「絶縁社会、―分別知に潜む孤独―」 田畑正久 南御堂 第631号(平成27年1月1日p5、2月1日p5、3月1日p5) 絶縁社会 (1) 縁ということを考える時、若いころから親類づきあいにしても世間的な付き合いにして、「煩わしい」という思いを基本に考えて、対応していたように思います。しかし、考えてみると、自分に利用できる関係は維持しようと考えていたことも事実です。そこには自分にとって都合が良いか、悪いかの計算が頭の中では働いていました。 総合的に考えると生きていくためには、利用できるものは何でも利用して自分の思いを実現するとか、人生を楽しもう、という心根がちゃんと働いていたのです。そして対外的には世間的に「良い人間」だと思われたいがために表面的には良い人間を演じようとしていました。心根では人に見せたくないお粗末な心根を気付かされないように、建前と本音をうまいこと使い分けて、世の中を小賢しく生き抜けようとしていたのでした。 学生時代、学園紛争の真っただ中で。「あなたはどっちの方向を選ぶのだ」と迫られる場面があり、本音と建前の間に身体全体で戸惑ったことを鮮明に覚えています。そして、私の内面では悶々とした葛藤が起こり、結論は人がどう言おうと(人の評判を差し置いて)本音の判断を選びました。 自我意識が出てから学校教育の中で育てられた考え方の基本は、理知分別を基本にして、私がおり、いろいろなものや人が別(対象化、分別化、分断化、実体化)に存在していると考えて、私にとって都合の良い物(人)を集めたり付き合ったりして、自分の思いを実現する、幸福な人生を目指して生きるのが人生だと思っていました、それ以外に考えられないという確信みたいな思いをもっていました。 大学5年生の時、仏教の教えに出遇うご縁に恵まれて、仏教の智慧に育てられる中で、考え方の浅い、深いなど知らされるようになりました。中でも「縁起の法」を教えられた時、改めて関係性の大事さを知らされました(しかし、それは頭の中で理解しただけのことであったことに気付くのは20年以上経過してからのことでした)。 戦後の教育を受けて育った世代は煩わしいことや関係を避けて、核家族化の方向を進んできました。各家族がほどほどに豊かになり、隣近所で物事の貸し借りもせずに生活できるようになっています。そして都会も田舎も見事に核家族化して、田舎ですら、「隣は何をする人ぞ」というような関係性になって、行政的な隣保班の中で市報などを順番で配布しあう人間関係に留まっているのが私の住む田舎の現状です。 児玉暁洋師が、煩わしい人間関係、社会関係の外の束縛から解放されていけばきっと自由な豊かな生活ができるとその方向に進んで、その結果、気付かされたことは「心の中の空白」であったという趣旨のことを書かれていました。 自分の都合で良い、悪いを考えて分別していくことは世間の常識と思っていたのですが、良い悪いは縁次第で変わるということまで深く見抜いていませんでした。そして相手を対象化して、私にとって都合が良いか悪いかを考える発想は、相手を物化、手段化、道具化する愚に陥り、結果として自分も物化することになっていたのです。気付いてみれば、それが地獄・餓鬼・畜生の三悪道の、迷いに堕して苦の連鎖をきたす方向でした。 仏教のお育てをいただいて約20年ぐらい経過していた時、国立病院の外科の医長から町立病院(規模は町立の方が大きかった)の外科部長へ転勤の話が出てきた時、転勤は私にとって都合が良いか、悪いか、損か得か、勝ち負けで悩みながら仏教の師に相談して転勤の最後の決断をしました。そして転勤後、仏教の師より手紙をいただいた中に「あなたがしかるべき場で、しかるべき役を演ずるということは、今までお育ていただいたことに対する報恩行ですよ」の文があったのです。 「参った。人間になれてなかった、餓鬼畜生であった」との思いがはっきりと受け取れたのです。 絶縁社会(2) 普通の我々の思考は、この世に生まれて自我意識が発達して気付いてみれば、私が存在して、親が、兄弟が、隣近所の人が存在していた。すでに存在していた世界に私がなぜか知らないが生まれた。そこには家、家族、地面、空、山、川、などがバラバラにあるという認識であります。 その認識の元を訪ねると幼いころから言葉を覚えて、その言葉で物事を理解し考えるようになりました。しかし、それは存在全体の中から一部分を切り取って名づけて言葉の概念を作り上げてきたのです。仏の智慧(仏智)に照らされて、我々の言葉の使い方は知的理解であって、物事を全体的に正確に把握してないことを知らされるでしょう。 仏教に出遇い、聞法の歩みで「縁起の法」を知らされました。宇宙中の物事は無関係なものはない。すべて存在は関係性の中に存在するという縁起の法に沿ってあると知るようになりました。それは生物学や医学でも生命の現象を考えるとき、その関係性は理論的に整合性の合うことに仏の洞察のすごさにお驚きます。 農民作家として知られる山下惣一氏は同朋新聞の記事で「『土』というのは、いのちの源です。『人間は土を食べて生きている』という言葉は、本当だと思っているんですが、私たちの口に入る時は、お米、ミカン、レタスなどと形を変えていますが、考えてみればこれは姿を変えた『土』なんですよね。土があり、土の中のさまざまな微生物の活動によって生み出されたいのちです。(同朋新聞、2014年11月1日発行)」と言われていて改めて、宇宙中の事物、現象の一如なることを思い知らされることです。 我々は今までの日常生活の中で、「私」「それ」「あなた」などが別々に独立して存在していると見ながらも、血縁、地縁と親戚、近所の人、同業者で助け合って生きてきました。昭和40年以降の経済成長の中で労働収入を得るようになり、物の豊かさが現実のものになって、助け合わなくても個々の家庭で生活が出来るようになりました。しかし、時間の自由度は減少し、血縁、地縁の濃度は薄くなってきました。人間関係の煩わしを避ける結果、核家族化して気づいてみれば絶縁社会といわれる現象をきたしているように思われます。 仏智から見れば、我々の認識・思考の基礎の理知分別の「分別知」は、その思考方法に、縁を絶つ方向性を秘めていたということではないでしょうか。いかに間柄の関係性、ご縁が大事だと言っても、人や物を対象化(私と切り離して)して考えていく限り、本音と建て前を使い分けながら生きていくしかないようになっています。我々の日常生活の分別知で物を見、考えて、それを常識として生きている思考は仏智によれば我執が作り出した虚妄分別であり、絶縁社会を避けられないと見抜かれているのです。 本来は一如なる中の存在である事物を理知分別の言葉で切り離し、対象化するところに縁を無視して孤立していく絶縁への目を孕(はら)んでいるのです。そんな我々の在り方を仏は大悲されて、本願、南無阿弥陀仏、「汝、小さな殻(分別性)を出て、大きな世界(仏の智慧)を生きよ」と名号となって気づかせようと働いているのです。そこには一切のものは根源的にはつながり合っていてひとつのものであるという見方であり、本来的には全てのものは相を離れた無相のものであるというのが仏智で見た真実の相であるということです。 分別性のゆえに潜む無縁(血縁、地縁などの世間的な関係性が無いという意味)、絶縁社会を克服する道としての仏智の「縁起の法」による「法縁」を大事して、法蔵菩薩のように頭を低くして、全てのものから学ぶという姿勢を生きる存在たらしめられるのが念仏する者の道でしょう。念仏の智慧によって、私が真の自己に成りきる時(道元禅師の「万法に証せらるる」)、逆にすべてが自己となり「万物と我と一体、宇宙と我と不二」という世界を刹那的に感得しながら、私の現実を照らされ(懺悔と感謝)ながら願い(願生浄土)をもって取り組む有り方に導かれるのでしょう。 そこには末法であり絶縁社会であっても間柄を持つ人間性回復の道を歩みたいとの願いを生きる念仏者の生き方があるのではないでしょうか。 絶縁社会(3) 「生きる力」(東本願寺出版、梶原敬一著)の中で、仏の六神通の中の1つに「他心智通」が語られている。仏は他の人の心を知りつくす不思議な力を持っている。我々は聞法、仏教の学びの中で、仏は我々の心の状態、深層意識のすべてを知り透していると感じるようになります。そのために私は仏の前では隠し事ができない、見破られている。それにも関わらず仏に背を向ける私をも大事にして、救う働きをしてくれている事に驚くのです。 そのことを曽我量深師は 「如来に信じられ 如来に敬せられ 如来に愛せられ かくて我々は 如来を信ずることを得る」と言われたとお聞きしています。 私が仏から知り尽くされていることを知らされた時、私と仏の通じた関係に比べると、長年生活を共にしている妻や子供との関係はどうだろうかと思われた時、「生きる力」の本を読みながら身ぶるいをするような寂しさと孤独感を感じて念仏させられました。永年生活を共にし、共有の認識を多く持っている家族であっても、仏との関係に比べると通じ合えてない現実に驚かされます。通じ合えてないから、お互いが、まあまあの関係で居れるのかもしれません。南無阿弥陀仏。 また某新聞記事にタレントの離婚の記事に触れて、「……が離婚した。『別れた理由』ならだいたい察しがつく。芸能人に限らず、『理由』の大半は異性問題、つまり浮気、不倫、それとも性格の不一致と相場が決まっている。本紙にも随想を連載しているイラストレーターのAさんがうまいことをいっている。「私たち夫婦がこれまで別れなかった最大の理由は本質的な話をしてこなかったからだ」。至言である。夫婦愛とは何か、家庭はいかにあるべきか、などヤヤコシイことを話し合ったら、たちまち考え方、性格の違いが露呈して、せんでもいいケンカになり、『じゃあ、別れましょう』ということになる。ウソだと思うなら、今晩やってご覧なさい。……」という内容に一瞬言葉を失った。 分別を拠り所として生きる我々は周囲の存在を対象化して3人称的に距離をおいて見ることを免れない。世間的な長所・短所などを考えていくと、ついつい相手を物や道具的に見る傾向を避けられません。相手を物として見ると私も物になってしまい、冷たい血の通わない関係におちいってしまう。貧しい時代は血縁、地縁でお互い助け合わずに生活できなかったが、豊かになっていく過程で、鬱陶(うっとお)しいと思っていた関係を疎遠にしようとして、分別性のゆえに行き着く絶縁社会が露呈したということであったのです。 絶縁社会において、人間性をいかに回復させることができるか。 南無阿弥陀仏になった仏は救いを実現せんと働いておられる。時代社会を超えて念仏、「汝、小さな殻を出て、大きな世界を生きよ」の呼びかけの中に人間性回復の道があるのです。人をも物扱いしそうな私に「友よ」の呼びかけにびっくりするのです。よき師・友は、法蔵菩薩のように全存在をかけて「私」に働きかけてくれていたのです。よき師の背後の仏の働きを感得する者は、私も浄土を生きていきたいと願心をもって生きる存在たらしめられるのです。 人間性を回復する道は具体的にはどう展開するか。 我々は「今、ここ」という時と場をご縁があって共有しているのです。何十億人の人の中で、私の周囲に種々の役割を演じながら関係性を生きている。我々は家族、隣人、同僚となる関係性を持っているのです。よっぽどの宿縁というご縁を持っているのです。「友よ、ご縁を大切にしよう」で生きていきたいものです。 仏教の智慧は「物の背後に宿されている意味を感得する」といわれます。「私の周囲の事象は私に何を教えようとしてあるのか」、「物の言う声を聞く」という姿勢です。それは「われ以外は皆師」となり、姿、形を種々に変えて私を教え、育て、導こうとする「菩薩」としての存在です。私の都合で見ると好き・嫌い、敵・味方となるかも知れません。しかし、その人もその言動をせしめる背後の深い因縁があるのです。宿業を抱えた存在であり、私にとって良い・悪いの手本・見本となって私とのご縁を生きているのです。念仏して受け取っていきましょう。 |
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