「仏教が教える物語」
田畑正久
真宗学 2014年(平成26年)3月号 第129・130号p101-123


一.はじめに
 医療の世界では、明治時代、西洋医学を取り入れる際に、医療知識、医療技術を取り込む過程で宗教性を極力排除してきた。そのために宗教性を排除して医療制度、医療教育体制が創られることになった。現在も、特に公的な病院、医学部では宗教性を排除した運営がなされている。
 高齢者社会を迎え生活習慣病といわれる疾患が多くなると同時に、回復不可能な老いや病い、そして死が問題となる場面が多くなり、患者・家族の人生観、死生観、病気観、価値観などが問われることが多くなっている。そのような現況の中で老病死の現実に対応するためには、宗教性を排除した医療では限界があることに気づき始めている。
 筆者はこれまでに、医療界の課題を仏教的な視点から論究してきた。すなわち「なぜ、今、仏教が医療・看護・福祉の領域で求められるのか」 、「医療・看護・福祉の現場で求められる「物語性」についての考察―人間に生まれた意義、物語性―」  等の論考である。
 本論文では、生きることの意味、生きることを通して果たす役割、使命、仕事という観点から、仏教の智慧によって知らされる、「生きる」ことの物語性を考察していきたい。さらに医療・看護・福祉の現場の関係者に伝えていく思考方法、内容についても考察する。
二.病気ばかりでなく、病気を持つ人への全人的対応が求められる
 全人的対応は、病気の局所だけの対応で済む場合は必要となることは少ないが、患者の生命が危機に直面するような老病死が問題となる場合は、病気を患う人間全体を対象とした医療が必要になる。患者への全人的な対応が求められるなかで、健康の定義の項目として、身体的、精神的、社会的に加えて、第四の要素として「スピリチュアル」という項目が注目される 。このことは患者の人生観、価値観、死生観などを尊重した医療が求められる時代となったことを示している。
 人間として生まれたことの意味の物語性については、前記の拙論で考察した。物語性とは人間の全体像を表現する時、客観的事実だけでは不十分で、人生観、死生観などの物語として語られることを合わせて表わそうとすることである。医学、医療のよって立つ科学的な思考は生命現象の機序を解明するには大きな働きを発揮するが、患者の物語性という課題にはほとんど無力である。仏教が教える物語性は客観的事実や歴史的事実を示すのではなく、仏の智慧の世界(悟り、信心)から見えてくる物語性である。生老病死の四苦を共通の課題とする医療と仏教ではあるが、科学的思考をする医学だけで人間全体を把握できると思うのは無理があるのではないだろうか。日本の現代という時代性の中で、両者の協力関係、補完関係が必要なのである。
 欧米の医療現場に常駐しているような宗教師 は日本の医療現場にはほとんど居ない。また医師、看護師養成の教育過程でも宗教的な素養を身につける授業はほとんどなされていない。患者から表出される実存的、宗教的な苦悩の訴えは私的なことと扱われて、対応がなされていない現実がある。
三.臨床の現場で露出する課題
 三十歳台の男性患者が、大腸がんを患って手術を受けた。運悪く二年後に再発をして疼痛が発現したため、緩和ケア病棟を持つ病院へ入院した。疼痛の緩和は実現できたが、その後、病状の進行があり腸閉塞になった。静脈注射による補液を受けながらの療養生活に入ってからのことである。医師の病棟回診の時に、担当医師に向かって「私は死ぬために生きているのですか」と問うたという。この質問に適切な対応のできる医療関係者は日本の医療現場にどれくらいいるだろうか。
 また、同じような場面で米国の医師・キューブラ・ロスが次のような経験したという。四十歳代の女性、進行癌で痛みの緩和ケアを主にした治療を受けていた時、患者がロス医師に「私は世間的に良い生活はしてきたけれど、本当に生きたことがない」と、愚痴のように訴えた。それを聞いてロス医師は戸惑ったという。その訴えはその後の人生で、ロス医師自身の課題となったと講演で紹介されていた。
 臨床の現場では病・死に直面する患者からは、「生きるとはどういうことか」「人はなぜ生まれて死んでいくのか」、「生きることの価値は何か」、「自分はもう長いことない、頑張っても仕方がない」「なぜ自分だけがこういう病気になったのか、まだやりたいことがあったのに…」、「なぜ自分だけがこんなにつらい思いをしなければならないのか」、「残りの人生に価値はあるのか」、「こんな私を誰も助けてくれない」、「世間から私だけ取り残され、寂しくてたまらない」、「こんなに迷惑をかけるのならば、いっそ早く死んでしまいたい」などの実存的、宗教的な問いが発せられる。
 医療の現場では、患者から生きることの意味、物語性を問う訴えが表出されても、それを受けとめる人や場がない現実がある。
四.日本人の思考方法の問題点
(1)計算的思考と全体(根源)的思考
 ハイデッカーは我々の思考の仕方について二つを挙げている、すなわち計算的な思考と全体的な思考である。科学的、合理的な思考は計算的思考の範疇に入る。日常生活では、品物の新しいか・古いか、おいしいか・そうでもないか、値段が安いか・高い、などなどを計算的に思考することが求められる。計算的な思考は対象を管理、支配する方向に展開するのは自然なことである。
 戦後の日本における、宗教を排除した公的教育を受けて成長すると、思考方法が計算的な思考になりがちである。医療関係者に対する教育では科学的な思考すなわち計算的思考で訓練がなされている。そのために全体的思考になじまない傾向がある。
 医学では、人体の構造、病態、治療方法の知識を科学的思考で集積して人体を管理・支配して治療へ結びつけようとする。医療の世界では専門職の医師は、人体、病気、治療に関しての知識量が、患者よりは格段に多く、臨床の現場で患者の身体的な全身管理の方法を学び経験する。そのためにいつの間にか患者のことを十分に把握できている、転じて患者のことは分かっていると傲慢になりがちである。
 しかしながら長年の医療経験を積むうちに、人間を全人的に把握しようとすると、未知の領域がまだ圧倒的に多いことに気づかされる。自分のことすらも良くわかってないのに、他人や人間のことの全体が分かるはずがない。分かっているのは、医学的な表層的、部分的な全身管理であって、それは患者のことが全部分かっているのではない。
 「人間とは?」、「人生とは?」という全人的な課題を考える時、未知なる部分が多すぎて、分別の認識を超えた領域があることに気づかされる。計算的思考で理解して、管理・支配する方向性では全体を把握できないことに気づかなければならない。
 全体的な思考とは「もののいう声を聞く」という姿勢で思考する、そして管理・支配しない思考方法である。これは仏教における智慧の視点に通じていると思われる。かつて知り合いになった、国東半島のみかん農家の主(立派なみかんを作ると関係者が認める人)が、「みかんの木の言う声が聞こえる」と言ったことを思い出す。木が水や栄養素を欲しがっている声が聞こえると言っていた。
 人生全体を考える時、人間に生まれた意味、生きることの意味,死んでゆくことの意味を問題にする時、計算的思考である科学的な思考では、現象の機序は理解できるようになるとしても、その現象の持つ意味、すなわち物語性は理解することはできない。
 分別、すなわち理性、知性の理解を超えた領域、未知なる領域の多い分野については全体的思考が必要であると思われる。釈尊の悟り、目覚めの領域(仏の智慧の世界)は、まさに全体的な思考に通じる世界であろう。仏の智慧、無量光に照らされる時、人間に生まれた意味、生きることの意味、生きることで果たす使命・役割・仕事への気づき、そして死んでいくことの物語性への目覚めに導かれるのである。
 以上のような観点から、世間の知恵と仏教の智慧の違いを、次のように表現することもできる。世間の知恵は「物事の表面的な価値を計算する見方」であり、仏教の智慧は「物事の背後に宿されている意味を感得する見方」である。
(2) 縁起の法の教えるもの
 @ 意識(心)
 心は人間の内面からの情報を感じ取る、感覚器官の一つとされている 。つまり心という固定した存在はなく、種々の因や縁が和合して、種々の環境や条件の中から生まれ出てくるもので、仏教では「自我などない、無我である」と教える。意識は様々に変化し続けており、決して一定ではない。「心こそ、感情こそ私だ」と思いたいが、そうではない。自我とは、「心を私だと思うシステム」である。自我とは「思いこみ」で、様々に起こってくる感情を「私の感情だ」と思いこむものを「自我」と呼ぶ。それを「私の心」だと受け取るのは大きな錯覚である。錯覚された自我意識を、「私の心だ」と思って、何回となく振り回されてきたことか。私はこれまで「感情の奴隷」になっていなかったか。様々にわき起こってくる感情を「私が思っている」と錯覚してきた。仏の智慧では、起こってきた心、感情を、念仏して手放し、浮かんでくる感情を「傍観」する。感情は縁次第で次から次へと変化していくからである。
 自我意識によって仏を見る眼から、仏の智慧の眼を通して私自身の有り様を見ることへの転換を「回心」と呼ぶことができる。仏教は、縁次第でどこからともなく湧き上がってくる、種々の感情の「心」を、「自分だ」と思いこんで生きていることに「気付きなさい」と教える。そうすると「私の好きな仕事」「私のやりたい仕事」に執着することの何と頼りないことかが知らされる。
 A 存在することへの気付き
 仏教では、縁起の法によって、見える命は見えないいのちによって生かされている、支えられているという受けとめ方を大事にする。自我意識による計算的思考では、今、ここに存在するのは当たり前の事として受け取り、その上で「私のやりたい仕事」「如何に私が生きるか」を問題とする傾向がある。
 人間は世間の生活の中で、親や周囲の人に育てられながら、自然発生的に「私は私」という自我に目覚めていく。そして生きるということは自分の「思い」や「欲」を満たすことの方向性を尊重する思考になる。生きるということは世俗的に言うならば、しっかりした自我を確立して、いわゆる自己実現を目指すことである。
 仏教の世界では、縁起の法の原則から、私は縁次第では如何なるものにも変化する存在であることに目覚めていく。私という存在は本来無我・無常であり、固定した存在があるとする見方を、智慧の眼は「迷っている」と指摘する。個人の好き、嫌いにしても縁次第では変化するものであり、感情の奴隷になりやすい自我意識は、迷いに振り回される傾向にあることを警告する。
 縁起の法が教えるように、我われは無量の因や縁によって生かされ、支えられている存在であり、一刹那ごとに生滅を繰り返している。このことを別の角度から見ると、生命現象としては、一刹那ごとに完結している事象の足し算であると言うことになる。
 道元禅師の「仏道をならふというは、自己をならふなり、自己をならふといふは、自己を忘るるなり、自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり」 という言葉の「万法に証せらるるなり」の「万法」は、「一切の差別の物柄、現象」で、森羅万象(一切の事象)のことである。従って「万法に証せらるるなり」とは、「森羅万象―全てのものに支えられて生かされている、自分一人の力ではない」という事である。すると「自己を習うとは、一切に生かされて生きている真実を知る」との結論になるのである。
 B 完結している
 縁起の法は、物事の在り方はいろいろな因や縁のはたらきで存在せしめられ、一刹那ごとに生滅を繰り返していると教える。それは我々の人間の生命現象のあり方を示すものであり、その事実は現代の生物学的生命観と整合性がある。一面では、一刹那ごとに生命現象として完結した相を示していると見ることができる。
 工業製品は、故障したときに、悪い部品を取り替えれば今でも明日でも一ヵ月後でも、動き出す。しかし、生命現象である人間の命は、治療の必要な病気をしたとき(喩えとして、外傷性の出血がある患者)、治療(止血処置と場合によれば輸血)は、今、ここで始めなければならない。明日とか一週間後に治療を始めるのでは手遅れになる可能性が高いのである。このことは生命現象としての命は一刹那ごとに完結してことを示している。
 一刹那を我々が理解しやすいように表現すると、「一日の始まりの朝、今日の命をいただき、そして夜就寝する時に、今日の命の終わる、と受け取ることができる。
 童話作家のまどみちお  は「れんしゅう」という詩でそれを表現している。

「れんしゅう」   まど みちお
 きょうも死を見送っている  生まれては立ち去っていく今日の死を
 自転公転をつづけるこの地球上の すべての生き物が 生まれたばかりの
 今日の死を毎日見送りつづけている
 なぜなのだろう 「今日」の「死」という
 とりかえしのつかない大事がまるで なんでもない「当たり前事」のように毎日
 毎日くりかえされるのは つまりそれは
 ボクらがボクらじしんの死をむかえる日に あわてふためかないようにと
 あのやさしい天がそのれんしゅうをつづけて くださっているのだと気づかぬバカは
 まあ この世にはいないだろうということか

 浄土教、念仏の心で受け取るならば、起床時に今日の命をいただき、南無阿弥陀仏と称え、一日を開始する。そして夜、就寝時に南無阿弥陀仏と称え、今日一日の命を死んでいくのです。一日を念仏で開始し、念仏で終わる、そしてその間に思い出して念仏する。そういう生活を、お念仏の一日だと受け取ることもできる 。念仏は昨日と今日、今日と明日の間の区切りを付ける智慧のはたらきと受け取ることもできる。
 念仏で区切りがつけられることによって、明日のための今日、明日の結果のための準備の今日という思いが転じて、今日が目的の一日だという受け取りへと我々を導くのである。
 C 仏からいただく仕事
 筆者が二〇歳代前半、聞法を初めて数年経った時、聞法の先輩が「田畑さん、仏教の勉強をしていくと仏さんから仕事をいただくのです」と言われたことが印象に残っていた。そのことの意味は当時は理解できなかったが、「変わったことを言う」という印象であった。
 私が、今、ここに存在することを、何か固定的なもの(自我)、当たり前の事、とするのが自我(意識)である。そうではなく生かされている、支えられている、そういう在り方の存在であると目覚める者は、必ず生かされていることで果たす役割に気づくのである。その役割が、気づいた者に与えられた使命であり、仕事となる。それは仏からいただく仕事だと受け取ることができる。
 仏教は対象化した現象を説明したり、社会生活に役に立つ教えを目指しているのではなく、限りなく自分自身を照らし出す鏡のように自分を知らせていただく教えである。我われが生きること、生きてゆくことで取り組む仕事の意味に気付かせる教えである。
 一方、法然聖人は「念仏しやすいように生活しなさい」と教えたと聞いている。釈尊が目覚めの道を求めた時、国を捨て,王位を捨て、家族を捨てて出家したという事実がある。それは生活のことは二次的な課題として、生死の苦しみを超える道を目指すことを最重要課題としてのことであった。その結果、悟り、目覚めを実現してその内容を我々に説いてくれているのが仏教経典である。現代人が、釈尊の求道をまねて出家生活をしなければ、仏教の目覚めにたどりつかないのかというと、浄土教は在家  の者も救う教えであり、欲を認めた生活をする者であっても救いが実現する道を説く教えである。
 現代の日本人においては、仕事とはまず食べるため、生活の糧を得るためと考えられているようである。そこには仏からいただく仕事という考え方は出て来にくい。それはどうしてか。仏教では、生活の糧を得るための仕事については、人間の欲や思い、欲望を実現しようとすることを目的とした行動だと見做す。仏の智慧は、その欲望を満たす取り組みが、迷いの大元であり、それらの目的達成を目指す行動は迷いを繰り返し、苦悩の連鎖になることを見抜いている。
 D 存在の満足
 仏教は生死の苦しみを超えるためには、存在の在り方の真実、生かされている、支えられているというあるがままの事実に気づき、「存在の満足」に目覚めることを教えようとしている。
 日常生活では、生きていること、存在することを当然のことと考え、その上で自分の思い、夢、希望を実現するための仕事を考えることが一般的である。しかし、社会の構造が多様化して、自分の従事する仕事が分業化された一部分である場合、仕事の意味づけが難しい。自分でなければできない仕事をして自分の存在価値を認めてもらいたいと思っても思うようには行かない。大きな組織の一員として仕事をする場合は、仕事の内容は定期的に変わることも多く、仕事の内容が自分の好みに沿うかどうかは不確実である。
 生きることの意味や物語性を考えとき、生きること、生きてゆくことに関係する状況の全体像の把握が、正しい評価には欠くことができない。人間個人は、縁起の法が教えるように、無量の因や縁に生かされ、支えられている在り方をしている。個人の置かれた状況の中で、ある行動の決断をすることも、因や縁の一つになるのである。また我々の存在は一刹那毎に生滅を繰り返していると教えられる。そうなると今、今日、ここに存在すること自体、「在ること難し」を知らされるのである。
 E 幸福とは人格である
 三木清は著作「人生論ノート」 で、幸福についての項目で、「幸福とは人格である」と表現している。ここで表現される人格とは、仏教の智慧を身につけた(信心をいただいた)人格性を指していると思われる。人間の人格が、信心をいただく、種々の経験を積むという過程で変化、成熟することを教えているのではないだろうか。
 幸福とは自分を取り巻く外側の事物、事象により決まるのではなく、事物、事象を受けとめる側の内面性に強く関係していると思われる。私の自我意識が、私の存在自体を当たり前、当然と受けとめていることの迷いの現実に目覚め、無量の因や縁に依って生かされている、支えられていることの「あること難し」に気づかせしめる仏の智慧を頂くことが幸福の要因である。
 星野富弘氏に「いのちが一番大切だと思っていた頃、生きるのは苦しかった。いのちよりも大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」という言葉がある。星野氏は20歳代に脊髄損傷による回復不可能な障害を抱えて苦闘する中で、宗教の大きな世界との出遇いがあった。「生きるのが苦しかった」という思いから、存在していることへの感動、すなわち「生きている」のが嬉しかったへと展開している。
 人生に絶望するような現実に出会い、あなたの分別は自分の人生に絶望しているかもしれないが、人生はあなたに絶望していない。人生はあなたにご縁の中で、ある役割を演ずることを期待しているのである。人生の色々な状況の背後に宿されている意味を感得せしめるのが仏の智慧である。
(3) 生きること、生活することの課題
 仏の智慧によって自分という存在の在り方の事実に目覚めた者は、各々、各人のご縁の中で、与えられ場で、与えられた役割を演じていくのが、仏からいただいた仕事だと受け取ることができる。与えられた時代、社会、地理、環境、状況の縁の中での気付き、目覚めの内容として知らされるのである。
 釈尊在世のとき、道を求める釈尊を中心としたサンガは出家者の集まりであり、そこでは「生きる、死ぬは仏にお任せ」が基本姿勢であったと思われる。すなわち仏が生かせたもう時は生きていき、死なせたもう時は死んでいくのである。現代においても、東南アジアの国々での南伝仏教の僧侶の生活で托鉢ということが日常的に行われていることは、「生きる、死ぬは仏にお任せ」の姿勢の一形態であると知らされる。
 日常生活で大きな関心は食べることの問題である。世間では「食べなければ死ぬ」、「食べる糧を求める仕事」、「食べることで忙しくてお寺に参る時間がない」などと言われる。
 しかし、仏教が問題にするのは「人生」の問題で、「食べても死ぬ」という課題である。食べなければ死ぬが、食べても老病死につかまり死ぬのである。食べるための「生活」の問題に振り回されていた者が、「食べても死ぬ」という現前の事実に驚き目覚める時、生きることの物語性が問題となるであろう。「人間に生まれたことに意味があるのか」、「生きることに意味があるのか」、「死ぬということはどういう意味があるのか」というような問題意識である、仏教では「生死の問題」と言われる。
 医療文化 で問題にするのは、「食べなければ死ぬ」に関係する「生活」の領域に深くかかわる事柄のように思われる。救命、延命治療がなされるのはその課題に対してことである。そのような思考の延長線上で、生命・生活の質を考える時、日常生活の便利さ、快適さ、効率の良さ、早さ、苦痛がないこと、生活の安定などを求めていく。生命現象としての生きる、死ぬに関係ない病状においては、確かにそれらは「生命・生活の質」を考える上では重要な項目である。しかしながら、生命の「生き死に」に関わる病状になると、患者によっては前記の項目よりも、「なぜ私がこんな病気なったのか」、「病気を持って生きる意味はあるのか」など哲学的、宗教的な問題に関わる内容が表出されことになる。
 人生全体が問題となる場合は、深く広く思考する宗教的な領域までを包含する思索が求められる。医療現場では身体的苦痛に対する医療が充分になされていないと、表面的な問題に振り回されて、人生全体を問題とするような精神的余裕を持てないことも多い。
(4) 現代社会での労働観

 @現代社会の現状
 農業、林業、水産業など、自然を相手とした食糧生産に関係する仕事では、勤勉に働くという仏教的労働観は受け入れやすかった。その後、産業構造の変化により工業製品製造業、ガス電気業などの第二次産業の割合が増加し、最近では第三次産業のサービス業や通信業、金融業などの産業従事の割合が増加してきている。その中で生きるとは生活の糧、給与を稼ぐことが目的の労働だと思われることが多くなっている。
 人間が働くときに、自らが企画し,それを遂行し,その結果の良否を認識するという三つの要素のフィードバック系が構築されていると、仕事の満足、喜び、楽しさなどが生まれる 。第一次から、第二次、第三産業へと移っていくほど、自然から離れ、物や人や情報が相手の仕事になり、まさに頭脳労働の割合が多くなっていく傾向がある。産業構造が変化しても、それらは種々の因や縁であることには変わりはない。その受けとめにおいては、存在せしめられていることの種々のご縁の中の一要因であることに気づき、目覚めていくことが大切ではないだろうか。それらは他から指摘されるべきものではなく、仏の智慧に照らされる歩みにおける、一人一人が自ら気づき、目覚めていくべきものなのである。
 A仏教の受けとり
 仏教は、我々が正しく社会を生きていくための教えである。「一切世間の治生(ちしょう)産業は皆実相と相違背せず」 と法華経にあるように仏教では、我々に与えられた日常の仕事を全うする事が大切であると考える。会社勤めでも、家事でも、子育てでも、その社会的な立場に与えられた役割,使命、仕事を果たし、常に前向きに精進努力する姿こそが尊い仏法の示す悟りへの修行だという意味であろう。
 法然聖人は、我々の日暮らしの全てが、朝から晩まで何をしていようと、すべてが念仏の助業であると教えられた。法語「現世のすぐべきようは念仏の申されんように過すべし」、「衣食住の三は念仏の助業なり」などに示されるように、「この世の有り様は、ひとえにお念仏を申せるように日暮らしをしなさい」ということが、法然聖人の教えの中心であった。
 法然聖人の教えは「お念仏を申して浄土に向かって生きていく」というものであり、これ以外に私たちの人生の本道はない。お浄土への道を歩くのであれば、何をやってもいいといわれる。念仏して往生浄土の道に立って生きる身には、空過流転を超えて実りある人生が開けてくるのである。
 B終わりなき仕事か
 筆者は農家に生まれ育った。小さい頃から、時々農業の手伝いをしていた。しかし、自分の意識は手伝いをするというよりは「させられる」という受身であったことを思い出す。自然を相手とする仕事は色々な面で「終わりなき仕事」だと感じられ、親の跡を継ぐのが嫌であった。世間知らずで、いわゆるサラリーマンになれば勤務時間以外は自由で生活も安定すると単純に考えていた。そこで医学部に進学し、外科医になった。医師という仕事について気づいたのは、農家以上に患者や病院に拘束されということである。
 生きる糧を稼ぐための仕事という一面はあるが、医療分野で助けを求める患者の存在は、単なる仕事以上の意味を感じさせてくれる領域であった。医師の仕事を経験していく過程で、仏教の師から「しかるべき場所に行き、しかるべき役割を演ずることは、今までお育ていただいたことに対する報恩行です」というお手紙をいただいた時には、自分の仕事への受け止めのお粗末さに恥じ入った。我々は社会人として働くようになるまでは、多くのご縁の中でお育てをいただいてきたのである。自分の努力も確かにあったかも知れないが、餓鬼根性の私には全体が見えていなかったのである。仏の智慧によって、両親、社会、衆生、仏の恩ということを教えられる。
 この世での人生は、死ぬまで終わりはない。愚かな私の分別に見える人生は、この世だけのことかも知れない。しかし、仏の智慧に立つと生物学的死は単なる通過点であると教えられる。私の目に見えた終わりなき仕事、拘束された生活とは、煩悩に汚染された分別の目に見えた世界であった。
 我々は、一刹那毎に区切られ完結した時間を、足し算するがごとくに生きている。
(5) 目的となる仕事
 カントは、目的には尊厳があり、手段・方法・道具には値段があると言っている。物事の軽重を考えるときこの言葉の示唆する所は大きい。我々が物事や事象に相対する時、それを目的のように取り組んだり、お客さんのように遇したりするとき、それを大切にしていることになる。手段・方法・道具の扱いで処するならば、相対的に価値の低い扱いで対応したことになる。仕事に意味を見出し、仕事を目的のように遂行することが出来るならば充実感を伴うであろう。手段・方法・道具としての仕事であると目的が達成された後は、使い捨てられるように見向きもされないだろう。仕事に対し、目的として取り組むのか、手段・方法として取り組むのかは、我々の意識の問題である。
 同じ仕事に取り組むにしても、仏の智慧により、この仕事は種々のご縁の中で私に与えられた仕事・使命として受け止めることができれば、仕事を大切にして目的のように取り組む方向に導かれる。
 パスカルは『パンセ』の中で、「我々は明日の幸福のために、今日をその準備の位置として取り組んでいる。そして明日こそ幸福になるぞ、明日こそ幸福になるぞ、と死ぬまで幸福になる準備ばかりで人生を終わる」 (取意)と指摘している。準備として人生であると空過流転になってしまうことを教えてくれている。ご縁の中で恵まれた、与えられた仕事を、今、今日、その場で目的のごとく実行することが大切なのである。
五. 生きることの意味・物語り
(1) 生きる方向性
 仏教の智慧に照らされるとき、自分の愚かさや、迷いの姿に気づかされる。気づかされた者は迷いを繰り返すことから抜け出たいと思うようになり、この人生の苦の連鎖を超えたいとの願いを持つ。「自らの業識を内因として、父母の精血を外縁として、因縁和合して」 私はこの世に誕生した。そのことで気付かされることは、いわゆる迷いの主体が、迷いを超える機会を求めていたところで、両親を縁として、種々の縁が熟して人間として生まれることが出来たのである。幸いに人間に生まれて、愚かさ、迷いの連鎖の解決、すなわち生死を超える機会をいただいたのである。仏法を聞くことのできる人間に生まれさせていただき、迷いを超える道、仏道にめぐり合い、善知識の導きで本願、南無阿弥陀仏の教えに出遇っているのである。
 念仏して往生浄土の道に立たしめられている者は「人生を結論とせず、人生に結論を求めず、人生を往生浄土の縁として生きる」 存在たらしめられる。人間としてこの世に生まれたものは、この世のご縁の中で生き、生活する。仏法のご縁がなければ、現代の教育システムの中では、煩悩に汚染された自我意識で生きるように教育されていく。自力のはからいで生きる者は、無明のために無自覚に迷いを繰り返してしまうのである。その延長線上に目覚めがあるかというと、智慧がないために目覚めは絶望的である。無明の闇の中に智慧、無量光が差し込み、自分の置かれている状況が明らかになると、自ずと光の中を生きる方向が定まる。迷いの期間がどんなに長く、深いものであっても、光は一瞬にして闇を晴らすのである。智慧の中を生きる方向性が定まることが、迷いを超える決定的な一歩である。
(2) 仏教の救い
 法然聖人は「現世のすぐべきようは念仏の申されんように過ごすべし」とおっしゃった。大海分取の比喩 のように、前途に課題が山積されていようと、この方向に行けば、必ず目標に達することができる。方向性が定まらなければ迷いを繰り返すしかない、往生浄土の方向性が定まることが救いである。念仏道に立つ者は、念仏の徳として転悪成善があり、人生の中で何とか逃れたいと思うような現実も仏道成就の道場となる。苦しみ迷っている場所以外に迷いをひるがえす場はない。
 仏のはたらきを受け念仏する者は「衆生の願楽するところ、一切よく満足す」 の世界を生きることになる。
 日々の世間生活の中で、生活の糧を得るための行動や仕事は、この世だけでの生活のための仕事である。往生浄土の方向性が忘れられた労働は、生きるため、生活のためと仕事に取り組むが、結果として迷いを繰り返すだけである。仏教は過去未来現在を貫くところの法則によって我々の救われる道を明らかにしている。
 私たちの日々の生活の中で、「お念仏を申すこと」ができるならば、日暮らしの全部が、お念仏に導かれる浄土の道となる。世間のご縁の中で自分の役割、仕事を念仏の中にはたすようにと教えている。
 仏法では、無始以来、迷いを繰り返してきた私が、迷いを超えるために人間に生まれさせていただいたと、教える。両親を縁として人間に生まれ、幸いによき師、よき友に導かれ、仏法に出遇った。この世を迷いの最後の時と受け取り、本願、南無阿弥陀仏のはたらきによって、往生浄土の道に立たしめられ、必ず仏に成らせていただく場を恵まれたのである。念仏して智慧の心をいただく者は、自分および人生をあるがままに受け取って生きる。人生は一刹那ごとに完結しており、その時、今、今日を目的のごとく念仏して生きるのである。
 愚かで迷いを繰り返してきた者には、自分の置かれた状況を受け取ることは難しい。「自分の現実を受け取れない、避けたい」等と、他に責任転嫁して逃げようとする私を仏は見透かして、煩悩具足の凡夫と言い当てて、その者を目当てに、智慧といのちを届けて救おうとされている本願なのである。
 智慧をいただく者は、「これが私の背負うべき現実である」と、念仏して決断して受け止め生活することになる。仏智のはたらきを受けながら生きる者は、生かされていることで果たす役割に気付かされる。種々の因や縁によって生かされていることへの報恩行としての私の使命を、家庭で、職場で、地域社会で果たしていくのである。それが仏からいただく仕事である。その仕事は、何かの目的のための手段・方法ではなく、仕事をすることが、使命を果たすことそれ自体が目的である。その役割は、その時々に完結していくのである。念仏に始まり、念仏して取り組む、そして念仏で完成する。念仏は手段でも方法でもない。念仏して現実を引き受けて歩むのである。
 この世での仏から与えられた仕事が終わった時、仏はお迎えに来られるという。まさに「念仏する者を浄土に迎え取る」本願にお任せするのである。念仏で正定聚不退の位につかせていただき、この世での役割、使命、仕事を果たし遂げて、人生を生ききり成仏する道に立たされるのである。
六.まとめ
 医療福祉の領域での思考は科学的計算的思考であり、生命現象の機序の理解には強みを発揮できるが、人間の人生全体を対象にした把握には限界がある。そこで全体的思考に通じる仏教の智慧での受け止めが求められる。いかに健康で長生きを目指しても死という現実に直面するが、世俗の物差しでは敗北、不幸の完成となる。治療の甲斐なく病状が進むと、最終的に死で終わるのが医療現場である。その状況は、患者、家族、そして医療関係者に種々の潜在的ストレスをもたらしている。
 宗教抜きの現代の公教育、そして科学的思考による医師・看護師教育を受けてきた者は、仏教の世界がなかなか理解できない。仏教の世界を受け取るためには、仏の心を訪ねることが必要である。そのためには仏の心を説く法に触れなければならない。それを聞法という。仏の心に触れることによって理性、知性、分別による思考の問題点に気付かされ、分別の思考の、智慧がない、愚かであることに目覚めることになる。その時初めて仏の心に触れ、仏教の智慧の教える物語の世界を受け取れるように導かれる。科学的思考から見ると仏教の世界は理解しがたいかも知れないが、仏教の智慧は科学的思考を包含する視点であるから科学とは対立しない。
 「人間とは」「人生とは」を問うとき、科学的思考によって把握するには未知の部分が多く、思考の把握を超えた領域であることの限界性に気づくべきである。生老病死の四苦に取り組む仏教の智慧によって人生を不幸の完成で終わるのではなく、「人間に生まれてよかった、生きてきてよかった」と言える生死を超える道のあることを示す時代的要請がある。仏智に照らされて理知分別の無明性に気づくところから感得できる物語が、医療現場で患者、家族、そして医療者に豊かな人生観を提供するだろう。
 浄土真宗で「救われる」とは、本願、南無阿弥陀仏を受けとめ、自力の計らいの迷いを超えて、念仏の道に立つことである。愚かで迷いを繰り返す自我意識の計らいを翻えされて、往生浄土への方向性の定まった者は、念仏する歩みにおいて、人間に生まれたこと、仏法に出遇えたことの有難さを知らされ、人間として生まれ、生きることの物語性に気付き深い喜びに導かれる。
 念仏の中に生活する者のこの世での生き様は、愚かさや迷いに振り回されることから正される道に導かれる。この世を最後の迷いの場と受け止め、現前の状況こそが、引き受け、取り組むべき現場である受けとめる。そこで与えられた役割、仕事を今までお育ていただいたことへの報恩行といただき背負って行き、自分の責任として業を果すのである。
 その結果がいかなるものであろうとも、往生浄土の縁として引き受けていく。念仏して現実を背負う者には転悪成善の徳が備わるようになる。この世での私の役割、仕事を自分の人生の目的のごとく果たし完遂したあとは仏にお任せである。
 「今、今日」、「ここ」にこそ私の取り組むべき現実がある。一日一日が区切られると同時に完結した時であり、その足し算が人生であると受け取ることができる。それは仏道成就のための人生であるとの方向性を知らされるであろう。「今日」、「ここ」しか私の生きる場はない。その現場こそ迷いを翻され救われる場である。仏の智慧を頂くことによって、この世のあらゆる事象から教えられ、育てられていく。生かされている限り必ず仏からいただく仕事があることに気付き、この世での役割を報恩行として精一杯に演じていくのが私の使命である。この世での仕事が終わる時、仏はお迎えに来てくださる。往生浄土して成仏するのである。そういう物語性に気づき、目覚め、私の業を果たして歩む、その後は仏へお任せである。
 科学的思考(計算的思考)が展開する医療現場では、老病死を受容して生きることの意味、意義に関わる人生の物語を描き出すことは難しい。だからこそ医療の現場において老病死を超える物語性を教える仏教の智慧が協働してはたらいていくことが願われるのである。
「平成24年度 本願寺派教学研究資金助成による成果の一部」

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