「コロナ禍における生き方」
田畑正久
西本願寺仏教壮年会連盟機関紙朋友 第26号 2021(令和3)年3月31日発行


 新型コロナウイルス感染症対策の基本は人間に備わっている自然の治癒力(免疫など)が発揮できるようにすることです。そのためには三食をしっかり食べる。睡眠を十分にとる、適度の運動をすることが基本です。ワクチンは効果が期待できるし副作用も受容できる範囲ですから受けることをお勧めします。手洗いやマスクの使用など予防の指導には従いましょう。
 一旦、感染症になれば、治療は医療の専門家にお任せが基本です。医療はよくなる病気は救うことが出来ますが場合によれば「死」(医療の敗北)ということもあります(覚悟して念仏しましょう)。感染した場合は「これが私の現実」と素直に念仏し、「お任せ」できる時、自然の治癒力は十二分に発揮されるでしょう。
 仏教の救いは「二の矢を受けない」ということです。人は縁(条件)次第では病気やケガをします。それは信心の有無に関係なく、縁次第で起こることです。それを「一の矢」と言います。病気を発症するとその症状で種々の苦痛を引き起こします。同時に病気を縁に、順調に改善しないと、それによって仕事のこと、経済的なこと、家庭のことなどで心配が起こってきます。病気が長引くと「ガンではないか」「死ぬ病気ではないか」等の不安、悩み苦しみが起こってきます。それらを「二の矢」と言います。
 いろいろ心配すると免疫力に悪い影響をします。「良くなる、良くならないはお任せします、南無阿弥陀仏」です。仏教は病気を救うのではなく病気の人間を丸ごと救うのが役割です。大経には「生死勤苦の本を除く」と働きが示されています。仏教の救いは医療とは質が違うということです。
 病気の有無に関係なく日常生活は苦(不安・苦悩)、楽の繰り返しです。生命があれば不安や苦悩は必ずあり、それを除き去れば「生きているということ」が無くなるでしょう。仏教は決して苦悩を除去するがための手段や道具ではないのです。
 あたりまえ、当然、と日常を生きる私たちを、存在そのものの根源に呼び戻すものが<不安>です。不安は私たちの生活や心の中に、思いがけない穴(病気であったり、親しい人の死であったり、他人とのもめごと、事業の失敗等によって)がポッカリと開き、そこから冷たい隙間風が吹くようなものです。その穴を埋めることも大切でしょうが、穴が開くまで見えなかったものを穴から見ることも大切なのです。
 継続した聞法の歩みで、私の相対分別の無明性が翻されて仏智に順じて生きよう、と姿勢を正される者は、苦悩や不安に直面して念仏する時、人間存在の深みの真相へ目覚めさせられ、苦悩の背後に寄り添ってくれている法蔵菩薩のご苦労を知らされるのです。
 「念仏となって私の口から現れて下さる、み仏のはたらき」は、私たちを「いのちの願い」、「存在することの原点」に立ち戻らせて歩ませてくれる勇気、励ましを与えてくれる教えです。
 仏の心に触れる時、不安に左右せられる心が、左右せられざるように変化するでしょう。ここに仏智のはたらき(転悪成善)が展開しているのです、決して苦悩の心が消えてしまうのではありません。世間では不安が無くなることが安心(あんしん)ですが、仏教では不安のままに安心(あんじん)の世界が開くのです。
 「念仏者は無碍の一道なり」と示され、「摂取不捨の利益に…」(歎異抄)と教え導いてくれています。

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