キリスト教の救いとは何か

「何からの救いか」
 
創世記4:14~15
主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は、生涯はいまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼は、お前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」
 
 
 自分
 自分を知るとき、人は自由になります。それにもかかわらず、人はなぜ本当の自分の知って自由になろうとしないのでしょうか。自分を知ることは、非常に難しいからです。しかし難しい理由は簡単であり、本当の自分を知ることは、人間にとって最も苦しいことであるからです。自由ではない人があまりにも多い現実が、これが本当であることを証明していないでしょうか。
 たとえば私たちはみな、自分を知っていると思っています。しかし自分が知っている自分は、自分のほんの一部にすぎません。そしてその一部ですら正しく知っているとは限りません。ある意味で、自分をいちばん知らないのは自分であるとも言えるのです。
 そしてこのような傾向は、自分に近いものにも顕著に表れることを、私たちは経験から知っています。たとえば母親にとっては、自分自身の次に自分に近いのは自分の子供です。母親は自分の子供をいちばん良く知っているとも、最も知らないとも言えるのではないでしょうか。ですから、自分自身のことは最も分かりにくいのであれば、他の人を見て自分も同じではないかと推理できる人は賢い人です。
 こんな場面を創造してください。だれかがつまらないことで腹を立てている時、もしそれがあなたの親しい友人であればどうするでしょうか。おそらく「そんなことでいつまでも腹を立てているのはやめた方がいいよ」と言うのではないでしょうか。でも次に、自分の場合であればどうなるかも考えてみてください。たとえば自分が誰かにバカにされたときはどうでしょう。先ほどの友人は、あなたに対して同じことを言わないでしょうか。
 自分を知らないというより、自分の最も悪いところを知ろうとしない、知ることができない、と言った方が正確です。五番目ぐらいに悪いところを自分の欠点と考えていれば、まだましな方で、自分のいちばん良いところと他の人のいちばん悪いところを比べて、他の人を批判しているのが私たちです。
 
 救い
 そのように、自我の奴隷になっている人間を、解放するために来てくださった救い主イエス・キリストのことが書かれているのが聖書という書物であり、聖書は書店や図書館にある他の本とはまったく異なる本であるのです。
 ですからイエス・キリストを語るのが最終的な目的であるのですが、その前にもう少し人間のことを話さなければなりません。多くの宗教は救いのことから語り始めるのが普通です。そして「これを信じるなら救われる」「病気がなおる」「不幸なことが起こらない」などと言うでしょう。しかし聖書の順序は、そうではありません。聖書の教える「救い」は、他の多くの宗教の「救い」とは異なっています。まず人間の心の本当の状態を示すことから始まり、そしてその次にそこからの救いを語るのです。ひどいケガをしたとき、医師は泥のついたまま傷口に傷薬を塗るでしょうか。もちろんそうではなく、まず傷口を水で洗い、傷の状態を見ることから治療を始めるでしょう。傷口を洗うのは痛みを伴うからといって、この過程を省略するなら、かえって傷を悪化させるのはほとんど確実です。これがインチキ医者とインチキ宗教を見分ける方法です。
 「救い」とはいつでも何かからの救いです。たとえば「おぼれそうになったが救われた」「病気で死にそうになっていたが救われた」などと言うはずです。単に「救われた」と言うことはできません。
 聖書が教える救いは、罪からの救いです。少し意味がせまくなりますが、自我からの救いと言い換えても基本的な意味は同じです。自我にがんじがらめに縛られて、身動きできなくなっている奴隷、それが聖書の描く人間であり、そのような状態から解放され自由になることが聖書の教える救いです。人間はもはや、修行や座禅など努力によっては、自分の本当の姿を知ることができない者となったからです。いや、自分の本当の姿を知ろうとさえしない者となったのです。このことに例外はありません。「正しいものはいない。一人もいない」(ローマの信徒への手紙3:10)。「善を行う者はいない、一人もいない」(同12)。
 
 アダムとエバの場合
 アダムとエバに人間の心の源泉を見ることができます。彼らは自由になろうとして罪の奴隷になった最初の人類であり、そこに私たち自身に関する秘密がたくさん隠されているのです。つまりアダムとエバと彼らのしたこととその結果を知るとき、私たちも自分自身の本当の姿を知ることができるのです。
 アダムとエバをみごとに転落させることに成功したヘビの巧妙な手口については、「悪魔の巧妙さ」ですでに考えました。巧妙さの一つは、人間のプライドに働きかけることです。赤ちょうちんに誘惑される者、甘いものには目がない人、ブランドに弱い人があるでしょう。そして酒にも甘いものにもブランドにも誘惑されない人があります。しかしすべての人は例外なくプライドには弱い、アダムとエバはその急所をねらわれました。悪魔はプライドを使えば、どんな人でも操縦できることを知っているのです。
 「何でもかんでも、神さまの言う通りに生きるなんて、つまらないと思わないか。」「自分の頭で考えなさい」「そんな不自由な生き方ではなく、自由に生きよう」、とヘビはプライドをくすぐりました。人間は独立した存在であるというプライドであり、19世紀以降の世界を支配してきた考え方です。このようにして、一人一人が小さな神になったのです。
 しかし実際はどうだったのでしょう。神からも独立した完全な自由を手に入れようとして、自由を失い罪と自我の奴隷となりました。「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」(ヨハネ福音書8:34)。自分が写っている集合写真を見るとき、まず最初に見るのは自分の顔です。そして他の全員がうまく撮れていても、自分がうまく写っていないときには「この写真は写りが悪い」と言うでしょう。
 
 自由
 さて今回は、これ以上はそこに留まるつもりはありません。その次の段階に進まなければならないからです。それはアダムとエバが罪を犯した直後に、アダムに語られた神の言葉に示されています。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く(創世記3章15節)。
 ヘビの頭が砕かれる前に、ヘビは地を這いまわるものとされます。頭が砕かれるための準備のためです。これはヘビに対する神の呪いの言葉ですが、その裏側に罪人に対する恵みが隠されており、救いの約束が含まれています。これは教理的には「恵みの契約」と呼ばれています。この段階の契約は十分な形になっていませんが、少なくともそこには契約の基本的な要素が見られるからです。それゆえに、3章15節は「原始福音」と呼ばれています。
 「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。」ヘビと人が、互いに敵になるという意味です。アダムとエバは、神は不親切な敵でヘビが親切な味方であると判断し、神の命令に反して善悪の知識の木から取って食べました。それ以来、人はヘビを味方と思う勘違が始まりました。罪深いヘビの誘惑に人は魅力を感じます。聖書が示す正しい生き方など、窮屈で不自由だと思います。自分の思いどおり、希望どおり生きられるのが最高の自由だと思っています。
電車がレールから自由になることを脱線と言います。そしてレールから自由になった電車は不自由になり、1メートルも自分で動くことができません。社会のルールから脱線し、してはならないことして、しなければならないことをしない者は鉄格子の後ろで生きなければなりません。本当の自由とは何でもしたいことができる自由ではありません。したくないことをしない自由でもありません。子供の希望を全部かなえたら、どんな子供ができるでしょうか。欲望とわがままの奴隷になった、ジャングルの野獣のような人間ができあがることは、大人になるまで待たなくても始めから分かっています。訓練と教育は子供をわがままから解放し、自我から子供を自由にするのです。そのように神の律法は、私たちを自我の奴隷から解放し、私たちに本当の自由を与えるためのものです。
 
敵意を置く
「敵を愛せよ」と聖書は命じます。敵を愛することは、最も自由な人だけが可能な行為です。外側からの別の力が働かなければ、私たちの内側の心は敵を憎むことしか知りません。被害を受けたとき、人は憎しみの奴隷のようになるからです。
そのようなヘビの命令との関係を、人はどうすることもできなくなってしまいました。神はそのような関係に、「わたしは敵意を置く」と言われたのです。「わたし」とは神であり、原始福音の文章の中で最も重要なことばです。すなわち人間が修行をして敵意を置くのではなく、神が敵意を置くのです。「神が」ヘビと人の間に敵意を置いてくださるとき初めて、ヘビの誘惑を見破ることができるようになります。つまり自分の罪に気がつきはじめるのは、修行や教育ではなく神の恵みによらなければなりません。罪の生き方は、一時的には自由で楽しそうに見えても、実は罪と自我の奴隷であることが分かるようになるのです。
哲学、修行、教育には限界があります。それによって、罪深い行為や罪の誘惑をある程度は退けることができるかもしれません。立派な人だ、と賞賛されるような生活をすることさえできるでしょう。
 しかし、私たちを最終的にしばっているものから解放することはできません。それは、自分自身であり自我です。キリストは不思議なことを言われました。「施しをするときには、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(マタイ6:3)。どういう意味でしょうか。まず、この不思議な言葉が置かれている文脈を見なければなりません。「人からほめられるために良い行いをしてはならない」という文脈です。「あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」(2)。
ここで人からほめられる、という誘惑に完全に勝利できる人がいた、と仮定してみましょう。その時、「もう一人いますよ」と主イエスは言われたのです。私たちの善行をじっと見てほめている、もう一人。それは、自分です。右の手も左の手も自分です。たとえ、他の人からほめられるという誘惑をしりぞけたとしても、まだ自分が自分をほめるという誘惑との戦いに勝利しなければならない。これが、「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」という言葉の意味です。人からほめられるという戦いよりも、もっと難しい高度な戦いです。自分で自分をほめるプライドとの戦いが、いつでも最後の最後に残されているのです。
イエス・キリストの十字架だけがこれに勝利する力を与えてくれます。十字架の福音は自我から私たちを解放する唯一の力です。私と私をしばっている自我との間に敵意を置く。私たちが絶対にできないこと、しようとも思わないこと、いやむしろ最も憎んでいることです。私という人間と自我が一つになっているからです。福音は右の手と左の手の間に距離をおきます。距離を置いて自分が見えるようにします。右の手と左の手、すなわち自分と自分の間に敵意を置くことができるようになります。
私たちは自分と自分の罪をいっしょに愛しています。ですから他の人の罪を憎んでも、自分の罪を憎むことができません。自分の子供は自分の次に自分に近いものであり、自分の子供と自分の子供の罪をいっしょに愛してしまします。
自分の中にある罪を敵と思い、憎むこと、それがキリスト教の救いの第一歩です。アダムとエバがした責任転嫁の正反対の行為です。すべての問題の発祥の地は、自我といっても言い過ぎではありません。自我からの解放。神が私と私の自我の間に敵意を置いてくださるとき、はじめて可能になる最高の恵みであり最高の自由です。
 
 結論
自分のことは自分が一番よく知っている、などとは全く言えません。自分の中にある罪はかわいくて仕方がありません。しかし、神の恵みが入ってくるとき、その自分の罪の醜さが見え出し、自分の中の罪にも敵意を感じはじめるのです。神がヘビと女のすえの間に敵意をおかれたからです。
「兄弟にむかって、『あなたの目からおが屑をとらせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(マタイ7:4・5)。自分の目にある丸太が見えないのは、罪も含めて自分を愛しているからです。神の恵みが来るまでのすべての人の霊的な状態です。だからこそ他の人の目にあるおが屑が気になってしょうがないのです。
 ほとんどすべての問題は、自我が引き起こします。昨日の夕刊の事件も、今日の朝刊の事件もそうだと思います。嫁姑の争い、夫婦げんか、兄弟げんか、人間関係のもつれ、それぞれにそれぞれの特有の問題があるように見えて、つきつめれば実は自我の問題に突き当たるでしょう。自分の中にある罪と戦わないで、他の人の罪とばかり戦っているのが私たちの現実です。
積極的にいいかえれば、神の恵みはすべての問題を解決する力です。キリストは自分が負われた罪を徹底的に憎まれたゆえに、十字架にかかられました。罪をいいかげんにすることはできなかったからです。罪と徹底的に戦って勝利されたゆえに、この十字架の力によって私たちも自分の罪に勝利することができるのです。