「医療現場で求められる仏教」
田畑正久
「疾風の如し」りゅうこくブックス
132号2018.5.21.p63-106


この龍谷大学に私がご縁をいただいて九年目になります。前回、このようにお話をする場をいただいたのが2009年 でしたので、話を聞いていただくのが初めての方もいらっしゃると思います。少し自己紹介をしながら、「医療現場で求められる仏教」という話をさせていただきます。
 私は大分県宇佐市の米作農家に生まれました。農家ですから年に一度、十月に収入があるだけで、養蚕もしていましたが貧しかったです。当時は日本中が貧しかったのですが、親の生きざまを見ながら、私は「もう少し楽な生活はないのだろうか……」と思っていました。そうなると、田舎なのでどうしても教員とか公務員になることを考えます。サラリーマンは毎月の収入があるので、ああいうのがいいな≠ニ、どうにか農家を抜け出そうと思い、受験勉強を頑張りました。
 工学部を目指していたのですが、伯父が「工学部へ行くよりは、医学部の方がいいぞ」と言う。けれども医療という仕事については全く知りませんでした。私は医学部を卒業してから外科に進んだのですが、大学受験の頃には「外科」を「そとか」と読むのかと思っていたくらいで、全く医療の世界を知りませんでした。それでも、どうにか医学部に入ることができました。
 私が大学へ入学したのは昭和42(1967)年です。その頃は全国の大学が学園紛争で騒然としていました。私としては早く卒業して社会人になりたいと思っていたのですが、なかなかそれが許されない情況で、大学三回生の時には学生大会で決めて、五月から十月までは授業ボイコットというストをしたりしていました。
 それでもこれで良いのかといろいろ悩みました。ストを続けるか、止めてしまうか……。それまでは傍観者的に良いとこ取りすればいいと思っていたものが、自分自身が右に行くか左に行くかと問われた時に初めて「自分」というものを観る機会をいただいたような気がしました。それがまた、その後の仏教に出遇うご縁につながっていったのだろうと思っております。
 悩んだ挙句、授業に復帰しました。授業を受けながら、下宿で独りしょんぼりといるよりは、と考えていた頃、次のようなご縁に巡り逢いました。私は剣道をしておりまして、剣道部の同級生が大学の仏教青年会 に入っていました。そこでは医学部と法学部の先輩が専門を活かして医療や法律相談などいろいろなボランティア活動をしておられて、そのボランティア活動の加勢をする学生は寮の部屋代がタダで、食費だけで生活できる――その寮は今もあります――そこに入りました。仏教に惹かれたわけではありません。部屋代がタダになることに惹かれて入ったわけです。
 仏教に対するイメージはどうだったか……。まだ科学が進歩していない頃に、死ぬ間際の人が藁をもつかむ想いで「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と称える――そういうものだという偏見だけは、いつの間にか持っておりました。
 でも、仏教青年会に入ったので、診療所の加勢、日曜学校や講演会、勉強会などいろいろな行事をこなしていました。ところが二年目に入ると、総務という世話係が回ってきました。活動を引っ張っていく役回りを任されたわけです。私は仏教に意義を見出しておりませんでしたが、仏教青年会を引っ張って行かなければならない、という非常に悩ましい立場になりました。
 困ったなあ、と思っていた時にたまたま新聞記事で、国立福岡教育大学(福岡県宗像市)の仏教研究会が催し物をするという記事を見ました。「あれ、他の大学でもこんなことをしているのか。ちょっと覗(のぞ)きに行ってみよう」ということで、福岡市内から40qくらいの所にある福岡教育大学の仏教研究会の活動を覗きに行ったわけです。
 そこで私は、その後お育てをいただきました細川巌(いわお)(1920〜1996、化学者・理学博士・福岡教育大学名誉教授)という先生で、広島文理科大学化学科(現広島大学理学部)にいらっしゃる時に浄土真宗に出遇ったという先生に出逢いました。その先生から、仏教研究会を覗きに行った最初の講義で聞いた喩えが非常に印象深く、今でも大きな教えになっています。それはまた、医療にも通じますので、ここでご紹介します。
 ――私たち人間というのは、理性、知性で物事を考えます。だから、分別で自己中心的な思いをする、ちょうど卵の殻の中におるような存在だ。その殻の中にいる私は、やはり生きていく上では幸せになっていきたいという想いがあるから、幸せのためのプラス価値≠できるだけ増やし、マイナス価値≠できるだけ減らせば幸せになっていけるのだ、と思う。その上さらに、他人から善い人間だと思われたい。悪い人間だと思われたくない。できるだけ得になることを重ねていこう。損になることには近づくまい。できることなら勝ち組≠ノ入りたい。敗け組≠ノは入りたくない。そう思いながら生きているけれども、殻の中にいる限り、結局、卵は腐って死んでしまう。
 卵は死ぬために生まれてきたのかと言えば、決してそうではない。親鳥に抱かれて、親鳥の熱を受けて、その黄身、白身が育てられていって、眼が付き、考える頭、羽が生え、だんだん鳥のようになり、ようやく時期が熟して殻が破れ、ヒヨコになる。この殻が破れてヒヨコになったところが、禅宗では「覚り」、浄土教では「信心をいただく」という世界なのだ。そのヒヨコはさらに大きな世界からのお育てをいただきながら、親鳥になっていく、それが、仏になるということだよ、と――。
 こういう喩え話を聞いて、私はびっくりしたこと二つがありました。
 仰る通り、私の22年間の歩みは、本当にプラス価値≠上げて、マイナス価値≠下げていく形で、ひたすら頑張ってきました。そのため、この先生は私の生き方をどこかで見ていたのだろうかという驚き。そして、私は幸せを求めて生きることが全てだと思っていたのに、それは殻の中の狭い世界で、それを超えた大きな世界があるのだ、と言われて驚きました。そんな話は初めて聞きました。
 60分の講義が終わり、質疑応答の時間があったので、私は質問をしました。 「先生、私の人生は卵の殻の中で、これを超えた大きな世界があると、今日初めて聞きました。とても興味深くて、一度大きな世界に出てみたいのですけれども、どうすればいいでしょうか?」と。すると先生は、 「そうですね、こういう会を毎月一回していますから、一年続けてみて下さい」と言われました。それから一年、続けました。
 一年経過した頃の会(え)座(ざ)(法話・講義の場)で、解ったような、分からないような感想を言ったら、細川先生は、 「田畑さん、三年続けたら解りますよ」と仰いました。私は惹かれるものがあり、続けて聞いていこうという気持ちになっていました。
 でも、三年も経たないうちに、あることの気づきがありました。それは何かと言うと、「仏教は一生聞いていく教えなのだな」ということが受け取れるようになっていました。仏教が解ったわけではありません。一生続けていくことが必要なのだということが解りまして、それが今日まで、40年近く続いていることになります。それが私の仏教とのご縁です。
 大学を卒業して、医師としては消化器外科、一般外科を専門としておりました。外科の仕事をしているとどうしても、悪性腫瘍――ガンの患者さんの治療が多いわけです。卒業して16〜17年くらい経った時には、大分県の中津市にある国立病院の外科の責任者として赴任しておりました。その間もずっと毎月一回の聞法は続けておりました。
 その時、ガンが手術で良くなっていく人はいいのですが、再発や手遅れで亡くなっていく人たちにどのような心構えで対応すればいいのか、医師と患者の人間関係ができていった時に、この人たちも何か救われる方法があるのではないだろうか、という漠然とした想いを持つようになりました。
 それで、会座(えざ)があった時に「先生、これからだんだん弱って亡くなっていく患者さんに、どのような心持ちの言葉掛けをしたらいいのでしょうか?」と質問をしました。すると先生は、
「一つには、『お任せする』ことが大事だから、『お任せする』ことをしっかり言ってあげなさい」。
「そして、もう一つは、『仏さんがいらっしゃる』ことをしっかりと言ってあげなさい」。――こう仰いました。
 私は「お任せをする」ということは、何となく患者さんに言えるのかなと思ったのですが、聞法して16〜17年経った時に、「仏さんがいらっしゃることをしっかり言ってあげなさい」と言われた時、ものすごい戸惑いを覚えました。それはなぜかと言うと、私の言葉で「仏さんがいらっしゃる」と言うことかできないわけです。ということは、まだ仏の教えをしっかりと受け取れていなかったということですね。
 その後の歩みの中で、そういう問いも私の課題として温めながら、聞法をさせていただきました。聞法をしながら、医師としての人生を歩んでいく。その折々に仏教の先生からとても良いアドバイスをいただいたな、と思っております。医療現場で求められる仏教についてお話しする前に、そのことにもう少し触れさせていただきます。
 私が39歳の時に、中津の国立病院から、同じ規模の、その当時は東(ひがし)国(くに)東(さき)広域国保総合病院(現国東市民病院)という、町立病院に毛の生えた、郡立病院のような病院に転勤してくれないかという話が出てきました。その時私は、そこに赴くことが損か得か∞勝ちか敗けか∞善か悪か≠「ろいろと計算して、私にとってメリットはないと判断して、一旦は断ったのです。
 そして一年後、大学が「どうしてもあそこに行ってくれんか、君は大分県の田舎でもいいと言うから」と言ってきました。困ったなと思いました。周囲はみんな反対です。でも、仏教の先生に一応、相談してみました。すると――、
「田畑君、大学がそんなに言うんだったら、苦労するかも知れんけど、行ってみるか」。
――こう言って下さいました。私は仏教の先生が言って下さるのであればと、「はい」と返事をしてその病院へ赴きました。
 しかし、赴くことが本当に私にとって損か得か∞勝ちか敗けか≠ニいった世間的なことばかり考えていました。すると、先生から手紙が来たのです。その手紙の中に、こういう一節がありました――。
「あなたが然るべき場所に行き、然るべき役割を演ずることは、今までお育ていただいたことに対する報(ほう)恩(おん)行(ぎょう)ですよ」。
 びっくりしました。私はそんなことを全く考えたこともありませんでした。「ああ、私は餓鬼だったなあ、人間になれてなかったなあ」と感じるだけのお育てをいただいていたのだなと思いました。この医師としての仕事をすることが、今までお育ていただいたことに対する報恩行だと、いつも自分を見つめる眼をいただいたのだな、と考えさせられたことでした。
 そういう仏教の学びの中で、私にはいろいろな気づきがありました。ある時、埼玉医科大学の秋月龍(りょう)a(みん)(1921〜1999、臨済正宗師家・埼玉医科大学名誉教授)という哲学の先生が医学部の学生さんに語りかけているものを読みました。
 ――皆さんがこれから医療の世界で、人間が生まれて生きていく上で、必ず老いて病気で死ぬという、この生老病死に関わっていくわけですけれども、仏教は二千五百年の歴史でもって生老病死に取り組んでいる。そしてその解決の方法を見出している。同じことを課題とするわけですから、医療に携わる者はぜひとも仏教的素養を持ってほしい、という話でした。
 これを読んだ時に初めて「おお、そうか」と。自分が仏教を学ぶことと、医療を学ぶことは、同じことを課題としているのだなと非常に勇気づけられた思いがしました。
 それはなぜか? 日本の医療現場は、宗教性がほとんどない領域として展開されています。老病死の悩みなどは全て個人的なことであって、医師が関わるべきではないとされ、まさに肉体的な病気の部分だけに集中しています。個人的な悩みなどはプライベートなことだから医師は関わるべきではない、という雰囲気の中で、例えば僧侶や神父が常駐している病院は日本全国でも指折り算えるくらいしかありません。
 話を戻しますと、私は東国東広域病院で働くようになりました。大分県の国東半島は、観光のキャッチフレーズが「仏の里 国東」なのです。宇佐神宮の荘園として、天台宗などの小さなお寺があり、仏教の遺跡が多い。その五ヶ町村が集まって建てた病院なので、病院の中でぜひ仏教講座を始めたいと思って、1990年4月から毎週金曜日の夕方、病院の中で一時間の講座を始めました。地域のお坊さんたちに入っていただいて私も関わり、年間50回の講座を開催して、これが16年ほど続きました。私が2004年に辞めてからも一〜二年は続いたのですが、やはり内部に熱心な人がいないと続かないため、その後は中止になりました。
 その講座を開いたのは、先ほど言ったように、医療と仏教が同じ生老病死の四苦の課題に取り組んでいることがあるので、ぜひとも医療の人たちにもそういう仏教的な理解をしてほしいという想いがあり、同時に宗教者の人たちにも、医療現場はまさに生老病死の現場であり、その現場を知ってほしいという想いがあったからです。苦悩する人たちへの対応が本当に求められているという願いがあったのですが、医療の現場でそういう取り組みをすることはなかなか効率が悪い。でも何とか続けることだけは続けました。

 ここで「医療現場で求められる仏教」の話に移っていきたいと思います。
 人間の苦というものを、仏教ではどのように考えるか……。私の想いと私の現実とがあれば、現実の病人は健康になりたいと想う。ということは、現実を想いの方へ寄せて行くことによって、想いと現実が近づけば苦は少なくなります。
 医療は、病気や怪我をした人を健康な状態に戻すことによって苦を少なくしようという取り組みなのです。しかし、それは良くなる間だけです。手を尽くしても良くならない状態になってきた時にどうするか……。具体的な老病死に直面した時にどうするかと言うと、医療はもうそれ以上、何も施しようがありません。今日では、緩和ケアという、痛みを緩和する治療はできるようになりましたが、それ以上はお手上げです。
 けれども私は、仏教の生(しょう)死(じ)を超える道、という世界を教えられて、少しずつお念仏の世界に近づき、お念仏をいただけるようになってきて、本当に仏さまの智慧の世界に出遇わせていただくならば、病気という現実と想いとが離れ、良くならない状態になったとしても、「これが私の引き受けるべき現実。南無阿弥陀仏」と受け止めて生き切っていく世界が、仏教の教える救いの世界ではないだろうかという方向性は持てるようになっていました。仏さまの智慧をいただく――そういう展開が大事なのだろうという想いがありました。
 そのためには、医療者と仏教者が一緒になって、一人の悩める患者さんに向き合うことが望ましい方向ではないかと思いました。そういうことを多くの人に理解していただこうと想い、そういう行動をしながら、年に一度、全国的にそういう取り組みにおいて活躍している人を病院に招いて、職員や宗教者の人に対して研修という形で学びの機会を設けていました。
 特に医療現場で求められる仏教ということに関して言えば、私は別府で「歎異抄に聞く会」という会を毎月開催しているのですが、そこに大学の先輩で、大分県の外科を指導されてきた辻(つじ)秀男(ひで)お)先生(1924〜2011、九州大学名誉教授)という方がおられました。辻先生は七十五歳くらいの時から、後輩の私が話す「歎異抄に聞く会」に来ておられたのです。非常に真摯な印象のある先生で、私たちも実際に手術の指導を受けたこともありました。その先生がこんなことを仰っていたのです――。
「私は、手術をしたりして良くなっていった患者さんのことはほとんど忘れていますが、良くならなかったり、上手くいかなかった患者さんのことが時々思い出されて、夜、眠れなくなるんですよ」と。
 真面目な先生だなと思いました。
 先ほど述べたように、苦しみや悩みというのは、現実を想いの方に寄せてくるか、想いが現実を受容するか、この両方の取り組みで人間の苦しみや悩みは少なくなる、という話を私がしたら、後の質問の時に辻先生が手を挙げて感想を言われました――。
「私は今まで、人間の苦しみを取るのは、病気を良くする、現実を健康の方に持っていくしかないと思っておりました。今日初めて、現実を受容するという方向性で苦が少なくなることを知りました」と。
これを聞いて私は思いました――。
「ああ、そうなんだな。やはり医療の世界におる者は、宗教への接点がないために、人間の苦しみを取るには病気を治して健康にするしかないと思って頑張っているし、それしかないという発想の中を生きているんだな」と。
 こういう人たちに、現実を受容するという世界の展開があるのだと知っていただくならば、先生たちがそういう取り組みをしなくても、そういう宗教者と一緒になって、一人ひとりの苦しみ、悩みを解決する方向の取り組みができるのではないか。そういう意味では、医療と仏教の協力によって、そういう現実を受容し、受け止めて生き切っていく、という世界が拓かれますね。
 清(きよ)澤(ざわ)満(まん)之(し)という先生(1863〜1903、学僧・真宗大学〔現大谷大学〕初代学監)は「天命に安んじて人事を尽くす」 と言われ、住岡(すみおか)夜晃(やこう)という先生(1895〜1949、求道者・真宗光明団創設者)は「宿命を転じて使命に生きることを自由という これを横超(おうちょう)という」 と言われました。このように現実を受け止めて生き切っていく世界を表現された言葉を知らされる時に、この方向が、現実を受け止めながら生き切っていく道を教えて下さっているのだなと思い、そして、この仏さまの心にさらに尋ねていきたいなという想いを深めました。
 医療現場で私たちが医師としての仕事をしてきた中で、昭和の時代には「パターナリズム(paternalism:父権主義・温情主義)」といって、悪いニュースは患者さんに伝えない、という雰囲気が日本の医療界全体を席巻していました。だから「ガン」という病名は、よほどのことがない限り、患者さんには告知しなかったのです。
 これは、本人の気力を保たせるという意味では良さそうな感じもしますけれども、本人に本当のことを伝えて、その現実を共にどう受け止めていくかという取り組みを展開するためには、本当の病名を告げないことは大きな壁なのです。それが昭和から平成に移る頃に”Telling Truth(真実・事実を言う)”といい、やはりアメリカ医学の影響を受けて、日本全体が病名を告知するようになってきました。この時の変化で、私自身のことでびっくりしたことがありました。広島大学の関係者で、浄土真宗の本も書いているある短大の学長さんが私の務める病院に入院してきて、ガンの手術をしたのですが再発しました。この患者さんは、病気が良くなったらこの論文を仕上げるとか、病気が良くなったらあれをする、これをする、という話を主治医とするわけです。
 それで、その主治医が私に言ってきました。
「先生、あの人は、病気が良くなったらあれをする、これをすると言っているけれども、もう良くならない病気だから、本当のことを言って、そういう仕事を仕上げてもらったほうがいいんじゃないですか」と。
 そういうことでご家族と相談して、内科の主治医が本当の病名を告げたのです。それで、ある本が出来上がったということもあるのですけれども……。
 私は、本当の病名が告げられた後に、その先生の部屋を訪ねました。そして部屋に入った途端、ものすごい戸惑いを覚えました。私は外科の責任者をしていましたから、どんな質問をされても、サッと答える自信はあったのです。ところが本当の病名を言った後に、患者さんの部屋へ入って言葉を失うとはまさにこのことか≠ニ言うくらい、口が開かない――。
 なぜか……。今までは、嘘の病名を言って、いろいろな質問が来たら、サラリと誤魔化す訓練はできていた。だから、どんな質問に対してもごく自然に誤魔化して、その場を取り繕っていた。ところが今回は、本当の病名を言っていますからね。確実に死んでいくということが判っている時に、この人とどういう対話をすればいいかと考えると、口が開かないわけです。しかしその場はどうにか取り繕いました。
 これは、日本の医療界全体が抱えている課題だと思いました。みんな、嘘の上塗りの練習はしてきたけれども、本当に老病死に直面した時に、それをどう受け止めて患者さんと対話をするかという訓練が、昭和の時代に医師をしていた人たちには全くできていません。本当はその後もできておりません。だから今度は、患者さんと本当の対話をできるようにする訓練が、医療者には求められているわけです。
 科学的思考だけでは患者さんと心の対話はできないと思います。なぜか。私は後輩に、 「最近、ガンの病名をちゃんと告げていると言うけど、患者さんの反応はどうですか?」と訊いたら、 「いや、先生、都合がいいですよ。患者さんが医者の言うことをよく聞いてくれます」という答えが返ってきました。
「あれ? ちょっと方向が違うんじゃないか」と思いました。医師の方が、知識量、技術で圧倒的に強い立場になって、患者さんを圧倒的に弱い立場に陥れて、そうして「言うことを聞いてくれる」と言うのですから、そこに対話は成り立たないですよね。老病死をどのように受け止めて、患者さんと共に残りの人生をどう生き切っていくかという対話が、医療界には育っていないと思います。
 私はその後、管理職になったりして、患者さんと直に接する機会がないまま、今日に至っているのですが、患者さんとの対話が本当に充分にできているかという問題が、医療界の抱える問題としてあるわけです。
 1999年頃のことですが、WHO(世界保健機関)という所で「健康」の定義について、従来、「フィジカル(physical:身体的)・メンタル(mental:精神的)・ソーシャル(social:社会的)に健全である」。肉体と心、そして地域社会や職場、家庭での人間関係という三要素が健全であることが、1940年代から今日まで「健康」の定義でした。それが1999年に、WHOの理事会でこれだけではどうも人間の健康を、人間全体を充分にカバーできていないのではないか?≠ニいうことで、四番目の要素として「スピリチュアル(spiritual:精神的な・霊的な)」という要素を採り入れようという話が出てきたのです。
 これには多くの人たちが賛成でしたが、日本も含めて七ヶ国くらいが、まだ時期が早いのではないかという意見も出てきて、理事会では決定されたのですが、総会の決定までは進まず、今も保留が続いた状態です。
 健康の定義に「スピリチュアル」が入ることによって、私は非常に良い展開が起こるのではないかと思います。ところが日本の医療界には宗教にご縁のない人が多いものですから、国の審議会などの記録を見てみると、ある有名な医学者が「私は無宗教だから、そんなものが入ってくるのは迷惑だ」と書かれています。それほどに理解が進まない領域なのでしょう。
 しかし改めて、私はこの「スピリチュアル」という概念が入ってくることについて考えます。脳梗塞や老衰に近い状態で悪化する人たちには意識障害もだいぶありますから、症状が進むと会話があまり成り立たない。しかし、ガンの患者さんたちはわりと最期まで意識が保たれています。そういう人たちが老病死に直面した時、いろいろ訴えてくるのです。
 しかしそれに対して、医師や看護師は応えることができない。みんな「死んでしまえばおしまい」と考えているから、受け止めるという方向でのノウハウは持っていないのです。そこに今、宗教者が一緒になって取り組む、そういう人たちの心のケアが本当に求められているのではないか――。
 その一つが、宗教を出さずに哲学的な視点から何とかスピリチュアルケアというものを、主に看護師さんなどに理解してもらおうという努力がなされるのですが、現状はなかなか難しい。だから、もう少し医療界も宗教の方に眼を向けて、一緒に取り組もうという医療文化になっていかなければいけないかなと思っています。
 そういうことが医療の現場で求められているけれども、医療者の方も新しい医学知識を学ぶのに一所懸命で、そこまで手が届かない。それならば医療者と仏教者が一緒になってチームを組み、一人ひとりの悩める患者さんに向き合おうという方向性を出せば良い、となりますね。
 2011年の東日本大震災をきっかけとして、その翌年度から始まった東北大学の臨床宗教師研修(実践宗教学寄附講座)がまさに、その方向へ向かっています。本学の実践真宗学研究科でもその後、東北大学と連携して臨床宗教師に関わる課程を作り、取り組んでいるわけです。これはぜひとも大事にしていかなければいけない取り組みだと思います。
 数年前、医療界で緩和ケアなどに関わる人たちがイギリスで開催した学会から、「グッド・デス(Good death:善き死)を包括した医療」という流れが出てきています。これまでは老病死はあってはならないことで、元気な状態に戻さなければならない≠ニいう医療であった。そこに、グッド・デスを包括した医療が方向性として出てきたことは、特筆すべきテーマではないかと思います。
 医療界にとって「死」は医療の敗北でしたから、まさにマイナスの極み≠ニいう感じで受け取られていた。それが、死をも含めて、死を悪いものとせずに「グッド・デス」という発想で死を受け止めていくという課題がある、ということです。
 これには伏線みたいなものとして、どういうことがあるか……。フランスの哲学者で作家のシモーヌ・ド・ボーヴォワール(Simone Lucie de Beauvoir/1908〜1986)という人の『老い』という本でこういうことを言っています。
……人間がその最後の十五年ないし二十年のあいだ、もはや一個の廃品でしかないという事実は、われわれの文明の挫折をはっきりと示している。……(『老い』序/朝吹三吉訳 人文書院’72年 上-12頁)
 私の担当していた患者さんで、88歳のご婦人がいました。浄土真宗の門徒さんで、毎朝「正信偈」をあげてお参りをされていました。高血圧と不眠症で私の所に通院していました。ところがある日、そのご婦人が自宅で倒れているのが発見されて、てっきり脳梗塞か脳出血かも知れないと脳外科に運ばれて調べてみたが異常はない。そうこうしているうちに意識が戻ってきました。それで話を聞いてみたら、私が処方した睡眠薬をたくさん飲みすぎたということでした。薬の血中濃度が下がってきたのでしょう、次第に意識がはっきりしてきて、入院する必要はありませんので自宅に帰りました。
 そしてまた私の所へ来られた時に、この患者さんが私に向かって、
「先生、私なんか役に立たん。みんなに迷惑をかける。本当なら姥捨山に捨てられないかんのに……。あの時は、あのまま眠りたかった」
と言うわけです。「役に立たん」「迷惑をかける」……。まさにボーヴォワールが言った「廃品」だと自ら思って、自分を傷つけようとしている。
 せっかく浄土真宗に、お念仏にご縁をいただきながら、そういう最後を迎えるのは実にもったいないと思いましてね。私はこの時、彼女が真宗の門徒だと判っていましたから、
「〇〇さん、南無阿弥陀仏ってどういう意味か解りますか?」 と訊きました。すると彼女は、
「南無は『帰依する』『帰命する』だから、『阿弥陀仏に帰依する』じゃありませんかね」
と答えました。頭はしっかりしている。それで私は続けて、
「じゃ、仏さんの名前は何ていいますか?」 と訊きました。そうしたら、
「阿弥陀如来とか、阿弥陀仏じゃありませんかね」
と答えられた。これも間違いではないと思った――。そこで、
「仏さんの名前は『南無阿弥陀仏』なのよ。南無阿弥陀仏というのはね、役に立つとか立たんとか、迷惑をかけるとか、かけんとか、そんな小さな殻を出て大きな世界を生きよ、ということなのよ」 と言うたら、この患者さんが
「ああ、考え違いをしておりました」 と言うわけです。まだ頭はしっかりしているなと思いました。
 それから、私の手許にあった法話の録音テープをたくさん貸してあげました。この人の家族が言うには「先生、おうちのベッドで休む時にはいつも法話を聞いています」ということでした。九十歳の時、自宅で穏やかに亡くなっていかれました。
 「役に立たん」「迷惑をかける」という患者さんの訴えに対して、科学的合理主義で分(ぶん)別(べつ)し、プラス価値≠上げて、マイナス価値≠下げていったら、もう老病死は受け容れられないわけです。そういう人たちに対するメンタルな対応はやはり医療者と仏教者の協力があって初めてできてくるのではないかと思います。そういう老病死の現場こそが、まさに仏教的な解決の方法が求められているのだと思います。
 日本では、昭和二十五(1950)年くらいまで、ほとんどの人が自宅で亡くなっていました。ところがその後の経済発展とともに亡くなる方の現場が逆転して、1994年頃には病院で亡くなる人が八割ほどになりました。それが今日まで続いてきています。だから、かつて老病死の現場は自宅であったのが、亡くなっていく人は全て病院に隔離され、病院が老病死の現場になっていったわけです。
 しかしそこで働く医師、看護師には――こう言ってはいけませんが――仏教的素養はありません。医学教育、看護教育の中に、老病死をどのように扱うかという項目はほとんど出ておりません。すると、どうしても救命、延命としての対応しかなされないわけです。
 それも今では反省の時期に来ています。救命、延命したことが、本当に患者さんのためになっているのか……。象徴的なこととして今、延命処置として鼻から入れた管を通して栄養を摂る――経管栄養が多くの医療機関でなされているけれども、患者さんが嫌がったりして抜きますから、そうならないためにはどうするか、あるいは、管を鼻から入れていると気管に入ったりして、食道に行かない時もあります。そこで確実に胃に入れるために、皮膚の上から胃に管を入れて栄養を送るという処置をする。
 今から三十年くらい前までは、私たち外科医が麻酔をして、胃瘻(ろう)というのを作っていました。その後、内視鏡の胃カメラと同じ感覚で胃カメラの処置の時に胃を膨らませて、胃と皮膚がくっついた時に針を刺し、管を通して胃瘻を作ることができるようになって、内視鏡を扱う先生たちの仕事になりました。今、日本全体で30〜40万人の患者さんがこの延命処置を受けています。
 その処置をする内視鏡の先生たちに「自分がそういう状態になったら、胃瘻を付ける処置を受けますか?」と、あるグループがアンケート調査をしました。すると「はい」と答えた医師は一人もいなかった、という報告があります。「どうしてですか?」と尋ねると、「死を惨めなものにしている」と、こう言うわけです。
 今、医療界で「クオリティ・オブ・ライフ(quality of life:生命・生活の質)」ということを一つの評価として言うようになってきたために、時間的な長生きはできるけれども、その長生きした状態が本当に患者さんにとって良かったとは思えないというのが、多くの医療者の実感なのです。そういう意味で生命(いのち)というものを考えていく時に、科学的な合理主義では、質の評価というのはなかなかできないですね。快適であるとか、便利がいいという表面的な評価になるのです。だから、そこでは生命の質というものを問題にする哲学とか宗教的な観点はどうしても抜けがちになっていく。客観的な時間の量を追い求めた結果が救命、延命になるという現実があるわけです。
 そういう場においても私たちが、患者さんにとって本当に良いということは、どういうことなのかを考える。医療者だけでなく宗教者も、家族も合わせて、その人にとって何が良い方向かを考える視点を持っていくことも、医療現場で求められる仏教ではないかと思っております。
 老病死に直面した場合の理論的な面ばかりを紹介してきましたが、実際にどのようなことが起こっているかということについて、症例も少しずつ集まってきているので、紹介いたします。
 岩手県和賀郡沢内村(現西和賀町)では、行政と医療が協力して1960年に全国で初めて老人医療費を無料化し、1962年には乳幼児死亡率ゼロを実現しました。この間、四十年にわたって地域医療の仕事をされた増(ます)田(だ)進(すすむ)(1934〜)という先生がいらっしゃいます。その沢内病院(現西和賀さわうち病院)は国民健康保険関係の病院で、私が国東で仕事をしていた時に一緒に一泊二日の国民健康保険関係の全国の病院の研修会をしていました。そこで増田先生はよくシンポジストとして出ておられました。
 その増田先生がある時、医学関係の雑誌での対談で、こういう事例を紹介していました。
――あるガンの患者さんが入院してきて、医師と看護師がどうにも対応に困っていた。すると、あるおばあさんがその患者さんの枕許に来るようになって、しきりと「念仏しなさい」と勧めていた。すると、ある時からその患者さんが念仏をするようになり、笑顔も見せるようになって、穏やかに亡くなっていった、という話でした。
 東北地方は、浄土真宗が二〇%くらいなので、沢内村でいう念仏とはどの念仏だろうかな、と思っていましたら、その当時の村長さんだった人がお東(真宗大谷派)のお坊さんだったのです。太田祖(そ)電(でん)(1921〜2015、大谷派碧祥寺前住職)という方だった。すると増田先生が対談で話していたお念仏は浄土真宗かも知れんと増田先生に訊いてみようと思っていたのですが、お会いする機会を得ないまま、たまたま数年前、増田先生の最近の情況が医学関係の雑誌に出ていたので、早速インターネットで場所を調べました。そこで先生に「そのことはどの雑誌に書いていたのですか。それで、どういう情況だったのですか?」と手紙を書いて送ったら、一週間ほどして返事が来ました。その手紙を紹介します。
 ――あれは古い病院の頃でしたから昭和四十年代の後半です。患者は五十歳代の女性でした。隣接する秋田県の病院で、横行結腸ガンの手術を受け、沢内病院へ紹介されて自宅療養となったのでした。患者さんは「元気になる」と頑張っていたのですが、ふとしたことで夫婦が口論になった時、ご主人が「お前はガンで、もう治らないんだ」と言ったことがきっかけで、彼女は地獄に堕ちた思いになりました。往診していた私が「本当にガンか?」「今まで隠していたのか?」「治療はしているのか?」と責められました。私はありのままを話し、抗ガン剤を使っていることなどを話し説明しましたが、納得したように見えても、元気が失われました。
 やがて病状が悪化し入院しました。「目を開ければ鬼が来る。目をつぶれば地獄が見える」と訴えられたものでした。
 その時、近くの病室にいたおばあさんが、彼女の枕許に足繁く通ってくるようになりました。そして「死ぬのは怖くないよ。お念仏を称えなさい」と繰り返し言うのです。そのうち彼女はおばあさんの言う通りにお念仏を称えるようになりました。やがて彼女は落ち着き、表情も穏やかになってきました。笑顔も見られるようになって、私たちもホッとしたものでした。そして安らかに亡くなったのでした。
 そのことを当時の村長に、「村長さんよりもすごい宗教者がおられましたよ」と話をした記憶があります。田舎で長く暮らしていますと、ここの人々の生死(しょうじ)に対する達観といいますか、素直さを感じ、私はよく「村の人たちには敵(かな)わないね」と言ったものでした。本当に尊敬するべき村人がいたものです――。
 前後はありますがこういう内容でした。
 医療現場では、こういう老病死にまつわることで、患者さんからいろいろな訴えがなされてきても、医学教育、看護教育だけでは対応できないような訴えが出てきた時に、そういうプライベートなことには医者が関わるべきではないと、何となく放り出されているわけです。けれども、その中に本当に患者さんの苦しみ、悩みがあり、配慮することによって救われていくという症例がたくさんあるわけです。
 もう一つご紹介したいのは、龍谷大学の先輩でもある長(なが)倉(くら)伯(のり)博(ひろ)先生(1953〜/本願寺派善福寺住職)で、地元の鹿児島を拠点として全国的に活躍されています。長倉先生が、西本願寺のビハーラ研修の二期生として研修を受けた後、さらにキリスト教関係の病院などいろいろな所で研修を受けられて鹿児島に帰り、勇気を奮って百ヶ所以上の病院に「一緒にやりましょう」と手紙を書き送ったそうです。すると、全部断られたというわけです。
 ところが、たまたま私の大学の仏教青年会の先輩で、小(こ)牧(まき)専(せん)一(いち)郎(ろう)(鹿児島市豊島病院元院長)という放射線科の先生がいらっしゃって、この先生は西本願寺の鹿児島別院で結成された医師会の聞法のグループで聴聞もされて、仏教にとても理解のあった先生です。
 その先生がたまたま長倉先生の高校の先輩に当たるそうで、私が後から長倉先生に訊いたら、ある時、高校の先輩から電話がかかってきて「ぜひ患者さんに会って欲しい」と頼まれたそうです。しかしその週は予定が詰まっていたから、「来週でいいですか?」と訊いたら、「いや、来週ではもう亡くなっておるかも知れん」と言われた。それで急遽、予定を差し繰って翌日に行かれたそうです。
 その時の経緯を少しは聞いていたのですが、医療者の方はそれをどう受け止めていたのだろうかということについて、私はそういう症例を集めておりまして、この小牧先生に連絡を取ろうとしたら、この先生はすでに肺ガンで亡くなっていました。ようやく奥さまと連絡が取れて、「小牧先生が医師会雑誌かにその間のことを書かれたと聞いているんですが、資料は遺されていませんか?」と尋ねたら、「主人のものはほとんど整理して捨てました」という話でした。
 しかし一週間も経たないうちにコピーが送られてきました。その内容を紹介させていただきます。これも、医療現場からの求めに仏教サイドがある程度応えていったと言える症例だと思います。以下は小牧先生の手記です。
……私自身はかねがねターミナルケアに仏教を組み込まねばと思っていました。枕許へお坊さんに来てもらうことを希望する患者さんがいたら、ぜひお願いしようと思っていました。そして、そういう人にめぐり逢いました。斉藤さんという五十八歳の男性。後腹膜の肉腫(お腹のガン)に対して、三年前から三回の手術を当院で受けましたが、最後の手術では、いろいろな臓器にガンがくっついて、完全に切ると出血する恐れがあり、ほとんどを残してお腹を閉じました。そのことは彼に伝えてなかったのですが、時間とともにお腹が増大し、いよいよ最期が近づきました。しかし、いかにお腹がパンパンに膨(ふく)れ、痛くなろうとも、愚痴ひとつ言わずに堪えていました。私は彼の見事な堪えっぷりを驚嘆の眼(まな)差しで見ていました。
 でも、いよいよ一人では歩けないほど重症になった段階で、死を悟ったのでしょうか。悩みを喋り始めました。特に気になっていることと言えば、その昔、つまらない夫婦喧嘩で家を飛び出し、以後、妻子の生活の面倒をみなかったこと。そういうこともあって、実家に出入りも難しくなり、実の母の葬式にも出なかったことなどでした。これを聞いて初めて、彼がジッと痛みを堪えていた理由が分かったような気がしました。つまり、自分を罰していたのです。
 しかしながら、私がこの悩みを聞いてあげただけでは、何ら彼の心の重しを取ることにはならなかったようで、そこで私はこれこそお坊さんにお願いしようと思い、長倉先生にお願いすることになりました。先生は心やすく来て下さいました。
 患者のその前後の興奮状態は見ものでした。……
 この時のことを長倉先生から、ちょっと補足みたいな形でお聞きしたのですけれども、長倉先生が病院に行かれたら、そこの病院に勤める他の先生が喋っていたのが聞こえてきた――。
「うちの院長、何か頭がおかしくなったのかなあ。病院にお坊さんを呼んだぞ!」
という声が長倉先生の耳に入ってきたそうです。
……その日は、朝からソワソワしていたのですが、私が病室に行くと、一人歩きもできない状態なのに、何を着ましょうか、何をお礼にしたら良いでしょうかと訊く姿は、まるで小学校の遠足前という様子でした。部屋は二人部屋でしたので、その時だけ一人部屋に移しました。
 そしていろいろ話をしたそうです。後妻の奥さんも一緒でした。お坊さんが帰られた後の彼の顔は晴々としておりました。これは一生忘れられません。そして「良かった」「良かった」と繰り返すのです。……
 後日、長倉先生に「どういうお話をしていただいたのですか?」と尋ねたところ、要点としては、世の中にはこの方よりもむごいことを家族にした人がおり、そういう人でも仏さんはちゃんと救って下さるということ――これは多分『観無量寿経』に説く父王を殺した阿(あ)闍(じゃ)世(せ)のことでしょう――。二つ目は、母への供養のお勤めをお寺でしてあげる約束をしたこと。
 このようなお話を我々医師にせよと言われても、それは逆立ちしてもできません。その道の方がそれらしく喋って初めて、有り難くもなろうというものです。お蔭さまでこの方は、長倉先生が「また来る」と約束して下さいましたので、それを愉しみに残り二十日くらいを生きました。往生後の彼の顔は安らかで、正直、ホッとしました。
 なお、死後、長倉先生と話して分かったことですが、一回目の訪問の折、「今、何が気がかりですか?」との問いかけに対し、彼は「後妻が神経痛を患っていまして、私がいなくなった後、苦労するかと思うと不憫でなりません」と言ったそうです。
 すると、それまで傍らで暗い顔をして話を聞いていた後妻の顔がパッと輝いたそうです。後妻という立場にしてみれば、これ以上の愛の告白はないと思います。結局、この方に対するビハーラの役割としては、本人に安らぎを与えたのみか、遺された人にも愛を遺したと言えましょう。とても医師の私にできることではありません。本当にお坊さんにお願いして良かったと思います。
――こういう文章です。小牧先生は謙虚ですよね。俺たちは充分にやっているんだ≠ナはなくて、「とても私たち医師にできることではありません」と、そこに仏教に対する配慮、敬意を読み取ることができますね。
 医療現場では、老病死にまつわることが原因となって、患者さんの心の中にいろいろな悩み、苦しみが起こってきた時に、そのことに寄り添いながら対応することが求められています。しかし医師、看護師はとても忙しい。そのために充分に対応できないということが、残念ながら現場の情況です。そこに医療者と僧侶、できれば日頃から接点のある僧侶が病院の中で対話ができる環境ができればいいなと思います。
 今から十年以上前のことですけれども、アメリカでチャプレン(chaplain:教会外の学校・病院・軍隊などに属して宗教活動を行う聖職者)の研修をされて、日本へ帰って来た人に話を聞いたことがあります。日本に帰って来た時はまだそういう職種で働く場所はなかったから、京都市内のある福祉の施設で仕事をされていました。そこで私は向こうでチャプレンの仕事をされていた事情を聞きたいと思い、時間を取っていただいたのです。
 その時に驚いたことがありました。私が、「チャプレンの仕事というのは、患者さんとか家族のためにかなりの時間を割いて、対話をされているのでしょうね?」と質問をすると、
「仕事の時間を十割とすると、七割ほどは職員との対話で、メンタルケアみたいな仕事になっています」
と言われるのです。驚きました。
 言われてみれば、そうかも知れない。私がまだ国東の市民病院の管理者をしていた頃に、大分県の県立、市立、町立など自治体病院の管理者の会議が年に二回ほどあって、院長、婦長、事務長さんなどがいろいろと意見交換をする場がありました。
 その懇親会の席で、大分県立病院の婦長さんが、
「先生、私たち看護師は、癒されないんですよ」
と言うわけです。高度な病院では一所懸命に治療をしたけれど、結局は良くならなかったという形で仕事が終わる――亡くなってしまう――ことが、かなりあるわけです。最後に「死」という敗北で終わる仕事は、どうにも報われない、という愚痴のような言葉を思い出しました。
 あのチャプレンの方がアメリカの医療現場で仕事をされていた時に「七割は、職員のメンタルケアに関わっている」と仰っていたことが「なるほど」と解りました。それほど日本の医療現場では、ソフトの部分についての配慮ができていないのだなと思わせられました。
 そういうところも医療現場で求められる仏教の一側面だと思います。医療者のメンタルケア――これについては最近、「ケアする方の人が支えられ、ケアされるチャンスが要る」と言われるようになってきています。そういう意味でもまた医療の現場で求められる仏教ということなのかなと思います。
 お念仏の心に触れながら、具体的にどういう形で老病死を受容することができるのだろうか、またそういうことを医療者の人たちにどのように伝えるか、理解していただくか、いろいろと学ばせていただいています。
 そのヒントのようなことを、大(おお)峯(みね)顕(あきら)先生(1929〜2018、大阪大学名誉教授・本学元教授・本願寺派専立寺前住職)が講演されていました。大峯先生はフィヒテ(Johann Gottlieb Fichte/1762〜1814、ドイツの哲学者)の研究をされていました。そのフィヒテが、今を精一杯生き切っている人は死の心配はあまりしない。今が何か不完全燃焼で、不足、欠乏という思いがあり、明日こそ良くなるぞ、来年こそ良くなるぞと、未来を夢見て、今は明日のための準備だというような生き方をしている人は、死ということを通してその想いがブロックされるから、明日がなくなる。今を精一杯生きられない人たちが死を作り、死を怖がる、と書いてある、と言っているということを話されていました。
 自分に与えられた情況を、「天命に安んじて人事を尽くす」とか「宿命を転じて使命に生きる」というふうに「これが私の引き受けるべき現実である。南無阿弥陀仏」と、お念仏でもって引き受けることによって「私」になり切り、そこで精一杯に生き切っていく時にこそ、未練なく生きるという世界に、どうも導かれる――。
 それはどういうことかと言えば、生死の中で、死ぬということは、浄土の教えでは、念仏する者を必ず浄土に迎え取る、ということですから、死んだ後からのことは、仏さまにお任せするべき領域であって、私がしなければならないことは、今生かされている、生きている人生を精一杯に生きる。細川先生の言葉で言うならば「あなたが然るべき場所で然るべき役割を演ずることが、今までお育ていただいたことに対する報恩行ですよ」と。その心で言うならば、今、自分に与えられた情況を、これが私の引き受けるべき現実だと、正面から堂々「南無阿弥陀仏」と引き受け、精一杯お念仏で生き切っていく。後はお任せで充分なのです。
 そしてフィヒテが言うように、今を精一杯生き切る人は死ぬ心配はしない。今を精一杯生きられない人が、明日こそ良くなるぞ、来年こそ良くなるぞと、そういう人たちが、死を作り、死を怖がる、と。
 仏教の世界を教えていただく時に、私たちの普段の発想では全体が見えていない。愚かであり、迷いを繰り返していると知らせていただく時に、私たちが最も頼りとしている、小学校からの教育の中で育まれた、物事を向こう側に見ながら合理的、客観的に考えていくという発想は、仏教の、智慧の眼から観れば、それこそ迷いの根源なのだと教えられる時、本当に私たちは、局所的で全体が見えていなくて、迷いを繰り返していることが解ってくる。
 その救われ難い私をこそ目当てに、念仏する者を浄土へ迎え取るぞという本願が「南無阿弥陀仏」とはたらき、善き師、善き友を通して届けられている――そういう世界が本当に受け止められる時に、私の思いを翻(ひるがえ)してお念仏しつつ生きていこう……。
 これが私は最初、受け取れませんでした。どうしてかと考えたら、浄土の教えを聞きながら、限りなく私の人生成就のための仏法≠ニ、聖道門的に受け取っていたのです。ところが、本当に私のそういう受け取りをも、赤裸々に照らし出されて、迷いを繰り返している私のすがたを知らされる時に、かたじけなくも「南無阿弥陀仏」が私まで届けられていて良かったなと、素直に「南無阿弥陀仏」と受け取らせていただく。
 そういう自分の愚かさ、迷いのすがたを明らかに照らされながら――すぐ忘れてしまいがちですけれども――、またその時々に仏さまのお念仏の心に触れながら、繰り返し、繰り返し、歩ませていただくその中に、現実を受け止め生き切っていく世界に導かれるのだなと思っております。
 私は学生の時に、真宗のいろいろなお育てをいただきながら、多くの人々との出逢い、教えとの出遇いを通しながら、医療が人間を救うのか、仏教が人間を救うのかと考えれば、確かに局所的には医療も救うだろうけれども、生死(しょうじ)勤苦(ごんく)の本(もと)を抜く道(『無量寿経』)と教えるように、根本的に人間を救うのは仏教であろうと思います。そういう意味で、医療のできる分際、仏教の世界。一人の悩める患者さんを救うという取り組みに、医療と仏教が協力できる時代を迎えられれば良いなと思いますし、私が龍谷大学にご縁をいただいて九年が経ち、医療と仏教の協力が少しずつ芽吹き始めています。医療文化と仏教文化とが協力して、一人ひとりが豊かに生き切っていける世界が展開するよう願っております。
「医療現場で求められる仏教」ということで、私の経験と今までの歩みの中で感じたことをご紹介しました。
(文責在宗教部)(「疾風の如し」りゅうこくブックス、132号2018.5.21.p63-106)
(たばた まさひさ) 1949年生まれ,大分県出身。'73年九州大学医学部卒業。同年九州大学付属病院第一外科に入局。'81年医学博士。'83年米国ノースウェスタン大学に留学。その後,国立中津病院外科医長,東国東広域国保総合病院(現国東市民病院)外科部長,同院長を10年間勤め勇退,'04年佐藤第二病院院長に就任。'09年龍谷大学文学部(大学院実践真宗学研究科)教授に就任,現在に至る。  '90年に「国東ビハーラの会」を組織し,医療と仏教の協力関係構築に取り組む。

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