NHK宗教の時間「今、今日を生きる」(2010年6月20日放送)

仏教へのご縁
 私は大学に入るまでは仏教というものは、もう今、現在には役に立たないものだと思っておりました。それが大学で学園紛争ということを経験し、いろいろ考えるきっかけがありました。私は学生時代に剣道をしておりまして、剣道部の友人がたまたま九州大学の仏教青年会というグループに入っておりまして、その寮を訪ねていったことがありました。九大の仏教青年会は法学部と医学部の先輩方が無料法律相談とか、無料健康相談というボランティア活動をしておりました。そのボランティア活動の加勢をする学生は部屋代がただ(食費だけ負担)ということが分かりまして、私はその部屋代がただの方に魅(ひ)かれて、その仏教青年会に入りました。
 仏教青年会に入って2年目、学生の世話係の総務という役割がまわってきましたので、受けてしておりました。仏教青年会を代表して挨拶(あいさつ)をしてくれと言われる機会もありましたが、私は「仏教なんかなくても生きていける」と思っておりましたので、非常にとまどいを覚えておりました。そしたら、たまたまあるとき新聞を見ておりましたら、福岡教育大学仏教研究会の催し物があるという案内が新聞に出ておりました。私はその新聞記事を見て、連絡先をたずねて好奇心からその研究会に行ってみました。

よき師との出遇い
 そこでは、細川 巌(いわお)という先生、この先生はバケ学、化学の教授をされておりましたけども、仏教のお話を学生さんとか一般向けに、先生の自宅を会場としてなされていました。その時が私には初めて仏教(浄土教)の話をじっくりと聞くという機会だったのですけれども、非常に興味深いたとえ話がありました。
 それは卵のたとえといいますかね、私たちは卵の殻の中におるような存在なのだと。殻というのは「私が」「私が」という自己中心の思いだそうです。で、その殻の中におる私はどうしたら仕合わせになれるだろうか、と考える。そうするとやはりみんなから善い人間だと思われたい、悪い人間だとは思われたくない。できることならば損をしたくない、得になることを心がけよう。そしてできることならば勝ち組の方に入りたい、負け組の方に入りたくない。そういう善悪、損得、勝ち負けに考えながら一生懸命生きているのだ。しかし、そういうことに振り回されながら結局は卵は腐って死んでしまう、というのが私たちの人生なのだと。しかし、卵は死ぬために生まれてきたのかというと決してそうではない。卵は親鳥に抱かれて親鳥から熱を受ける。熱というのは仏教で言うならば教えということだそうです。その教えを受けていくとその黄身の部分がだんだん成長し、ものを見る目、考える頭、食べる嘴(くちばし)、羽ばたく羽、人生を歩む足が出てきて、そして時機熟して“ひよこ”になる。このひよこになるというのを禅宗では「悟り」といい、浄土教では「信心をいただく」ということなのだ。ひよこになってみて初めて自分が殻の中にいたなあということに気づく、と同時に大きな仏教の世界があるということに気づく。そしてそのひよこになったものは大きな光のもとをだんだん親鳥になっていくという歩みをしていく、これを仏になるというのだ。こういう例え話でした。

一生被教育者としての歩み
 私自身のこれまで22年間の歩みを振り返ったときに、ほんとに先生が言われるように善悪、損得、勝ち負けに振り回されていたなということを思いました。お話の後の質疑応答の時間に、私は「先生、その大きな世界に出て見たいんですけど」と質問をしたのです。そしたら先生は、どう答えられたかというと、「毎月1回こういう会をしていますから、1年続けてみませんか」と言われました。それから1年続けました。1年間続けた頃、先生に1年間の感想と、今後のことをちょっと相談したら、「そうですね、田畑さん、3年続けたら分かりますよ。」とこう言われたのです。それから3年続けたのですけども、3年も続けないうちに分かったことがありました。それは、仏教というのは一生聞いていく教えなのだなということが分かりました。それで今日までその先生とのご縁で、30数年仏教の世界、仏教の学びをさせていただいております。

生老病死の四苦を共通の課題とする医療と仏教
 そうしているうちに私は大学を卒業しまして、消化器外科の仕事を主にしてまいりました。その外科の仕事をしながら仏法の学びをしていたのですけれども、最初のうちは仏教の学びと、医師としての仕事というのは別々のことを平行してしているような感じがしていたのです。ある時、埼玉医科大学の哲学の教授で秋月龍aという禅宗のお坊さん(師家)がいらっしゃいまして、その先生の本を読んでいたらこんなことが書いてありました。「医療と仏教は同じ生老病死の課題の四苦に取り組んでいるのだ。だけれども日本では両者の協力関係ができていない」。医学部の学生さんに「皆さん方がこれから仕事をする医療の領域というのは人間の生老病死の四苦に取り組むのです。仏教は同じ生老病死の四苦の課題に取り組んで2千数百年の歴史があります。そして、それなりの解決の方法を見出しています。医療の仕事に携わるものはぜひとも仏教的素養というものを身に着けてほしい」、ということを医学部の学生さんにずっと語りかけていたということが本に書かれていまして、私は非常に勇気付けられました。そして医療と仏教が同じことを課題としているのだなということを改めて思いました。その後も仏教の学びと外科の仕事をずっとしてまいりました。

医療は老病死の先送り
 医師としての経験を約20年積んで、ある病院の外科の責任者になっていた時、70歳代の大腸がんの患者さんの治療として私たち外科チームで手術をしました。この患者さんをその後5年間、再発がないかといことを注意しながら外来で経過をみていきました。そして5年経過したときにこの患者さんに「よかったですね、もう大腸がんの心配はありませんよ」と、患者さんにお話をして、開業医の先生にお返しをして、「もう病院にはこなくてもいいですよ」という話になっておりました。
 しかし、その2年後、今度は体が黄色くなってかえってこられたのです。これは医学的にいうと黄疸といいますけども、黄疸が出てまた病院のほうにこられました。そこで検査をしてみましたら、こんどはすい臓がんが発症していて、そしてそれが肝臓の方にたくさん転移しているという状態でした。すい臓がんというのはなかなか見つけるのが難しいところでありますけども、まして肝臓にたくさん転移しているということであれば今の医学ではちょっと対応ができません。この患者さんはやはり肝臓転移でだんだん状態が悪くなってなくなられました。 
 私はこのときに私たち外科チームが手術をしたということは老病死につかまるのを5年ないし7年先送りしたということだったんだなということを思いました。よく考えてみると、私たち医療という仕事はこの老病死の先送りを一生懸命しているのだなということです。

四苦を超える道としての仏道
 仏教の学びをしてきますと、仏教は生死を超える道ということを教えてくれます。生死というのは生きる、死ぬと書いてショウジといいます。生死を超えるというのは生老病死による四苦の苦しみを超えるという意味もありますし、生死というのは私たちの迷いという意味でもあります。そういう迷い、そういう四苦を超える道を仏教は教えてくれています。
 なかなかこれは世間的な常識で「生死を越える」なんていってもなかなか分かりづらいのですけども、その仏教の学びをしていくと、「生死を超える」としか表現のしようのないその生死を本当に超えていく道ということを教えていただくんだなということを思わせていただきます。
 私はそれで、やはり医療と仏教が協力してこの人間の生老病死の四苦の課題に取り組むということが大切だと思って、そのことへの理解を多くの人にしていただくために、今、取り組んでいるところです。今日はその「今、今日を生きる」という講題で、その生死を超える道ということを少しご紹介させていただこうかなと思っております。

時間をどう考えていくか
 私たち普通世間では、時間というものを直線的に考えまして、過去があり現在があり未来があるというふうにずっと時間は直線的に経過するように思っています。しかし、仏教は「今、今日しかない」のだと教えてくれています。ここのところが非常に難しいところですけども、仏教は実感を大切にします。そして仏教は「今、今日を大事にしましょう」と教えてくれているのです。
 私が大分県で医療関係者の人たちに、「仏教と医療の協力」という話をさせていただいた時、仏教は「明日はありません、今、今日が大事ですよ」と教えてくれています、という話をした時に私の知り合いのある病院の院長先生が質問をされたのです。どういった内容かといったら、その方が「田畑さん、私たちは明るい未来がある、明るい明日があることが、今日を生きるエネルギーになるのですよ。明日がないなんていわれたら困るじゃないですか」、非常に素直な質問ですね、大事な課題です。
 私はこういう質問に象徴されるように、仏教抜きの世間では、いつのまにか明日こそしあわせになるぞ、これの解決がついたらもうちょっと楽になるぞ、といっていつの間にか明日が目標(目的)になっていて、今日は明日のための準備のような位置にあつかってないだろうかな、ということを思わせていただきました。

目的に尊厳があり、手段・方法・道具には値段がある
 よく命の尊厳ということを言いますけど。尊いとか尊くないとか判断する基準というのは、いろいろあるようですけども、私が教えていただいた哲学の教授がこんなことを言っておりました。
 「目的には尊厳があり、手段・方法・道具の位置にあるものは値段がある」とカントという哲学者が言っているのだそうです。目的はとりかえようがない、一番大事な目的ですけども、手段・方法・道具の位置にあるものは、目的が達成されたならば使い捨てにされるという位置づけになるわけです。だから手段・方法には値段があるということは相対的な価値の位置にあるものだということでしょう。そして目的が達成されたならばもうそれはいらないという可能性があるわけです。
 「明日こそ幸せになるぞ」、「明日こそ幸せになるぞ」と生きているときは明日が目的であって、今日は明日のための準備の位置にあるというふうになっているのです。これはパスカルというパスカルの原理で有名なパスカルさん。この方はクリスチャンですけども、パンセという本の中でそのことを、私たち人間はいつのまにか「明日こそ幸せになるぞ、明日こそ幸せになるぞ、と死ぬまで幸せになる準備ばっかりしている」という主旨のことを書かれています。言われてみればそうかもしれません。やっぱりここに私たちはいつの間にか、明日こそ、明日こそを生きているという現代人の有り方があるように思われます。

今、今日の受け取り
 仏教が「生死を超える道」という形で教えてくれているのはこのあたりに非常に大事なヒントがあると思うのです。「今、今日が大事だ」という仏さんの心をいろいろたずねてみますと、何人かの先生の言葉が貴重なことを重層的に私に教えてくれているように思われました。一つは養老孟司という先生です。この先生は東大の解剖の教授をされておりましたけれど、マスコミなんかで非常な有名人ですけども、この先生の対談というものを読んで教えられることがありました。そこではこんなことをおっしゃっていました。たとえば、「昨日の夜、昨日の私は死んだんだ。そして今日の朝、今日の私が誕生した。今日という日は初体験の日なのです。そして、今日の夜、今日の私は死んでいくのです」、とこういわれています。そして明日の朝また目が覚めたらまた新しい私が誕生していくのです。それは毎日、生まれては死に、生まれては死にということを繰り返しているということを教えてくれています。 それは1日、1日が貴重な時であり、有ること難しの1日である。その一日一日を大切にしましょうということを言わんとされているのだと思います。
 もう一つは、私たちの仏教の先生が一日一日を仏教の教えをいただいて大事に生きるとはどういうことかということを教えようとされて、「今日の朝、目が覚めた時に、今日の命がいただけた、南無阿弥陀仏、と今日一日をスタートするのですよ」、と教えてくれていました。 そして、今日、夜にやすむときに「今日、私なりに精一杯生きさせていただきました、南無阿弥陀仏、とやすんでいくんですよ」と教えてくれていました。
 私はその二人の先生を合わせまして、毎日、毎日、目が覚めたときに「今日の命をいただけた南無阿弥陀仏」と今日、一日をスタートさせていきます。そして、今日、夜やむときに「今日、私なりに精一杯生きさせていただきました、南無阿弥陀仏」と死んでいくんだな、ということを思わせていただいております。

念仏のはたらきで区切る
 そういうことを考えながら、またある先生からこんなことを教えていただきました。私たちというのは今、今日という時間をとらえるのがなかなか難しいのだと。確かに今というのは一瞬ですから、なかなかとらえどころがありません。それで今という時間のとらえどころがないと、どういうふうになるかというと、いつの間にか過去のことをいろいろ考えて、あの時ああしとけばよかった、この時こうしとけばよかったと考える。
 もう終わったことを今もってきて、いろいろ悩む、これは「持ち越し苦労」といいます。一方ではちょっとひまになるとまた未来の心配をこれはどうなるだろうか、あれはどうなるだろうか、とかそういう未来のことをもってきて心配をします。これは「取り越し苦労」といいます。いつの間にか私たちは「持ち越し苦労」、「取り越し苦労」という形で振り回されていることがあります。
 でもその先生はこうおっしゃるのです。そこに区切りをつけることが大事だと。どういうことかといいますと、終わったことに対しては、もうそこで「持ち越し苦労」を昨日と今日の間で区切りをつけるのだと。そして、「取り越し苦労」については明日と今日の間に区切りをつけるのだ。

念仏に込められた智慧
 仏法の心、仏の心をいただいてみますと、このお念仏というのは私たちに智慧と命を届けたいという心なのですね。私たちがお念仏によって智慧をいただくということは、その智慧の部分的な味わいとするならば、そういう区切りをつけていただける、ということかなと思うのです。そうすると昨日までのいろんなことが南無阿弥陀仏でそこで区切りがつく。そして今日一日、精一杯生かされていること受け取って生きていこう。そしてふと未来の心配が出てくると、「ああまた私の自力のはからいが始まった、南無阿弥陀仏」と、そこに区切っていただく。そういう意味ではお念仏というのは私たちに区切りをつけるということを教えてくれているのだなと思います。
 最初にお話したように、いつの間にか明日が目的であり、今日は明日のための準備の日であるような生き方をしていた私が、今日、一日を過去との区切りがつき、未来との区切りがつく、という区切りを私たちはつけていくことで、今、今日を完結した1日であるかのように受け取り、生きることを輝かせていくというか、今日1日を目的であるかの如くに、大事に生ききっていく道に導かれると教えていただいています。

死にたくないとは宗教的目覚めを求める叫び
 それと同時に時間ということを考えたときに、産業医科大学というのが北九州市にあります。そこに非常勤講師でこられておりました古川泰龍という真言宗の僧侶の方がおられました。この先生は数年前なくなられましたけども、その先生の著作を読んでみますと、「『死』は救えるか」(地湧社、1986年)という本の中で先生はこんなことを書いておりました。「高齢になったり、大きな病気をした患者さんがよく『死にたくない』とか、死なないわけにはいかないから要求をさげて『長生きしたい』」とこういうことをおっしゃると。で、この先生は「死にたくない」とか「長生きしたい」とかいうのにはある深い意味があるのだとこういうのです。
 その心をこんなにおっしゃっていました。「私は生まれてから死ぬという、有限の命を生きてきた。大きな病気をした、だんだん高齢になって死が近づいてきた。だけれども、出会うべきものに出遇わないまま人生を終わろうとしている。何か出遇うべきものに出会ってない、出会うべきものに出会いたい、という思いが『死にたくない』という表現になっているのだ」。
 その「死にたくない」というのは生まれてから死ぬという有限の命を生きてきたものが何か出会うべきものに出会わないまま人生を終わろうとしている。何か死に切れない、「死なない命にめぐりあいたい」のだという宗教的目覚めを求める叫びである、というのです。
 仏教の言葉に無量寿というのがあります、無量寿というのは無量の寿(いのち)と書きます。いやこれは仏の心、永遠ということでもあります。ということはこの無量寿のいのちにめぐりあいたいのだということだというのが「死にたくない」「長生きしたい」という心ですよ、とおっしゃっていました。私はその言葉は、どうだろうかなと考えていろんな本を読んでみましたら、ある大学の哲学の先生もそんなことをおっしゃっていました。「死にたくない」「長生きしたい」というのは「死のない命にめぐりあいたい」のだという宗教的めざめを求めている叫びであると書いてあったのです。

今、永遠に出遇う
 私たちが仏の心、南無阿弥陀仏というお念仏に出会っていくときに、そのお念仏の無量寿に出遇っていくといいます。それは仏の心、永遠の世界に出遇うのです。そうすると私たちは今の一瞬に永遠に出遇うという。これは普通の考えでいうと今と永遠というのは矛盾するようなことになるのですけども、仏さんの智慧をいただいていくと、この今と永遠を生きるということは決して矛盾しなくなるのです。これは生死を超えるという形で表現された世界なのだと思います。そういう今の一瞬に永遠に出遇うというのが浄土教でいうと念仏するということで実現する世界です。
 歎異抄という本がありますけども、歎異抄の第一章には「弥陀の誓願不思議にたすけられ まいらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏申さんと思い立つ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり」というのがあります。摂取不捨というのはおさめとって、捨てずという意味です。この念仏申さんと思い立つ心がおこった時、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり。とは念仏申さんと思い立つ心がおこった時、仏さんの世界(無量寿)、永遠に出遇っていくのです。
 いや永遠に出遇うというか、仏さんにお任せしとけばいいという大きな世界です。 出遇うときにいつのまにか念仏せずにはおれないという展開があります。その念仏せずにはおれない展開で念仏申さんと思い立つ心がおこったときに摂取不捨、永遠という世界に出遇うのです。それは生死を超えるという形で表現している救いの世界だと頂いています。

往生浄土の歩み
 今の一瞬に念仏申さんと思い立つ心がおこった時に、永遠に出遇っていくという世界があるのです。仏の心に触れ、念仏申さんと思い立つ心がおこった時に、私たちは本当に「出会うべきものに出遇ってよかった」という世界を身体全体で思えるようになってきます。その結果、いつの間にか「いつ死んでもいい、いつまでも長生きしてもいい、おまかせします。私は生かされていることを精一杯、今、今日を一日一日生ききっていきます」、という世界に導かれていくのです。
 念仏によって永遠と出遇うという世界(浄土を生きる存在になる)をいただくときに、それは明日があるとか、どうのこうのじゃなくて、今、生かされていることを精一杯生ききっていけば、明日はおまかせでいい。もし明日また命が与えられたならば、また明日は明日で精一杯、一日一日大事にして生ききっていこう。そういう世界を生きていくものは一日一日を大事に生ききっていって、あとはお任せという生き方で、命の短い、長いの執われを超えて生きていく世界に導かれていくのです。
 私はそういう世界を味わっていかれた先輩方をいろいろ見たり聞いたりする機会がありました。私は医療の世界で、確かに現代の進歩したいろんな治療法で病気をなおしていただいて、できるだけ長生きするということも大事でしょう。確かに医療で平均寿命が世界を誇るように長生きできるようになりました。しかし、その多くの高齢者の人たちの現実を医療・福祉の現場で接してみますと、長生きしたことを本当に喜べているかどうかということを考えてしまします。
 日本人の平均寿命は昭和25年は60歳だったそうです。それが今は日本人と生まれた人の半分以上が、80歳を超える時代になりました。このプラス20年、人生が延びた時間を本当に長生きしてよかったか、というと、最初のうちはお元気なうちは長生きしてよかったというふうなことをおっしゃる人が多いのですけども、だんだんと老病死の現実に直面するようになると、私に愚痴みたいにいろいろな訴えをされる方があります。

高齢社会の課題
 この老病死をどう受け取るか、というのは高齢社会を迎えまして医療の現場でも福祉の現場でも非常に重大な、大切な課題になっています。しかし、これを単に「健康で長生き」、「健康で長生き」という方向だけではそういう病気になったときに、老病死の現実が受け取れない、戸惑い、愚痴を言うという事実になって現れているのです。
 また命の尊厳ということで、時間的な長さを延ばす延命医療になりすぎて、老病死の受け取りがこれでよいのだろうかという現実が出てきています。この現代日本の医療・福祉の現場の課題は、今後の高齢社会を迎えるにあったてますます切実な課題となるでしょう。
 この現代の課題を、医療と仏教が協力をしてこの生死を超える道を志向して、医療によってできるだけ長生きさせていただく、病気も助けていただく。そして助かって長生きできた時間、その時間を生かして仏法とのご縁が出てきて、気付き、目覚めの展開があるならば、老病死の現実に出会うときでも、「人間に生まれてよかった、生きてきてよかった」と、受け取っていけるでしょう。
 そして本当に一日一日を目的みたいに大事に生ききっていくという世界に導かれ、そこで、いつ死んでもいい、いつまで長生きしてもいい、おまかせしますという展開があると、こんなすばらしいことはないのではないかなということを思っております。

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