「人間として成長・成熟すること」
田畑正久
公益財団法人松ヶ岡文庫研究年報 第29号(2015年)p29−58掲載


はじめに
 医療と仏教の両方で仕事をしながら、医療の領域で仏教が大事だなということを思うようになり、今回、人生を考えたときに仏教を学んでいくということは人間とし成長し、成熟していく道なんだということをご紹介させていただきます。

仏法との出遇い
 私は大学生の時に細川巌先生に出遇いまして、それ以来、細川先生を中心とした僧伽でお育てをいただきました。40歳の頃、仏法を聞き始めて17年ぐらいたったときに、私は大分県の中津国立病院で外科の責任者をしておりました。外科の領域で胃がんとか大腸がんという悪性腫瘍が多くて、6割の患者さんは手術をしてよくなっていくのですけども、4割の患者さんは手遅れであったり、再発をしたりということで、結果として亡くなって退院ということになるのです。その亡くなっていく人たちに対してどう接したらよいのだろうということが私の問題としてありました。仏法の会座で、細川先生に「亡くなっていく患者さんにはどういうふうな心がまえで対応していったらよいでしょうか」と質問しました。そしてら、2つ大事な点があるといって教えてくれました。

仏さんがいらっしゃる
 そのひとつは「お任せするということをしっかり言ってあげなさい」。これは医療は医師、看護師にお任せ、家庭のことは家族にお任せ、職場のことは同僚にお任せで、これはしっかり言ってあげることができると思いました。
 二つ目に、「仏さんがいらっしゃることをしっかり言ってあげなさい」とこう言われたのです。「仏さんがいらっしゃるということをしっかり言ってあげなさい」と言われた時に私は戸惑いました。なぜかといったら、仏さんの存在は、ずっと聞法してきた仏教の核心のはずなのに、私が患者さんに、「仏さんがいらっしゃる」ということを言うことができなかったのです。仏さんということを自分なりに受け取り、消化して、自分の言葉として言えないのです。ご縁のある患者さんに「仏さんがいらっしゃる」と言ってあげようにも、私が受取れていないのです。自分の体を通して受取れてないことを言葉だけを伝えても説得力もないし、うわついた言葉になってしまいます。
 40歳の時からそのことが私の課題になりました。聞法しながら仏さんということが分かってないなということがはっきりしました。

卵からひよこへ
 仏法へのご縁になった細川先生の「卵のたとえ」をご紹介します。私たちは生まれたままでは卵の殻の中にいるような存在だと。この殻は自己中心の思いということです。理知分別という思考の殻の中にいる。そして、しあわせを求めて生きている。しあわせのためのプラス価値を上げて、マイナス価値を下げていけばきっとしあわせになる。
 そして皆から良い人間だと思われたい。悪い人間だと思われたくない、そのように善悪、損得、勝負けを、しっかりと考えて生きる方向性を生きています。しかし、卵の中の私は、善悪、損得、勝ち負けに振り回されながら、卵はくさって卵の死を迎える。
 卵は死ぬために生まれてきたのかというと決してそうではない、親鳥に抱かれて熱を受ける、熱を仏教では教えと言う。浄土真宗では南無阿弥陀仏の教えです。南無阿弥陀仏の教えをいただいていくと、卵の卵黄が育てられ、物を見る目、考える頭、食べるくちばし、羽ばたく羽、人生を歩む足ができて、時期熟してひよこになる。ひよこになって初めて殻の外に大きな仏さんの世界があるということがうけとれる、同時に自分が分別という殻の中にいたことを知らされる。そしてひよこは、仏の世界からの智慧、無量光に育てられ、ついに親鳥になっていく。鶏になるとは仏になることです。
 この話を始めて聞いて、私は当時22歳で、22年間の歩みはまさに卵の殻の中の私の生き方を図星で言われたような気がしました。私は世の中それしかないと思っていたのに、先生はそれは殻の中の世界なんだ それを超えた世界があるんだとこう言われ、びっくりしました。

成熟への道、被教育者としての道
 質問の時間があり、先生にそういう世界に出てみたいけど、どうしたらよいでしょうかと質問したら、「毎月1回、会座をしていますから1年続けてみてください」と言われました。1年続けました時に先生へ「まだよくわかりません」というような感想を言ったら、「田畑さん、3年続けたら分かりますよ」とこう言われて、今日まで40年続いています。その後、仏法は一生聞いていく教えなのだなということがわかりました。仏教が分かる方向性が見えたということです。
 講題の「人間としての成長・成熟」が、理性知性で生きていた私が智慧をいただくという歩みで、人間として成長し成熟して仏になっていくという、この過程が人間としての道、人間にとって非常に大事なことだと思います。 40歳の時、「仏さんがいらっしゃる」ということを言えませんでした。でも今だったら「仏さんがいらっしゃる」ということを言うことができます。
 私の先生は仏法を学ぶ上で大事な点として次のような質問をされました。一つは「仏さんはいらっしゃいますか?」。この問いをもつことが大事なのだと。この問いに対して答えを知っているというのではなくて、「問いをもって歩む」ことが大事ですと。そしてこの問いが受け取れるようになったら次は、「仏さんはどこにいらっしゃいますか?」という問いがでてきます。この二つの問いは答えを知っているというよりは問いを持って歩むということが救いにつながるとも教えていただきました。聞法してゆく中で、ポイントになる言葉、「仏さんはいらっしゃいますか」、「仏さんはどこにいらっしゃいますか」があります。

問いを持つことが救いへつながる
 今、私が龍谷大学で真宗学の学生に「仏さんはいらっしゃいますか」って聞いたら、多くの学生が「よくわかりません」と。素直で分かったふうをしない……、それはそれでよいのですが……。仏法を学ぶ者にとって「仏さんがいらっしゃる」ということが分からんといったらまさに核心の所がわかってないということです。答えを知っているということではなく、そのことを考え続けていくという歩みが大事なんだということを思わせていただきます。

医療の現場での現実
 分別という思考のなかでしあわせを目指して生きていくという方向性。臨床の現場でそういう患者さんをよく目にするわけです。ご紹介したいのは今年の2月に89歳で肝がんで亡くなった元中学校の数学の教師です、私が10年前、前任者から引き継いだ患者で、糖尿病、高血圧、C型肝炎という病気を持っていました。奥さんがC型肝炎から癌になって亡くなるということを経験している人です。真面目で病院に週に3日、癌になる率を少なくするという注射があり、専門医が3ヵ月に1回診てくれて、あとは私の所に注射を受けに来られます。週に3日来ますからだんだん人間関係ができてきます、世間話をしながら患者さんの生活状況が分かってきます。あるときに、日曜日と祭日が重なった時、「先生、今度月曜日休診で1回欠けるけど大丈夫でしょうか?」と私に聞かれるのです。当時患者は80歳前後でしたから、「いやあ先生、もう平均寿命を超えてますよ。鷹揚でいいじゃないですか」と私が言ったら、「癌になったらお終いですからね」と、こう非常にまじめに言うわけです。
 そういう会話を時々するから、今度は私が誘いをかけて「先生、仏教の勉強をしませんか。もうちょっと鷹揚に生きて行けますよ。癌になる取り越し苦労ばっかりせんで、『今、生かされているということ喜ぶ』ような受け取りができる生き方をされたらいいんじゃないですか。」とこう言ったら、「わしゃまだ仏教の勉強をするには早い」とこう言われました。
 人間関係が十分にできてからのこと、職員があの人は東本願寺の末寺の門徒さんですよと教えてくれました。真宗の門徒さんと分かったので、次に来られた時、「先生とところは浄土真宗だそうですね。南無阿弥陀仏の心が受け取れたらもうちょっと鷹揚に生きて行けますよ、仏教の勉強をしませんか」と言ったら、「わけの分からない南無阿弥陀仏、だけは言いとうない」とこう言うのです、さすが数学の先生です。
 「お寺に行ってお話を聞くとよいですよ、お寺に行きませんか」とお勧めするのですが、行かないのです。80歳になるまでにほとんどお寺に行ってないのです。「先生、お寺にいってお話聞いたらいいですよ。」というと、「お寺に行っても女ばっかしや」と言われる。「女の方が平均寿命が高いからどうしてもお寺に行くと女性が多いんですけど、そんなの男も女も関係ないじゃないですか」というけど。80歳になるまでお寺にいかない人は仏法を受け取ってもらうのが難しい。
 この方は仏教の方には近寄ろうとしない、例えの卵の殻の中で生きていこうとしているわけです。私との会話の中で少し仏教の話にうなずくかなあ…と思いながらも、すぐ元の木阿弥です。私がちょっと強めに「先生、お念仏が大事なのよ」という話をすると、「それならお念仏したら病気がようなるんかえ」と言うわけです。お念仏したら病気がよくなるのか……、とそれはちょっと困りますけども、そのお念仏に触れるというのがなかなかむつかしい。

健康で長生きの方向性が挫折
 この先生も85歳の時に肝癌が発症しました。今までは『健康で長生き』と生きる方向というのがはっきりしていたのですが、その方向でついに癌になったのです。奥さんがその癌で死んだという事を経験している。自分も同じルートをたどるようになったのです。十分に老いた。あっては困る老病死に直面して、生きていく方向性がぐらぐらぐらと否定されるみたいになったものですから、時々感情失禁みたいな形で不安が感情が出てくる。ちょっとした体調の変化でも「死ぬんじゃなかろうか」と心配をしていました。
 肝がんの治療を大きな病院で受けることを拒否し、これ以上積極的な治療を受けたくないと言う。癌になってしまった以上は予防の注射はしなくてもよいのですが、何もしないと落ち着かない雰囲気でしたから専門医と相談して週にを1回で続けましょうという話になった。85歳で発症して、去年88で今年89歳で亡くなりました。あの時集中治療していたら早く死んでいたかもしれないなと思いながら、治療しなくてよかったかなと思ったりもしています。  この先生も時々強がりを言うわけです。「死ぬ覚悟はできとるんじゃ」とこういうのです。私がちょっといやみで「先生、死ぬ覚悟ってどんなのですか、ちょっと教えてくださいよ」と言ったら、お葬式の時の写真の用意はできているとか……、いろいろ言っておりました。「でも先生それは死ぬ覚悟じゃないじゃないですか、葬式の準備じゃないですか」とつい嫌味で言ってしましました。

自分の身体を引き受ける責任者になれない
 ある時は「運命だ、あきらめるしかない」とこういったのです。その言葉を考えながら仏法の教えと照らしあわせながら、思わせられたことは、私たちの拠りどころの理性知性の分別は、健気(けなげ)にも訳の分かるものを積み重ねて堅実な人生を生きていく。そして、その途中に私が「先生、南無阿弥陀仏が受け取れたらいいですよ」と言って、「南無阿弥陀仏」をその一つに入れませんかと提案したけど、「訳の分からん南無阿弥陀仏だけはいやだ」と言ったのです。自分で考えて堅実なものを積み重ねたのです。しかし、最後の最後になって「運命だ、諦めるしかない」と。この発言はなにを教えてくれているかと言うら、理性知性だけで人生を生きていこうとすれば最後には自分の身を引き受けていく責任者として全うできないということを教えてくれました。
 自分の身を引き受けていく責任者を貫こうとするならば、訳の分からん運命をいれてほしくないわけです。訳の分からん南無阿弥陀仏を拒否するならば、訳の分からん運命も拒否しないといけないのに……、ついに運命に身をゆだねざるを得ないという事です。私たちが理性知性でずっとしあわせになっていくんだと生きて行こうとするとき、結局、最後には「運命だ」という発言になる。そしてその延長線上に、老いにつかまり、病につかまって死ぬ、世俗のものさしで言うならばまさにマイナスのマイナスのマイナスで「不幸の完成」で人生を終わる。

殻の中のままで人生を終わる
 この患者は去年の11月になってから種々の症状に対して、家で対応できなくなってきました。十分に高齢になっている。病気が進んだ。外来に来られた時に私が「先生、お家で対応できなければ、入院しますかね」、と言ったのです。そしたら先生が、大分の方言で、「入院せないかんちゅうのはつまらんごとなったんじゃのう」とおいおい泣かれるわけです。まさにそのマイナスのマイナスのマイナスでつまらんごとなったと言って。
 入院して、回診の時、病状が進み、かゆみが出たり、お腹に水がたまったりして、診察しながら話をすると、先生が、「この病気はようなるじゃろか」「この病気はようなるじゃろか」しか言わないのです。まさにプラス価値をあげてマイナス価値を下げることがしあわせだという、この考えにどっぷりと…、科学的合理主義思考にどっぷりと骨の髄までしみこんで、プラス価値を上げてマイナス価値を下げることが人生の生きることだと。そして、訳の分からん南無阿弥陀仏は言いたくない…、結局、亡くなっていきました。私にとってはそういうことを身をもって教えてくれている菩薩としての存在だったなた…、ということを思っています。

年をとることは楽しいことですね
 臨床の現場でいろんな人生を見させていただきます。人間として成長し成熟していく道かどうか……、この患者の場合は私にとっては本当に仏教を教えてくれる存在でしたけども、本人はどうだったかというのは……不本意だったかもしれませんが。
 東本願寺の京都の大谷専修学院の院長を長くされた信国淳先生がいらっしゃいました。この先生が本で「年をとるというのは楽しいことですねえ。今まで見えなかった世界が見えるようになるんですよ」とおっしゃっています。この理性知性の分別で考える思考でいけば、その「楽しいことですね……、世界が見えるようになりました」という表現は出てこないです。
 今、臨床の現場で出会う多くの高齢者は、「先生腰が痛くなりました」と診察室に来られるから、病歴をとりながら、「いつごろから痛いんですか」と聞くと、「いや腰だけじゃありません膝も痛いです」と言う、「膝もね」と言ったら、「先生、年取ってなんもいいことないね、目はうすなるし耳は遠くなる」と言うのです。悪いところや、できなくなったことをいっぱい私に教えてくれるのです。私が「あなた今まで80歳になるまで腰は痛くなかったのね。長いこと腰があなたをささえてくれたんよ。腰にありがとうとお礼を言っていますか」と言うと、「そんなこと考えたこともありません」と言うのです。自分が存在するということを当たり前にしてしまって、そのうえで何かおもしろいもの、たのしいこと、うれしいことないかな…、まさにこの思考で生きているのです。

おいしいもの食べて楽しまなければ損ですよね
 最近経験した患者、82歳の婦人です。去年の4月に胃癌と言われたのです。そしてA病院で手術できないと言われている。そこで、北九州のB医療センターでも診てもらった。やっぱり胃癌で手術できませんとこう言われた。手術できない状態と言われてびっくりして、なんとかなりませんかというので、B医療センターから抗がん剤をもらっていた。その副作用で口内炎になって口が荒れてきて、食事を食べることができなくなった。進行した胃癌で食べることができなくなって、その時の主治医が「あと3ヵ月です」といったのです。
 それから私が相談を受けました。種々の薬を飲んでいたから、薬を減らす助言をしました。何も飲まないと気持ちが落ち着かないと言うから、漢方の薬を飲んでいるというから、それは続けて飲むことを勧めました。そしたら2週間くらいしたらびっくりしたことに、外来に自力で歩いてこられ、「先生、食べることができるようになりました」と。
 癌が原因で食べれなかったのではなかったのです。副作用の影響で食べることができなかったのです。それからしばらくした頃、この方が外来通院で診察に来られた時、「今から国東という所においしいものを食べに行くんだ」と。1時間くらい時間のかかる所です。病気の人が、「そんな遠いところまで食べに行くの」と聞いたら、「いやあ先生、おいしいもの食べて楽しまなければ損ですよね」と言われるのです。まさに損得勝ち負けで世俗の価値観を生きていると思われる患者です。

宗教にほとんど関心がなかった
 人間関係ができてから、話のついでに「お宅の宗教は何ですか」と聞きました。「よく分からない」という返事です。仏壇を見せてくださいよと言って、仏壇を見せてもらったら浄土真宗のお東の仏壇でした。この患者は宗教に関しては関心がなくて、世俗どっぷりで生きてこられたのです。「おいしいものたべなければ損ですよね」というように。
 しかし、病状は確実に進み、暮れに食が細くなり、時々、吐くようになってきた。ついに………と思って、時々摂取量に応じて補液の点滴をはじめました。最後まで家庭でお世話をしたいという家族の意向で支援していきました。
 1月になって家庭の事情で、ちょっと介護力がおちる1週間があるから、「その間は入院させてください」、ということで、入院をしました。入院して1日、点滴だけで何もしないのはもったいないと思って……、意識はしっかりとしているし。しかし、癌で進行しており、余命3カ月と言われたが、予定外に延ていますから。
 浄土真宗の門徒とわかったから、法話をさせてもらおうと、お経に「南無阿弥陀仏」と念仏して救われる、説かれているところがあるから、お念仏が本当にそういう展開を遂げるかどうか実験してみたいと思って、患者本人と家族(夫)に、現在龍谷大学で浄土真宗を院生と勉強しているから、法話を入院中、毎日昼休みの時間に50分ほどさせてくれないかとお願いをしました。

病室で法話
 これは治療と全然関係ないこと。途中で止めてよいことなど十分に同意を得るように説明して、私が実験してみたいので…、と提案しました。すると「お願いします」といってくれたのです。そこで個室にホワイトボードを持ち込みまして。仏教に関心のなかった人に分かりやすく法話をしようと考え、仏教とは、浄土教とは、などとお念仏の心を何とかわかりやすくと毎日50分お話をしました。途中で「止めてくれ」と言われるかなと思ったのですが、患者も、夫も眼を輝かせて聞いてくれました。どうですかと聞いたら、患者は、「「先生言うことがよくわかる」と言われる。多少はおべんちゃらもあるかもしれませんが、目を輝かせていました。ご主人も、こんな世界があるのか、はじめて聞いた、目からうろこが落ちたと言ってくれ、6日間ずっと続きました。
 そしたらね、「先生、お念仏するのに抵抗がなくなりました」。そして「死ぬってそんなに心配せんでもいいんですね」、と、言ってくれました。1週間して退院となりました。仏書などを貸してあげたりしてたのですけども、お見舞いに来る人たちはみんな、「おいしいもの食べなければ損ですよね」と、俗っぽい人が多いのです。そうするとまた元の木阿弥みたいな形になるのだろうけども、しかし一旦そういう話を聞いているものだから、家族が言うには、「先生、おだやかになったんですよ」と言ってくれました。
 桜はもう見れないだろうと思っていたら、桜を超えて5月になり、6月に入り込みました。その頃、患者が「先生、なかなか死ねないね」と言うこともありました。

医療で可能な延命が患者のためになっているかどうか
 現在、癌の緩和ケアでは痛みを緩和する技術は進んでいます。食べられなくなってきたら、貼る麻薬があるのです。食べるができないときは、補液の点滴です。適切な量を処方します。患者を診ながら、痛みをとる、補液の点滴で延命をするということが、本当に患者に良いことをしているのだろうかと……、患者が時間を持て余して退屈しているのではないかと思われるのです。天人五衰という事があります。その中に「本座を楽しまず」、というのがあります。延命の技術が進み、延命ができると、じわじわと弱っていく、そういう状況を患者が喜んで受け取めているかどうかです。
 食べれなくなってきたら治療をせず、1週間でおだやかに亡くなる。これの方が私はいいのかなという思いが頭をよぎるのです。
 自分が生かされているということがわかれば、「生かされていることで果たす私の役割を精一杯生きます。南無阿弥陀仏」と。こういう生き方を示したお念仏の方の話を聞いたことがあります。それが生きているのが当たり前で、生かされているという目覚めをしたことがない人で、「おいしいもの食べなきゃ損よね」と生きてきた人にとっては、食べることはできない、痛みはとれている、意識はしっかりとして命は延命されている。そうすると退屈に近い思いにいるのではないかと思われるわけです。
 種々の治療をして延命をする、しかし、患者自身は長生きしてよかったと喜んでいるかというと……、どうも喜んでいないようなのです。だから今の医療は患者に本当によいことしてるのかどうかよくわからないように思います。

仏さんはいらっしゃいますか?
 私は40歳の時、「仏さんがいらっしゃる」、と言うことができなかったが、65歳を超えた今の私は、理知分別で生きている私たちの在り方を、本当に「愚か」で「迷いをくりかえしている」ということの真実を教えてくれる“はたらき”においては、「仏さんはいらっしゃる」、同時に「念仏するものを浄土に迎えとる」と、摂取不捨する“はたらき”において、「仏さんはいらっしゃる」ということを、味わいとして患者に伝えることができます。
 ある大学院生に「仏さんはいらっしゃいますか」という質問をしたら本尊の、大宮学舎の本館に阿弥陀如来の木像を安置しておりますが、「あの阿弥陀如来像が仏さんじゃありませんか」と言うわけです。対象化して、阿弥陀仏の立像が仏じゃありませんかと言われたら、ちょっと困るわけです。
 小中高校教育の間に「仏」とか仏の「救い」というイメージを作り上げているのです。そんな私たちが仏さんの話をじっくり聞いて、長いお育てをいただいて、仏教を受け取れるようになってきます。その時点で思われることは、自分が学校教育などでイメージした「仏」とか「仏教の救い」は全部間違いだったということです。
 仏の世界を少しずつ知らされてくるというか、受取れてくると、仏が言っていることが本当だな、仏の言われていることが「その通り」だな……、といって否応なしにうなずかざるを得ない。そういうのが仏の智慧(無量光)に照らされたということです。仏の智慧に照らされる(照育、照破)ということが卵がひよこになって、そしてひよこが仏智に照らされて仏(親鳥)になっていく。こういう展開が人間としての成熟ということです。

人間としての成熟
 人間としての成熟を考えたときに、三木清の『人生論ノート』の中で幸福についてという項目に、「幸福とは人格である」と書いてある。私は大学生の時、この文章を理解できませんでした。
 現代教育を受けている者は、みんな理知分別の発想が普通です。幸せになるためには幸せのためのプラス価値を増やし、マイナス価値を減らす、これがすべてだと思うのです。そしてそれ以外は考えられない。その発想からは三木清の「幸福とは人格である」という事は理解できません。人の人格とは私的なことで、幸福とは関係ない、物の豊かさ、社会的な地位、収入の多さが幸福かどうかを決めるという発想を超えられない。卵の殻を超えた世界があるなんて思いもしません。そして宗教を信ずるかどうかは私的な小さな趣味的なことで……、仏教なんかなくても生きて行けると考える。
 人間としての成熟とは仏教の智慧を頂くことに関係するのです。仏教の智慧の世界が受け取れないと、成熟するという発想は出てきません。いろんな分野で知識を増やす、博学になるという発想はあっても………。
 仏教の智慧とは「物の背後に宿されている意味を感得する見方」という事ができます。理知分別は科学的思考で客観性を尊重して、客観的に示せない世界を無視する傾向があり、いつの間にか客観的に認識できないものは「存在しない」「ない」という発想の傲慢に陥る危険を持っています。

人生の晩年を廃品と思わせる思考は未熟
 私の担当した88歳の女性、この方は高血圧と不眠症でした。薬を1カ月1回出していました。ある時自宅で意識がなくなって倒れているのが発見され、脳梗塞か脳出血だろうということで、S病院の脳外科で頭のCT、MRIなどで検査を受けました。しかいし脳梗塞、脳出血はありませんでした。そのうちに意識がもどってきた。患者に聞いてみたら睡眠導入薬をたくさん飲んだという。
 睡眠薬の影響がなくなって退院して、また私の外来に通ってくるようになった最初の時、お嫁さんと本人が来られた。その時、お嫁さんが「先生この前ね、おばあちゃんがね、薬をいっぱい飲んだんですよ」と言う。何の薬飲んだのか私はよく理解してなかったのです。するとこの患者が「先生、わたしなんか役にたたん。みんなに迷惑をかける。本当ならば姥捨て山に捨てられてしかるべきなのに。あん時あのまま眠りたかった……」、こう言うのです。
 これは何を言っているかというと、廃品ということです。役にたたん、迷惑をかけると…。フランスのボーボワールという哲学者が「老い」という本の中で「人生の最後の15年、20年を廃品と思わせるような文明は挫折していることの証明だ」と書いているのです。約40年くらい前に出版されています。私たちが仏教しで理知分別だけで生きていけるという時に、この患者に「役にたたん、みんなみ迷惑をかける」と言わしめるところの発想が人間として成熟をもたらす文化ではないということをボーボワールは指摘していています。
 仏教(念仏)のお育てをいただく者は、「人間に生まれてよかった。生きてきてよかったという人生を歩む者になってほしい」という念仏の心をいただくようになるのです。「南無阿弥陀仏」とお念仏で生ききっていくように導かられます。 廃品ということとは対照的に、仏の世界に出遇って、「人間に生まれてよかった、生きてきてよかった」という人生を生ききるでしょう。

見えなかった世界が見えてくる
 「今まで見えなかった世界が見えてくる」というのは、40歳の時には「仏さんがいらっしゃる」ということが自分自身でよく受取れなかった。でも今だったら私の愚かさと、迷いの姿をはっきりと知らしていただく“はたらき”において、仏は確実にいらっしゃる。そして念仏するものを浄土に迎えとるという摂取不捨の“はたらき”において、「仏さんはいらっしゃる」ということを患者に伝えすることができるわけです。
  卵のたとえ、この卵の殻が破れてひよこになるということ、このたとえは非常に分かりやすい。初めて聞いた時も、今でもいいたとえだと思って紹介しています。例えを聞きながら、「私はもうひよこになったんだろうか」「まだ卵の殻のなかかな」ということが気になるようになります。たとえにはどうしても欠点もあるわけです。師は、「ひよこになっても殻がしっぽにちょっと付いてるのだよ」とおっしゃっていました。私が生身で生きているかぎりは殻が完全になくなった、ということが言えないわけです。しかし、言えることは、「ひよこになったのか、まだ殻の中におるのか」と、これは仏しかわからないことでしょう。

次元を超えた世界
 作家の司馬遼太郎が大学を卒業して産経新聞の記者として京都で京都大学と本願寺の係をされていた時代に、本願寺に行って、「浄土はあるのか」と聞いたそうです。そしたら本願寺のお坊さんが「浄土はあるとかないとかの上にある」と答えた、ということを聞いたことがあります。
 私たちは世間生活をしていますと五官で認識できる世界がすべてだという世界です。そこで「浄土はあるのか?」と問えば。五官で認識できない世界は「ない」となります。仏の世界では法蔵菩薩が建立した浄土はあるのです。浄土とは一般名詞で仏の世界(場)を浄土と言い、個々の仏に個々の浄土があります。浄土教では一般には阿弥陀仏のはたらきの世界を浄土と呼びます。世間の次元を超えた、次元を異にする世界という方が適切です。五官で認識し、客観性を尊重する発想のこの世(世間)に仏は確実にはたらいているのです。そのはたらきを認識できない人には「ある」という事が分からない。私たちの科学的思考の発想ではわからない。仏の智慧の世界の話ですから、次元を超えています。
 金子大栄師がある雑誌の中で書いていたのは、数学で点というのがあるが、点というのは位置はあるけど幅がない。この幅がないような点どうしたら見えるかというと……、本当は見えない。次に線、線と言うのは一本の線、1次元で表現する。線は長さはあるが幅がない。そんなのは見えません、幅がない線に次元が増えて、幅が出ると面になる。面というのは広がりはあるけど厚さがないという。これもちょっととらえどころがない。そこで金子大栄師は、点というのは大きさがないと見えないけども、直線と直線が交差する所ですというと理解してくれるだろう。線と線の交差したところが点です。では直線とは?というと、、面と面が交差したところです、というと理解できる。このように上の次元を持ってきて下の次元を説明すると理解しやすくなるのです。
 私たちが分別を超えた次元、仏の智慧(無量光)に照らされてみて初めて私の有り方が、善・悪、損・得、勝ち・負けで振り回されて、世の中を分かったような傲慢になっている。仏に照らされてみて、初めて自分の愚かさ、迷いの姿を知らされるのです。もし、仏の智慧との接点がなければ、卵の譬えの殻の中の発想を出ることができない。そしてこの世に自分の発想しかないと閉じこもる。そしていくらお念仏が大事だと働きかけても、「お念仏を言ったら病気がよくなるんですか」と聞いてくるわけです。自分の発想jの世界を出ようとしない。

生老病死、生死の四苦を超える
 生死を超えることが仏教の大きな目標です。この生死を超えるという事を、私がこの人間の分別で理解しようとするならば……、それは不可能です。
 三木清の言葉「幸福とは人格である」という言葉を大学生の頃に読書会で読んだ時、幸福ということと人格は関係ないと思っていた。田舎から出てきて、貧しい、つつましい学生生活をしていると、どんなに皆からさげすまされるような人格であっても、社会的地位があって、経済的に豊かで、家族がいて立派な家に住んで、うらやましいような華やかな生活を送っているのを見ると、「しあわせそうだなー」と見えるのです。その人の「人格」と「幸福」とは関係ないと思っていたのです。
 しかし、仏法のお育てをいただいていくなかに見えてきたことは、私が人生を生きていくことを考えた時に、「しあわせ」という事への考え方が変わってきたと思います。
 ふつうは、しあわせのためのプラス価値をあげてマイナス価値を下げたら、しあわせになれると、世間のものさしで考えます。この発想では人格と幸福は関係ない。プラス価値を多く持っている人がしあわせそうなわけです。世の中の多くの人たちは、仏教の話をする私に「先生、そんなに仏教、仏教というけれど、仏教がなくてもしあわせそうな人たちはいっぱいおるじゃないですか」とこう言うのです。
 三木清の「幸福とは人格である」といった心をたずねてみると、仏教の智慧に関係していると思います。仏教の智慧とは「ものの背後に宿されている意味を感得する見方」という事ができます。この世俗の価値判断のものさしでは、表面的な価値(役に立つ、利用価値がある、迷惑をかける、など)を計算する見方です。仏の智慧の目で見ると私の存在は、見える命は見えないいのちによって支えられている、教えられている、願われているという、背後に宿されている世界に目が覚めるのです。私が今、ここに生きているという事は「あたりまえ」の事ではなく、多くの因や縁によって生かされているということです。

仏の智慧で知らされる「存在の満足」
 人間社会で、快適な生活ができるためにはインフラ設備(下水道だ、ゴミ処理など)は生活で大きく表にでないけれどなくてはならないものです。いくら便利がよい設備があるとしても、基礎設備、インフラ設備ができてなければ働かない。それと同じように日常生活では表面的なことで多くは間に合うかもしないが、表面を支えている見えない領域が大切なことは多いのです。私の存在が多くの因や縁によって生かされているということが当たり前ではない。仏の目で見ると「私が存在している」というのは「有ること難し」のことである。そして一瞬一瞬が完結した有り方で存在しており、自体満足、満たされているという事です。その「存在を満足」という世界に気付かせるものが宗教ですといって、今村仁司氏が書いていました。
 仏教の智慧で教えられる世界が「「存在の満足」です。そういう世界に目覚め、気付かせるのが仏教です。私たちは理知分別で自分の周りの表面的な状況ばっかりを気にしている。だから「幸福とは人格である」というのが理解できない。それが仏の智慧で成熟という展開があると、見える命は多くの見えないいのちによって支えられている、教えられている、願われていることが感得できるようになり、自然と「足るを知る」という世界に目覚め、「存在の満足」に自然と導かれていくのです。そういうものを見せしめる仏さんの智慧をいただいて歩むところに、知足、存在の満足の世界があることを仏は気付かせようとしています。生かされていることに目覚めれば、そこで果たす役割、使命、仕事への取り組みもイキイキしていくでしょう。

往生浄土の歩みの中に満足の世界がある
 児玉暁洋先生が浄土論(願生偈)の説明の文章の中に、その一節「衆生所願楽、一切能満足」(「衆生の願楽する所、一切能(よく)を満足する」)は浄土の徳を表現していて、その心は「本物(仏の世界、浄土)を欲する意欲に生きるとき、本当の満足が与えられる」と説明されています。その仏さんの世界に行きついたのではなくて、往生浄土の歩み、本物を目指して、往生浄土の歩みをする歩みの途中に本当に満足の世界が恵まれてくるのですと。これはまさに浄土の徳というか仏さんの智慧の世界を示しているのです。
 浄土とは何かというと、私たちの仏教の先生は「仏さんのはたらきのはたらいている場」なのだと教えてくれました。仏さんが南無阿弥陀仏となって智慧といのちを届けたいと働いているはたらきを感ずる場、浄土を感得する者のは、私たちの願うところが一切を満足するという、本当にそこに「足るを知る」という世界に出させていただく。出遇うべきものに出遇ってよかったといって、いうならば、「人間に生まれてよかった。生きてきてよかった」といって人生を生ききっていけるのです。そういう智慧をいただく、そういう智慧を感得する場が御浄土なのです。その世界を生きる者は、自然と「存在の満足」という世界に導かれていくのです。

生きているのが嬉しかった
 この「存在の満足」というのは、私たちは分かりにくいと思われるのですけども、キリスト教の人の言葉でそのことを知らされることがあります。
 星野富弘さんという方は20代で首の脊椎損傷を負い、車いすの生活をしてます。そして口に筆をくわえて植物の絵を書いてそこに言葉を添えています。その言葉の一つに
「いのちがいちばん大切だと思っていた頃、生きるのが苦しかった。いのちよりも大切なものがあると知った日、生きているのがうれしかった」
こういう詩を添えているのです。私は星野富弘さんの絵の展示会が大分県で開催されたときに見に行って、この詩が出ている絵をプリントですが、買って飾っています。
 前の方は、命が一番大切だと思っていた頃は「生きる」のが苦しかった。これはまさに世俗の分別で健康が大事ですよ、病気がないということが大事ですよ、障害がないということが大事ですよと言っている時です。その時、回復不可能な障害をもって生きるのが苦しかった。しかしその卵の殻を超えた大きな世界、浄土真宗でいうならばお念仏の心に触れるということを通しながら、命よりも大切なものがあると知った日に「生きている」のがうれしかった。「生きる」から「生きている」、生きて「いる」のがうれしかった、ということが「存在の満足」ということを表現しているのです。私たちに、仏教(宗教)の救いという世界を教えてくれていると思っております。

人間、人生の全体像が見えてない
 こういうふうに仏さんの智慧の世界において初めて「あるがまま」の全体像が見える。この理性知性が言っていることが間違っているというわけでもないのですが、局所的なのです。医学の世界で言ったら、高齢者の方が食べれなくなってきた。老衰に近いような状態で食べれなくなってきた。老人ホームとか老健施設で食べることができないようになってきたというと、施設の人が、慣れてない方はこれは病気だと救急車で救急病院に連れて行く。そうすると、食べることができないとこれは死ぬかもしれない、ということでなんとか食べさせるようにしようとする。それができなければ点滴をして補う。点滴が長引くようであれば鼻から管を入れてちょっと栄養を補給しよう。本人がいやがって抜くようだったら胃に穴をあけて胃瘻(ろう)というように処置を進めていく、そして救命・延命をしようとします。これも私たちの医学医療の発想です、「食べなきゃ死ぬ」。
 その結果今日本全国に胃に穴をあけた寝たきりの人たちが多くなったわけです。20年前は私たち外科医が胃に穴をあける手術をしていたのですけども、もうこの10何年は内視鏡の専門医先生たちが胃カメラの感覚で胃に穴をあけることができるようになってきた。そういう技術が出てきた。そうすると内視鏡を専門とする医師が頼まれて胃瘻をつくる処置をすることになります。
 最近、ご存知のように胃瘻での経管栄養の患者さんが多くなった。延命はできるだろうが、しかし、患者の生命の質を考えると、いろんな問題がおこっているのです。そこで内視鏡の先生たちに、インターネットの中で内輪の情報交換の場があって、そこでアンケート調査がなされた。内視鏡の専門医は患者さんに胃瘻をつくっているのだけども、先生たち自身がそういう状況になったら、「自分に胃瘻をつくってほしいですか」、という質問をしたのです。そしたら自分につくってほしいという医師は一人もいなかった。「どうしてですか」と聞いたら、「死をみじめなものにしている」と言ったのです。その処置をすることによって量的延命はできたかもしれんけども、質が、生命の質、生活の質がみじめだとこういうわけです。
 そこに局所的に食べなきゃ死ぬ、食べなきゃ死ぬと局所的は間違いないのだけども、どうしても局所的なのです。仏さんの智慧の全体を見渡す視点からは、「食べても死にます」と。食べても死にますよと言う。食べなきゃ死ぬというときは食べさせることが一番の関心事だけども、食べても死ぬんですよということになってきたら食べさせること以上にほかの問題が出てくるわけです。私たちは局所的なところだけで間違いはないのだけども、大局の全体像が見えてない。だから私たちは生きるということに関しても大局が見えないのです。局所のところでとらわれ振り回されている。自分は正しく見ているつもりでこれしかないと思いこんで、医療・福祉の現場にこういう状態を作り出している。

人間・人生全体を見る智慧の目
 そういう私たちに仏さんは南無阿弥陀仏という念仏になって智慧といのちを届けたいという、目覚めた者の本来の願い(本願)として、「「南無阿弥陀仏」の声となって、凡愚の我々に呼びかけ、呼び覚まし、仏の世界に呼び戻そうとはたらいている。そしてお念仏の心をいただくものは、「足るを知る」という「存在の満足」に導かれる。三木清は仏の智慧を身に着けた人格者を「幸福とは人格である」という表現で示そうとされていると気づかされます。その後、「この幸福を手に入れたものは、この幸福を武器として戦うものは人生の途中にたおれても幸福で死んでいく」のだと書かれています。
 私たちの理性知性分別の思考では、「あの人は30歳で死んだ。あの人は50歳で死んだ。まだ未練があっただろう」とこういう思いを自分の身に合わせて考えるのです。
 仏教の智慧をいただく者はこの世での仕事が終わった時にちょうどいい時に仏のお迎えがきましたと。仏さんに「おまかせ、南無阿弥陀仏」となるのです。与えられた場、時代を、生かされて、育てられて頂いた役割を報恩行として粛々と務める。この世で仏さんからいただく仕事を、この世での私の使命として果たす。この世での命の終わる時、それは仏からの仕事の終わる時である。だから仏の智慧をいただいたものは戦いの途中にたおれても幸福に死んでいく、と書いてあります。三木清は、京大の西田哲学、西田幾多郎先生のお弟子さんだったそうです。生まれたところが兵庫県の非常に浄土真宗の盛んな地域で、そういう念仏の世界に接点があったようです。全体を大局的にみる智慧の目を持たれていたのだろうと思います。

仏智をいただく歩みは螺旋(ラセン)状に深まる
 我々世間の知恵を生きる者は「健康で長生き」と量に対しての執われがあります。仏の智慧、この武器を手に入れた者は戦いの途中にたおれても幸福に死んでいくんだ、とこう書いてあります。私たちが人間として成長し成熟するということはそういう仏の智慧を頂く歩みであると思うのです。智慧の目で見ると、過去に生まれて、未来に死ぬという迷いの思考(分断生死)でなく、一瞬一瞬が生死一如、死に裏打ちされた生を生きている。「生」は有ること難しで、一瞬一種の「生」は完結されているのです。
 浄土真宗の念仏の行者は、一日一日を大切に念仏して取り組みます。念仏して人生を生きる者はこの世のご縁のある出来事はすべて、往生浄土の縁と受け取るのです。念仏の歩みは人間として成長というよりは成熟の方がふさわしいかなと私は思うのです。仏教の師がお話の中で、「歎異抄の9章というのが聞き始めたときも、かなり聞いてからも、そして深く聞いてからも、何度も立ち寄って味わうことのできる所です」と、こうおっしゃっていました。螺旋的に深まっていくというか、螺旋的に深くいただけるようになるのだと。
 歎異抄の9章は唯円が親鸞聖人に「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、また浄土へまいりたきこころもなくてそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらんと、もうしいれてそうらえしかば、親鸞も不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり……」とこう続く文章です。唯円さんが「お念仏するけども、浄土に行きたいとか喜びがありません」、これはどうしたことでしょうかと親鸞聖人に聞いたら、先生がわしもおんなじじゃ、といったんですよ。私は初心者で聞いたら、お弟子さんがお念仏をいただいても喜べない、お浄土に行きたくない、といったら、先生も同じように、喜びがない、行きたくない、と言った。この仏教はちょっと止めとこうかとなるのが普通です。
 だけども、長年お念仏の心を聴かせていただくと親鸞聖人が「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば……」と、本当に仏さんがおっしゃるとおりだから、いよいよ私たちは仏をたのもしく思い、お念仏して生きていく世界がいただけるのですよ、と親鸞聖人が言われるわけです。だから本当にそこに「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、かくのごときののわれらがためなりけり……」とこう言って、その救われるはずのない私がお念仏によって救われるんだという、どんでん返しみたいな世界が展開するのです。
 そのお念仏の心を通して、私たちは仏のはたらきをいただいていくのですよ。救われないという確信が救われるという確信になるのだといって親鸞聖人がおっしゃったわけです。やっぱりそこに初心者の時も、かなり聞いた時も、長年聞いても、やっぱり私たちはその「念仏申しそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうことまた急ぎ浄土へまいりたきこころもなくてそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらんもうしいれてそうらえしかば、……」というその疑問をご縁として私たちは繰り返し、自分のお念仏のいただきを確認させていただくのではないかと思っています。

「仏さんはいらっしゃいますか」という問いを持って生きる
 「仏さんはいらっしゃいますか」ということ。私たちがお念仏の心に触れるということを通して私の姿がはっきりする。どうしても私たちは仏教の智慧を向こう側に対象的に見て、智慧が分かったら仏教が分かるのではないか。仏教の智慧をもう少し分かったらいいなと思う人がたくさんいらっしゃいますよ。でも仏さんの智慧がはっきりするということは何が分かるかといったら、仏さんの智慧に照らされた「私の相(すがた)」がはっきりがするのです。仏の方がはっきりするのではなくて、仏の智慧に照らされた私の相がはっきりするわけです。
 私たちは日常生活の中でいつも仏さんに照らされて生活をしているかというと、ほとんど忘れていることが多いわけです。私は仏教の師から学校の講義を受けるように1時間お話を聞いて、30分質疑応答ということを基本にしていました。大学の講義形式みたいなやり方で私はお育てをいただいてきたわけです。質疑応答というのを非常に大事にされたのです。普通、お寺に行ってお話をした後、質疑応答の時間はあまりありません。あってもなかなか質問が出ません。私自身もみんなの前で質問をする方ではありませんでしたけど……。「質問は有りませんか」と急に言ってもほとんど質問が出ないのです。
 私たちの先生は質問が出ないというのは理由があるのだと。それは常日頃仏教のことを考えていないということだ、と。常日頃は世間ごとばかり考えて生活しているということです。では。仏のことを考えるとは……。何を考えるかといったら、お寺でお話を聞いて日常生活に戻って、その中で、「仏法はあんなこと言っていたけれども、私の日常生活と違うなあ……とか。あの話が受取れない。なんであんなことを言うのかな……。仏教で聞いた内容と私の日常生活での相違、教えと現実の違いなどをいつも考がえていたら、必ずそこに質問がでてくるのだと、言われていました。

「考える」ことが大事である
 何を言っているかというと、「考える」ということが大事だというのです。仏法の話を聞いていくと六道輪廻という話があります。六道とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天と、これは私たちの心の状態は示している。我々の心は日常生活でいつも六道を経めぐっている。それを六道輪廻と言っています。六道の迷いを超えることが仏教の大きな目的で、解脱とも言います。仏教の話を聞いてみると私たちはこの六道を超えるときに、どこから超えるのか、ということ、そんなこと考えてもしょうがないかもしれませんが、人(人間)のところから超えていくのです。天(国)とか修羅、地獄、餓鬼、畜生じゃなく、人間のところから超えていくのです。そうすると人間とはなにかといったら「考える」存在ということがあるのだと。
 私たちが常、日頃「考える」ということで、「何を考えるか」と言ったら、お話で聞いたことと日常生活での差があるということを考えていくのだと。そしてどうしてお話の内容がうなづけないのか……、そこで湧く疑問、日常生活で私はこうありますけども、先生の話はこんなになっています。この差はどうしてなのですか、こういう質問がいい質問なのです。
 私たちは「仏様はいらっしゃいますか」とか、それを進めて「仏さんはどこにいらっしゃいますか」という問い、「問いを持つことが救いです」とも教えていただいています。問いを持つことが救いです、ということはこれは「考えなさい」ということを教えてくれているのだなと思います、考えなさいと。

仏はどこにいらっしゃいますか?
 日常生活の中で私は仏さんをどう感じているか、と問われるならば、今は「仏さんはいらっしゃいますか」ということについて、私の愚かさを、私の迷いの姿を知らせてくれる働きにおいて仏さんはいらっしゃいます、と答えます。私に仏様は確実にはたらいておられる。そして救われるはずのない私に「念仏するものを浄土に迎えとる」という本願が、よき師、よき友を通して私たちに届けられている。
 そのお念仏は歎異抄の第1章で「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏もうさんとおもいたつこころのおったとき、すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたもうなり」という。念仏申さんと思いたつ心がおこったとき、妙好人の才市が自問自答して「浄土はどこか、ここが浄土の南無阿弥陀仏」と言って、お念仏がでるところが浄土だと、こう言われています。浄土というのも、その受け取りに西本願寺と東本願寺でいただき方が、ちょっとニュアンスがちがうところがあります。妙好人の才市の「浄土はどこか、ここが浄土の南無阿弥陀仏」といわれましたが、西本願寺の先生に「あれは異安心なのですね」とこう聞いたら、いやあれは門徒さんが味わいとして言うのには問題はないのだけれど、本山の教学の中心にいる人が言うと問題だ……。非常に微妙なところがあるのです。
 この「仏さんがいらっしゃいます」ということは私の日常生活においてどういうことか、ということを私たちは考えながら生きていくことが大事です。次に仏さんは「どこにいらっしゃいますか」ということが問いとしてあるのです。「仏さんはどこにいらっしゃいますか?」。
 物事を表す時、体・相・用であらわ有ことであります。仏をこれで示すと、「体」、本体は法性法身です。それは色がない、形がない。言葉で表現することもできない。いわば次元を超えた仏の世界のものです。その相、私たちが認識できる具体的なすがたは「南無阿弥陀仏」です。用、はたらきは光明無量、寿命無量、智慧と慈悲のはたらきです。私が口で「南無阿弥陀仏」と称える時、それは阿弥陀仏が私に差し向けられている南無阿弥陀仏と味わえるのです。私が称え、私に聞こえる声の南無阿弥陀仏が私を救おうとはたらいている相(すがた)です。南無阿弥陀仏が心の上にはたらくとき信心と言い、口に出てはたらいてくださっているのが称名です。称名即名号、信心即名号、称名即信心という言葉もあります。
 ある学生さんは、仏さんは南無阿弥陀仏じゃありませんかと答えた人がいました。こう言う人はある程度仏教を受取れている学生だろうと思います。その南無阿弥陀仏というのがはたらきとして私を照らし育(照育)て、照らし破る、自我意識の殻を破る。阿弥陀仏の本願、第18願では、「至心 信楽 欲生」として、仏のはたらきとして示されます。そこの受け取りを大江憲成先生 は、よびかけ、よび覚まし、よび戻す、というような表現をされています。そういうはたらきを私たちは仏さんのはたらきとして感得するのです。
 次に「仏さんはどこにいらっしゃいますか?」とこう問うとき、ある院生は、私の体の中に、おなかの中に仏さんはいらっしゃると思いますとこう言われる人もおりました。私の仏教の師は「仏さんは足の裏におります」と言われていました。足の裏におるということは仏を仏と思わず、私は仏を踏みにじって生活しております、南無阿弥陀仏、という心なのでしょう。私たちは仏教を利用して私の心の安定が欲しい。私の救いが欲しい、といって仏を利用して、モノや道具みたいに利用して、私の満足、私の救い、私の信心・悟りが欲しいといって、仏さんを大事にしているのではなくて、使い捨てするように踏みにじって生活をしているのです、と先生はおっしゃっておりました。それが頷けるか、頷けないかは私たち一人一人の仏教の受け取りが問われているということです。

人生のいろいろな出来事を人間として成熟するご縁として生きる
 一歩前を歩く先生、よき師よき友がそういうお念仏に出会った感動を、お念仏を褒(ほ)め称(たた)える、讃嘆として法話の中でいろんな表現をしてくれています。その讃嘆の声を聴かせていただいて、そして私たちもまた「お念仏して生きていこう」という勇気を頂いて、お念仏の生活させていただくのだなあ……、と思うことなのです。
 私の仏教の師がこういう言葉を残してくれています、「人生を結論とせず、人生に結論を求めず、人生を往生浄土の縁として生きる。これを浄土真宗と言う」。 どうしても私たちの理性知性を考えの中心におく発想では、あの人は成功したとか、失敗したとか。運が良いとか悪いとか、あんなに時めいていたのに最後はあんな死に方をしたのか、とか言って、ついつい「結論づける」ことが多いわけです。自分自身の人生を結論づけることはないのだ。また他人の人生をいろいろ結論づけることはないのだと、教えてくれています。
 この人生のいろんな出来事が私には往生浄土の縁としていただける、人間として成熟するご縁になるのです。私たちにとって日々の世間生活は人間として成長し、成熟するご縁としての人生の出来事なのです。いろんなことを経験しながら、そのことを通して、この現実は私に何を教えようとして起こったのだろうか。この現実は私に何を教えようとしてあるのだろうかと受け止めるという発想を仏教の智慧は教えてくれるのです。そういう発想の方向性で、現実をお念仏して受け取る。
 お念仏することのご利益として、転悪成善のはたらきをがあります、念仏して人生を歩ゆむ時、必ず「人間に生まれてよかった。生きてきてよかった」ということのできる人生に導かれていくでしょう。「生きてきてよかった」とは現在完了の表現で、その思いが継続するのです。「いつまで?」、「死ぬまでです」。
 死んでからどうなるか分かりませんけど、「お念仏するものを浄土に迎えとる」と仏が誓っていますから、間違いないのです。私の理知分別は仏の無量光に照らされると「愚か」で「迷い」を繰り返していることを露呈されます。愚かな私の理知分別が考えるのではなく、私の凡愚さをはっきりと目覚めさせる仏の智慧が、仏さんが「「念仏する者を浄土に迎えとる」と誓われているのです。私以上に私のことをご存じ、私以上に私のことを大事にしようと愛してくれている仏さん。その仏さんがよいようにしてくれる、仏にお任せとなるのです。
 宮城(しずか)先生は、往生浄土という言葉を純粋未来という言い方をされています。純粋未来というのは、私たちの普通使う未来というのは必ず行く未来なのだけど、純粋未来というのはどこまでも向こうからこっちに来る未来なのだと。今ここで受け取る世界、どこまでも向こうから来る浄土なのだと、こういう言い方をされています。この世で生きているうちに、必ず仏に成る位、現生正定聚に定まるのです。浄土に往生する者は必ず成仏するのです。弥陀の浄土はそういう場なのです。
 仏教は「今」「ここ」ということを一番大事にするわけですから、「今」「ここ」で照らされることの深まりから見えてくる、過去であり未来であって、「今」「ここ」ということよりほかに私の取り組むべき現実はないのです。念仏して現実を引き受けて取り組む。
 大森忍というお東の僧侶が島根県にいらっしゃいました。大森先生がよく「仏教の分かる早道を教えようか。それは心の中に起こる程のことを見つめて念仏申す」「しかし、世間の人はなかなか本気にしてくれない」と言われていました。念仏して歩む中に、信国敦 先生の言われる「としを取ることは楽しいことですね、今まで見えなかった世界が見えるようになるのです」という世界が展開すると思います。それが人間としての成熟ということではないかと思わしてもらっています。仏教の師が「お念仏をしっかりする。お念仏の生活をさせていただくというのが大事なんだ」ということを言われていたことを思い出します。(終了) 「人間として成長・成熟すること」の講演録を加筆修正した(2014.8.21.)

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