キリスト教のあらすじ


 
キリスト教のあらすじ
 
   
目次
Ⅰ.教理編
 

1. 教理を学ぶ目的
 
啓示について
2.  自然啓示
3.  特別啓示(聖書)
4.  聖書の内容は何か
 
神について
5. 神はどんなお方?
6. 三位一体
7. 神の永遠の計画
8. 無からの創造
9. 摂理
 
人間について

  1.  行いの契約
  2.  罪とは何か
  3.  罪の起源
  4.  原罪とは何か
  5.  罪の悲しい結果

 
キリストについて

  1.  恵みの契約
  2.  契約の更新
  3.  罪からの救い主
  4.  キリストの働き
  5.  預言者の働き
  6.  祭司の働き
  7.  王の働き

 
救いの適用について

  1.  聖霊の働き

23. 義と認められる

  1.  子とされる
  2.  きよくされる
  3.  死の時の祝福

 
Ⅱ 生活編(準備中)
1.十戒によるクリスチャンの生き方
2.神の祝福を受ける手段
3.主の祈り
 
 
 
 
 
 
1.教理を学ぶ目的
 
「私たちは何のために生きるのですか」(著者訳)。ウェストミンスター小教理問答書の最初の問です。すべての生物の中で、人間にだけにある質問です。これを「教理は何のためにあるのですか」と言い換えてみましょう。どちらの問の答えも同じ、「神の栄光をあらわし神を永遠に喜ぶためです。」
さらに、「人はなぜ、不幸になるのか」と最初の問を否定的に言い換えてみましょう。その答えも否定的に「神の栄光ではなく、自分の栄光をあらわそうとするからです。」
人が本当の目的からはずれるときに、ストレスを感じ、いらいらしたり不幸になります。「本当の生きる目的からずれていますよ」と魂が叫んでいるからです。
「聖書を読む目的は何ですか」と最後に言い換えてみましょう。答えはやはり同じであり、神の栄光のためという本当の目的をはずれるとどこかがおかしくなりはじめます。聖書をより深く知りたいという願いは正しいのですが、その前に何のために聖書をより深く知りたいのかが問われなければなりません。
「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい」(1コリント10:31)というパウロの言葉は、「食べる」「飲む」という最も日常的で普通の行動まで、すべてのことを最終的な目的である神の栄光のためにしなさい、という意味です。しかし一方では、聖書を読み聖書を研究するという行為でさえ、その他の目的のため、たとえば自己満足のためや自分の聖書知識を人にみせびらかすためにも用いられる危険があることを暗示しているのです。
 「神の栄光をあらわし、神を永遠に喜ぶことです」という答えの意味が分かるでしょうか。一つ一つの言葉の意味が分かるでしょうか。「神の栄光をあらわす」とは何でしょう。「神を喜ぶ」とは何でしょう。「永遠」とはどういうことでしょう。実はこの答えには分からない言葉ばかりがならんでいるのです。これは人類が最も分からなくなったことであり、自分の理解から出発してはいけないと警告しているのです。
 教理問答書と聖書の結論は同じです。聖書を読む目的はあの有名なヨハネ福音書3章16節に要約され、聖書全体のメッセージを知ることであるのです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」
 教理の目的は、聖書のこの全体像を示すことであり、私たちは迷いださないために、いつでもこの全体像を見ながら聖書を読んでいくことが求められるのです。
 
 
 
2.「自然啓示」
 
神はいるのかいないのか。どんな神なのか。何人なのか。人類にとって最大の問です。そしてこの問に対しては実に様々な考え方があるのです。
ある人は「神などない」と言い、ある人は神は存在すると言います。どちらが正しいのでしょうか。神は存在すると考える人々の中でも、神のイメージは無数にあり、さらにそれぞれの神は互いに全くと言ってよいほど異なっているのです。
 でもなぜ神についてそんなに多くの考えがあるのでしょうか。それは自然という本には様々な読み方があるからです。「神について知りうることは、彼らに明らかだからです。それは神が明らかにされたのです。神の見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきり認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです」(ローマ1:20)。
 自然すなわちパウロの言葉では「被造物」は、神の存在はもちろん神がどのようなお方であるかも雄弁にそして明確に語っているというのです。しかし、みんなが好き勝手に自然という本を読んだため、世界にはこんなにも多くの神が存在することになりました。
 まず自然と被造物から、神など存在しないと読んだ無神論者があります。神は存在しないかのように生きている実質的な無神論者があります。
神を信じると言いながら「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り換えた」(1:23)人々もあります。大宇宙は神の力と支配を雄弁に宣言しています。大自然は神の知恵と秩序を全被造物に明確に告げています。
 さらに自然とは少し違う仕方でも神はご自分がどのようなお方であるかを人間に知らせているというのです。ローマ書の2章では、神は教会がないところに住む人々にも道徳的なメッセージを語る手段をも持っておられることが語られます。「こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、またその思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています」(2:15)。「良心さんは声が大きい」という言葉は本当だと思います。そして良心も神が存在することを証ししています。
 自然や良心を通して神はご自分を明らかにしておられるのに、どうして神を信じない人があるのでしょうか。先ほど引用した箇所のもう少し前にある「妨げる」という言葉の中にその答えがあります。「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されました」(ローマ1:18)。 
 自然啓示自体は神を知らせるのに十分であるにもかかわらず、人間にとって都合の悪い真理は、否定したり都合が良いように曲げてしまったからです。それが無神論や偶像礼拝が存在することに関する聖書の説明です。
 自然や良心が証ししているような、人間の心の中まですべてを知りつくしているような神がいては都合が悪いのです。そこである人々は、神などいない神は人間が作ったものだと考え、ある人々は人間の願いをかなえてくれる自分にとって都合の良い神を考え出したのです。ある人々は積極的に神の真理と戦い、ある人々はそんなことは考えないようにして生きているのです。
 パウロはその結果として人間の心に起こったことをこのように記しています。「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです」(1:21)。プライドの結果、「心が鈍く暗く」なったのです。心が暗くなりすぎ自然啓示を読み取ることができなくなりました。真の神の栄光も見えなくなり、自分が輝くことを第一に考えるようになり、しかしますます心は暗くなっていきました。
3.「特別啓示」聖書
 
 「人は何のために生きるのか」という、人間にとって最も重要な問に対する答えを人は見失ってしまいました。それが曲げられ、押さえつけられ、覆われてしまいました。それでも良心は語り続けることを止めません。
とはいえ、自然啓示や良心の声によっては、神は十分に人に語ることができなくなってしまったことは確かです。とくに人間にとって最も重要な神に関する知識が失われてしまったのです。
 神はそのような人を見捨てるのではなく、他の特別な方法で私たちにとって最も大切なことを知らせようとしました。その方法は、自然啓示に対して特別啓示と呼ばれています。自然や良心を通しての神の語りかけに欠陥があったり不十分であるために、人は神が分からなくなったのではありません。自然啓示に欠陥があるためではなく、人間の心の側に問題があるのです。
 問題とは人間の罪であり、人は故意にあるいは無意識の内に、自分にとって都合の悪い神を遠ざけ無視し、または自分の都合のよいように神に関する知識を捻じ曲げてしまったのです。それがたとえば無神論や偶像礼拝であるのです。表現や程度は様々であっても、そのように神から離れてしまった人間に語りかける神の特別の語りかけの方法も様々で、その中で最も重要なものが聖書であるのです。
 自然や良心を通して語られたメッセージが、罪や弱さのために覆われたり曲げられたりして、曖昧になってしまいました。とくに救いに関するメッセージは、人間の罪のためにそのような自然啓示によっては全く伝わらなくなってしまったのです。そこで神は様々な仕方で、神の救いの計画をご自分の民に示されました。神はノアやアブラハムに直接語りかけ、預言者にメッセージを伝えました。とはいえそのような特別啓示も、まだきわめて不十分なものでした。そこで神は、神の言葉を文字として書き止め、文書として残すようにされました。特別啓示の文書化、それが聖書であるのです。
 ですから聖書を他の普通の本と同じように考えてはなりません。聖書は図書館や書店にある無数の本のうちの一冊ではありません。キリスト教のコーナーにある一冊の本でもありません。聖書は神の言葉であるからです。「聖書は神の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(2テモテ3:16)。
 聖書の著者は多くあります。しかし彼らは神に導かれて聖書を書いたのであって、聖書の真の著者は神であるとパウロはテモテに語っているのです。と言ってもダビデやイザヤ、マタイやパウロは、ロボットのように天からの無線操縦で聖書を書いたという意味ではありません。それぞれの能力や性質や経験などが十分に用いられ、しかも誤りがないように彼らは聖霊によって導かれ守られたのです。教理的にはこれは「聖書の霊感」と言われ、聖書は誤りのない神の言葉であるという意味です。
 神が人々に語りかけるため、昔用いられた大部分の手段は今では停止されています。直接の語りかけ、夢や幻や奇跡を通しての語りかけ。そのような特別の手段を、今でも昔と同じように考えるべきではありません。今では神はもっと正確に神の真理を語る手段を持っておられるからです。それが聖書です。私たち人間は神のやり方について、すべてを知っていると思うべきではありません。今でも特別の仕方で神は人に語られることがあるかもしれません。しかしすでに与えられている聖書を大切にしないで、夢や奇跡など昔のような手段を求めるのは明らかに間違っているのです。そのような仕方では神は真理を示されることはないでしょう。
 私たちはノアやアブラハムよりも大きな特権をいただいていることを見逃してはいけません。彼らは耳で神の声を聞いたとはいえ、私たちはいつでも聖書を通して神の声を聞くことができるからです。そしてこの聖書には神が人に最も教えたいこと、すなわち神の救いの計画があますところなく記されているのです。
 
 
 
 
 
4.「聖書の内容は何か」
 
 聖書にはすぐに役立つ情報はほとんど見当たりません。現代人はせっかちです。すぐに役立つ情報をほしがります。インターネットの検索では、ほしい情報にピンポイントで到達します。しかし聖書をいくら読んでもそんな具体的で親切なガイドはありません。
 聖書は大変古い本だからでしょうか、地球の反対側で起きたことが書かれているからでしょうか。そうではありません。聖書には原則が記されているからであり、その原則をどのように毎日の生活に当てはめるかは自分でよく考えなければなりません。
町の地図の全体像が頭に入っていれば、少しぐらい間違っても修正しながら目的地に到着することができます。たとえばこれが原則を知っているということの意味です。人生の中でも道に迷うことがあるでしょう。失敗することがあるでしょう。どっちの道を進めばよいのか困ってしまうことがあるでしょう。そのようなときに聖書は、「次の信号を右へ、その次を左へ、、、」と教えてくれるわけではありません。しかし聖書は人生全体の地図のように、私たちはその地図をてがかりに目的地に到達することができるのです。少しぐらい間違っても、失敗をしても、また元の正しい道にもどることができるのです。
 聖書は方向を指し示す書である、と少し言い替えても同じです。方向が間違っているなら、いくら努力をしてもいつまでたっても目的地に着くことはありません。地図でも人生でも、方向を間違わないようにすることこそが最も重要であることは言うまでもありません。
「わたしたちは、神さまの栄光をあらわし、神さまを永遠に喜ぶために生きるのです。」これが聖書が示す私たちの正しい方向であるのですが、あなたはこの方向に進んでいるでしょうか。それとも別の方向に向かっているでしょうか。方向が間違っているなら、いつまでたっても目的地に到達することはありません。人生の最後にそれが分かるのではなく、そうなることは今から決まっているのです。現代人は忙しい毎日ですが、1日に1回は少し立ち止まって静かに考えてみることが大切です。
 道路が渋滞するようになると、バイパスの建設が必要になります。しかしバイパスを通って避けてはならない道があるのです。それは神の怒りの教理です。神の裁きの教理あるいは罪の教理と言い換えても同じです。しかし多くの人はこの重要な教理を避け、バイパスを通って幸福や天国という目的地に近周りをしようとしています。実に多くの人が利用するこの広い道は、永遠に目的地にたどり着くことのできない間違った道であることを知らなければなりません。「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」(マタイ7:13)。
 神は正しいお方であるため、「よしよし」と言ってただで罪をゆるすことはできません。裁判官が殺人犯の涙を見て無罪にはできないように、正義の神は罪を罰することなしに罪をゆるすことはできないのです。神は罪を犯している私たちを罰するのではなく、ご自分の独り子を十字架につけて罰せられました。そしてこのお方を救い主と信じる者の罪がすべてゆるされるのです。 
 聖書はたとえばこのようにして、非常に大きな方向を指し示す書であるのですが、人はこのようなメッセージを好まず、これを避けて通ろうとします。そこで聖書は、「そっち」ではない「こっち」と、私たちの進むべき全体的な方向を指さすのです。「罪」のことを避けて通る道は「滅びへの道だ」と。
 聖書はまた、私たちが他の人と接するときの原則を示しています。そのときに一回限り役立つ指示ではなく、いつの場合も用いることのできる人間関係の原則が示されているのです。人は神の前に立つまで、自分自身が分かりません。そのため他の人を裁いてしまいます。そして人間関係がうまくいきません。すべては神との関係に根本的な原因があるのですが、聖書によらなければそのことに気づくことは決してありません。
 
 
 
 
神について
 
5.「神はどんなお方」
 
 不思議なことに多くの日本の宗教にとって、礼拝の対象はそれ程問題にならないようです。日本人にとっては礼拝の対象よりも、礼拝の姿勢の方が大切であるように思われます。
 キリスト教は、まず、礼拝の対象を明確にしようとします。聖書は神がどんなお方であるのかを多くの紙面を用いて詳しく記しています。どんなに真面目で熱心であっても、礼拝の対象がまちがっていたのでは礼拝は空しくなり祈りも聞かれません。
 神を知る目的は、正しい礼拝をおこない、正しい生活をする神の民となるためです。これこそがそしてこれだけが、聖書をより深く研究し神学をする目的でなければなりません。聖書に示された神を知らないのならば、熱狂的に神を礼拝し大声で賛美をしても、「あなたがたは知らないものを礼拝している」(ヨハネ4:22)と言われてしまうでしょう。それゆえ私たちは、熱心になってまず聖書を調べる者とならなければなりません。自分勝手な神を想像し、自分勝手な熱心で神を礼拝する危険を注意深く避けなければなりません。単なる興味から神を知ろうとしてはなりません。しかし、口を手にあて、履物を脱いで、行けるところまで近づきましょう。聖書に示され明らかにされた神を積極的に知ろうとしないことは、もっと大きな罪であるからです。
 「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハネ4:24)。サマリアの女に対する、主イエスご自身による神の定義です。神は霊であり、神は物質ではありません。神に肉体はありません。神は、白いひげをはやしたおじいちゃんのようではありません。十戒の第二戒では、刻んだ像をつくることが禁じられていますが(出エジプト20:4)、神が霊であることを否定することにつながるからです。
 神は霊です。これが神に関する最重要の教理ですが、それだけでは十分ではありません。天使も霊であるからです。そして天使の堕落した悪魔も霊です。神は存在、知恵、力、きよさ、正義、善、真実が無限、永遠、不変であるような霊です。前半の七つは、人間にも共通するものがあります。それゆえ、私たちもある程度は理解することができます。しかし、「無限、永遠、普遍」という後半の三つは人間にはあてはまりません。したがって私たちは完全には理解できません。
 神の存在は無限、永遠、不変です。神は最初から存在し、永遠に存在します。始まりも終わりもありません。どこにでも存在し、神のおられないところはありません。神は永遠にかわることがありません。
 神は全能でありあらゆる知識は神のものです。知恵とは知識を最もかしこい方法で実行する能力です。神はさらに、知恵を実現する力をも持っておられます。良い方法を知っていてもそれを実現する能力を持たずに、ただ指をくわえてただ見ているだけのお方でもありません。神が「光あれ」と言われたとき、「光があった」(創世記1:3)のです。
 神の知恵と力はあらゆるものに現れています。しかし、神の知恵と力がもっともあざやかに現されるのが主の十字架と復活においてです。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(1コリント1:18)。
 神は完全にきよいお方です。きよさとは、消極的には罪からの分離です。きよさのゆえに神は罪を憎まれます。また神の民に罪から遠ざかることを要求します。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ12:2)。 
 神は完全な正義です。正義とは、神のきよさが歴史の支配の中であらわされることです。神はきよさを愛し、罪と汚れを憎まれます。それゆえイスラエルが罪をおかすとき、怒りが発せられます。神の怒りとは、私たちのように感情的に腹をたてている状態ではありません。罪に対する神の憎しみの表現です。
神のきよさと正義の怒りがもっとも明確にあらわされたのは、カルバリの丘の上です。神が完全にきよいお方でなければ、神が完全に正義のお方でなければ、主イエスの十字架は歴史の中で必要がなかったのです。神がただ一つの罪をも見逃すことのできない正義のお方であるゆえ、神の独り子をあのむごたらしい十字架につけて罪を罰せられました。御子は私たちの罪をすべて負われたからです。
 神は善です。神の善には、愛、恵み、慈しみ、あわれみ、忍耐、真実などがふくまれます。最も偉大なのは神の愛と恵みです。恵みは、値しない者に与えられる神の愛です。神は裁きと永遠の刑罰だけがふさわしい私たちに、永遠の命を与えてくださいました。神の正義と愛がもっとも鮮やかに現されたのは、やはりカルバリの十字架です。
 永遠の命を受ける者と、永遠の刑罰を受ける者のちがいは唯一つだけです。前者がきよく、後者が汚れているというのではありません。両者ともに汚れています。永遠の刑罰を受けるのに十分に汚れています。唯一つの違いとは、悔い改めです。
 神が無限、永遠、不変であることに感謝します。人は他の人の言葉や行動、周りに起こってくる出来事にいつも左右されます。しかし、神は何事によっても影響を受けないのです。また神が与えて下さった私たちの救いはそれゆえ確かです。サタンによっても、艱難によっても、私たちの罪や失敗によっても変更されることがありません。
 くりかえしますが、ただ知識を増やそうとして神を知るのではありません。正しい礼拝ときよい生活をするために神を知らなければなりません。私たちがどんな神を信じているのか、それがあなたの礼拝と今日の生活を決定するのですから。
 
 
 
 
6.「三位一体」(さんみいったい)
 
三位一体の教理の第一は、神が一人であることです。しかし三位一体の教えは、互いに相反するように思える二つの教えからなっています。一方では神は一人であると言いながら、もう一方では一人の神には父・子・聖霊という三つの人格があると言うのです。これが、「三位一体」の教理の核心です。人間の中にはこれに似たものは全くないため、分からないのは当然です。人間の場合は、一人の人のうちには、一つの人格しかありません。それゆえ、この教えを人間の限りある頭で完全に理解しようという思いをまず放棄しなければなりません。
神はエホバ一人であることを強調するエホバの証人によれば、キリストはこの神によって造られ、聖霊は神の働くためのエネルギーだというのです。良く分かる説明ですが、問題が一つだけあります。聖書は神をそのように教えていないということです。逆に、三位一体を三人の神と理解する人々がいました。一人の人が三つの役割を演じる役者のように考えたのです。これも分かりやすい説明であることは確かですが、これも聖書とは無縁であるという点では共通しています。
 三位一体の教えを何とか頭で理解しようとした人々だけでなく、この教えを知ろうとしない無関心な人々も難破していきました。よく知らないために、異端のえじきになってしまったのです。知ろうとしすぎる、知ろうとしない、どちらも神の真理に敬意をはらわなかったことで共通しているのです。神の真理に対して、履物を脱がなかったのです。限界をわきまえつつ、しかし聖書で示された範囲で最大限に神の真理を知ろうとするべきです。三位一体の教理に関しては、それが神を敬うことです。
 父・子・聖霊の力と栄光は同じです。否定的に書き換えると「父は子より偉くなく、子は聖霊よりも偉くない」となります。つまり「偉さ」に関しては父・子・聖霊は全く同じであるのです。しかし聖書を読むと、父がいちばん偉く、次が子で、最後が聖霊であるかのような印象を受ける場合があります。父・子・聖霊の中には偉さに違いはありませんが、秩序があります。これなら人間の中にも見られるものであり、ある程度は理解できるでしょう。
 「神は三位一体です」というような記述は聖書のどこにもありません。「ほら、神は三位一体でしょ」と簡単に説明できるのでもありません。聖書の全体を、おそれと尊敬の念をもって、じっくりと調べなければならないのです。
 旧約聖書では三位一体は、ぼんやりとしています。新約聖書では、三位一体はもっと明確に示されます。多くはありませんが、父・子・聖霊が同時に示されることもあります。「イエスは、神の霊が鳩のようにご自分の上に下って来るのをご覧になった。そのとき『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」マタイによる福音書3章のイエスのヨルダン川での洗礼の場面です。父の声、鳩のように下った聖霊、そしてもちろん洗礼を受けるイエスが同時に示されています。次は礼拝の最後の祝祷で用いられる、2コリント13章14節です。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同とともにあるように」そして、マタイ福音書の最後にある、主イエスによる宣教命令です。「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべてまもるように教えなさい」(28:19)。その他、それぞれ父・子・聖霊が神であると教える箇所は多くあります。
 神の性質(属性)からも、神の中に複数の人格があると考える方が合理的です。神の最も重要な性質の一つは「愛」です。神の愛は無限、永遠、不変です。三位一体の神は御自分の造られた世界、とくに被造物の冠として造られた人を愛しておられます。しかし、世界が造られる前はどうだったのでしょうか。何を愛しておられたのでしょうか。愛という神の最も重要な性質は、世界と人が造られるまでは開店休業だったのでしょうか。創造以前の神の愛は何に向けられていたのでしょうか。もちろん、三つの人格の中で愛の交わりがあったのです。
 三位一体の教えは、最も困難な教えであるだけでなく、最も感謝すべき教えであることを知らなければなりません。聖書が語っていることをそのまま受入れるなら、三位一体は最高にすばらしい教えとなるのです。
父なる神は独り子イエス・キリストを世に送ってくださいました(ヨハネ3:16)。子なる神は、私たちの罪を負って十字架で死なれました。私たちの代わりに罰を全部受けてくださったのです。それゆえ神は、キリストを救い主として信じる者のすべての罪をゆるしてくださるのです。
しかし、これですべてではありません。まだ解決されなければならない重大な問題が残っているからです。人はそのような大きな犠牲の愛を示されても心を動かされないのです。
感謝すべきことに神はそのような人間の心に聖霊を与えて、私たちが神の愛を受け入れることができるようにしてくださるのです。もしあなたが少しでも神の愛に心を動かされるなら、それは聖霊の神があなたの心に働いておられる確かな証拠です。「わたしはおまえたちに新しい心を与え、お前たちに新しい霊を置く。わたしは、お前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」(エゼキエル36:26)と預言者が語ったのは正にそのことです。
 
 
 
7.「神の永遠の計画」
 
 「なぜ?」「どのようにして?」色々なことが起こってくるのか。この問いに対して二つの代表的な考え方があります。一つは近代社会の支配的な考え方で、歴史なかで起こってくるすべてのことは偶然であるというものです。そしてその反対が、すべては決っていると考える「運命論」です。今日これから考えようとしている「神の永遠の計画」とは、誤解されやすいのですが、この「運命論」ではありません。
 新聞紙を望遠鏡のように丸めて、それを両方の目にあて、街の中や家の中を歩いたらどうなるでしょうか。さまざまな問題がおこってきます。次から次へと人や物にぶつかるでしょうね。赤信号が見えないので、車にはねられるかも知れません。助けを必要としている人に気付かず、すぐそばを通りすぎていってしまいます。美しく咲いている花の側も通りすぎてしまいます。自分がしていることが、どんなに周りの迷惑になっているかにも気がつきません。
これが人間の心に罪が入ってから起こったことです。私たち人間の視野は、罪によって狭くなってしまったのです。それをわきまえていないため、様々な不都合が起こってきます。悪を行うことによって、悪いことが起こってくるのは当然です。しかし、悪いことが起こるのは、必ずしも積極的に悪いことをするからではありません。私たちの視野が狭くなっているために、事故が起きたり人と人がぶつかってしまうのです。また、神の永遠の計画の中にある、すばらしい祝福を見逃して悲しみながらそこを通りすぎてしまいます。多くの人が不幸であるのは、ここに理由があることにはなかなか気付こうとしません。
神の永遠の計画は、人の持つことのできる最も広い視野です。もちろん私たちは、神の計画のすべてを知ることはできません。いや、その100万分の1も十分には知ることができないのです。それは神が出し惜しみをしておられるからではなく、原因は私たちの側にあり、罪のため視界が狭くなりすぎたのです。
ですから神の計画があることを知っているのとそうでないのは、全く異なった人生になるのは間違いありません。物事を見る視野が広くなり、人と衝突したり人生に行き詰まってしまうことは大幅に減少するでしょう。神の永遠の計画という大きな視点を与えられることからくる利益は、計り知れないものがあります。神の永遠の計画についていくつかのことを考えましょう。
 「キリストにおいて私たちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」エフェソの信徒への手紙1章11節は、このように神の計画というものがあると告げています。そして、すべて起こってくることはこの計画による、というのです。聖書によれば物事は偶然に起こっているのではありません。
「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者のたちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」(使徒2:23)。
日本のように伝道の困難な国では、神の計画という教理は重要であり、それは大いなるはげましとなります。初代教会はそれ以上に困難な状況の中で伝道をおこないました。そして神は、「この町には私の民がいる」といって励まされたのです。
 神がたとえ一人も救わなかったとしても、何の不正もありませんでした。すべての人は、聖なる神の律法の合格点に全く達していないからです。「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマ3:10)のです。そして、「すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになる」(3:19)のです。これが標準であり原則であるはずです。
しかし、神が実際に計画し、実際に実行されたのは、すべての人を滅ぼすことではありませんでした。罪をおかした人類に対して、救い主を約束してくださいました。独り子を犠牲にする程、罪人を愛してくださったのです。
独り子を与えるほどに私たちを愛してくださる方が、起こってくるすべてのことを支配しておられることを知るなら、様々な困難や試練を乗り越え平安を得る力となるでしょう。自分ですべてを守らなければならないとしたら、この世はなんと不安定で危険なのでしょう。
 
 
 
 
8.「無からの創造」
 
  私たちが今見ている世界はどのようにできたのでしょうか。これまで、様々な人々が様々な説明をしてきました。その中で最も重要なのは、生命がどのように誕生したのかという問です。生命の中でもとくに人間をどのように説明するかが最も重要です。生物の存在に関する現代の最も一般的な説明は、進化論であることはいうまでもありません。アメーバーのような単細胞の生物から、長い年月をかけて高等な生物であるヒトに進化してきたというものです。しかし進化論にせよ生命の宇宙起源にせよ、それでも生命そのものがなぜ存在するようになったのかという説明はしていません。
  聖書は、神が無から世界とその中にあるものを創造されたと教えています。文字通り神は6日間で創造された、いや神はビッグバンや進化を用いられたのだ。議論をはじめるときりがありません。私はそのどちらにも関心がありますが、ビッグバンであれ、進化論であれ、一つのことを除いて、聖書の「無からの創造」にあまりにも似ているのではないでしょうか。「一つのこと」とは神です。最新の科学は宇宙が無に等しい点から始まったと説明しています。生物は無に等しいアメーバーのような単細胞の生物からはじまったと言います。
一般社会では神が無から世界を造ったというような考えはほとんど相手にしてもらえません。しかし、ほとんど同じようなことを言っている科学者の説明には尊敬の念をもって聞くのは不思議です。科学の説明を信じるのは、聖書の説明を信じるのと同じぐらい大きな信仰が必要であるはずです。私は一度も、聖書と科学が対立していると思ったことはありません。対立するのは、間違った聖書理解と科学、そして間違った科学と正しい聖書理解です。 
 神の創造に関する最も重要な聖書の箇所は、言うまでもなく創世記の1章です。「初めに、神は天地を創造された」(創世記1:1)。ここで用いられる「創造」と翻訳されたことばは、無から何かを造るときに用いられる特殊なことばです。
「神は天地を創造された」という時、神は完全な意味で無から世界を造られたと言っているのです。それではその前はどうだったのか、と言いたくなります。時間と空間さえも神によって創造された、というあたりの答で私たちは満足しなければなりません。時間と空間によって限定されている私たちは、これをよく理解することはできないからです。
 創世記の1章は、神は六日間で世界を創造されたと記しています。創世記2章の最初の部分には、神が六日間の創造を終えて七日目に休息されたことが記されています。神と神の造られたものとの交わりの日であり、クリスチャンが日曜日に教会に集まる理由がそこにあります。またどこの家の壁にもかかっているカレンダーの原型がここにあるのです。六日間は、三日間ずつ美しく対応しています。一日目に対しては四日目。光と、光を発する天体の創造です。二日目に対しては五日目。大空と鳥、海と魚がそれぞれ対応しています。三日目に対する六日目は間接的な関係です。三日目に陸が海から分離され植物が創造されたことは、六日目の動物や人間が創造されるための準備になっているのです。
 聖書を神のことばとして受け入れる教会は、創世記の1章を単なる神話として理解する考えを退けてきました。そして私も、創世記の1章は歴史であると堅く信じている者の一人です。ただし、創世記の1章の中心的なメッセージを忘れて、その他の議論に心を奪われるのは神話説と同じぐらい反対です。
 それでは創世記1章は何を語っているのでしょうか。少なくとも2つあります。そして、この二つのメッセージに関しては、その他のどのような考えにもゆずることはできません。第一は、すでに何度も指摘してきたように、神は無から世界を創造されたということです。その意味で、創世記1章は歴史です。世界の具体的な造り方ではなく、世界とその中にあるすべてのものが、神によって無から造られたことが第一のメッセージです。
 創世記1章のもう一つの重要なメッセージは、「神の国の設立」です。神は無から世界とその中にあるすべてのものを、ご自身の栄光のために創造されました。そしてすべての被造物の頭として最後に人間が造られ、人が世界を支配するように命じられました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上をはう生き物をすべて支配せよ。」すべてのものが被造物の冠であり王である人間に従い、そして人間が神に従うとき、文字通りすべてのものが神に従い、神の栄光があらわされます。これが神の国の図式です。しかし、私たちが良く知っているように、人の罪のため、この栄光の図式は早くも創世記3章でくずれ去ってしまいます。被造物の頭である人が、神に従わなくなったからです。創世記1章をみるとき、「神の国の設立」というあざやかなテーマが浮かび上がってくるはずです。聖書のその後の部分では、創世記3章15節の約束がどのように歴史の中で実現されているかが記されていきます。神の国の再建と、神の国の完成が聖書の中心テーマです。この光の中で、創世記の最初の部分を読むことが最も重要な態度です。創世記1章を、重要なテーマであるとは言え、科学と宗教の議論に集中してしまうならあまりにも残念なことです。
 私たちは猿やアメーバーの子孫ではなく、悲しみも喜びも、憎しみも愛も分かる魂をもっている神の息を吹き入れられた神の子孫であることを感謝します。それゆえ神のもとに帰るまで、私たちの魂は、平安とまことの喜びがありません。
 
 
 
9.「摂理」(せつり)
 
  創造の教理は、当然つぎに摂理の教理へと導かれます。神の摂理を理解する人生とそうでない人生とは全くちがったものになります。と言っても、神を信じると何か全くちがうことが起こってくるというのではありません。摂理を理解してもしなくても、これから起こってくることは何の変りもないでしょう。もちろん、これまですでに起こったことが変るわけではありません。しかし、神の摂理を信じるのとそうでないのとは、これまでの出来事も、これからの出来事も、いま起こっている事も、全くちがう光で見ることになるのです。
1970年の大阪万国博覧会のときには、何百万人という人々が土くれを見るために行列をつくりました。もちろん、月の石です。その土くれが月の石と知らなければ、だれもはるばる北海道や沖縄から来て、何時間も行列の中で待つことはなかったでしょう。全く同じ土くれでも、それが何であるかを知るのと知らないのとでは、全く意味が変るのです。
世界の大きな出来事、私たちの周りにおこってくる小さな出来事、それが何であるかを知るのと知らないのとでは、出来事そのものは同じであってもその人の生き方は全くちがったものになるでしょう。良い人生になるか、悪い人生になるかは、私たちに何が起こってくるかによってではなく、どのように出来事を理解するかによって決まるのです。多くの困難を経験する者が必ずしも不幸な人ではなく、多くのお金と高い地位をもつ者が必ずしも幸福な人ではないのはそのためです。「人生は何が起こるかが10パーセント、起こってくることにどのように対応するかが90パーセント」という言葉は本当だと思います。
 家を建てるとき、建築家はまず設計図を描きます。これが、神の永遠の計画です。公務店はこの設計図に基づいて家を実際に建てます。これが、創造です。あとは、建て上がった家を管理し維持する働きが残っています。これが、摂理です。毛糸の玉を神の計画、この玉から糸が引き出されて純毛のセーターになっていく過程を摂理にたとえることもできます。どちらの例も不完全ですが、神の計画、創造、摂理の関係に小さな光を与えてくれます。私たちの周りに起こってくることは単なる偶然の積み重ねなのでしょうか。それとも、神の計画、創造、摂理という神の壮大な働きの一部なのでしょうか。
 神は世界とその中にあるものを創造されただけでなく、それらのものを維持し支配し続けます。この神の働きが摂理です。神はこれから何が起こってくるかをご存じであるというだけでなく、神はすべてのことを支配しておられるのです。
「神は、この御子を万物の創造者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられます」(ヘブライ1:2~3)。新約聖書も旧約聖書も、神は創造されたものを造りっぱなしにしておくのではなく、それを維持し保たれることを教えています。さらには、維持し保持するだけでなく、神はそれを支配をしておられます。そして神の保持と支配は、文字通りすべてのものに及びます。大宇宙、自然、物質、そして植物や動物、国家や国の支配者、さらには人間の誕生や人間の成功や失敗、また人間には偶然と思えるできごとも含まれるのです。「くじは膝に投げられるが、そのすべての決定は、主から来る」(箴言16:33)。エステル記やヨセフ物語は、偶然と思える事柄も実は神が支配しておられると教えています。
 神の摂理への信仰は、希望と忍耐を生み出します。楽しいことばかりが起こるような人は世界中に3人以上はいないでしょう。どんな人でも、そう見えるか見えないかの違いがあるだけで、それぞれに苦しみ悩みがあるものです。
ヨセフ物語を部分だけを読むなら、不条理な出来事によるイライラの連続です。しかし、その背後には人間の思いを越えた神の計画があったのです。そのときには、理解することのできない出来事も、後になって神の支配を見て感謝することがあるでしょう。また、あとになっても、どうしてかわからないこともあるでしょう。そのとき、神の摂理を信じるなら、人間の目には最悪の状態と思える出来事の中でも忍耐と希望を持ち続けることができるのです。「神を愛する者たち、つまり、御計画にしたがって召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)。
私たちは次の瞬間何がおこるかは分かりません。しかし、次の瞬間もその次の瞬間も、来年も明後年も同じ神が支配をしておられることを知っているだけで十分です。
 
 
 
人間について
 

  1. 「行いの契約」

 
大きな社会も、小さな社会も、人が二人以上集まるところ、必ず問題が起こります。家庭や教会も例外ではありません。映画に出てくるような大悪党や、テロや銃乱射や凶悪な事件によって、社会が混乱するとはあるでしょう。しかし多くの場合は、新聞にもテレビにも出ないようなもっと小さな争いが、様々な悲しい結果を導き出すのです。最も身近な家庭も例外ではありません。浮気、ギャンブル、DVなど、深刻な罪によって家庭が破壊される場合もあるでしょう。しかし家庭でも、もっと小さな日常の争いの積み重ねによって、深刻な結果に到達することの方がはるかに多いのです。
  「健康ブーム」と言われ、「健康茶」、「のどあめ」、「無農薬」など健康に関係のある名前をつけると食品がよく売れるそうです。しかし、無農薬の野菜や健康食品を食べ、適度の運動をおこない、美容と健康に細心の注意を払っていても、それでも健康はそこなわれるのが普通です。健康のためによいといわれる、あれもこれもやりながら、禁止されているたった1つのことをしたために病気になってしまいます。良いと思うたくさんのことをするより、止めたくないと思っている1つのことをしないことの方が難しいのです。そしてそのために、健康であれ夫婦の関係であれ教会の交わりであれ、大切なものがだいなしになってしまいます。その代表的で最初の例が、聖書の最初の部分に記されています。人類の先祖であり代表者であるアダムにオリジナルをみることができます。アダムは、してはいけないたった一つのことによって、重大な結果を自分自身とその後の人類全体に招いたのです。
 「主なる神は言われた。『園のすべての木からとって食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』このテストの結果は、私たちがよく知っているように失敗です。そのために、人類に死が入ってきました。死が第1にあらわしているのは、悲しみです。アダムの罪によって、死と悲惨が入ってきたのです。
  さて、これから先はテストという一般的なことばを、「契約」という神学的なことばに置き換えたいと思います。このテストは、「契約」というかたちをとっているからです。この契約が実行されるかどうかは、アダムの行いにかかっていました。それゆえにこの契約は神学的な言葉で、「行いの契約」と言われます。これは、問15で扱われる「恵みの契約」と対応しています。人間の行いではなく、救いはただ神の恵みにだけかかわっているためそのように呼ばれています。恵みの契約は聖書の中心を流れる最も重要なテーマです。そして、「恵みの契約」は「行いの契約」と比較することによって意味が明かにされるのです。
  契約には二つ以上の契約の当事者がいます。当事者は神と人(アダム)です。契約の内容(約束)は「永遠の命」です。神の命令の中に「永遠」も「命」ということばも見当たりませんが、「死」ということばの裏に命が含まれているのです。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」しかし、命令を守って食べなければ生きるのです。永遠の命という契約の祝福が、「死ぬ」という刑罰の中に含まれているのです。
 小麦が1万トン輸入されるためには条件があります。もちろん小麦の代金を払うことです。行いの契約の場合、条件は神の命令を守り善悪の知識の木からは食べないという消極的な行いです。
 人間同士の契約の場合も、何らかの印が用いられるのが普通です。日本人の最も好きな印は印鑑です。契約書をかわし、最後にはんこが押されます。こども達の遊びの、指切りげんまんも一種の契約の印です。行いの契約の印は、善悪の知識の木と考えられています。
 契約を破ったときの罰は「食べるとかならず死んでしまう」とはっきりと書かれています。聖書で死というとき、基本的な意味は、「分離」です。肉体の死とは、肉体と魂との分離。霊的な死とは、神との魂の分離。そして永遠の死とは、肉体も魂も永遠に神から切り離されることです。
 私たちがよく知っているように、アダムはこの契約を守りませんでした。それゆえ契約をまもったときの約束である永遠の命ではなく、契約を破ったときの罰である三重の死がアダムとその子孫である人類のものとなりました。
キリストの十字架は、信じる者を罪をおかす前のアダムの状態にもどしたのではありません。キリストの十字架は、もっと高いレベルへと私たちを引き上げたのです。エデンの園でのアダムは、確かに罪がありませんでした。しかし、罪をおかして堕落する可能性をもっていました。キリストを信じる者にも罪があります。しかし、その罪は十字架によってゆるされ、罪の力の根は、もはや断ち切られているのです。キリストの十字架のゆえに、もはや私たちと神は引き離されることがありません。
人間の愛は引き離されます。しかし、神の愛はそうではありません。 
 
 
 
11.「罪とは何か」
 
罪というとき、だれもがまず考えるのは犯罪でしょう。犯罪とは、国家の法律をやぶることです。罪に関するこの定義は、後で考えるように基本的には聖書の理解と共通していますが、聖書の罪はもっと広い意味をもっています。国家の法律をやぶらなくても、聖書では罪と呼ばれることがあります。たとえば、他の人に「バカ」と言う者は、殺人の罪をおかしていると主イエスは言われました(マタイ5:22)。
  聖書の罪という言葉は様々な意味に用いられていますが、何かの基準があってそこを越えるという基本的な意味があります。殺人と遅刻は罪の種類も程度もちがっていますが、方向に関してはどの罪も共通しています。ある基準から離れていくという方向です。
 罪は積極的な活動的です。何かが欠けているというような、単なる空洞の状態ではありません。たとえば無知のために罪をおかすのではありません。それなら、教育によって罪はなくなるはずです。教育に熱心な現代は、昔よりも罪が少ないはずですが、そうでもないことは私たちはよく知っています。罪は何かが無い状態ではなく、一つの方向性をもった巨大なエネルギーであるのです。
 積極的な罪と消極的な罪があります。積極的な罪とは、してはならないことをする罪。消極的な罪とは、しなければならないことをしない罪。消極的な罪も積極的であることにはかわりがありません。夏休みの宿題をしないで積極的に遊んでいるのに似ています。
  罪の起源は創世記3章にあります。へビの誘惑は三段構えです。最初の段階では、表面上は単純な質問の形をとっています。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」(創世記3:1)。イエスかノーで答えることのできる単純なクイズのような質問です。しかし、その中には毒がしかけられていました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」という元の神の命令(2:16~17)と比べてみてください。エバはまず単純に答えます。「わたしたちは園の木の果実を食べてよいのです。」しかし、「でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」というエバの答の後半には、ヘビの誘惑にひっかかり始めているサインがはっきりと表れています。神は「触れてもいけない」とは言われなかったからです。ヘビの質問には、「神はそんなきびしいことを言われたのか」という毒がしこまれており、毒が早くも回りはじめていたのです。
 第二段階はもっとストレートです。これまでに獲得したことを、さらに進展させます。最初はエバの心の裏口から入ろうとしましたが、今度は正面玄関から入ってきます。そして「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のようになることを神はご存じなのだ」と断言するのです。神はウソつきで、神は自分だけがいばっていたいのだ。皆が神のように賢くなることをねたんでいるのだ。神はウソつきで意地悪な方だ、と大胆にも解説をしたのです。
 そして第三段階では、もはやヘビが積極的に誘惑する必要はありませんでした。もう一度、エバに木の実を見せるだけで十分であったのです。エバは自分が取って食べただけでなく、それを夫のアダムにも与えました。そして「彼も食べた」のです。最初にアダムではなくエバを誘惑したことにも、ヘビの巧妙さが表れています。男より女の方がだまされやすいからではありません。アダムは神から直接命令を受けていました(2:16)。しかし、エバは間接的にアダムから神の命令を知っていたにすぎません。アダムを誘惑するのは、はるかに困難なことであったのです。
神の言葉に対する疑いこそが罪の本質でありすべての罪の源です。それが次に、神の愛に対する疑いにつながりました。神はウソつきで、親切なのはヘビの方だ。ヘビは私が神のようになる方法を教えてくれるのだ。これがヘビの説明であり、アダムとエバの採用した結論です。そして二人は、この結論をすぐ実行に移しました。木の実を食べたことは、単なるカキどろぼうではありません。神の律法を越えるという重大な決断であったのです。神の言葉に対する反逆であり、それ以来人類は、神の言葉ではなく自分の判断に従って生きるようになったのです。
  罪の定義も、エバによってつくりかえられました。その解釈がいまも人々の間で通用しています。エバは、食べてはいけない理由は「死んではいけないから」、とヘビに説明しています。確かに「それを取って食べるとき、あなたは死ぬ」と神は言われました。しかしそれは命令に従わなければならない理由ではありませんでした。神の命令は、単に「食べてはいけない」です。従順のテストであったからです。もし木の実に毒があるとしたら、従順のテストにはなりません。神に反逆する者であっても、毒があるならその木の実を食べないからです。ただ神の命令である、というただそれだけの理由で食べてはいけなかったのです。
自分に害を与えるものが悪であり、このときから罪と悪の定義が変えられ、今日もこの標準によって人は行動しているのです。罪とは神の言葉にそむくこと、神の命令された範囲を越えることです。
 全ての問題の根源は、人が神の言葉と神の愛から離れたことにある、というのが聖書の説明です。もしそうだとすれば、解決があるのです。神の言葉と神の愛に立ち返ることです。神は、恵みによって、十字架によって、人は罪の支配から解放されるという約束をしてくださったのです。
 
 
 

  1. 「罪の起源」

 
罪はなぜあるのか。罪はなぜなくならないのか。宇宙最大の問の1つです。哲学者や平和主義者が、そしてすべての人が「なぜ?」と問い続けてきた罪の普遍性の問題です。いつの時代にも、世界中のどこにでも罪はあります。「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマ3:12)と聖書は断言しています。「正しい者は少ない」でも「正しい者は非常にまれである」でもなく、「正しい者は一人もいない」のです。
聖書は実に多くの個所で、直接間接に罪の普遍性を教えています。罪の普遍性の説明の第一は性善説によるものです。生まれたとき人の心は真っ白で、その後、この世の様々な誘惑と悪影響によってだんだんと黒くなっていくのだ。このような人間理解は一面では確かに正しいと言えるでしょう。純情な中学生も悪い雑誌やビデオを見たり悪い仲間に入って、だんだんと悪くなっていきます。
しかし、性善説では説明のできない多くのことが残るのも事実です。2~3歳の幼いこどもの場合はどうでしょうか。まだ悪い雑誌を読むことも、悪いビデオを見てもそれを理解することもできない、そんな小さなこどもたちも、立派な罪をおかすのを私たちはよく知っているのです。弟のおもちゃを取り上げて泣かせます。お母さんにウソをついてでも、自分を守ろうとします。「おもちゃをかたずけなさい」と言っても、したいことをしています。どこから、そのような悪を学習したのでしょうか。まわりの人がウソをつくのをヒントにして、自分でもやってみたのでしょうか。性善説ではほとんど説明が不可能です。
性善説に対しては、性悪説があります。「人を見たらどろぼうと思え」の精神です。生まれたとき人の心は黒というのです。聖書は一種の性悪説ですが、白でも黒でもなく、両方を混ぜた灰色です。真っ黒は悪魔ですから、生まれたとき人の心は真っ黒というわけではありません。どんなに悪人と思える人であっても、なんらかの善をおこなうことはあるでしょう。
灰色とは、罪が人の心と行動のすべての領域にしみ込んでいる状態です。悪いことも良いこともする。しかしどんなに良いことをしても、その中にも大なり小なり罪が入り込んでいる。たとえば善いことをしても、人にほめられるため、という思いも少し混ざっているのです。
罪はどのようにしてすべての人の心に入ってきたのか。罪はなぜ普遍的にあるのか。聖書はこの困難な問に対する明快な答をもっています。ローマの信徒への手紙5章12節から20節にはその要約があります。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。」(ローマ5:12)。「一人の人」は、アダムです。人類の代表者としてアダムが罪をおかした。そのために、全人類が罪人になった。もっとも明快な説明であり、もっとも困難な教えです。
代表者の行為の結果が、代表されている多くの人々にまで及ぶことがあります。企業の大型合併が次々と発表されています。会社の代表者同志が決定したことは、全社員に影響を及ぼします。国の代表者が宣戦布告を決定すれば、その国の国民は相手の国からは敵とよばれるようになります。日本軍が真珠湾を攻撃したとき、アメリカ人と日本人はお互いに敵になりました。代表者の決定がすべての国民に影響を及ぼすのです。そのように、人類の先祖であり代表者であるアダムの罪の行為が、子孫である全人類に及んだ、というのが聖書の説明です。
 世界に罪があること、すべての人に罪があることは、それとも偶然なのでしょうか。偶然ならば、罪の無い人がたまには生まれてくることもあるはずではありませんか。しかし、「正しい人はいない。一人もいない。」という聖書の教えの方が正しいと思えるのです。
罪がどうしてあるのかをなぜ知る必要があるのでしょうか。罪をどのように理解するかによって、解決の方法がちがってくるからです。罪のない真っ白な状態で生まれてくるのだとしたら、箱に入れて罪と接触する機会をなくせば罪のない人ができるはずです。良いことばかりを教えれば、良いことばかりをおこなう立派な人になるはずです。しかし現実は、良いことはいくら言ってもしないで、教えてもいない悪いことは次々としてくれるのが我が子です。
 代表者アダムが罪をおかしたため、全人類に罪が入った。それゆえに、いつの時代にも世界中のどこにでも罪がある。聖書の説明です。聖書には、もう一人の代表者がいます。第2のアダムといわれるキリストです。今度は、この代表者によって人類は救われるのです。そのためにはまず、私たちがアダムにあって罪人であること、私たちも同じように神に反逆していることを認めなければなりません。「一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人にそそがれるのです。」(ローマ5:15)。「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」(同19)。
 
 
 
 
13.「原罪とは何か」
 
  キリストは「罪からの救い主」ですから、「罪」がよく理解されないところでは、「救い」も「救い主」も良く分からなくなってしまうのは当然のことです。
病気が何であるのか、病気がどれぐらい深刻なのかが分からなければ、適切な治療ができないのと同じです。肉体の病気に関しては誰でも分かる原則ですが、霊的な病気に関しては、同じことが分からなくなってしまいます。だから主イエスは「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である」(マタイ9:12)と言われました。「もう少し元気になったら、病院にいきます」という人はありませんが、魂の病気である罪に関してはそのように考えてしまうのです。
キリストは魂の医者です。人が罪深いからこそ救い主と教会が必要なのです。罪と罪の重大さが分からなければ、神の愛の必用を感じません。神の愛の高さ深さ広さが分からなくなってしまいます。人間の罪の深さを知ることは、神の愛の高さを知るために不可欠であるのです。罪を考えることそれ自体が最終的な目的なのではありません。しかし、聖書の最もすばらしい救いのメッセージを理解するためには、どうしても罪の問題を避けてバイパスを通ってはならないのです。
 まず行為があるのではなく、罪の出発点は心の中です。手や足や目が勝手に罪をおかすのではなく、心がまず罪に関心を持つのです。すべての人は、罪に関心を示す心をもって生まれてきました。真っ白な心ではなく、罪深い心を持って人間はこの世に生まれてきたのです。これを教理的な言葉で「原罪」とよんでいます。現実の罪だけでなく、罪を生み出す源である「原罪」を問題にしなければなりません。キリスト教を理解する最も重要なポイントです。人間は罪の状態に、つまり原罪をもってこの世に生まれてくるのです。「原因」の「原」、英語では、「オリジナル」。最初からあり、すべての実際の罪の源であり原因が原罪です。
 アダムは最初、神と神の言葉に完全に従い、神との正しい関係にありました。ヘビの誘惑はその関係を集中攻撃したのです。そのためには人間のプライドに働きかけるのが最も効果的であると、狡猾なヘビは考えました。そのやり方は今でもほとんど変わっていません。
 そして言いました。「なんでもかんでも神に従っているって。そんなつまらないことでよく我慢しているね。頭を使いなさい。自立しなさい」と。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」(創世記3:3、5)。
 つまり自分が小さな神になろうとする誘惑です。それが人類最初の罪の本質であり、原罪の核です。ですからほとんどの人間の問題は、これによって説明が可能です。コンセントに電気がきていることは普段は目に見えませんが、だからといって電気がきていないのではありません。テレビやトースターと言った電気機器をコンセントにつなぐと、電気は様々な見える働きをするようになります。そのように人間の心の内にひそむ原罪が、何かの機会に、敵意、争い、そねみ、怒りといった姿になってあらわれてくるのです。
 なぜ争いがおこるのでしょうか。その原因は、エデンの園を探せば見つけることができます。人が神から離れて、自我という小さな神になったのです。神と神のことばを中心にまわるのをやめて、一人一人が小さな宇宙になり、神も人も自分を中心に回そうとします。世界は自分のためにあると思っています。人が神から離れたとき、一人一人が小さな神になり、小さな宇宙の中心になったのです。小宇宙は他の小宇宙と互いに衝突します。自分の宇宙を侵略する者は、エイリアンでありみんな敵ですから。そしてガラテヤ書のリストにある、敵意や争い、そねみ、怒り、不和、仲間争い、ねたみがおこります。それぞれの争いには、それぞれの直接の具体的な原因があるでしょう。おもちゃや砂場の取り合いであるかも知れません。自分より能力のある者に対するねたみであるかもしれません。国家間の領土問題であるかもしれません。いずれにしても、自分が満足しないということでは共通しています。小宇宙同士の衝突であり、原罪に根本的な原因があるのです。
 罪は正しい関係を逆転させる力です。美と調和を見苦しい不調和に変えてしまうおそろしい力です。手や足、口や耳はすばらしい働きをしますが、それを悪い目的のためにも用いることができます。性欲や食欲はそれ自体悪いものではありませんが、それぞれのいるべき場所をわきまえずに、あばれまって人間全体を支配して悲惨な結果をもたらすのです。宗教心さえも悪用して、最も悪い偶像礼拝に変えてしまいます。最善のものを、最悪に変えてしまう力が罪です。
知識も例外ではありません。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」(1コリント1:19)。パウロは知恵や賢さを非難しているのではなく、人間の知恵や賢さのゆえに神を知ろうとしない高慢を警告しているのです。神から独立した知恵を求めるという、アダムの最初の罪と同じです。
 聖書はいつでも根源に目をとめ、この世の教育や道徳は現れてきたものに対応しようとします。それでも部分的、一時的には現れた罪を何とかすることができるかも知れません。押さえつけたり、表面を白く塗って美しく見せることはできるでしょう。しかし、心の奥底にある原罪に対しては無力であり、自我に捕らえられている自分を解放することができないのです。
 あの罪この罪をやっつけようとするだけでは解決はできません。また別の形になって現れてくるからです。あの罪この罪を生み出す原罪こそ、がキリストの十字架によって処理されなければならないのです。したがって、教理のテーマは次に罪から救いへと移っていきます。

  1. 「罪の悲しい結果」

 
 罪の最初の結果は「悲惨」であり、罪のもう一つの結果は、悲惨が罪の結果とは思わなくなったことです。罪は人間を部分的にしました。いつでも物事の半分、いや、もっと少い部分しか見えていないのです。人はその「結果」ばかりをなげく者となってしまいました。病気をいやすために最も重要なのは、痛みや熱といった症状を無くすることではなく、症状の原因となっている病気そのものを取り去ることです。しかし人は、罪という霊的な病気そのものではなく、その症状である人生の様々な苦しみや悲しみだけを嘆いているのです。
 最初で最大の罪の結果は、神との交わりを失ったことです。アダムとエバがエデンの園で罪をおかしたとき、二人は神から隠れました。それまでは、神との交わりが最大の喜びであったのです。しかし今や神から隠れる者となりました。
罪をおかした後、人類が最初にしたのは、裸を覆う着物をつくったことです。それ以前は、互いに裸であっても恥ずかしいとは思いませんでした。体も心も丸見えでよかったのです。罪は体と心に隠す必要を生じさせ、このようにして夫婦の間にも隠し事がはじまりました。最大の悲劇は神から隠れようとしたことです。
 神は呼びかけ、人は応えました。人間だけが、神の呼びかけに対して応えるように造られたからです。人はいまでも、神の呼びかけに何らかの応答をしなければならないのです。牛や馬は神にさからうことを知りません。しかし、神の呼びかけに応えることもしません。人間だけが神の呼びかけに従順に応えることも、それを無視し意識的に反逆することもできるのです。アダムは応答しましたが、正しい応答ではありませんでした。体はいちじくの葉で覆い、心は他の人に責任をなすりつけることによって覆ったのです。罪の悲しい結果です。
 「『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。』主なる神は女にむかって言われました。『何ということをしたのか。』女は答えた。『蛇がだましたので、食べてしまいました。』」神に対する人の最初の応答は、「責任転嫁」でした。そして、人は今も同じようにしています。「あなたは、どこにいるのか」という神の声は、今でも私たちの心に聞こえてきます。そして今も、「女が悪いからです」、「蛇がだましたので」と弁解しているのです。自分の裸を隠すために、他人の罪をあばき、他人を裸にしようとさえするのです。あなたと神の関係は正しいでしょうか。最初の人が神との交わりを失ったときの印が、責任転嫁と自己弁護であったように、今も、同じ印によって私たちと神の関係を診断することができるでしょう。
 神との交わりに関して、もう一つのテストがあります。それは神との交わりを失った、と思うかどうかです。「失った」と思うなら、失っていません。失ったことを悲しんでいるのですから。神との交わりなど考えてみたこともないなら、その人は失われているのです。サタンの支配のもとにある者の最大の特徴は、サタンの支配の下にあることに気がつかないことです。
サタンの支配は完璧です。パウロはサタンの完全な支配のもとにある人を、エフェソの信徒への手紙2章1、2節でこのように描いています。「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」キリストの支配の下に来る前の魂は「死んでいた」、と表現されていることに注目しなければなりません。死んでいる人の最大の特徴は、自分が死んでいることに気がつかないことです。それこそが死んでいる状態であり、霊的に死んでいる状態、すなわち神との交わりを失っている最も悲しい状態の特徴です。
 神は罪をおかした人を見捨てるのではなく、なおも人を追いかけてこられました。だからこそ、人は神の声に応えなければなりません。様々なことを通して「どこにいるのか」という神の声が、私たちを追いかけ私たちの心に聞こえてきます。最も鮮明な神の声は聖書ですが、人の声や、私たちの周りにおこってくる出来事、良心を通しても神は語りかけます(ローマ2:14~15)。「どこにいるのか」は、様々な言葉にかわります。でもそれは、神の恵みの声なのです。
重大さと、気軽さが調和していません。「彼も食べた」の一言です。重大な事件は毎日、気軽におこっているのです。「一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた」という具合です。朝起きてから今までどのようにすごしたかも、実は重大問題です。朝に聖書を読んで祈ったかどうか、と言っているのではありません。神との関係ですごしたかという問です。神に対して、他の人に対して、自分に対して、行ったこと、したこと、言ったこと、考えたこと。それは、ささいなことではなく、重大なことであるのです。妻や夫、隣人に対するほんの一言の中にも、私たちの神に対する態度があらわれているからです。
 「自己弁護」ではなく「悔い改め」。これこそが、神との関係を回復するマスターキーです。人間の涙や悔い改めそれ自体の中に何らかの力があるのではありません。ただ、キリストとその十字架にあらわされた神の愛にだけ、神との交わりが回復される理由があります。そして私たちをこの十字架のもとに導くのが悔い改めなのです。
放蕩息子は父親から離れた遠い国に自由と喜びがあると思いました(ルカ福音書15:11~32)。しかしそこにあったものは、悲惨と孤独だけです。放蕩息子は、「我に返りました」(17節)。そのとき息子は、父との交わりを失っていたことにはじめて気がつきました。そして、父の心の中ではすでに交わりが回復されていたのです。
 
 
 
キリストについて
 
15.「恵みの契約」
 
聖書は旧約聖書と新約聖書から成っています。「約」は契約の約です。聖書とはそもそも「神の契約の書」であるのです。あらゆる悲惨の根源である、罪からの解放に関する神と人との契約を記したのが旧約聖書であり新約聖書です。
人が「行いの契約」を破ったために、神は「恵みの契約」を結んでくださいました。これこそが、福音であり、良い知らせなのです。契約の内容はどちらも永遠の命であり、二つの契約の主な特徴はそれぞれの名称があらわしている通りです。「行いの契約」では、永遠の命が与えられるかどうかは人の「行い」にかかっていました。私たちがよく知っているように、アダムはこの契約を破り、永遠の命を受ける資格を失いました。
 新約聖書は、行いによって人はもはや神の祝福を受ける可能性はないと断言しています。「正しいものはいない。一人もいない」(ローマ3:10)。「善を行う者はいない、一人もいない」(同12)。ですから「行いの契約」を人が破った後、ただちに「恵みの契約」が結ばれました。「恵みの契約」ですから、永遠の命を受けるかどうかは、人の行いではなく神の恵みにかかっているのです。聖書とは、恵みの契約がどのように実現されていくかを記した書物であると言ってもよいでしょう。聖書から有益な道徳的な教えを見いだすことはできるでしょう。また、そうすべきです。しかし、「恵みの契約」を知らないで聖書を読んでも、契約の書として聖書を読まなければ、本当に聖書を読んだことにはなりません。旧約聖書も新約聖書もまだ一度も読んでいないと言わなければなりません。
 「恵みの契約」が最初に聖書にあらわれるのは、人が罪を犯して堕落した直後の創世記3章15節です。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」ヘビの頭が砕かれる前に、ヘビは地を這いまわるものとされます。頭が砕かれるための準備の段階です。これはヘビに対する神の呪いの言葉ですが、その中に罪人に対する恵みが隠されており、救いの約束が含まれています。これは教理的には恵みの契約と呼ばれています。この段階では契約は十分な形になっていませんが、少なくともそこには契約の基本的な要素が見られます。それゆえに、3章15節は「原始福音」としばしば呼ばれています。原始的な形での「恵みの契約」、すなわち「原始福音」です。
 神はヘビに対して宣告しました。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。」ヘビと人が、互いに敵になるという意味です。アダムとエバは、神は不親切な敵でヘビが親切な味方であると判断し、神の命令に反して善悪の知識の木から取って食べました。それ以来、人はヘビを味方と思うようになってしまいました。罪深い誘惑に人は魅力を感じます。聖書が示す正しい生きかたなど、窮屈で不自由だと思います。自分の思いどおり、希望どおり生きられるのが最高の自由だと思っています。
そのようなヘビとの関係を、人はどうすることもできなくなってしまいました。神はそのような関係に、「わたしは敵意を置く」と言われたのです。「わたし」とは神であり、原始福音の文章の中で最も重要なことばです。すなわち人間が修行をして敵意を置くのではなく、神が敵意を置くのです。「神が」ヘビと人の間に敵意を置いてくださるとき初めて、ヘビの誘惑を見破ることができるという意味です。つまり自分の罪に気がつきはじめるのは恵みによらなければなりません。そして罪の生き方は、一時的には楽しそうに見えても、最終的には悲惨であることが分かるようになるのです。
 
 
 
16.「契約の更新」
 
 恵みの契約はその後、聖書の中でたびたび姿を変えていきます。日米安保条約やアパートの家賃の契約が更新されるように、時代の変化とともに恵みの契約も更新されていくからです。契約の本質と内容は不変ですが、表現を変え、新しい要素が加わり、契約としてさらに充実した姿と内容になっていきます。そして、新約聖書に記されるキリストの十字架で頂点に達するのです。恵みの契約の進展を見ていきましょう。
 ノアの物語(創世記6章~9章)の中心は、神とノアとの契約であり、9章12節に要約されています。
 創世記3章15節の原始福音にくらべると、もう少し整ったかたちで恵みの契約が示されています。契約書の印もはっきりと示されています。虹という印を見て、神はノアとの契約を思い起こすというのです。虹を見ているのは私たちだけではありません。神も虹を見ておられるのです。私たちは一箇所にいて、雨の後などときどき虹を見て喜びます。しかし神は天上からいつも虹を見ておられるのです。ですから、ノアとの契約が忘れられることは決してありません。地球上のどこかには、必ず虹が出ているのですから。  
 アブラハム契約は、創世記15章1節から21節と17章7節と8節に記されています。アブラハム契約では、ノア契約とは対照的に霊的な内容が強調されています。契約は「わたしは、あなたの神となる」という言葉に要約されます。宗教は神に近づこうとします。修行や善行や悟りを開くことによって。しかし、恵みは言います。「わたしは、あなたの神となる」と。神が私たちに近づいてくださる、これが恵みの契約の内容であり福音なのです。
 アブラハムのときは民族的であったのが、国民的になることがシナイ契約の第一の特徴です。アダムやアブラハムと結ばれた契約は、今度はモーセを通して更新されました。シナイ契約は、出エジプト記19章以下に記されています。かなりの量です。国家であるイスラエルにふさわしい内容と分量であり、国の法律を思わせるほどです。その中でも最も良く知られているのは、言うまでもなく20章にある十戒です。
しかしここで誤解をしてはなりません。シナイ契約は「行いの契約」へ逆もどりしたのではありません。シナイで与えられた律法には、確かに多くの命令が記されていますが、それも実は恵みの別の表現であるのです。
自分で自分の姿を見るためには鏡が必要です。自分の心の状態を見るためには、神の律法という正しい鏡が必要になります。律法は高慢な心を打ち砕き、罪を知らせ、キリストの十字架のもとに私たちをつれていってくれる神の恵みです。そしてさらにキリストの十字架によって罪ゆるされた者が、今度は神の律法を守ることができるようにされていくのです。
 儀式律法の中で恵みの契約が象徴的にあらわされています。レビ記は、主に儀式律法を記した代表的な書であり、その中でももっとも中心的な儀式は、犠牲に関するものです。動物の犠牲は、罪をおかしたイスラエルの民の身代わりです。ほんとうは、罪をおかした張本人であるイスラエルが罪のために死ななければなりません。しかし神は動物の犠牲を身代わりとして受入れ、罪を告白して悔い改める者の罪をゆるしてくださるのです。
 旧約聖書で更新をくりかえし、よりはっきりと姿をあらわしてきた恵みの契約は、新約聖書で頂点に達します。旧約聖書と新約聖書の内容は同じです。ともに恵みの契約の書であり、この契約の内容が福音とよばれているのです。つまり旧約聖書の中心的なメッセッージも、キリスト御自身が証明している通りキリストの十字架による救いであったのです。「あなたたちは聖書のなかに永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しする者だ」(ヨハネ5:39)。旧約は型や影や模型である儀式を語り、新約は本体であるキリストの十字架を語ります。
 
 
 
17.「罪からの救い主」―二性一人格―
 
 救いは恵みの契約の仲保者であるイエス・キリストにすべてがかかっていると言ってもよいでしょう。言い換えれば、キリストがどのような方であるかを誤って理解するなら救いの全体が誤ることになります。あいまいに理解するなら、救いもあいまいになってしまいます。「イエス様さえ信じていれば、難しいことはいらないのでは」ということはあまりにも危険な考えです。エホバの証人や統一協会も「イエス・キリストを信じている」と告白をしているからです。
 教会の歴史の中では、キリストの人格に関する誤りが、姿を変えていつの時代にも現れてきました。もちろん現代も例外ではありません。異端を見分ける二本の柱は、「三位一体」とキリストの「二性一人格」の教理であり、異端は、どちらかあるいは両方を否定しているのです。サタンは自分たちを計る「正しいものさし」をやっきになって狂わせようとしているからです。
 三位一体の神が人となったのではありません。三位一体の第二人格である、子なる神が人となられたのです。「神が人となった」という言い方は少しあいまいであり、誤解の可能性があります。「神の子が人となった」と言えば、もう少し正確になるでしょう。「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:1)。神が人の姿になったのではありません。中身は神のままで、外観だけが人の姿になった。人のぬいぐるみをかぶった神がキリストである、というのでもありません。
神が人に変わったのでもありませんし、神であることをやめて人となったのでもありません。神でありながら、同時に真の人となられたのです。キリストの二性一人格は教理的に、「三位一体の第二人格が人となられた」と要約することができます。教会では通常それを「神が人となられた」、あるいは「神の子が人となられた」などと言っているのです。神であるままで、同時に人となられたのです。半分が神で、半分が人間なのでもありません。100パーセント神であり100パーセント人である方、それが恵みの契約の仲保者、私たちの救い主、イエス・キリストです。
 旧約聖書はキリストが神であることを告げています。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君と唱えられる」(イザヤ9:5)。新約聖書にはキリストの神性を教える無数の箇所があります。その中でも、ヨハネとパウロは特にそのことを強調しています。「はじめに言(ことば)があった。言は神とともにあった。言は神であった。」(ヨハネ1:1)。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(同1:18)。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」(同3:18)。その他はっきりとキリストが神であると語るもの、神の性質をもっていると語るもの、様々です。
 その神の子キリストが、マリアより生まれ人となりました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を生む」(マタイ1:23)と記されています。つまり、私たちの母親が私たちを身ごもって生んだ時と同じです。マリアは普通の人と同じように、イエスを出産しました。神の子が人となられたのです。「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました」(ヘブライ2:14)。キリストは人類の一員になられました。
もしキリストが、単なる立派な人であるなら、やはりアダムの子孫でありアダムの罪を受け継ぐ罪人にすぎません。キリストがもし、単なる立派な人であったなら、キリストも自分の罪のために十字架にかかられたことになります。人々の罪をあがなう働きはできません。
人でない者は人を代表することはできません。人でない者が、人の身代わりになって罪の罰を受けることはできません。キリストはマリアから生まれることにより、完全な人となってくださいました。罪を受け継ぐことなしに人となられたのです。
 人間の仲介者はしばしば失敗します。しかし、キリストは神と人とを仲介する仕事をやりそこなうことはありませんでした。
 
 
 
 
18.「キリストの仕事」
 
 一人の人が二つの職業をもつことを「二足のわらじを履く」と言うのであれば、キリストは「三足のわらじ」です。キリストは預言者、祭司、王という三つの職業を兼ねていたからです。これは旧約時代のイスラエルの指導者の三つの代表的な職業です。
キリスの三職はエデンの園でおこった出来事と密接に関係しています。そこで神と人が罪のために引き離されてしまいました。しかし神は、罪を犯した人を見捨てるのではなく、その後ただちに恵みの契約を結んで、人を罪から解放することを約束してくださいました。この恵みの契約の仲保者が救い主イエス・キリストです。そしてこの仲保者の働きが、預言者、祭司、王の働きなのです。でもなぜ、この三職なのでしょうか。それを知るためには、やはりエデンの園に戻る必要があります。
神は人を、男と女に、ご自分の知識、義、きよさに似せて、被造物を支配する者として造られました。「神に似る者」あるいは「神と共通する部分のある者」として、人は創造されたという意味です。狭い意味での神のかたちは、エデンの園で罪によって失われました。そのために人は、真の神がだれであるか、どのようなお方であるのか、神は人に何を求めておられるのか、など神に関することが分からなくなってしまいました。すなわち人は神の知識を失い、神の知識を預かる「預言者」であることをやめたのです。
人はまた、神の義を失い、正義の神の前に出る「祭司」であることをやめてしまいました。エデンの園で、人は「王」として他の被造物を治める職務を与えられました。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地をはうすべてを支配させよう」(創世記1:26)。しかし、被造物の「王」である人は、罪の「奴隷」に落ちぶれてしまいました。人は本来、神の前に預言者、祭司、王として造られながら、罪によって大部分を失ってしまいました。それゆえキリストは、預言者、祭司、王としての職務を果たすために来てくださったのです。人が失った三つの職務を回復するためです。
 預言者としてのキリストは、私たちの頭を救うためです。キリストが預言者として来られたのは、人が罪によって無知になったからです。
 祭司であるキリストは、私たちの「心」を救うために来てくださいました。多くの人は、死について考えようともしません。死はもっとも考えたくない話題です。死の向こうにある神の罰を恐れているのです。心のどこかで、無意識に、人はみな神の裁きがあることを知っているのです。キリストは死の恐怖を取り除きました。キリストは私たちの身代わりになって、罪の罰を十字架で受けてくださいました。キリストの十字架の血によって、だれでも神にもっとも近いところまで行けるのです。旧約の大祭司よりも、私たちは大きな特権をもった祭司であることに感謝をしなければなりません。
  王であるキリストは、私たちの「意志」を救うためです。人は最初、被造物の王として造られました。世界の中にあるすべてのものを、神の栄光のために用いるためです。人はすべての被造物を支配する王として造られたにもかかわらず、自分自身でさえも治めることのできない罪と自我の奴隷になってしまいました。何かをしようとするとき、まず頭で考えます。理性が働きます。頭が考えたことを心が納得します。そして、意志がそれを手や足に命令して行動をおこすのです。正常なこのような関係は、罪によってめちゃくちゃにされてしまいました。理性ではなく、感情や欲望が私たちを王のように支配してしまいます。好きとか嫌いという感情が、私たちの判断や行動を決定してしまいます。しかし、キリストの十字架によって、私が私自身を治める王となることができるのです。
 救いは、キリストを預言者、祭司、王として受け入れるかどうかにかかっています。キリストは預言者、祭司、王として、どれも完全にそれぞれの職務を果してくださったからです。旧約の預言者、祭司、王は、みんな不完全な者ばかりでした。真の預言者、真の祭司、真の王を待ち望まなければなりませんでした。キリストは旧約の預言者、祭司、王の成就であるだけでなく、旧約聖書全体の完成であり成就です。このお方の中にすべてがあります。私たちの全人を救うのに十分なお方です。 
 
 
 
19.「預言者の働き」
 
現代は情報の時代です。情報があふれています。しかしすべての情報に接してから、何が正しいのかを判断するには人生は短すぎます。預言者とは情報の提供者です。クリスチャンとは、キリストを救い主と信じて救われた人のことです。これは多少あいまいな表現であり、もう少し正確に言うと、キリストを預言者、祭司、王として受け入れた者がクリスチャンです。
預言者としてのキリストは、何を知るべきか、何を知るべきでないかを私たちに教えてくれるのです。知るべき情報は、私たちを罪から救うための神の計画です。
これから毎日、顔を合わせる結婚相手について、名前と年齢を知っているというだけでは満足しないでしょう。ましてや、自分の救い主についてはもっとそうであるはずです。一生このお方と付き合うのですから。いや、キリストは死のむこうまで、永遠に付き合うお方であるのです。
キリストは低い状態でも、高い状態でも、預言者、祭司、王です。「低い状態」とは、受肉から墓に葬られるまで。「高い状態」とは、復活から再臨まで。キリストは、地上に来てからも、その後、天に上ってからもずっと預言者の働きをしておられるのです。
 キリストの預言者職は、とくに生涯のはじめの頃に目だっていました。キリストの預言者としての働きは、大きく二つに分けられます。一つは言葉によるものです。神ご自身と神に関する事柄を人々に伝えました。神の愛について、神の恵み深い計画について、神の民としてどのように生きるべきかを説教しました。最も代表的な箇所は言うまでもなく、マタイ福音書5章から7章にある「山上の説教」です。預言者は、日常語ではっきりと、ことわざや種まきや魚釣りなどのたとえ話によって分かりやすく人々に語りました。しかし、多くの人々は理解しなかったのです。
  キリストの預言者としての働きは、言葉によるものだけではありません。実はそれよりもっと重要な預言者としての働きがあるのです。キリスト御自身が、神を語っているからです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ1:1)。人の言葉はその人が何を考えているか、その人がどういう人であるかを伝えます。そのように、キリストは神を伝える言葉そのものであるのです。キリストを見れば、神がどなたであるか、神がどういう方であるかが分かります。
 キリストは今も預言者として働き続けておられます。キリストは天に上り、そこでゆっくりと休息をしておられるのではありません。イエスは言われました。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(ヨハネ5:17)。
 地上にはもはやキリストの体はありません。昔弟子たちに語られたように、私たちにも語ることはできません。しかし今は、日曜日の朝、札幌の教会でも鹿児島の教会でも主イエスの言葉を聞くことができるのです。
 預言者であるキリストは、今、聖書を通して私たちに語りかけます。聖書には、主イエスの口から出た言葉が記録されています。しかし、それだけが主の言葉ではありません。旧約の預言者を通しても、語っておられます。使徒の口、使徒の手紙も、キリストが語る手段です。私たちは、主イエスの弟子たちよりもはるかに大きな恵みと特権にあずかっているのです。
 キリストが地上を去ろうとしているとき、弟子たちに言われました。「わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる。わたしが去っていかなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(ヨハネ16:7~8)。「弁護者」とは、聖霊のことです。キリストが天に移られた今は、キリストは聖霊によって語ります。聖霊は一人ひとりのクリスチャンの内に住んで導いてくださるのです。
 聖霊は通常、聖書の言葉と共に働きます。今は、神の啓示が完結している時代であるからです。聖書を通して神はすべてのことを、語ることができるのです。
とはいっても、私たちは自分では聖書の一行も理解することができません。文字は読めても霊的な意味を理解することはできません。ですから、聖書が少しでも分かったならば、聖霊がともにいてくださると確信してよいのです。
 主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と言われました。イエスは命にいたる道を教え、命に関する真理を示す預言者です。キリストは道を教えるだけでなく、道そのものでもあるからです。道を教えてもらっても、まだ目的地に着いたわけではありません。目的地に行く道の途中のどこかにあるのです。しかし、イエスを預言者として持つことは、目的地に向かっていると同時に、目的地にすでに着いたともいうことができるのです。このお方自身が目的地であるからです。
 
 
 
20.「祭司の働き」
 
 預言者以上に必要となったのは祭司です。正しい道を知らされるだけでは十分ではなくなったからです。たとえ目的地に着いても門の中には入れなければ来なかったのと同じです。罪のため人は神の前に出る資格を失ってしまい、そこで神と人の間に入ってとりなしをする祭司が必要となったのです。
 祭司の職務は、「罪のための供え物やいけにえを献げる」(ヘブライ人5:1)ことです。人々は昔、山の神や川の神のたたりを恐れていけにえを献げました。聖書に命じられている供え物やいけにえは、そのような供え物と同じ意味なのでしょうか。
 その答えは「イエス」&「ノー」です。驚くべきことに、いけにえを受ける側の怒りに関係しているという点ではどちらも共通しています。ただしその怒りの性質は全く異なっているのです。いけにえはいつでも、いけにえを供える対象の怒りを静めるためのものです。そのように言うならまた、「愛の神の怒りをしずめるとはどういうことか」と憤慨されるでしょうか。
神の私たちに対する怒りではなく、私たちの側の神に対する怒りをしずめて、神と和解させると言うなら納得できるかも知れません。十字架の愛によって、かたくなな私たちの心をやわらげ、神に対する怒りを取り除き、神と和解させるのが、いけにえの目的なのでしょうか。それはすべて誤りではありませんが、それがいけにえの第一の目的であると言うなら聖書の答えと完全に異なっています。いけにえの第一の目的は、あくまでもいけにえを受ける側の怒りをしずめることであるからです。つまり怒っているのはやはり神であるのです。
ローマの信徒への手紙をはじめから順に読んでみてください。そして、「怒り」という言葉が出てきたとき、だれが怒っているのかを調べてください。「神は天から怒りを現されます」(1:18)。「あなたは、かたくなで心を改めようともせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう」(2:5)、(2:8)、(5:9)。いけにえは、やはり神の怒りをしずめるために供えられたのです。
 私たちの怒りは感情的な怒りですが、神の怒りは法的な怒りです。たとえば、裁判官が法をおかした犯罪者に持つような怒りです。つまり法に違反した者に、法はふさわしい罰を違反者に与えなければなりません。
 旧約の祭司の主な仕事は、神に供え物やいけにえを献げることです。とくに重要な行為は、動物の犠牲の上に手を置くこと、祭壇に血を塗ること、そして血を注ぎかけることです。(レビ1:4)。動物のいけにえの上に手を置くことは、人の罪がいけにえに乗り移ったことを表す象徴的な行為です。つまり本来は罪をおかした本人が、神から罰を受けて血を流して死ななければならないのに、動物のいけにえが代わって血を流し神の罰を受けてくれるのです。そして神がその犠牲を受け入れてくださるとき、イスラエルの民の罪もゆるされるというのです。
 祭司であるキリストは、旧約の祭司と同じように、細かく記された犠牲の律法に忠実に従いました。旧約の祭司と違っているのは、いけにえの種類です。旧約の祭司は、動物の犠牲と血をたずさえて聖所に入りましたが、キリストは自分自身という犠牲と自分自身の血をたずさえて聖所に入られたのです。
旧約では、祭司と犠牲は別々です。しかしキリストは祭司であり同時に犠牲の献げ物でもあり、旧約で別々であったものが新約では一つとなりました。
旧約と新約のメッセージは同じであり、どちらも神の小羊、イエス・キリストの十字架の血による罪のゆるしとあがないです。ただそれを表現する方法と豊かさが異なっているだけです。
 キリストは、私たちの身代わりとなって神の律法の要求する罰を受けてくださいました。執行猶予も温情酌量も受けることなく、余すところなく罪の罰を受けられたのです。だからこそ十字架は極限までむごたらしいのです。神は祭司キリストが献げた犠牲を受け入れてくださいました。エルサレムのゴルゴタという祭壇に血が流され、犠牲は天の聖所にささげられました。
  神御自身が犠牲を準備されました。救いは最初から終わりまで神の行為です。気まぐれな人間の行為や思いによるのではないことを感謝します。神の義と、神の愛が十字架でぴったりと出会いました。神の義がいささかもキズつくことなく、神の愛が完全に示されたのです。
 
 
 
21.「王の働き」
 
 王の主な仕事は、国民を従わせて国を治めること、攻めてくる敵から国民を守ることです。その結果、国が安定し繁栄するなら、その王は良い支配者であると言うことができます。しかしその反対に、国が敵に滅ぼされ国民が奴隷になるなら、その王は悪い王と言わなければなりません。そして王としてのキリストの評価も基本的にそれと同じでよいのです。
 勝利者になるか敗北者になるか、支配者になるか奴隷になるかは、だれが自分の王であるかで決まります。この原則は、実際の戦争だけではなく、霊的な日々の戦いでも同じです。つまり私たちが「勝利の人生」を歩むか「敗北の人生」を歩むかは、第一には誰を人生の王とし、誰に従っていくのかという選択にかっているのです。
どんなに強い兵士でも、自分の王が戦いに敗れるなら敵の奴隷とならなければなりません。不真面目に生きる者は必ず不幸になるのは、どんな場合にも当てはまる普遍的な原理ですが、その反対はいつでも真理ではありません。真面目に努力する人が必ずしも幸福で充実した人生を歩むとは限らないのです。
 神の子イエス・キリストを自分と自分の人生の預言者・祭司・王として選んだ者が、クリスチャンと呼ばれる人々です。それまでの私たちの王は罪であり、罪が私たちと私たちの人生を支配していたことをクリスチャンは知っています。罪が思いのままに、私たちと私たちの体を支配しその目的のために用いていたのです。
 パウロはそのようなクリスチャンの以前の状態を「罪の奴隷」という強い言葉で表現しています(ローマ6:6)。口は本来、真理を語り、神を賛美し、悲しんでいる者を慰め、苦しんでいる人を励ますために神から与えられた器官です。しかしそれが本来の目的のためではなく、うそをつき、神を呪い、他の人を傷つけ非難するためにも口を用いることができるのです。そして目や手や足、またその他の体の器官も同様です。たとえば脳には、想像力というすばらしい機能があるのですが、「こうなったら、どうなる。ああなったら、どうなる」と、想像力が思い煩いのために用いられるかもしれません。
 しかしキリストを王として選択したクリスチャンは、もう罪に思い通りにされてはなりません。王であるキリストは、私たちを罪の奴隷状態から解放してくださったからです。しかしクリスチャンになって、全く新しい口や全く新しい手や全く新しい足になるのではありません。クリスチャンになれば、もう汚い言葉や悪い言葉がいっさい出てこない、美しく清らかな言葉だけが出てくる全く新しい天国の口に変わったのではありません。クリスチャンになっても前と同じ口、前と同じ手、前と同じ足であるはずです。
 ではクリスチャンになれば何が変わるのでしょうか。それは口や手や足を動かし用いる心です。新しい心が与えられ、前とは異なる動機で、以前と違う目的のために、口や手や足を用いることができるようになるのです。たとえば、それまでは自分の目的のためにしか用いなかった手や足を、新しい王であるキリストのために用いるようになるのです。
 以前は罪が私たちの魂を支配していました。私たちの魂は罪という王が支配する領域であり、キリストの支配は及ばない外国であったからです。しかし、キリストの十字架の死によって罪と死の支配は終わり、私たちの心の中に新しい王であるキリストの支配がはじまったのです。
 キリストは私たちの体を強制的に用いる暴君ではありません。ムチや強制は新しい王とその支配にふさわしくないからです。神の独り子の十字架の死によって罪の支配から解放され新しくされた心が、新しい動機によって、新しい目的のために、自分の口や手や足を用いていく自由な選択が与えられたのです。
 誤解してはなりません。クリスチャンになれば自動的に、美しい言葉や親切な言葉だけが口から出てくるのではありません。罪の支配の下にあったときは選択がありませんでした。しかし罪の支配から解放された今は、私たちを迫害する者のために祈る選択も加わりました。新しい王の支配はムチによる強制ではないため、それを自分で選び取っていかなければならないのです。私たちの義務は聖霊の力に信頼し、御言葉に従っていくことです。
 
 
 
 
救いの適用について
 
23.「聖霊の働き」
 
罪人を救うイエス・キリストの働きについて考えてきました。私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかったお方を、自分自身の罪からの救い主と信じる者の罪がすべてゆるされる。これがこれまでの教理のまとめです。でもなぜ、約2000年前に生き十字架で死んだ救い主が、21世紀に生きる私たちの救い主であると言えるのでしょうか。
 文化的な領域では何百年ぐらいは簡単に飛び越して、過去の作品が現代人のものとなります。たとえばバッハやモーツアルトの音楽、ミケランジェロやロダンの彫刻、ベラスケスやモネの絵画は、現代人の心を根底から揺り動かし感動させる力を持っています。アルキメデスの原理は現在でも真理であるのです。
 ではキリストの十字架の救いが現代の私たちのものとなる、とは果たしてどういう意味なのでしょうか。それと同じような意味なのでしょうか、そうではないのでしょうか。
 キリストの生涯は単なる模範として後の人々に示されたのではありません。そうであるあるなら深刻な問題が一つ残ることになります。立派な模範が示されても、私たちはそのようには行動できないのです。
 キリストは十字架で私たちのために救いを勝ちとってくださいました。「あなたがたは代価を払って買い取られたのです」(1コリント6:20)。このような聖書の表現は、キリストの十字架は単なる後世の人々のための模範であるという考えを否定しています。それ以上の意味を含んでいることは明らかです。「私たちもイエス様のようにしましょう」と招かれているわけではないのです。キリストが御自身の血によって、私たちのために勝ち取り、買い取り、手に入れた救いを問題にしているからです。
 「あがない」のもともとの意味は、身代金を払って奴隷を自由にすることです。キリストは「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」(ヨハネ8:34)と言われました。クリスチャンとは罪の奴隷であったが、キリストの十字架の血によって買い取られ自由にされた者のことです。
 約2000年前の十字架の救いが、私たちにも有効であるのは、聖霊の働きによるのです。つまり聖霊によって心が動かされ、聖霊によって心が変えられ新しい命が与えられるまでは、だれもキリストの模範に従おうと思わないのです。いやむしろ、そうすることをかえって憎むのです。人はみな罪の奴隷になっているからです。
 しかし、インターネットでダウンロードするように、2000年前の救いが自分の心にスポンと入ってくるというのではありません。聖霊が働くとき手品の種明かしのように、聖書が突然分かるというのではありません。聖霊は神の言葉である聖書のみ言葉を通して働かれるからです。人間は神の働きをすべて知っているわけではありませんが、神が私たちの心に働くとき普通に用いられる手段である聖書をおろそかにしておいて、何か奇跡的な方法で働いてくださると期待するべきではありません。
聖霊の消極的な働きとは、福音を理解し福音を信じる障害物を心から取り除くことです。その第一は、高慢な心でありプライドです。「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるのです」(1コリント2:14)とパウロは教えています。
 つまり自分の罪深さを知ることが人間にとって最も難しいことであり、それを妨げているプライドを聖霊が打ち砕いてくださらなければ、私たちは福音を受け入れるとはできません。聖霊は私たちが福音を受け入れる妨げとなっているプライドを取り除くと同時に、私たちが福音を信じることができるように働いてくださいます。
 
 
 
23.「義と認められる」ー義認―
 
「御利益宗教」という言葉には、批判的なニュアンスが込められています。ただ利益だけを求めている宗教という感じでしょうか。しかしキリスト教もある意味では御利益宗教であるのではないでしょうか。良いことが何もないのに、私たちはクリスチャンになったのでありません。たとえば幸福になることを願って教会の門をくぐった人は少なくないはずです。福音は英語では「良い知らせ」Good News というぐらいです。だれも不幸になることを願って宗教をはじめるということはありません。ではいわゆる御利益宗教とキリスト教の福音は何か違いがあるのでしょうか。
 まず何を良い知らせと考えるかが違っています。「この宗教を信じれば、病気が治る、お金がもうかる、大学に入学できる」などが御利益の代表的なものですが、福音が約束しているのは、神から正しい人と認められること、神のこどもとされ、きよくされる恵みです。それぞれ教理的な言葉では、「義認」「子とされること」「聖化」です。今回は「義認」を考えます。
 聖書はできるだけ多くの視点から読むべきですが、とくに「神の愛」と「神の義」という二つの視点を絶対に見失ってはなりません。「正しい人と認められる」とは、教理的な言葉では「義認」です。そして義と認められた人が義人です。義認は法律の言葉であり、裁判のとき裁判長から無罪と宣告されることです。つまり主イエスを救い主と信じるクリスチャンとは、神の法廷で無罪と宣告された者であるのです。
 でもなぜ罪をおかし罪をおかし続ける者が、無罪を宣告され正しい人と認められるのでしょうか。裁判官である神の不正や誤審のためでしょうか。「まあいいだろう」と言って神は人の罪を大目に見られたからでしょうか。人間の親は我が子の罪をそのように扱うことがありますが、神は愛のお方であると同時に正しいお方(義)であるため、罪を罰することなしに人の罪をゆるすことはできません。
 この難しい問に対する答えは、神の独り子の十字架にだけあります。「人はみな罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ3:23、24)。
 本来は罪を犯している私たちが罰せられるべきであるのですが、神はご自分の独り子を私たちの代わりに罰し、そしてこのお方を自分の救い主と信じる者の罪をすべてゆるしてくださいます。十字架は、「神の義と愛のあえるところ」(讃美歌262番)であるのです。
 「無償で義とされる」「神の義を得る」など、パウロは「義」という言葉を多く用いる著者です。繰り返しますが、義は法的な言葉であると理解することは救いの理解には決定的に重要です。理解するのとそうでないのとは、クリスチャンとして生きるにあたって、実に様々な面で大きな違いになって現れてくるからです。
 「義認」の消極的な面は神の法廷の裁判長である神から、「無罪」と宣告されることです。神の法廷は最高裁判所に似ています。判決は最終的に確定したのです。そこで言い渡された無罪判決は永遠に変更される可能性はありません。全能の神の前に新証拠が出される可能性もありません。
 カトリック教会の教理は、「義認」と「聖化」の区別があいまいであり混乱があります。「義認」も過程であり、より多く義とされたクリスチャンとより少なく義とされたクリスチャンがあることになります。そして最も多く義とされた者が「聖人」と呼ばれています。
 しかし、より多く無罪の人とより少なく無罪の人、という区別はありません。兄は弟より多く子どもであるとか、より少なく子どもであると言うことはありません。どちらも法的にはある人の子どもであることには変わりがありません。
 実はプロテスタント教会の多くのクリスチャンも、この重要な二つの教理を混同して、「義認」の祝福をムダにしていると言わなければなりません。クリスチャンは義と不義、無罪と有罪、の間を行ったり来たりするのではありません。「義認」は前述のように一度限りの最終的な宣言です。すなわちどんな事情によってもキャンセルされることはありません。私たちはクリスチャンになっても、誘惑に負け罪をおかすことがあります。気がついているかどうかは別ですが、むしろクリスチャンになっても毎日罪をおかし続けているのが現実です。その時、私たちは有罪になって悔い改め、そしてまた罪がゆるされる。このようなことを繰り返しながら、クリスチャンとしての一生が終わるのではありません。
 繰り返しますが、クリスチャンは一度限り義と宣告され、そのあと最後まで無罪の状態は変更されることはありません。私たちに与えられた命は「永遠の命」です。
 
 
 
24.「子とされること」
 
 義認の教理の次は、子とされることの教理です。神と人が法的に敵対関係であるままでは、神と人が父と子の関係になることは不可能です。同じ夕食の食卓につきながら、裁判官である父が被告である子を明日の法廷で有罪判決をする場面など考えられません。
 子とされることは、義と認められることよりさらに進んだ祝福です。義認とは法的に神に受け入れられる状態になることですが、子とされることは特別の愛の関係に受け入れられることであるからです。キリストを信じた瞬間に私たちは義と認められ、しかも神の子として認められるのです。
 ただし神の子として自覚するようになるのはある程度の時間が必要であり、その自覚が強められ確かなものとなるにはさらに時間がかかるのが普通です。しかし私たちの自覚にかかわらず、キリストを信じる者は神の子であるのです。
 義認同様、子とされることも法的な神の行為です。私たちは罪のために怒りの子(エフェソ2:3)であったにもかかわらず、神の憐れみによって神の子とされ神の愛の対象とされるのです。
 人間の場合でも、血のつながりのない他人の子どもを法的に自分の子どもにすることができます。そして市役所や区役所で養子縁組の手続きをした、その瞬間に親子関係が発生することはだれでもよく知っています。そのように義認によって天で養子縁組の手続きが完了し、私たちは神の家族になったのです。
 最も重要なのは、義認と同様に子とされることも法的な手続きであると理解することです。それを理解していないために、せっかくの祝福を無駄にしたり、様々な誤解とトラブルが生じることがあるからです。義認は神の法廷での無罪判決です。さらにはキリストの真っ白な義の衣が聖徒の上に着せられ、神は私たちに着せられた義の衣を見て「正しい人」と認めてくださったのです。有罪には程度の差がありますが、無罪には程度の差はありません。より多く無罪であるとか、より少なく無罪であるというようなことはありません。つまり義認には程度の差はありません。そして子とされることにも程度の差はありません。兄はより多く父の子どもであるとか、弟はより少なく父の子どもである、などと言うことはできないでしょう。
 実感がともなうには時間がかかる場合があります。子供が生まれて実感がないからといって父親にならなかったのではありません。私たちが信じるべきなのは、自分の気持ちや実感ではなく、神の言葉である聖書に記された霊的な事実です。そして神の子とされているなら、遅かれ早かれそれを意識するようになるはずです。「あなたがたが子であることは、神が『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」(ガラテヤ4:6)。
 子とされることには様々な特権と祝福が伴います。父と子は同じファミリー・ネームとなり、私たちは神の子とよばれます。同時に子とされることには、様々な責任が伴います。子供の不名誉は親の不名誉です。マタイ福音書5章16節の主イエスの言葉にはその両方の意味が含まれているのです。もちろん神は、罪によって私たちを神の民から除外なさることはありません。
 警察官が不祥事を起こすことがありますが、それは制服を着ているときよりも制服を脱いだ時の方がはるかに多いのです。神の名をいただいていることは、窮屈に感じるときもあるでしょうが、それはむしろ私たちを罪から守る祝福と考えるべきです。
 クリスチャンの祈りは、神が父であるという意識がなければ、抽象的で冷たいものとなります。「天にましますわれらの父よ」とクリスチャンは祈り始めます。私たちは壁や空気に向かって祈るのではありません。まず祈りの対象がどなたであるのかを知らなければなりません。それは私たちの神であり私たちの父であるお方であるのです。
「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です」(ローマ8:17)。父親と血のつながった子と、養子とされた子は、法的には差がありません。たとえば両者の相続権は同じです。養子とされた子も同じように父の財産を受け継ぐ権利を持っているのです。
  子は父にどこか似ているものです。クリスチャンにとって最高の祝福は、天の父に似る者となることであり、神が父であるなら子である私たちにもその性質が分け与えられているはずです。
 
 
 
25.「きよくされること」―聖化―
 
 「義と認められること」(義認)、「子とされること」、には「きよくされること」(聖化)が続きます。この三つの教理を、セットとして考えることが重要です。
 服を脱いだだけで風呂に入らないということがないように、汚れた衣を脱いだ者は次にそれにふさわしく洗い清められなければなりません。城の前で物乞いをしていたこじきが、王の子供として養子にされたとき、すぐに王子や王女のように気品にあふれたふるまいができるようになるわけではありません。しかし王子らしく行動したり、王女らしく話すことができるように訓練を受けなければなりません。その訓練が聖化という恵みの過程です。
 聖化は、すべてのクリスチャンのために準備されている救いの過程であり救いの恵みです。しかし罪のゆるしだけで止まってしまう残念なクリスチャンがあまりにも多いのです。帝国ホテルでフランス料理のフル・コースをオーダーし、スープだけを飲んで満足し家に帰るのはもったいないと思わないでしょうか。罪のゆるしが救いの重要な要素であることは確かですが、それは宮殿の玄関でありフル・コースの前菜にすぎないのです。その後には驚くほど豪華な様々な部屋や、目のさめるようなおいしい料理が続いてくることを知らなければ、取り返しのつかない大損をしてしまいます。しかしそれが多くのクリスチャンの現実であると言わなければなりません。
 聖化は特定のすぐれたクリスチャンだけではなく、すべてのクリスチャンのために準備されている祝福です。神の子であるクリスチャンが成長し清められることは、神の命令であり神の意志であるからです。「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」(1テサロニケ4:3)。
 パウロも、十字架の最終的な目的が、私たちが清められることであると記しています。「キリストがわたしたちのためにご自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法からあがない出し、良い行いに熱心な民をご自分のものとして清めるためだったのです」(テトス2:14)。聖化は救いの恵みのオプションではなく、すべてのクリスチャンのためのものというだけでなく、むしろ十字架の目的でさえあるのです。ところが何と多くの神の子が、最初の駅である罪のゆるしで下車してしまい、贖いの壮大な旅をそこで終えてしまうことでしょう。
 聖化と義認には共通点と相違点があります。まず聖化は「恵み」です。「恵み」とは値しない者に与えられる祝福です。では相違点は何でしょうか。義認と子とされることは法的であり、聖化は実際的です。法的な決定がなされた瞬間に義認と子とされることが実現します。しかし聖化は長い時間をかけて実現される過程であるのです。
 それゆえ次の二つの相違点もこれに似ています。義認と子とされることは一回限りの出来事であり、繰り返されることはありません。しかし聖化は何回も繰り返される恵みであり、地上の生涯を終えるまで私たちは聖化の恵みを受け続けるのです。またそれゆえに、義認と子とされることはただちに完了されるのですが、聖化は地上では未完成です。
 もう一つの相違点は、私たちに役割があるということです。私たちの役割があるということと、救いの根拠となる行いを積み上げることは同じではありません。神は私たちの働きを根拠にではなく、私たちの働きを通して聖化の業を行われるのです。
 「私をきよめてください」と熱心に祈ります。しかし何も起こりません。5年たっても10年たっても、熱心に祈り続けても、徹夜で祈っても、何も変化は見られません。私たちが神の律法に従うことを通して、聖化が私たちのうちに実現されていくからです。
 聖書には無数の命令があります。命令を受けたクリスチャンはどうすればよいのでしょうか。もちろんこの命令のように行動するべきです。そうする気持ちになるまで待つのではありません。そうすることができるよう、徹夜で祈ることや神にゆだねること、が求められているわけはありません。お母さんに「おもちゃをかたずけなさい」と命じられた子供が、もし「おもちゃがかたずける気持ちになるようにしてください」、「かたづけられるように神さまにゆだねます」などと徹夜で祈っていたら、お母さんはどうするでしょう。もう一度大声で「はやくかたずけなさい!」と言うに違いがありません。しかし多くのクリスチャンは、聖化に関しては同じ間違いをしているのです。
 
 
 
 
26.「死の時の祝福」
 
 ゴールデン・ウィークにどこに行くという話に花が咲くのですが、死後どこに行くという話が盛り上がることはありません。死後は天国(極楽)に行くと何となく思っている人、死後は何も無くなってしまうのではないかと漠然と考えている人。様々ですが、あなたは死後の世界や死後の状態をどのようにお考えでしょうか。またその根拠は何でしょうか。死を経験し、死に勝利し、今も生きておられるキリストから使徒たちが聞いて書かれた聖書を、私たちは信じているのです。
 死後のことは、「中間状態」と教理的に呼ばれることがあります。現在の状態と最終的な状態の中間的な状態であるからです。しかし一般的に死は、中間ではなく最終的な状態と考えられています。それですべてが終りです。そのため、それまでは苦しい治療も大きな支出もいとわなかったのに、その後のことは予定には全く入っていないのが普通です。人生の予定表の中に自分の死を書き入れている人は、非常に少ないのです。
 しかし神の言葉である聖書によれば、死は終着駅ではなく中間の駅にすぎません。だとすればその後どこへ行くのか、そんな重大なことをまじめに考えないのはおかしいと思いませんか。
神は人を肉体と魂に創造されました。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」(創世記2:7)。そして死のとき、肉体と魂が分離し、肉体はだれもがよく知っているように、火葬場で焼かれたり、そのまま土の中に埋められ葬られます。それゆえ死は、「土に返る」「塵に返る」(同3:19)などと表現されているのです。
 では魂はどうなったのでしょうか。日本では葬式のときに、故人に対する最後の言葉として、遺体に向かって弔辞が読まれるのが普通です。キリスト教の葬式ではそのような弔辞はありません。人の言葉を理解し何かを感じるのは肉体ではなく魂であり、その魂はもうそこにないからです。
 では魂はどうなったのでしょうか。肉体に関してはクリスチャンもそうでない者も同じです。しかしクリスチャンの魂はただちに清められ天国へ行く、と聖書には記されています。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)。これは十字架のキリストが、両側で十字架にかけられていた二人の強盗の一人に語られた言葉です。魂は、40日後でも何千年後でもなく、「今日」、すなわち肉体の死のときただちに天に引き上げられたのです。 
 では肉体はどうなるのでしょうか。肉体は墓の中でだんだんと醜い姿に朽ち果てていきます。クリスチャンは死んだ後、魂だけが天国に行き、それが最終的な状態なのでしょうか。
 主イエスは肉体の復活があることを弟子たちに語りました。「驚いてはいけない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ」(ヨハ
ネ5:28、29)。
 地上の肉体は墓の中で滅びますが、永遠にそのままではなく、肉体が復活するときがあるというのです。そしてその肉体とすでに天に召された魂が再び結合してキリストとお会いし、私たちは永遠に天で過ごすことになるのです。それがキリストを信じるクリスチャンの終着駅であり、それまでは途中の駅での一時停車や乗り換えにすぎません。
 死を恐れるのは、その向こうに裁きが待っているからです。しかしキリストを罪の救い主と信じるクリスチャンにとって、死はもう恐ろしいものではありません。キリストが私たちの代わりに十字架で罪の罰を受けてくださったからです。
 世の人々が最も恐れる強敵に向かって「死よお前のトゲはどこにあるのか」とさえいばって言うことができるのです。息が止まったときから死が始まるのではなく、人が罪をおかしたとしから死は始まりました。つまり人が生まれたときからもう死に初めているのです。そして死のときに最高度にその性質をあらわすだけで、人生の途中で様々な悪さをしているはずです。
 人生の〆切りである死の前に、様々な悪さをする根本的な原因である罪を何とかしておかなければなりません。