄土を生きる)ものは、私が、まさに誰もが世界の中心に居る。そういう私が本当に人類の課題を背負って、一人ひとりが生きていく使命というか、役割というか、責任を負いながら今、生きていくということなんです。
 そういうふうに私は医療現場でまさに老病死というのに出会って、いろいろ訴えてこられる患者さん、そして、長年浄土真宗のお育てをいただく歩みの中で、いろいろな先生方のお話を聴きながら、そういう今の現実を見させていただくときに、みんなが人間に生まれてよかった、生きてきてよかった、死んでいくこともお任せしております、ナマンダブツと、そういう世界を一緒に生ききっていただくならばいいなと。そういう世界を実現できる間柄であれば、そういうことをお互いに感じる僧伽というものが、さらに発展していけばいいなとを思うことであります。
 そういうことで、「誰もが中心に居ると感じる世界」という講題でお話させていただきました。ありがとうございました。
(おわり)本稿は、二〇〇九年九月二十七日に、京都・高倉会館で行われた「日曜講演」講演録に加筆・訂正いただいたものです。

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