マタイ福音書(抜粋)

「キリストの歴史性と罪の歴史性」
 
 マタイ福音書1:1
アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。
 
 
 聖書は永遠のベストセラーと言われます。ちなみに販売数の多い本は、「二都物語」(ディケンズ)2億冊、「ライオンと魔女」(CSルイス)8500万冊、「星の王子様」8000万冊、「赤毛のアン」5000万冊、ダ・ビンチ・コード8000万冊、ハリー・ポッター45000万冊などです。そして聖書は40億から60億とも言われます。最低と最高はかなり大きな差がありますが、いずれにしても一冊の本としては、ダントツのベスト・セラーであることだけは間違いありません。
しかし最初からベストセラーを目指していたなら、こんな書き出しはしなかったでしょう。「雪国」や「吾輩は猫である」の書き出しはとくに有名です。売れ行きを大いに左右する書き出しに、小説家が注意深くなるのは当然です。しかし新約聖書は、どこの誰か知らない人の名前を、百も並べることによって始まるのです。この退屈な部分を全く無視して、1章の後半のクリスマス物語から読み始める、という経験のあるクリスチャンも少なくないでしょう。しかしそのような読者も、この箇所をいつものように通過する前に、マタイがそのような書き出しをわざわざしているのは何か重要な理由があるに違いない、と立ち止まるべきです。
系図が表しているいくつかの重要な意味を引き続き考えます。救い主の系図は、まず人間の問題、世界の問題にも系図があることを暗示しています。その系図の行きあたるところには、罪の源があり、人間と世界の問題の根本的な原因がそこには示されているのです。それは人が真の神から独立して、みなが小さな神になったことです。そしてそれこそが、争い、戦争、駆け引き、だまし合い、いじめ、虐待、夫婦げんか、等などが、人類の歴史の中で絶えたことがない根本的な理由です。小さな神と小さな神が争い、どちらかが勝ち、どちらかが負け、勝った者もさらに強い者に負け、そのようにして不幸な人が世界にはあふれているのです。
 
 イエス・キリストの歴史性
 なぜ新約聖書の最初に、あの退屈な系図があるのでしょう。系図の第一の意味は源を示すことであることをすでに指摘しましたが、系図の第二番目の重要な意味は歴史性です。桃太郎やアンパンマンには系図がありません。イエス・キリストの長ったらしい系図は、この方が歴史的な救い主であり、聖書はおとぎばなしや神話ではないという意味です。聖書に記された救い主は、人類の歴史の中に実際に生き、歴史の中で赤い血を流して十字架で死なれたお方であると、と新約聖書はまず宣言をしているのです。映画や小説の最初か終わりに「これはフィクションであり、登場人物は実際に存在する人物ではありません」などと書かれていることがありますが、聖書はその反対のことをここでしているのです。
イエス・キリストの歴史性を疑う学者もありますが、新約聖書はこのお方は歴史のなかで実際に存在した人であることを示す系図から始めているのはあまりにも重要なことです。イエス・キリストは世界の歴史のある期間、サンダルをはいてユダヤの地面の上を歩き回りました。私たちの履物の裏には学校や会社や買い物からの帰り道の土が付いているように、そのお方のサンダルには病人を癒し悲しむ者を励まして帰ったあと、ユダヤの地の土やほこりが付いていたはずです。
 もちろん一般の歴史家がイエスという人物について書いた記録はそれほど多く残されているわけではありません。その理由は単純であり、当時のユダヤはローマ帝国の田舎であり、そこで処刑された一人の宗教家の死についての記録があまり残っていないのは、むしろ当然であると言わなければなりません。ですからイエス・キリストと言うお方についての資料は、ほとんどは聖書から来ている「手前みそ」であることは事実です。しかしクリスチャンがイエス・キリスト教の歴史性を信じるのは、証拠が多くあるかないかではありません。
 
 教えと事実
 キリスト教は単なる哲学や思想ではありません。哲学や思想は、机の上でも出来上がります。いや机がなくても、頭の中だけでも十分です。しかし今日の晩ご飯は頭の中でイメージしているだけでは何も出来上がりません。そしてキリスト教もまったく同じであり、偉いお坊さんの瞑想によって出来た宗教ではありません。それを示すのが救い主に系図が付いている理由の一つであり、キリスト教は歴史の事実に基づく宗教であるのです。それがまたキリスト教の最大の特徴であり、つまりその他の多くの宗教と最も異なる点であると言うことができるでしょう。
 日本の代表的な宗教である神道にとって、教えはあまり重要ではありません。またもう一つの代表的な宗教である仏教には難しい教えが記されたお経が不可欠ですが、仏教信徒はお経の意味をほとんど知らないのが普通です。それに対してキリスト教は、聖職者だけでなくすべての信徒が教えを大なり小なり理解することが不可欠です。そのようにキリスト教にとって教えは非常に重要で不可欠な部分であるのですが、それは歴史の事実に基づいた教えであり、まず教えがあるのではありません。
 新約聖書は単に、イエスという一人の高潔な人物の偉人伝でも、この人物が教えたありがたい言葉集でもありません。十字架につけるローマの兵士のために「父よ、彼らをゆるしたまえ。彼らは何をしているのか分からないのです」と祈るお方の、感動的な犠牲の物語でもありません。
 マタイもルカも、それぞれが書いたキリストの物語を、歴史的な事実であると最初に宣言しています。神の子がベツレヘムの馬小屋で人としてお生まれになったこと。人々からあざけられ、つばを吐きかけられ、十字架で苦しみながら死んだこと。それが歴史の中で起こった事実であるという理解がなければ、彼らが書いた福音書を何度も読み、熱心に研究しても、ほとんど意味がないと、福音書の著者であるマタイやルカは言っているのだと思います。
 近代的なキリスト教は、キリストとキリストの生涯の歴史性をあまり重要視しない傾向があります。教えが重要なのであり歴史性はどちらでもよいと考える神学者もあり、歴史性を否定する神学者さえあります。しかしそれは、聖書とキリスト教を根底から覆すことになるのです。
 21世紀に生きる現代人の問題は、情報があまりにも多くて、確信が持てなくなっていることではないでしょうか。「加工肉を1日50グラム以上食べると大腸ガンのリスクが18パーセント高まる」というWHOの発表に、「そんなことはない」という非難の情報も殺到しました。どちらを信じたらよいのでしょうか。そしてその後、日本ではハムやソーセージなどの加工肉に売り上げはその後10パーセント以上落ち込んでいるそうです。ハムとソーセージのリスクを信じた人は、少なくとも10パーセントはいたという証拠です。21世紀の私たちは、そのように天の星ほどの情報の宇宙の中で生きているのです。どれが正しいのか確かめる方法があるのでしょうか。聖書はもちろん加工肉のリスクについては何も書いていませんが、聖書は最も重要な情報である人間と神に関する情報に集中しているからです。私がキリスト教を信じるようになったのは、聖書は人間の心の状態に関する正確な情報を提供していると確信するようになったからです。
 
霊的な真理
 なぜそんなに救い主の歴史性にこだわるのか、と質問されるかもしれません。教えを学べば十分ではないか、と言われるかもしれません。救い主の系図はそれではダメだと言っているのです。理由は単純です。人間の罪も歴史の中に確かに存在するからです。罪はあるのか無いのか分からない、抽象的でモヤモヤしたガスのようではありません。単なる心の迷いでもありません。富士山や北海道が存在するのと同じように、罪も歴史の中に確かに存在しているのです。ただ違いは、手で触れるか触れないかだけです。それゆえ、罪からの救い主も、歴史に確かに存在していなければならないのです。「ほらっ」と言って罪を見せることはできないでしょう。だから罪は存在していないとただちに結論することはできません。
科学は物質的な真理と事実を追及する学問です。聖書は霊的な真理を扱う書物です。現代人は科学者の発言には大きな敬意を払います。私もその一人ですが、しかし証明できる事実とそうでない事実があるという区別をしなければなりません。そして聖書は主に証明できない後の方の真理を扱うのです。
 その中で最も重要なのが、聖書の中心的なテーマである神の愛です。「風呂屋ののれん」という言葉がありますが、「ゆ」(言う)だけで行わないという意味です。神の愛はそうではありません。歴史の中でご自分の独り子を世に送り、このお方を私たちの罪の身代わりとして世に送ってくださったのです。それがクリスマスです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。これがクリスマスの最良の解説です。そしてキリストは与えられた使命を果たし、私たちの罪を背負って十字架で死なれたのです。 
 
 罪の歴史性
 キリストの歴史性やキリストの生涯の歴史性を、客観的な資料をたくさん積み上げて証明することはできません。ではキリストとその生涯の歴史性が科学的に証明できないなら、キリスト教は不確かな宗教になってしまうのでしょうか。さきほど私自身も、キリストの生涯の歴史性が確かでなければ、キリスト教は根底から覆されると指摘したばかりです。
 ここで真理には科学的な真理と霊的な真理があり、どちらも真理であることには変わりがないという私のもう一つの指摘を思い出してください。聖書が指摘するもう一つの真理は、人間の罪と罪の結果の歴史性です。クリスチャンにとってキリストを信じた理由は、考古学的にキリストの歴史性が確かであると分かったからではないと思います。
 私の場合は、前述のように聖書の示す人間の姿は本当であり真理である、という確信から信仰が始まりました。人間の心に関するその他のどんな説明も、不十分であるか間違っている。そして最も重要な人間の心に関して聖書が真理であるなら、聖書のその他のことも真理である。キリストは確かに罪びとを救うために来られた、と思えたのです。
 ひとりの人の罪深い行為によって、周りの多くの人の心を傷つけることがあります。なぜでしょうか。罪は何かもやもやした得体の知れないものではなく、歴史の中に確かに存在しているからです。小石を小さな池に投げ入れると、波紋がやがて池全体に広がるのと同じです。頭の中で想像した架空の小石を池に投げ入れても何も起こりません。目に見えない放射能は、確実に人体に悪影響を与える実態です。そして人間の心に住む罪も、本人と周囲を暗く悲しくさせる大きなエネルギーを持った実体です。1000万円を慈善事業に寄付したとういうような良い行為はたまにあっても、それが広がって誰も彼もが次々と一千万円を寄付するようになったというようなことは聞いたことはありません。しかし、悪い行為は次々と連鎖的に起こるのを毎日のように新聞で知らされています。悪いうわさも、音速とも思える速さで次々と伝えられていくのです。
 悲しみや苦しみも、見えないから存在するかしないか分からないのではなく、確かに私たちの心の中に存在する歴史的な事実であるのです。私たちの心も、愛も、悲しみも、手のひらにのせて他の人に見せるわけにはいかないでしょう。しかし他の人の意地悪な言葉や行為のために、私たちの心は張り裂けそうに痛むことがあるでしょう。だれもがそんな経験を持っていると思います。手のひらに針を刺せば血が流れて誰にでも見えるでしょう。痛んだ魂も同じように深く見えないところで血を流しているのです。それは肉体の目には見えなくても霊的な事実であると言わなければなりません。
 
 悪魔
 理由もなしに偶然そうなるのではありません。理由はすでに考えました。世界の歴史の最初に起こった出来事が世界の状態を説明しているのです。人は神ではなく蛇に聞くようになり、ひとり一人が小さな神になったというあの出来事です。世界は道徳的に中立ではありません。人が善か悪を選ぶのは、コインの表か裏が出るのとはちがいます。ヘビがエバを悪にさそったように、サタンが人の魂を下へ下へと引っ張っているのです。
お母さんは子供が最初に幼稚園に行く日、幼稚園の中にちゃんと入るまで見守っているように、サタンは私たちの心を誘惑して目的の場所に入るまで感心があるのです。目的の場所とは地獄です。縁起でもないと、しかられるかもしれません。
それでは悪魔が目的の場所へ私たちを連れていく方法をご存じでしょうか。「悪魔の最高傑作」といわれる方法です。殺人や不道徳や麻薬ではありませんよ。夫婦げんかや戦争でもありません。それらももちろん悪魔の手段や作品ですが、まだ「最高傑作」ではありません。それでは最高傑作は一体何なのでしょうか。サタンは最高の詐欺師であることがヒントです。正解は「サタンはいない、地獄もない」と思わせることです。
罪からの救いも罪からの救い主も必要がないと人が思うこと、つまり罪の歴史性を否定することです。しかし事実は、富士山や北海道が存在するように、罪もガンとして存在しその影響を罪をおかす本人とその周囲に影響を及ぼし続けているのです。
 
 結論
 話はまだ終わりではありません。幸いにも、約束の救い主も歴史的な存在であると系図が語っています。人の罪が歴史的な現実であるなら、私たちの救い主も歴史的なお方です。現実に手に刺さったクギは、単なる良い教えだけでは抜けません。実際にクギを抜いてキズの手当てをしなければ治りません。心にささった罪のクギも、同様に、良い教えだけでは解決できません。救い主イエス・キリストは、歴史の中で、ゴルゴタとよばれる実際に存在した場所で、人々の罪を負って身代わりとなって罰を受けてくださったのです。神の子のあたったかい血は、歴史の中でゴルゴタの丘に流れました。
 「わがままはいけません」「人を愛しましょう」「ねたんではいけません」といいことを並べられても、それだけでは十分ではありません。歴史の中で確かに存在する私たちの罪は、その罪のために歴史の中で死んでくださったイエス・キリストによってだけゆるされるのです。