「医療・福祉の現場で求められる「物語性」についての考察〜人間に生まれた物語性〜」真宗学・第123、124号・P125-144・2011年3月発行

1.現代人の思考傾向と医療の現状
 (1)人間に生まれた物語性が欠如する現代の日本人
 戦後の教育をうけた日本人は、宗教性を極力排除した公教育の中で成長してきて、宗教性を抜きにした文化を生きる人々が大多数を占めている。西欧の文化・社会を見本に科学的な合理主義を拠り所に物の豊かさを追い求め、実現していく時代を生きている。それは科学的合理主義信仰を生きているかのような思考様式が世間を席巻しているということである。現代社会を生きる多くの人は、人間に生まれた物語、生きることの物語りという物語性は、ほとんど無視して、生きるための手段・方法、生活の糧のための職業が主関心事となり、多くの社会活動の動きを展開している。
 その状況の中で、団塊の世代が定年退職となって高齢者の仲間入りをする時代を迎えようとしている。世界に類を見ないスピードで高齢社会を迎えようとしている日本社会の中で、延びた寿命をどう生きるか、生きることの意味・意義(物語)をどう受け取っていくかが大きな課題となっている。「健康で長生き」をひたすら求める大多数の人々の心には老・病・死の受け取りの文化が乏しく、生老病死の四苦の課題の受け取り、生死を超える道・仏道への素養が無くなろうとしている。そのために人間に生まれた物語性が分からなくなってきている。医療福祉の領域で宗教的な実践を考えるうえで、仏教、とりわけ浄土教では生まれること、生きること、老いること、病むこと、死ぬことの物語を、生死を超える道として教えている。このことは生きる意欲、生きる方向性を考える上で、大きな関心事である。

 (2)科学的合理主義的思考の世界
 現代の生物学、医学は生命現象を客観的に対象化する思考で構築されていて、医療福祉の関係者の養成教育や、その後の訓練も、人間というものを客観的にみる科学的合理主義の思考で実施されてきた。死についても脳死、心臓死、脳・心臓・肺すべての機能が停止した死(三兆候説)などといろいろ想定されて、死も客観的に把握できるものとされている。生命現象が科学的に研究され、医学の領域では長足の進歩発展がある。その応用としての医療・看護の分野では多くの人がその恩恵を受け、平均寿命が延びて人間の寿命の天井に近づこうとしている。
 普通、現代人がしている考えは「対象化」する思考である。自分という存在が居て物事を外側に、向こう側に眺めるように見る見方・考え方である。自分が世の中のことを見渡し、利用価値の有無、敵味方、などと考えながら、自分と切り離して見ることである。このような考え方により自分が一つあって向こう側にもう一つあるという「二」という関係ができる。このように利用価値のあるものを集めて自分の人生を、自分の思いを実現するように歩もうとする考え方を「対象化」(対象論理)と言う。
 一方、仏教が縁起の法で教えるものは「一体化」(相即の論理)と言われるものである。これは自分という存在は宇宙の中の全ての事象が私と関係しているということである。すなわち様々な因や縁が全て自分の意図とは関わりなく時間的・空間的に無数に集まり(関係し)、今の「自分」という現象を仮に作り出しているということである。なおかつ、自分という存在は一刹那ごとに生滅を繰り返している。つまり生まれては死に・・・・の生滅を繰り返して、生と死が裏表(生死一如)という在り方で私が存在しているということである。
 現代日本の多くの人々の思考方法は、物事を客観的に見て普遍的な事象を積み重ね、自分の人生を確かなものにしていこうとすることである。客観性があるということは、皆が見ても分かりやすくはっきりしている。しかし、この思考方法で種々の物事の全体像を正確に把握することが出来ない。この思考方法では形で表せないもの、白黒とはっきりとしない灰色の領域、そして感性・感情の部分は抜け落ちるだろう。例として「母の涙」を客観的に分析してみる。すると、「秋のもの悲しい季節に落ちることが多い、成分はH 2Oが何%でNaclが何%で、ボリュームが何ミリリッターで比重がなんぼ、生物学的に分泌様式は・・・・・・で、涙腺の平滑筋が緩むとポトポトと落ちる。」という結果が出る。このように分析的に解明して、それらを再統合して「母の涙」の全体像を把握しようとすると何か大切なものが抜け落ちてしまっていることが分かる。

 (3)医療の現状
 医療の仕事は患者と初対面の時の全身の観察から始まり、病歴、生活歴、家族歴など情報収集となっていく、患者の診察、客観的な所見を集めて全体像を作り上げていくようになっている。患者の個人的な人生観・病気観・宗教観などは私的なこととして殆ど触れられずに、人間としての個別性は極力排除され、人体という普遍化されたものとしての対応がなされる傾向がある。その冷静さによって医師は患者に対する対応が的確にでき、検査、処置、手術などにおいても適切な対応が進められる。
 これは個人的な感情などが入ると判断を鈍らせるという考え方によるものである。医療関係者が仕事で患者との接点が増えれば増えるほど個人的な親密さが出てきて、つい感情移入していく傾向が出て来たりする。すると上司から「もっと、客観的に振舞え」と指導され、「臨床の場では個人的な感情を抱いてはならぬ。あくまで客観的に冷静に、虚心平気にかかわりなさい。私たちは耐えることによって、病者の苦しみを理解できる感性を高めることが出来るのだ。ただ耐えることを学ぶだけだ。」と諭されるような教育を受けるようになる。医師の客観性を重視した思考は、患者の個別性は影が薄くなり、医師の会話では、「ある臓器の、どの部位に、どんな病変のあった患者ですね。」と言うふうに記憶されていることがある。心の病に関係する心療内科、精神科などを除いた医療現場では、人間として生まれたこと、生きること、死んでいくことの物語性を患者がどう考えているかは全くと言ってよいほど問題にされることはない。
 近年の医療のグローバル化の中で急性期疾患対応の病院では平均在院日数が短縮化され、効率・能率化の中で医師・患者、看護師・患者の対話の時間はますます少なくなっている。治癒していく病気に対しての対応では、医師は人体の故障の修理をする専門職、技術者として対応がなされるかの如くである。しかし、病気の治療が長期化したり治癒困難で種々の緩和ケアが必要になった患者においては、急性期疾患対応のようなクールな人間関係だけでは対応に不十分なことが多く、現場では患者の内面の種々な感情的葛藤にも対応することが求められるようになっている。治療の長期化した患者や治癒困難患者では、まさに生老病死の四苦の課題が潜在しており、老病死の受け取りの困難さが種々修飾されて表白されるようになる。それらの訴えは人間として生まれ、生きていき、そして死んでいくことの物語性がはっきりしてないことが潜在的に起因していると思われることが多い。
 科学的合理主義の医学・生物学では人間に生まれた物語性は科学的な対象にはならない。その延長線上では人間として生きる方向性・意欲について意味を見いだすことは困難であろう。欧米ではチャプレン(病院付き宗教者)が実存的・宗教的な課題を抱えている患者に対応をしているが、日本の宗教性への認識の少ない医療・福祉の現場には宗教関係の職種の職員がいることはまれである。そこで、老病死に直面している当事者、その世話に関わる関係者が共に豊かな実りある人生を生き切る文化を共有できるように仏教が教える人間として生まれた物語性について考察を試みる。

2.仏教の教える物語
 (1)『業識』とは何か
 仏法は人間として生まれた物語性をどう教えてくれているかについて善導大師が「観経疏」の中で次のように表現している。「みづからの業識をもって内因となし、父母の精血をもって外縁となして、因縁和合するがゆえにこの身あり。」(註1)業とは過去からの因や縁の積み重ねを示し、識は心の表層深層を含めた領域を示す言葉である(註2)。
 医学・生物学では意識は脳の機能に関わる領域と考えられており、最近まで形や数字で表現しにくい意識の解明については殆ど手付かずであったが、コンピュータートモグラフィー(CT),磁気共鳴影像法(MRI),機能的磁気共鳴影像法(fMRI)(註3)といった脳の機能と画像上の組み合わせとの連携による研究が始まり、今後、意識の解明は大きな展開が期待されている。医療看護福祉の領域では「業識」という言葉には縁のない人が大多数である。医学・生物学で遺伝子のゲノム(註4)の全容が解明されてきて、その内容は「業識」と関連性が出てくるかも知れない。しかし、「業識」で示されている内容は仏教の智慧によって感得される領域であり科学的思考では理解が難しい言葉である。
 意識についての仏教的思索は歴史的展開の中で大きな深まりを遂げてきた。心理学的に意識が届かない深層心理・無意識の世界が大乗仏教の発展と共に究明され、これらを末那(マナ)識、阿頼耶(アラヤ)識と言う。
 末那識とは自分に執着する心の働きである。阿頼耶識は蔵識、能蔵、所蔵、執蔵などの註釈的な名前がある。蔵とは蓄えられた所という意味である。能蔵というのはその蔵がわれわれに行為させる能動的な働きをいっている。また、その蔵は所蔵、つまり受動的なもので、意識を働かせていろいろしたことが皆心の中に入って、この蔵が作られる。そうしていつまでもつづくという執としての執蔵である。
 また阿頼耶識は種子識とも言われ「種子生現行、現行薫種子(註5)」と示されるように、これが種子になって、いろいろな行動がそこから出てくるという意味において種子識という。実際の行動の一番基本になるところである。その現行がまた蔵の中に影響し、その種子を薫習する。すなわち、種子がいつのまにか自然と変容していき(薫習)、種子が現行を生し、現行が種子を薫習するということになる。これらは意識下の自己を「識」という表現で思索して、それらは仏教的な気付き、目覚めの内容を表している。
 このように仏教が教える深層心理・無意識の世界は、客観的な事実の証拠があるということではなく、目覚め、悟りの展開において感得される世界への洞察の内容と理解するほうが適切である。

 (2)微塵の故業と隋智(註6)
  業についての仏教の基本的な考え方として縁起の法が挙げられる。すなわち事象の展開を因縁業果報と洞察して示すことである。親鸞聖人は「自分」という存在の在り方を「微塵の故業と隋智」と教行信証の行巻に表現されている。時間的、空間的、無数の因や縁によって業(故業)が展開して、現象としての私が仮に存在しているのである。そして一刹那毎に変化をしているのである。
 隋智とは自力のはからい、無明煩悩である。長い過去からいろいろな条件、種々の事件に合い、いろんな人と遭遇し、色々な場所で多くの事を吸収して、働きを巻き起こして来た。その結果が次へ影響して、遺伝子の中に組み込まれたかの如く、自分のことは自分がしなければならないという思いが骨の髄まで染み込んでいるのである。

 (3)行業の地(註7)
 自分という存在を意識の段階で考える時、仏説無量寿経の釈尊と阿難の対話に「行業の地」に住んでいる、という表現がある。これは微塵の故業や昨日までの自分の行為が今日の私を作っていて、その境涯の地や意識の有りようの場に私の意識が居るということを示している。
 この事を示した仏説無量寿経の一節に「世間愛欲のなかにありて、独り生れ独り死し、独り去り独り来る。行に当りて苦楽の地に至り趣く。身みずからこれを当くるに、代るものあることなし。」(註8)とある。つまり、複数の人間が同じ場所で行動や生活を共にしていて、物理的には同じ場所にいても個々人の意識は皆、別々の意識状態にいるということである。分かりやすく言うと生まれ育った環境、受けてきた教育、従事してきた職業が違い、何を大事にして生きてきたかによって、皆別々の世界を生きているということである。

 (4)みずから(自ら)の業識
 無量光に照らされて知る私の迷いの深さはただ事ではない、今、現に深い迷いを生きているという事実は、今まで迷いの解決の方向を目指していたのだが、迷いを超える縁が熟さないまま、空過流転を繰り返して今日に至ったのであるとしか思えないと感得できるのである。
 仏の光寿無量(智慧、慈悲)の不思議さに感動した者は、人間に生まれた物語性を頷くことができるのである。すなわち自分の深い愚かさに気づき、そのような救われるはずのない自分こそがまさに仏の本願の救いの対象であることに感動させられた者は、「みづからの業識を内因とする」と表現するが如く、「種々の因縁が熟して、両親を縁としてこの世に私は生まれさせていただいた。私は迷いを超えたい。真実の世界を生きたい。」という意志をもって生まれてきたという物語性に頷くことができるのである。
 自分が人間として生まれた因としての「みづからの業識」とは理知分別が見出した客観的事実の表現ではなく、気づき、目覚めから感得される自覚の表現である。科学的合理主義に準拠する医療・看護の世界では理解することのできない領域である。
 例えば筆者のもとにある80歳を過ぎた男性患者(真宗門徒)が将来ガンになる心配をされて、予防のための治療に真面目に週に3日来ていた。将来の事を取り越してきて、しきりと心配されるから、筆者は仏教の勉強を勧めたが、「時機が早い」と断られた。親しい人間関係の中で「南無阿弥陀仏の心が受け取れると鷹揚に生きて行けますよ、仏教の勉強をしませんか」と誘ったところ「訳の分からない、南無阿弥陀仏だけは言いたくない」と答えられた。おそらく分別で訳の分かる確かなものを積み重ねて生きてこられたと思われる。そのために念仏は理知分別の矜持として許せないのであると思われる。その患者に85歳になったとき、心配していたガンが発症した。痛みを伴う治療は受けないと決めたというが感情の動揺は隠せなかったように見えた。そして最近は「運命だ、諦めるしかない」と言われている。最後の最後になって理知分別で管理できない「運命」に主体をゆだねようとする愚かさ、分別の敗北にはなかなか気付かないように思えた。このような患者に願いを持って働きかけようとするのだがなかなか力が及ばないことである。そういう患者に象徴されるように我々の仏智を無視して自力の分別で生きる有り方を生死する存在という。 「みづからの業識」とは「迷いの主体」ということである。仏法のお育てをいただく歩みで自分の煩悩性・凡夫性が見えてきたというよりは、煩悩成就の私と照らし出される時に自分の迷いの深さに驚くと同時に迷いの主体であることを知らされる。
 対象化の思考、科学的合理主義では、自分を見る視点がどうしても徹底しない。仏教の智慧を知らされる時、対象化の思考では自分を見る視点が除かれていると言わざるを得ない。そのことへの理解が現在の医学・看護学教育の中で教育を受けた者には難しいと思われる。まして自分を反省して自分の弱さ、悲しさ、不十分さを感じる時、それらはどうしても私的なこととして扱われ、公的な領域(仕事の上で)ではできるだけ表に出さないという暗黙の認識があるように思われる。患者との接点が多い看護の領域では患者への配慮から、自分の感情は殺して明るく振舞い仕事をすることが求められる。あたかも作られた感情表現を仕事では演じなければならず感情労働(注9)という言葉も使われるくらいである。

 (5)自分の相への気づきの困難さ
 科学的合理思考と仏教の智慧の世界は対立するのかというと決してそういうことではなく、仏教の智慧は科学的合理思考よりもさらに深い世界である。科学的合理思考を仏教の智慧が包含すると考えた方がよいと思われる。「愚かさとは、深い知性と謙虚さである」(平沢 興)の言葉にあるように仏智に触れる者は自分の無明性、愚かさに気づかされる、それは必ず謙虚という姿勢を体現することになる。
 内省する際に対象化の思考では見る主体(見る自我)がどうしても残り、自分を含めた全体像の把握にならない。まして反省するという思考は反省してよりよいものになろうとして反省するのであって、自分の愚かさに頭が下がるという方向にはいかないのである。人間の思考・分別を超えた視点で全体を見る悟りや目覚めを仏教は教えていると思われる。つまり「無量光(智慧)に照らされて、照らし破れた自分の姿に驚く者には理知分別を超える。」という表現をせざるを得ないのである。その智慧によって見開かれてきたものを、善導大師は「みづからの業識」と表現されたのである。智慧によって照らされ、知らされる無明性は底知れない深い迷いが潜んでいるように気付かされてくる。迷いの深さを痛感した善導大師は、「一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。(註10)」と表白されている。 また道綽禅師は、「人間が悪を起こし罪をつくる姿は、暴風駛雨(註11)のようなものである。」といわれている。駛雨は雨をともなった台風のような暴風雨のことであり、人間の罪の深さとはげしさを譬えであらわしている。
 我々の認識できる意識(唯識で言う第六識)は自分の心を管理できるように思っているが、私の自我意識は意識の全体像の氷山の一角であって、深い無意識界を持っており、その深層意識(マナ識、アラヤ識)は第六識の意識では管理できない。事実、腹立ち、怒りは意識で管理できない。条件が整えばすぐ表面にでてくる。意識はそれを認識(感じる)するだけである。このように「みづからの業識」とは私の認識できる意識よりもさらに深く、迷いの深さ、流転の歴史性を自覚させられる歩みにおいて感得される智慧の視点での目覚めである。

 (6)迷いの主体の自覚
 仏の智慧に照らされる歩みにおいて、自分の迷いの現実は救われがたい深さをもっていることを知らされる。これは私を含めて人間存在の基本の無明性を言い当ててのことである。この迷いの深さが底知れないものであるように自覚される時、この迷いは人類の誕生以来繰り返し続いてきたと思わざるを得ないのである。
 ギリシャ語に「時」を表す言葉にカイロスとクロノスという二つの言葉があるが、クロノスは「流れゆく時」を意味する物理的・客観的な時間を示し、カイロスは「切断する」という意味の言葉から由来して刹那的時間、すなわち心に深く刻まれる感動の時を示す。その感動の深さがクロノス的な時間をも包含するような受け取りになるのである。 歎異抄第1条にある「念仏申さんとおもいたつこころのおこるとき」(註12)とは、まさにカイロスの時を示している。
 医療看護福祉の関係者の多くが準拠する対象化の思考では自分を抜きにした世俗的な迷いの話になる。すなわち自分の過去が歴史的に餓鬼・畜生など何であったかという思考である。
 しかし、迷いの主体の自覚は、仏の智慧・無量光により自分の迷いの姿が照らし出される時に感得される、前の世からの迷いの深さの受け取りである。自分の仏智を疑う心や煩悩熾盛さを感得する時、自己という迷いの底深さは無限なものであり、自分は前の世から迷いの流転を繰り返してきた存在だと思わざるを得ない。その結果、仏の前に頭を下げて懺悔せざるを得ない。
 前の世とは、この人間の身体を持っている自己という存在そのもの迷いの無限の深みの自覚の表現を示している。「前の世」は現在の私の足元にあり、「三恒河沙(さんごうがしゃ)の諸仏の出世のみもとにありしとき 大菩提心をおこせども 自力かなはで流転せり」(註13)という目覚めに通ずるものである。これは私の現在の迷いの底なき深さを表現したものである。要するに「前の世」は超時間的な過去(クロノス)でありながらも現在の自分(カイロス)に直結しているのである。
 空海の言葉として有名な『生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥し』(註14)は仏法に出遇う事の有り難さと仏法に出会うことのない人生を表現していると思われる。暗い、冥(くら)いは共に迷いを示している。すなわち、仏法に出会うことがなければ迷いの世界を経巡るしかないということである。これも仏の光、無量光に照らされて見えてくる自分の愚かさへの気付きの深さから見える過去と未来である。
 釈尊の目覚めの世界を「三千大千世界(註15)」いう。つまり釈尊は宇宙の全体を見、過去・現在・未来をも見たということである。過去とは自分が生まれる遥か以前を示し、未来は自分が死ぬ遥か先までを示す。そして現在の一点に自分がポツンといるわけである。そうすると「昨日の自分を知ろうと思ったら、今日の自分の姿を見よ。明日の自分を知ろうと思ったら、今日の自分の行いを見よ」と言うことができる。迷いの主体である私は迷いを繰り返してきたのであり、迷いを抜け出たいのである。「みづからの業識」とは、過去から現在まで連綿と流転してきた迷いの主体のことを示している。

 (7)自分の責任範囲
 これまで自分という存在は過去から現在まで迷ってきた存在であることを述べた。しかし現代の多くの日本人は、生まれてから死ぬまでが自分の席に範囲であり、その前後は責任の取りようがないと考えていると思われる。実際にかつての筆者がそうであった。例えば筆者が米国に留学中(昭和59年前後)に、研究室の人(戦争の時代を経験している)と雑談中に第2次世界大戦の話になった。その時に「私は戦後の生まれだから戦争のことは知らない。」という内容の話をした時、その場が何となく白けた感じを受けた記憶がある。周囲の人達は戦争の影響を受けて成長した人たちだったのである。そのため、日本から来た若者が戦争は自分とは関係ないと言ったことに対して戸惑ったのだと思われる。
 ところが仏教のお育てをいただく歩みの中で次の文章に出会った時、自分の考えの浅いことにびっくりした。天明の飢饉の状況を示す記録が小冊子「ひとりふたり」(註16)に次のように出ていた。
 『十年ほど前福井県板井郡のある寺院で過去帳を見る機会があった。各年は半紙一枚ほどの死者数だが天明期には二年にわたって数十枚の紙数が費やされていた。どの頁も法名・俗名・年齢の単調な羅列。だがさすがに町の文化財、どんな小説よりも圧倒的な迫力をもって無言の告発をしていた。まず子供たちが、続いて老人が、女性が、だーっと無機的に記されている。これは御伽噺(おとぎばなし)ではない。210年程前だからおそらく六、七代前の先祖の人々が実際に体験した事実である。おそらく清く正しく美しくがモットーの家庭はまず全滅だろう。他人のものを盗んでも食いつなぎえたものだけが生き残る世界。平成の私たちに命を繋いでくれた先祖は親殺し子殺し妻殺しの地獄図の中を潜り抜けてきた人々だったのである。外国のある種の報告書では、このような体験者は容易に生殖機能を回復できずに自滅の道を歩んでしまうケースが多いと記されている。深すぎる心の傷を負った北陸の人々はボロボロになった命をいかに癒していったのか。当時の人々にとっての経典は蓮如上人の御文章だけであった。記憶しているものといえば、「たとえ罪業は深重なれども必ず弥陀如来救いましますべし」の他にどれほどもない。頭の中で済ますことの可能な機の深信(注17)の理解ならどんなに幸せなことだろう。罪悪は深重そのものの地獄図を体験した人々は「必ず弥陀如来救いまします」のわずか十数文字だけを唯一の支えとして以後の過酷な人生をかろうじて生き抜いていった……と私は思っている。』
 この文章によって、自分の存在の時代性を痛感するとともに仏教の教える宿業というものを知らされた。生命の誕生から30数億年、類人猿から派生進化して約500万年、現代人の直接の祖先は約20万年前、「ホモサピエンス(新人)」が生まれたという。私の背後にはこのように長い間、時には地獄絵図の如くの世界を生き抜くことによって生物学的な生命をつないでくれた歴史がある。このことを思うと私の背後にも決してきれい事ですまされない事実があるということである。自分の意識できる間だけを問題にするということは本当に狭い視点であると痛感させられた。

 (8)人間に生まれるということ
 迷いの主体が目覚めの主体へ展開するためには人間に生まれて仏法のご縁に出遇うことが必要になる。善導大師は本願、仏の心との出遇いの中「みづからの業識」と表現するものに気付かされたと思われる。すなわち流転を繰り返していた迷いの主体は迷いを超えようとする意志であるということである。この気付きを人間に生まれた物語性として表現すると「みづからの業識を内因として、父母の精血を外縁として、因縁和合して私はこの世に誕生させていただいた。迷いの主体は人間に生まれ、迷いを超えたいという意志を持って生まれてきたとしか思えない。」となる。迷いの深さは唯識の第六識の意識に留まらず、深層意識のマナ識、アラヤ識までも含んだ存在の有り様を示している。唯識の第六識は自我の全体の氷山の一角であり、深層意識を含む全体の転換がなければ迷いは超えられないのである。
 生死の世界で生きる方向性がはっきりしないという迷いの私は本来のあり方に目覚めたいのである。よき師、よき友を通して仏の心、すなわち「汝、小さな殻を出て、大きな世界を生きよ(註18)」「人間に生まれてよかった、生きてきて良かった、という人生を歩む者になってほしい(註19)」などの本願の心に触れる歩みにおいて、自分自身が目覚めたい、迷いを超えたいという、迷いの底に本願の心に同心するものを感得する。そして我々は人間に生まれたいという意思を持って生まれてきたと目覚めの中から知らされる。
 このような目覚めの世界を人間に生まれた物語として表現した例として二つ紹介する。一つ目は福岡県の念仏者の方である。彼は人間に生まれたことを次のように表現した。「私はずっと昔から、人間に生まれたいと願い続けてきたという。しかし、『お前のような者の親にだけはなりたくない』とだれからもずっと拒まれ続けてきた。 永い年月を経て、何十億、何百億の男性と女性の中から、たった一人の男性とたった一人の女性が、『そんなに人間に生まれたいのなら、お前の親になってやってもいい』と、やっと承諾をしてくれた、それが私の父と母である。そのお陰で私は人間に生まれることができたのだ。」
 二つ目は岩手県の坊守の方である。彼女は出産のときの陣痛と胎児の意志を重ねながらその思いを「生まれる意志」と題して、次のように表現した。「『女は子宮でものを考える』と、男たちが言っていた時代があった。今よりも若く、今よりももう少し元気であった私は、長男出産のとき、この言葉に反発し、女の頭脳は子宮にあらず、子宮にたよらず、頭で子供を生んでやる、そう大言壮語して、病院へ向かった。まるで、音をたてるような子宮の収縮が繰り返されるなか、あんなことをいわなければよかった、そう後悔し始めていたとき、体の中に、何か熱いものがこみあげてくる。出産の不安とか、感激とか、そんな生易しいものではない。時を刻むにしたがって、その熱さが胎児から発せられていることに気がづいた。胎児が外へ出ようとしている。胎児が声も立てず、光の世界に出ようとしている。そこには、はっきりと、お腹の中にいる胎児の意志が感じられた。母親が生み落とすのではなく、自ら生まれ出ようとする熱い意思が感じられる。熱は痛みとなり、痛みは熱と重なる。陣痛はその堅固な意志に対する餞(はなむけ)のように感じられた。自分の意志で生まれた胎児は、初めて光を浴(あ)び、オギャーとひと声泣いて新生児となった。そしてあのすさまじいほどの意志など、母親の体内におき忘れてきたごとく、眠りこけていた。母は、その寝顔をみながら、大きくなったら必ず発するに違いない質問の答えは、もう用意してあるよ、と一人つぶやく。大きくなって、悲しみの淵(ふち)に立つとき、必ず、こう聞いてくるにちがいない。『なんで、頼みもしないのに、オレを生んだんだ。』その時、母は自信を持ってこう答える。『君は、君の意志で生まれてきた。君は憶えていないかも知れないが、私は君の生まれ出ようとする意志をはっきりと感じ、その手助けをしたにすぎない 。』(後略)」

 (9)目覚めの主体
 自分の分別を拠り所にして生まれたことを被害者意識的(注20)に受け取るならば、身体が生まれたにも関わらず自分で自分の身柄全体を引き受けられないことになる。依正不二、即ち自分と自分の周囲を一体として受け取るのが本来のあり方なのに、対象化して善悪・損得・利用価値の有無など自分の意図で見ていくために、自分の現前の事実、身体を引き受けていく主体が生まれてこないということになる。我々は赤ん坊から自我意識が出てくるまで、生まれたままの姿で与えられたままを生きている。しかし、自我意識の発達とともに無明性の分別を生きる存在となる。小賢しくなると自分の生まれた国・地域・家・両親・時代・自分の能力・周囲の状況などを受け取れず、さらには自分自身までをも受け取れずに愚痴や不平不満を言いながら不完全燃焼の人生を生きることになるのである。
 しかし、よき師・友を通して仏教のお育てをいくことにより自分の無明性に目覚めさせられる者は仏教の智慧の世界に感動し、自分の我見・分別の傲慢であったことを仏の前に懺悔せずにはおれなくなり念仏する。
 智慧に照らされる歩みにおいて、善人になろうとしながらも罪と苦の中に落ち込んで行く煩悩成就の凡夫こそ、仏智に照らされた人間の赤裸々な姿そのものであることを知らされ、六道輪廻の迷いから出離の縁あることなき凡夫の姿に気付かされる。その凡夫性への目覚めの縁・場として受け取る世界こそ仏のはたらく場、すなわち浄土そのものである。仏のはたらきの場において人間としての成熟への道、往生浄土の道であることを知る。そして目覚めの主体として往生浄土の歩み、菩薩道に導かれる。仏のはたらきの場、すなわち浄土を生きていく歩みにおいて本当の自分に出合い、本当の自分になりきって生きる道に導かれる。生かされていることへの自覚は必然と自分の使命・この世での役割・仕事への気付きとなり、生かされていることへの報恩行へと展開する。人間として生まれたことを主体的に受け取れる人の人生は、生きることへの主体性へとつながる。そして仏智に照らされる、仏の前なる生活により、理性・知性がより純粋に理性的・知性的にはたらくように導かれる。仏の智慧をいただく、信心・念仏の生活において、与えられた場を「天命に安んじて人事を尽くす」(註21)のように現実を受容して自分を燃え尽くして生きる、そしていかなる境遇においても「生のみが我等にあらず、死もまた我等なり」(註22)との如く悠々と生ききる世界に導かれる。
 医療看護福祉の関係者が、仏教が教える人間に生まれる物語性に気付いていく文化を共有できるならば、多くの人々もまた共に豊かな実りある人生を生きることに導かれるであろう。

まとめ
 科学はいわゆる「How to」,すなわち、「どういうからくりで」、「どういう機序で」という問いには限りなく答えを出していこうとしている。人間が生まれるという事への解明は生物学・医学などで英知を集めて日々進展している。しかし、“なぜ人間に生まれたのか”という 「Why」,「なぜ」という問いには答えをだせない。その問いは科学の研究対象課題にならないからである。
 医療看護福祉の現場では、老病死の課題に直面すると「生きること」の意味、物語が課題となり、関連して「人間に生まれた」ことの意味、物語が潜在的に求められていると思われる(註23)。しかし、日本のこれまでの医療関連教育の中では殆ど触れてこなかった。医療看護の拠って立つ基本は科学的合理思考である。しかし、人間の生きる、死ぬことの一回性の人生の課題である、生まれた意味、生きる意味、死んでいくことの物語は科学的思考では不十分で、哲学・宗教的思考が必要である。医療現場ではその課題を宗教に求める姿勢が弱い。
 仏教は人間として生まれた意味をどう教えているかを考察するとき、善導の「みづからの業識を内因として、父母の精血を外縁として………」の表現の心を尋ねることが大切になる。仏教の思考は現象を説明する道具ではなく、常に自分の課題との絡みで考えることが求められる。善導の示される表現は仏・無量光に照らされた自分の姿・底知れない迷いの深さの自覚から見えてくる世界を表現されている。客観的な事象としての説明と言うことではなく仏法の学びから自分自身の生死の現実を内省するときに知らされてくる、人間として生まれる物語である。すなわち「迷いの主体が迷いを超えるために、たまたま縁熟して人間に生まれさせていただいたのだ。そして仏法に出遇い、往生浄土の歩みを生きていくところに意義があり、生きることの物語性があった。」という生きる方向性を感得する目覚めの主体への展開である。
 筆者は医療看護福祉の現場で老病死の現実に直面して、その現実の教える意味を受けとれずに「運命だ。あきらめるしかない。」と愚痴をいいながら迷いを繰り返していく事態を経験してきた。その中で、老病死に直面する当事者・その家族・そしてお世話に関わる関係者が仏教の教える物語性を尊重していくところに、共に人生を歩んで行く道が与えられると思われる。人間に生まれた物語に目覚めるとき、その延長線上で生きる物語、死んでいく物語も受け取れると思われる。急速に高齢化が進む現在、そういう文化を育んでいくことが求められている時代性を痛感することである。

註。
  註1.浄土真宗聖典、七祖篇、観経疏、p382
註2. 唯識十章、多川俊映著、1989、春秋社 p33
註3.MRI、Magnetic Resonance Imaging、磁気共鳴影像法。MRIは構造のみを計測する。解像度が極めて高い。fMRI(=function MRI)は機能を表示する。脳は活性化した部分で血流が増加する性質を有する。そしてその部分では動脈流と静脈流の入れ替えが起こる。fMRIによる測定ではこの変化を撮影している。
註4.ゲノムは生殖細胞に含まれる染色体もしくは遺伝子全体を指し、全遺伝情報を含むDNAを指す。ヒトゲノムは約30億のアミノ酸の塩基対からなる。全ゲノム情報の解明は生命現象の理解の基盤となるものである。しかし塩基配列を読み取っただけでは生命現象の理解には不十分で、個々の塩基配列の機能や役割、発現したRNAやタンパク質の挙動などが幅広く研究されている。
註5.唯識十章、多川俊映著、1989春秋社、p88,
註6.註釈版p169
註7.註釈版p29
註8.註釈版p56
註9.感情労働としての看護、 「感情と看護」、武井麻子著、2001年、医学書院、2001年、 p29-60
註10.浄土真宗聖典、七祖篇、観経疏p457
註11.浄土真宗聖典、七祖篇、安楽集p242
註12.註釈版p831br> 註13.註釈版p603
註14.弘法大師空海「秘蔵宝鑰」(ひぞうほうやく)大正大蔵経第77巻363頁上
註15.註釈版p17
註16.罪業は深重なりとも、 金龍 静、ひとりふたり、1999年、、法蔵館、第69号、p5−7
註17.自分の愚かさを深く知ること
註18.細川 巖述 歎異抄講読(第七−八章について)、p69、日野教育を考える会、田中桂一郎、昭和56年発行)
註19.伊藤元 仏法とはどのような教えか、日豊教区婦人会、p81.日豊教務所(大谷派発行)、2007年.
註20.2004年、大分合同新聞の記事、大分大学名誉教授某先生の出版記念の記事で本の内容の一部として「昭和42年、助手の時に、生活態度が気になる学生に、君の姿を両親はどう見るだろうか」と諭したところ、「自分は親の快楽の犠牲者で、父母には何の恩もない」といわれて、びっくりした、という趣旨の内容が掲載されていた。
註21.清沢満之語録、今村仁司(編約)、2001年、岩波書店 p426,
注22.清沢満之語録、今村仁司(編約)、2001年、岩波書店 p277.
注23.なぜ、今、仏教が医療・看護・福祉の領域で求められているのか、田畑正久、真宗学 2010年、121号p49−71

(C)Copyright 1999-2017 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.