「老衰という死亡診断書について(医療文化と仏教文化の課題)」 「死生観と超越ー仏教と諸科学の学際的研究」2011年3月、龍谷大学発刊、2010年度報告書。分担執筆、p243-248 はじめに 高齢化が急速に進む日本社会の医療現場では、特の高齢者の医療に関して、慢性疾患や老年(加齢)症候群(注1)が複雑に絡み合い、虚弱化した高齢者の診療には種々の問題がある。救命・延命医療の中で生命倫理的な課題、そして老・病・死への対応が関係者を悩ませることが多くなっている。この論文では死亡時の「老衰」という死亡診断書に関わる医療文化と仏教文化の課題について考察を加える。 死亡診断書について 死亡診断書を書くことのできる職種は医師(歯科医師も)だけである。それは医学の専門的な知識が求められる所以である。死亡診断書は二つの大きな意義を持っている(註2)。 (1)人間の死亡を医学的・法律的に証明する。死亡診断書(死体検案書)は、人の死亡に関する厳粛な医学的・法律的証明であり、死亡者本人の死亡に至るまでの過程を可能な限り詳細に論理的に表すものである。したがって、死亡診断書の作成に当たっては、死亡に関する医学的、客観的な事実を正確に記入することが求められている。(2)我が国の死因統計作成の資料となる。死因統計は国民の保健・医療・福祉に関する行政の重要な基礎資料として役立つとともに、医学研究をはじめとした各分野においても貴重な資料となっている。 加齢現象や疾病の慢性化した虚弱高齢者で経口摂取困難ないし不能症例では医療技術の進歩と病院の事情(注3)で平均在院日数を減らすために、安易に経管栄養(経鼻、経胃・腸)が行われ傾向になっている。その結果、疾病の徐々なる進行と加齢現象が加わり全身状態の悪化がゆっくり進むことになる。病院での死亡数が全死亡数の8割を超えていたが、最近介護保険関連施設や自宅での死亡数もわずかに増えてきている。設備の整った病院でなくて診療所や施設では死亡時に死亡診断書作成にあたって、死亡原因を正確に特定することが難しい状況がしばしば発生する。 死亡診断書の背後にある課題 死亡の原因については、厚生労働省大臣官房統計情報部では、「死亡の原因」欄の記載内容を基に世界保健機関(WHO)が示した原死因選択ルールにしたがって、「原死因」を確定し、死因統計を作成している。死亡診断書作成に当たっては、一般的注意として、傷病名等を正確に記載することが求められており、傷病名は、医学界で通常用いられているものを記入し、疾患の終末期の状態としての心不全、呼吸不全等は書かないように注意されている。(注4) 死因としての「老衰」は、高齢者で他に記載すべき死亡の原因がない、いわゆる自然死の場合のみ用いるようになっており、老衰から他の病態を併発して死亡した場合は、医学的因果関係に従って老衰も記入することも可能とされている。 医療関係者の情報交換の場で最近、80歳を超えた高齢者の死亡時に「老衰」という死亡診断をつけますかという話題がだされた。その中である医師が、「かつて地域医療を担っていたころは、私の死亡診断書には老衰という病名が半数以上あったように思います。山村で年老いて寝たきりになって自宅で看取った方は、みな老衰でした。15年まえ、今の病院(研修指定病院(註5))に移って、老衰という診断書はすぐに科学的でないと大変に批判されました。老衰であるという医学的な根拠を示せと。そのために「不詳の死」としているケースが増えました。もう10年以上、老衰という死亡診断は書いていません。そろそろ老衰という死亡診断が許される医療に戻りたいと考えています。」という意見が書かれていた。 また別の医師は、「『老衰』で死ぬのはいけないことなのですか、私は、理想的な死に方だと思いますが。以前、私が、死因について「老衰でしょう」と説明したら、遺族から、『老衰とはなんだ』と、ものすごく嫌味を言われたことがあった。その人は、年齢は90才をはるかに超え、自分では立つことも、食べることも、排せつすることもできず、介護度5で、全介助で生きながらえていたが、徐々に栄養力が低下し、やせ衰え、肺活量も低下し、ついには、酸素を吸うようになり、その上で呼吸停止した。医師の皆さんは、これを『老衰』と思いませんか。90歳を過ぎるまで、癌や心筋梗塞や不慮の事故で死ぬことなく、生きながらえ、その後も大勢の医療や介護の世話になり続けながら何年も生きてきた。これを「幸せ」と言わずして、何が幸せか……。しかし、遺族は、「老衰とは認めず、何らかの病気が根底にあって、それを医療側が見逃したから死んだのだ。うちの父が亡くなった原因は医療ミスだ」といい「賠償請求する」と言ってきた。」ということを書いていた。死亡原因を一つの正確な病名にしようとする思考の結果で引き起してきた事象であると思われる。 医療・医学の準拠する立場 医学の準拠する思考は科学的な因果律ということができる。分析的に現象を細分化して単純な要因を想定して、一つの因から一つの果が出るように条件を整えて思考するために死亡原因の究明においても複合的な要因があっても決定的な要因を死亡原因として決めることを原則としている。 超高齢で全身状態が徐々に悪くなり、寝たきり状態になって、そこにインフルエンザが発症して全身状態がさらに悪化して死亡すると、死亡原因はインフルエンザと書くことになる。医療が感染症との闘いに多くの成果を挙げて、現在は悪性腫瘍と生活習慣病が大きな課題となっているのに肺炎の死亡数が依然として多いのは全身状態が悪化しているところに肺炎を併発して死亡することが多いのが原因だと思われる。 死亡原因の統計が人間の健康・福祉の今後の取り組みの基本的な資料になる医学的な資料という前提を無視することは出来ないが、死亡原因を病気など(自然死、病死、事故死など)に限定することは人間の日常生活の文化の中では問題を含んでいると思われる。人間が死ぬ原因は病気だろうかということである。厳密に考えると人間が死ぬ原因は「人間として生まれたこと」ではないだろうか。そして病気などは死ぬことへのご縁(条件、要因)ということができる。「死の縁、無量なり」というように種々の縁が複合的に重なって人間は死亡すると考えることの方が合理的であると思われる。 老衰とは 種々の身体・精神症状を持つ高齢者を包括的に診察する時、医師は慢性疾患や加齢現象が複雑に絡み合って虚弱化した状況では、幅広い知識と臨床推論能力が求められる。 例えば、「老人ホーム居住の,90歳の高齢者がパーキンソン病,認知症,高血圧,糖尿病を患っている。ゆっくりではあるが対話は可能で,食事は準備をしておくと何とか自力で摂取できていた。移動は歩行器を使うことで歩行が可能な状態であった。ある日,発熱し呼吸状態が悪化したため近くの病院に救急搬送され,肺炎と心不全の診断のもとに入院加療が開始された。徐々に肺炎の症状は改善してきたが、入院1か月後,傾眠状態で意思疎通は困難となり,寝返りもうてないほど衰弱してきた。経口摂取も困難となり、経鼻チューブ下に経管栄養が行われるようになった。」というような臨床症状は、栄養状態や認知機能,精神状態,日常生活機能が低下して、家族や介助者への依存状態が高まった虚弱状態であり、加齢現象であり「老衰」ということができる。 上記症例はその後、「家族の同意のもと,老人ホームのスタッフが患者を病院に迎えに行き,住み慣れた部屋に連れ帰ってきた。寝返りもできない寝たきり状態,認知機能はせん妄状態のため低下,口腔嚥下機能は低下し食事摂取可能になるまでの回復不能と判断された。本人が前もって意志表示していた「人工栄養拒否」の意向を汲み、家族の理解を得て、経管栄養を中止し補液を開始した。患者のせん妄はやや改善し、少し意思疎通が可能になった。経口摂取はアイスクリームを半カップ摂取できるまでに回復した。その後、スタッフや家族の献身的なケアによって小康状態を得るも、次第に全身状態が低下していき約1か月後に死亡した。」という経過をたどった。 私だったら医師として「老衰」という死亡診断書を書くことになる。しかし、「老衰」であるという医学的な根拠を示せとなると悩ましいことになる。そうなると「不詳の死」ということの方が正確かもしれない。 高齢者は加齢によって種々の生理的老化現象が進み,複数の慢性疾患を抱えて病状も徐々に進行する。いったん進行した老衰現象や一度喪失した日常生活機能は回復するのは困難である。さらに日常生活でさまざまなストレス(経済問題、友人との別れ,孤独,老病死の不安など)に直面することにより,心身ともに虚弱化していくことになる。こうした慢性的なストレスに加え,急性疾患で入院加療すると一気に衰弱が進行する。環境の急激な変化でせん妄状態、認知機能の低下が起こり老衰現象が進む。治療のための長期臥床により廃用性筋萎縮などが加速し,長期間の絶飲食による口腔嚥下機能の著明な低下も起こる。これらは慢性的な死への過程である。 死亡診断書の記載で「『老衰』は高齢者で他に記載すべき死亡の原因がない、いわゆる自然死の場合のみ用いる」とされているが、外に記載すべき死亡の原因がないことを証明することが求められるとするならば、「ない」ということを証明することは難しい。筆者が大学を卒業した頃(約40年前)某大学の内科教授が退官記念講演で病理解剖での診断と生前の病気診断の一致率は半分以下だったと聞いたことがある。 仏教の視点から 死亡原因を病気(事故に外傷を含めて)に限定することは現在の医療文化の中では仕方がないことかも知れないが、仏教文化の視点からは問題がある。釈尊の目覚めの内容として縁起の法があるが、縁起の法によれば、人間が死ぬ根本の原因は「人間として生まれた」ということである。人間として生まれなければ死ぬという事象は発生しない。 人間として生まれて、成長して大人になり、その後、疾患(病)や加齢現象(老)により老化して、次第に弱っていき、日本人の平均として80歳を過ぎて死ぬということは自然なことであると受け取れる。しかし、仏教の智慧では、人として生まれて、生きていき、その延長線上に死があると考えるのを分段生死という。生きている事と死ぬことは別のことと分けて考えるのは迷いの見方だと教えてくれている。 生物学的には分子レベルでは人間を構成している成分は常に変化を繰り返していて、一週間の間隔で経口摂取した食物に由来する元素で大部分のものが置き代わっているということが証明されている(註6)。 それは身体を維持するために、形あるものは必ず変化する(無常)という自然界の原則を先取りする方法で、破壊と生成を細胞の分子レベルで自律的に繰り返して生命現象を維持しているのである。 生物学的に知られて来ている生命現象の最新の知見は縁起の法と全く矛盾しないのである。因果律の科学が発展していく中で、原因とは別に種々の条件を加えて考える思考は結果として縁起の法と同じ思考方法になろうとしているというべきであろう。 我々が「生きている」ことと「死」を考える時、智慧で見える事実は生きている事と死は混在していると考えるべきか…、死に裏打ちされて生きていると受け取る方が適切である。条件(縁)次第ではいつ死んでもおかしくない状態で生かされているということである。生きている事は「有ること難し」である。この事実はいつから始まったかと考えると、それはまさに生まれた時からである。この事実が人間が死ぬ原因は「人間として生まれたこと」とする理由である。種々の縁でどんなにでも変化する可能性を秘めているのが我々人間存在の事実である。変化の一つが死ということであり「死の縁、無量なり」ということが出来る。 仏教文化の教える死亡の原因は人間として生まれたこととする発想は、医療界においても十分に理解されるべき現実である。現代の医療文化の中で老病死の受容が困難になっているのは、医療人を含めて一般の人々の健康への過剰な関心と医療への大きな期待があり、病気が治癒できればあたかも死なないかのような幻想を抱くようになっている。医療界や健康に関わる企業も健康の増進や病気の治療方法などの宣伝内容でも「病気はよくなる」という方向での情報が湯水の如くながされ、人間が死ぬのは「医療ミスか医療過誤」か、と思われるような雰囲気を作り出している。 過度の健康志向が、老病死の現実を受けとめる思考への機会を奪っている可能性がある。かって結核が若い人の生命を奪う病気として恐れられた時代が長かったが、結核を含めて感染症の脅威が薄れ、日本人の平均寿命が82歳を超える長寿社会になった現在、死を見つめるという機会が格段に少なくなっている。 マスコミに流される情報は病気の治療方法の明るい展望の面に関してであり、老病死の好ましくない現実の情報はあまり表に出てこない。他人の臓器をもらってでも生き延びていこうという思考はなされるが、人間として生まれたという事は必ず死ぬという現実に目を向けようとしない。 矢先症候群(註7)という言葉が言われるように、人間は常に死に裏打ちされた「生」を生きているのである。それは縁起の法で教えてくれている真実であり、死ぬということがあるから、生きている、生かされている事実を大事にするという発想になる。 医療は地域文化の表れ(註8) 本来仏教文化の基礎があって、その上に医療文化が展開されて、その両者の程よい協調関係が展開することが理想的です。しかし、現在は医療文化の方が人々の関心を引き、これを重視する傾向になっている。仏教文化は多くが形骸化してその内容に関心を持つ日本人は1%いるだろうかと思われる。そのために医療文化が人々の思考の中で大きな地位を占めて、老病死への思考がなされなくなり、生きることへの哲学的・宗教的な内省もなされなくなっている。 仏教は我々を「人間に生まれてよかった、生きてきてよかった」という人生を生きる道に導こうとする教えということができる。一方医学・医療が目指す方向は「健康で長生き」の人生です。科学は「生きる」ことや「長生き」の内容や心の内面については、それは個人的なことでそこには距離をおいて関わらないという姿勢を取ります。 現代の日本の医療文化の中で医療に従事する者は厚労省の指針に従って医師としての診断書を書かざるを得ないが、分析的に死因を見る思考方法では人間の人生の全体象を見誤る可能性があるのではないだろうか。 医療の中で治療という概念は、老病死はあってはならないことである、元気で生き生きした「生」の姿に戻すことが治療であるというものが背後にある。死亡診断書が資料として使われる医療政策の中にもその治療という概念が背後に潜んでいると思われる。老衰という死亡診断書をできるだけ避けるのは「不老長寿」、すなわち、人間の思い、欲望の「健康で長生き」を目指してのことである。 現代の医療が人間の欲望(仏教の視点から言うと煩悩を喜ばせること)を満たすことを是とする傾向があり、世俗に迎合する医療になることを免れることはできない。利用できる医療技術、経済力を使って元気に生きることだけをひたすら追い求める人間のあり方は、生命を物化、道具化、手段化して、かえって人間性を疎外することになる危険性を孕んでいると思われる。仏教で言う地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕する危険性がある。 医療と同じように生老病死の四苦を課題とする仏教文化では、老病死は自然なことであるとの認識がある。そして智慧の眼をいただく時、人間として生まれたことに意味があり、生きていくこと、死んでいくことの物語りがあることに気づかせ、目覚めさせるのである。 仏教の智慧は自分の思いでは好ましくない悪や、私を邪魔するものでも、転悪成善(徳)させるはたらきである。転成の智慧こそ、老病死すらも受け取り、「人間として生まれてよかった、生きてきてよかった」と生き切る道に導くはたらきである。 仏教の智慧をいただく歩みにおいて健康に老い、健康に病み、健康に死んでいく道(註9)が展開する。ここに死んでいくことも自然なことであり、一人ひとりが赤色は赤色に、青色は青色に人生を完全燃焼していく道が与えられるのである。 まとめ 加齢現象や老衰が慢性的な死へのプロセスであることを認識し,高度虚弱期や終末期では,余命の延長と同程度かそれ以上に,残された時間の充実や満足度、幸福度を向上させる思考を仏教の智慧を含めてすべきではないだろうか。 老衰という死亡診断書が適切かどうかの議論の中で見えてきた、現代日本の医療文化と仏教文化の相違を論じた。死亡原因を特定の病気にするという医療文化は人間全体を見るとき、人間の人生の本質を見誤らせる危険がある。 人間が死亡することの大元の原因は『人間として生まれたこと』であるという事実である。仏教文化の基礎の上に医療文化が展開されるならば、医療人も一般の人々も共に豊かな人生を生きることができるにちがいない。 註1、老年症候群;青壮年者には見られないが、加齢とともに現れてくる身体的および精神的諸症状・疾患を老年症候群と言う。多くの臓器、疾患が影響しあって高齢者という一個人に病的症状などを表す。(症状:痴呆、譫妄、うつ、脱水、発熱、低体温、むくみ、頭痛、意識障害、呼吸困難、寝たきり、廃用症候群(安静、不活動、不動による心身機能の低下を指す)に付随する失禁、褥瘡、誤嚥、便秘、転倒骨折、腰背痛) 註2.死亡診断書(死体検案書)記入マニュアル、厚生労働省、平成22年(平成22年3月18日発行) 註3.急性期対応病院は平均在院日数を減らす努力が求められている。そのために慢性期医療施設や介護関連施設に転院(所)し易いように胃瘻造設などを処置を行うことが多くなった。 註4. 疾患の終末期の状態としての心不全、呼吸不全の記入を控えるのは、WHOが疾患の終末期の状態としての心停止あるいは呼吸停止が生じたことをもって、心不全、呼吸不全等と記入することを正しい死亡原因の記入方法ではないとしていること、また、その記入によって、死亡診断書を基に作成される我が国の死因統計が不正確になることからである。なお、疾患の終末期の状態としてではなく、明らかな病態としての心不全、呼吸不全を記入することは何等問題はない。 註5.設備の整った種々の検査のできる大きな病院と思われる。 註6.食物、環境、生命、「生命と食」,福岡伸一、岩波ブックレット736, 2008年 註7. 柏木哲夫, 緩和ケア vol.20. No.2, 2010. 178-180頁、ホスピスで仕事をしている時、患者の病歴を聞くなかで、「仕事も一段落ついて、これから人生を楽しもうとしたやさきに、………こんな病気になりました」ということが多かったので正式な名前ではないが「矢先症候群」という表現をしたと書かれている。 註8.「医療は地域文化―医療と仏教」田畑正久「アンジャリ」No.9、2-5頁、親鸞仏教センター、2005年6月号 註9.医療と仏教の協力、田畑正久、りゅうこくブックス、No.122, 95−131頁、2010年 |
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