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過ぎた価値 
 
 若い時に出来なかったことをするのもよいかもしれませんが、若者にはできないこと老年にしかできないことをする方が、もっと価値があるのではないでしょうか。若い者に負けまい、若い時のものを失うまい、という努力はほとんど必ず失望に終わるでしょう。若いふりをしても、遅かれ早かればれるときが来るのです。
 昔の地位、昔の能力、学歴、権力、など昔の栄光に執着して残りの人生を生きようとする人があります。フロムという心理学者は、そのような人を松葉づえで立っている人にたとえています。地位や身分や財産など自分の外にあるものによって立とうとしているからです。それが無くなったときに、松葉づえを取り去られた人のように倒れてしまうでしょう。
 また若いときの能力や力や美しさを、出来る限り維持しようとして老年の日々をすごすなら、やはり同じような結果を見なければならないでしょう。若さ、美しさ、能力、力などを老年になっても維持しようとする努力は、寿命の来た自動車のバッテリーのようです。充電をしても、おそらくまた同じことが起こる日が近いのです。まずい場所で起こるとかなり面倒なことになってしまいます。
 ではどうすれば豊かな老年をおくることができるのでしょうか。おそらくそれは受け入れることから始まるのだと思います。外側についていたものは、秋の葉っぱのように落ちていくこと。それだけでなく内側にあった、健康や力など若さに属する様々なものも失われていくこと。それを認め受け入れることが老年の価値を見出す出発点です。
 地位も肩書も力も無くなって、本当の自分になっていくとき。外側であれ内側であれ、遅かれ早かれ失われるものによってではなく、人間としての価値だけが丸裸になってしまうとき。それが老年です。私という人格はもはや服のように脱ぐことも、流行によって過ぎ去ることもありません。神の前にある私だけが問われるのです。
 そのような内面の価値に全エネルギーを注ぐことができる特権が、朝から晩まで毎日ある。外に向かっていた若い時のエネルギーをすべて内面に向けることができる。それが人生の秋である老年ではないでしょうか。それが箴言の「何事にも時がある」という言葉の意味です。朝や昼の仕事を夜にしてもうまくいきません。夏の服を秋に着るなら風邪をひいてしまいます。聖路加国際病院の日野原重明医師は100歳を過ぎてもまだ現役でしたが、おそらく医学的な才能や能力よりも、その人格によって自分よりも若い多くの人々を励まし続けてきたのではないでしょうか。