「新型コロナウイルス時代に私たちはどう生きていくかー医療と仏教の視点からー」 田畑正久 「西本願寺医師の会」の通信2020/12/11 西本願寺「宗報」2021年2月号P15−19 第639号 はじめに 最近の地震津波災害、毎年の梅雨末期の水害、火山噴火、この度のコロナ騒動などは自然現象が露出したことと受け止めることが出来ます。このコロナ騒動の現実に「医療と仏教の協働」の視点から、この事件をどう考えて、どう対処するかということが問題になると思われます。 どう考えて行くか 新型コロナウイルス感染症は歴史上、人類がはじめて経験することです。細菌感染症は抗生物質の発見、栄養状態の改善、公衆衛生の進歩によって克服できるようになっています。しかし、ウイルスとの闘いは少しずつ人が闘いの道具を入手し始めた状態です。新型コロナウイルス感染症は2020年の初め、病態も不明な状態で闘いが始まってしまい、医療対応をしながら病態を学んでいるという状態です。 基本は人間に備わっている自然の治癒力(免疫など)が発揮できるようにすることと、治癒力を支持、増強する対応、そして合併症対策が必要ということです。 「医療と仏教の協働」に関してですが、病気(感染症)の治療は医学・医療で行うのが基本です。医療はよくなる病気は救うことが出来ます(善くならない病気は救うことが出来ません)。治療に反応しなければ「死」ということもあり、医療の敗北です。 仏教は病気の人間を丸ごと救う(病気は治癒しても、しなくても)のが役割でしょう。仏説無量寿経(大経)(1)には、仏教は「生死勤苦の本を除く」(2)と働きが示されています。仏教の救いは医学・医療とは質が違うということです。 「二の矢」を受けない 仏教の救いは「二の矢を受けない」と言われています。人は縁(3)次第では病気やケガをします。それは未信(4)の人でも信心(5)をいただいていても同じで縁次第で何でも起こるということです。それを「一の矢」と言います。病気を発症すると病気の症状で種々の苦痛を引き起こします。 人は取り越し苦労というか、病気を縁にいろいろ心配します。病気が順調の改善しないと、それによって仕事のこと、経済的なこと、家庭のことなどで心配が起こってくるでしょう。また診断がつかなかったり、病気が長引くと、「ガンではないか?」「死ぬ病気ではないか?」等の不安、悩み苦しみが起こってきます。病気を縁に精神的な不安・悩みなどが起こるのを「二の矢」と言います。仏教での救いを「二の矢を受けない」と言います。 感染症で軽症の場合は家族の協力を得て養生ができるでしょう。病状が進めば担当医、そして種々の専門医にお任せするしかありません。素直に「お任せ」できる時、自然の治癒力は十二分に発揮されるでしょう。 親鸞聖人の受けとめ 私が感染症に罹患すれば、高齢者に該当していますので、重病化して「死」もあり得ます。「死」の不安に関して、親鸞聖人御消息(8)(西聖典注釈版(7)771)には、 なによりも、去年・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふら んことこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ。まづ善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず、信心決定のひとは、疑なければ正定聚に住することにて候ふなり。さればこそ愚痴無智の人も、をはりもめでたく候へ。如来の御はからひにて往生するよし、ひとびとに申され候ひける、すこしもたがはず候ふなり。(後略) 善信[八十八歳] とのお手紙が残っています。 仏教は病気を救うのではなく病人を丸ごと救うのです。仏教の救いは世間的な救い(経済的、社会的、医学的など)とは質が異なります。あるがままをあるがままに受け取り、与えられた状況を、「これが私の引き受けるべき現実、南無阿弥陀仏」と仏へお任せして今日、ここを精いっぱい生き抜くのです。 仏教の師より、浄土の教(南無阿弥陀仏)を頂くものは、朝、目が覚めた時、「今日のいのちを頂いた、南無阿弥陀仏」でスタートし、夜、休むとき、「今日、私なりに精一杯生きさせていただきました、南無阿弥陀仏」と一日を終えるのです。そしてその間(昼間)は、思い出しては南無阿弥陀仏と念仏しなさい、と教えられています。私(わたし)田畑は夜、休む(寝る)とき、「これで死ぬんだ、南無阿弥陀仏」と死ぬ練習をしましょうと、お勧めしています。 仏教の基本の「縁起の法」では死に裏打ちされて「生」がある(生死一如)と教えられています。「我」はない「無我」なのに、我ありと思うから死ぬ心配をするのでしょう。仏の智慧で見ていきましょうというのが浄土の教です。智慧をいただくことを信心を頂くと言います。南無阿弥陀仏と念仏する時、私が仏のはたらきの場になるのです。死ぬのが当たり前です。今、今日を生かされていることの「有ること難し(8)」を念仏して受け止めていきたいものです。 不安について 富士川游(1865-1940、明治?昭和期の医学史学者、浄土真宗に通じた内科医))の著作『医術と宗教』にある文章を田畑が一部改変して文章を作りました。 「我々人間の生活はまことに苦悩に満ちたるものであります。しかしながら、かように苦悩となづけられるものが我々人間の生活の全体で、もしこれを除くときは後に何物も残らぬのが現状であります。生命があればすなわち不安や苦悩があり、それを除き去れば生命(生きているということが)がなくなるのです。それにも拘わらず、多くの人々はその不安や苦悩が消えてなくなるようにと念願し、その念願を成就するがために神・仏に頼ろうとするのが常でありますが、こと仏教に関しては決して人々の苦悩を除去するがために使われるべき手段や道具ではないでしょう。苦悩や不安に直面してその背後にある人間存在の深みの真相へ目覚めさせ、あるがままの世界へ呼び戻すはたらきとして顕現するものが智慧のはたらきでしょう。もし仏の心(智慧)に触れる時は実際苦悩に左右せられる心が、変化して苦悩に左右せられざるようになる。ここにいわゆる苦悩や不安の浄化が行われます、しかし、それは決して苦悩の心が消えてしまうのではありません。仏教は生死を超える(転悪成善(9))、苦悩する人を救うのです。浄土の教え、念仏は苦悩する人を救うために見いだされた真実の法です。」 このことを浄土真宗本願寺派の僧侶西原祐治師はブログの中で受け取りやすく説明してくれています。 本、『モリー先生との火曜日』の紹介に、「ミッチ、私は死にかけているんだよ」 16年ぶりに再会した恩師、モリー・シュワルツ教授はALS(筋萎縮性側索硬化症)に侵されていた。忍び寄る死の影。だが、その顔には昔と変わらぬ笑顔があった。「この病気のおかげで一番教えられていることとは何か、教えてやろうか?」 そして、老教授の生涯最後の授業が始まった―。 著者ミッチ・アルボムとモリー教授が病室で実施された「ふたりだけの授業」の記録がその本であり、その中に「海の描写」があります。 「この間おもしろい小ばなしを聞いてね」とモリーは言い出し、しばらく目を閉している。ぼくは待ちかまえる。「いいかい。実は、小さな波の話で、その波は海の中でぶかぶか上がったり下がったり、楽しい時を過ごしていて気持ちのいい風、すがすがしい空気−−ところがやがて、ほかの波たちが目の前で次々に岸に砕けるのに気がついた。 『わあ、たいへんだ。ぼくもああなるのか』 そこへもう一つの波がやってきた。最初の波が暗い顔をしているのを見て、『何か、そんなに悲しいんだ?』とたずねる。 最初の波は答えた。『わかっちゃいないね。ぼくたち波は皆、砕けちやうんだぜ! 皆なんにもなくなる! ああ、おそろし』 すると二番目の波がこう言った。『ばか、分かっちゃいないのはおまえだよ。おまえは波なんかじゃない。海の一部分なんだよ』」 穏やかな小波の状態であるのを「私」と思い、その状態を当たり前の事と思っていたのです。ある時、自然現象(自然なすがた、縁起の法による変化)によって変化した、強い波の状況を見て、「ぼくもああなるのか」という混乱が引き起こされたのです。小波にとって、穏やかな海面が普通の海の姿と考えて、当たり前と局所的、近視眼的に見て、海の全体像が見えてなかったのです。 風などで変化するという海の現象の全体像が見えってない、近視眼的に見て、私は正しく見ていると執われ、それから引き起こされた歪み、軋みが混乱、即ち「不安」「悩み」として露呈したのです。俯瞰的に全体が見えている先達(よき師、友の教え、導き)によって「海と一体である」(自然、本来性の事実)という真実の自分に出遇って、執われた心が開放されていくのです。 これは私たちが限りある生(老病死を必然とする命)を告げられて混乱や苦しみをもつ状況と同じです。苦しみや混乱は、重要な意味があり、それは真実なもの(法)からの働きかけによって、不自然が自然へ、非本来性が本来性へ戻される道理の症状という理解です。 コロナ騒動を通して引きおこされる老病死の苦悩や不安の現実は私に何を教えよう、気付かせよう、目覚めさせようとしているかと仏の智慧に照らされながら念仏して受けとめていくことが大切です。 だから苦しみや混乱は、「不幸なこと」「無意味なもの」と解決することではなく、苦しみや混乱の中に身を置き、私が質的な転換に導かれ真実に同化することが仏教において重要だということです。安心(あんしん)は不安がないこと、安らかな心情のことです。しかし、安心(あんじん)は、仏教に基づく言葉で、「安」は「安立」「安置」などの意で、自分の心を道理にしっかりと立てることです。つまり、不安があってもよいというのが安心(あんじん)です。 大谷専修学院長であった信国淳先生の言葉に「人間は死を抱いて生まれ、死をかかえて成長する」があります。それはさらに「年をとるということは楽しいことですね。今まで見えなかった世界が見えるようになるんです」に展開します。 脚注 1 多くの仏教経典の中でも浄土真宗が重きを置いている経典として浄土三部経:仏説無量寿経(大経)、仏説観無量寿経(観経)、仏説阿弥陀経(小経)があり、その中でも中心の経典としてみている。 2 「人々の迷いと苦しみのもとを除く」という意。 3 因縁の縁。因とは結果をもたらす直接原因、縁とは間接原因または条件。すべての存在は因と縁によって生じて仮に存在し、また因縁によって滅するものとする。このように因縁によって事柄が生起することを因縁生とも縁起ともいう。 4 脚注5参照 5 阿弥陀仏の「生きとし生けるものを仏にする」という本願を疑いなく聞ける人の心。未信とは、阿弥陀仏の本願を疑いはからう心。 6 親鸞聖人が門弟などへ宛てたお手紙のこと。四十三通あって、その内容は、晩年の聖人の信心の領解がうかがわれるとともに、指導者としての聖人の態度や門弟の信仰態度などを知ることができ、初期の真宗教団の動静をうかがうのに欠かせないものである。 7 浄土真宗聖典註釈版:「浄土三部経」や親鸞聖人の主著である『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)をはじめ仏祖の聖教を収録したもの。(本願寺出版社発行) 8 命あることが当たり前だと思いがちですが、生きとし生けるものは必ず死を迎えます。昨日元気に過ごしていた方が、今日には息を引き取っていることもあるように、命はロウソクの火のようにとても儚いものです。しかし、私たちは、この突然に訪れる死から目を背け、生きていることが当然のように生活しています。仏教では、誰しも必ず訪れる死を受け入れ、この一瞬を生きていることに感謝をする教えです。今、この命を生きていることが、とても尊く、「ありがたい」ことなのです。 9 『教行信証』総序に「円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智」(『註釈版』一三一頁)とある。あらゆる功徳をそなえた名号は、悪を転じて徳に変える正しい智慧のはたらき。 |
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