マタイ福音書(抜粋)

「平和の順序」
 
マタイ福音書5・9~11
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」
 
 
 ほとんどすべての人が平和を望んでいます。しかし平和とはほど遠い世界の現実を、ほとんどすべての人が知っています。いつも世界のどこかで悲惨な戦争があります。内乱があります。民族間の争いがあります。テロがあります。そして片手で数えられる数の人しかいない家庭でも、たった二人の夫婦も例外ではありません。なぜほとんどすべての人が平和を望んでいるにもかかわらず、大きな争いや小さな争いが絶えることがないのでしょうか。
 
 一般的な答え
 まず一般的な答えがあります。テレビや新聞が扱うのは争いの一般的な原因です。しかし、国家間の問題であれ家族の問題であれ、争いの一般的な原因、すなわち個々の原因は無数にあります。たとえばすべての人が自分が望む生活ができるだけ、世界には富や物や食料がないからです。世界全体で見れば、平等に分配されれば、けんかをしないでも地球上のすべての人が生きていくために十分なものは備わっているはずです。しかしある者が多く取るなら、より少なくなる者が出て来るのも当然です。取る分がほとんど残されていない者も出てきます。1割の人が全世界の富の40パーセント、2割の人が全世界の富の80パーセントを所有していると言われます。国単位で見れば、強い国や豊かな国がもっと富みを増やそうとしてきたのが人類の歴史です。それが戦争の一般的な原因の一つです。
 戦争やテロを非難するのは簡単です。もちろん私たちは戦争やテロを否定するべきです。しかし自分の国が貧しくなるほどの富を貧しい国に分配しなければならなくても、やはり私たちは戦争やテロを否定するでしょうか。「インドを見ないで世界を見たと言うな」という言葉がありますが、20年ほど前にインドを旅行してその言葉は本当だと思いました。しかし周辺の国々、たとえばパキスタンやバングラデシュにとっては、インドはリッチな国と思われているのです。アフリカにはもっと貧しい国もめずらしくはありません。世界の国々のほとんどは貧しい国であるのです。しかし豊かな国は、より豊かになるためにどうしたらよいかを主に考えているのです。
 
 聖書は原則の書
 国と国という大きな単位だけでなく、もっと小さなグループや、さらに小さな家庭や夫婦の中の争いの原因も無数にあり、聖書はそのような争いの、具体的な原因と解決に関してはほとんど何も語っていません。それに答えるなら、「世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(ヨハネ21:25)と言わなければなりません。
 聖書は、この場合はこう、こうなればこう、という「困ったとき」のマニュアル書ではありません。人と人の生き方の原則が書かれた本であり、そのため2000年も前に書かれたにもかかわらず現代人にも意味があり有効であるのです。人間と人間の心は2000年間ほとんど何も変わっていないからです。逆に言えば、聖書はすべての人とすべての状況に対する答えをもっていると言うことができるのです。もちろん平和に関しても、答えがあります。なぜ平和が実現しないのか、どうしたら平和が実現するのかが原則として示されています。
 
 クライマックス
 なぜ平和が実現しないのか。その理由は非常に単純です。つまり最も難しいことであるからです。八つの幸福は、この「平和を実現する人々は幸いである」でクライマックスに達します。映画でも小説でもクライマックスに達するためには準備があります。いきなりクライマックスから始まる映画や小説はありません。
 最初の二つ「心の貧しい人々」「悲しんでいる人々」の後の「幸いな人々」は省略しましたので、キセル乗車のような読み方ですが、ここが「幸いな人々」の頂上です。言い換えれば、到達するのが最もむずかしく最も高いレベルであり、だから世界には争いが絶えないのです。これが大原則です。
 この世の現実を見れば、平和を実現するのはいかに困難な仕事であるかが説明なしで分かります。北朝鮮と韓国の話し合いでは、テーブルを丸にするか四角にするかで激しく対立しました。平和の祭典オリンピックやワールドカップが国際間の対立を作り出します。どうしたら仲直りができるか、どうしたら世界が平和になるかという話題を議題として選んでも、人はけんかをすることができるのです。私が学生の頃、平和を唱える学生同士がゲバ棒をもってなぐり合いをしていました。毛沢東を熱烈に支持した中国の紅衛兵たちの最後は、紅衛兵の派閥間の争い、殴り合い、殺し合いでした。
「平和」「平和」「戦争反対」と叫ぶだけでは平和はおとずれません。気軽に平和を唱える者に、預言者エレミヤはこのように警告を発しています。「彼らは我が民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに『平和、平和』と言う」(6・14、8・11)。
 
 平和を実現する人々
 「平和を愛する人々」ではなく、「平和を実現する人々」が「幸いである」と言われていることに注目しなければなりません。平和を好むのは何とやさしいことでしょう。よほどの喧嘩好きか、戦争によって利益を得る死の商人でなければ世界中のすべての人は、平和を愛し平和を好む人であるのです。しかし現実は私たちの知っている通りです。この食い違いは何でしょうか。どこから来るのでしょうか。すべての人が平和を好み平和を愛しているというのに、世界と私たちの周りには争いが絶えることがありません。
聖書の命令は単純であり明確です。「平和を愛する人々」「平和を好む人々」「平和を唱える人々」ではなく、「平和を実現する人々」が幸いと言われているのです。そして前のグループは非常に多く、後者はあまりにも少ないのです。これが国家間の戦争であれ、身の周りのいざこざであれ、世界に争いが絶えない根本的な理由です。
 平和を愛することは簡単ですが、平和を実現することはやさしくありません。争いはやめましょうと言うだけでは十分ではありません。いや、それはまったく無意味です。争っている人もできれば争いはやめたいと思っているのですから。争いはやめた方がよいことぐらいは言われなくとも分かっているのです。分かっているけどやめられないだけです。それでも争いをやめないのは、どうしてなのでしょうか。別の何かをやめてまで争いをやめたくないからです。争いをやめるために、放棄したくない何かがあるのです。
 
 心の貧しい人々となることから
消極的に言えば、主イエスの言うような方法で争いを解決しようとしないため争いが絶えないのです。では、主イエスの方法とは何であったのでしょうか。「心の貧しい人」から始めることです。平和を実現するためには、平和を唱えることからではなく、自分自身の心の貧しさを見つめることから始めなければなりません。それ以外の方法では、失敗は始めから決まっています。「話し合えば分かる」と言われます。果たしてそうでしょうか。話し合えば話し合うほど話が混乱して、もっと争いが激しくなるかもしれません。平和の出発点は、話し合いではなく、「心の貧しい人」となることです。
 でもなぜそうなのでしょうか。「争いを実現する人々」と言い換えて考えてみてください。人はなぜ争うのでしょうか。なぜけんかするのでしょうか。争っている彼らも平和を好み、平和を愛する人々であるはずです。
 人はどのような時に争いを始めるのでしょうか。自分がバカにされたと思ったとき。議論に負けたとき。損をしたと思ったとき。つまり自分の評価が低められることにがまんがならないのです。そして相手をもっと低めてやろうとして争いが始まるでしょう。「心の貧しい人」とは、自分に関してすでに最低の評価を決めている人です。そのような人は、他の人からの悪い評価には敏感に反応しないはずです。争いが始まらないためには、どうしても「心貧しい」ことから始めなければならいのです。
アメリカの歌手、男優であるサミー・デービス・ジュニアは、「おれのように、チビで鼻曲がりでユダヤ人と黒人の混血は、これ以下ということがない。だからおれの人生はいつだって上り坂だ」と言ったそうです。
 
特別ではない
聖書にはテロのことが書かれていませんが、時代の違いのため扱っていないのではありません。聖書は戦争やテロを特殊で例外的な悪としては考えていないからです。規模の大きさ被害の悲惨さに関しては確かに特別であっても、他のすべての争いと本質は同じでありその罪の表現の一つにすぎないのです。国同士の争いである戦争にまで発展することは特別のことであり、ほとんどの場合はその手前でとどまっている状態です。そしてあるテロ行為は、その境目ぐらいにある大変危険な状態であるかも知れません。その表現はあまりにも残酷で、その結果はあまりにも悲惨であることは言うまでもありませんが、根本にある原因は決して特殊なものではありません。戦争とはその原因が極限の表現をとったものにすぎません。
 目に見えないウィルスは、多くの場合は何も影響を及ぼすことはないでしょう。しかしある場合は風邪で寝込んだり、時には人の命にかかわるような原因になることを私たちはよく知っています。あなたがだれかと仲良くできないとしたら、その理由は戦争やテロの原因とそれほど違わないのです。同じ罪は小さな結果も大きな結果も引き起こすことができるからです。
 ただ戦争やテロに反対するだけでは十分でありません。私たちの心の中にある戦争とテロに反対することから始めなければならないからです。家庭の中で一番近くにいる人を憎んでいるなら、あなたには戦争やテロに反対する資格はありません。でも言われるかもしれませんね。「あの人は特別です」「私の場合は特別です」と。そしてテロリストたちもそう思っているはずです。
 
 驚くべきこと
私たちが第一に驚くべきことは、どうしてテロや戦争が起きるのかということではありません。それは確かに驚くべきことであり、悲しむべきことであることは言うまでもありません。被害者に同情をし、犯罪者に怒りを感じるのも当然です。クリスチャンは同情を感じ、悲しむことにおいてだれよりも敏感でなければならないと思います。このメッセージは、罪のゆえにそんなことは当然起こるのだ、という無感覚で冷たい態度を勧めているのではありません。
クリスチャンが第一に驚くべきことは、もっと他にあるのです。それは正義の神が、ただちに人類を滅ぼすことがなく、罪の世界をなおも忍耐して、人が悔い改めるのを待っておられることです。神の愛と忍耐に驚くことを抜きにして、ただテレビや新聞のニュースを驚くべきではありません。そのような驚きには、自分もテロリストたちと同じ性質の罪を持っていることに気がつかない、無邪気で危険な怒りが混じっているのです。
あなたは復讐を一度も考えたことがありませんか。あなたは復讐を実行したかもしれません。自殺さえ復讐の手段になりえます。それは自爆テロになりうるのです。おそらくあなたは、復讐を実行に移すことはなかったでしょう。でもその理由は何であったのでしょう。相手の罪をゆるしてあげたからでしょうか。それならば良いのですが、そうでないかも知れません。
 
 テロ
テロは英語の、テラー(恐れ)からきた言葉です。私たちは誰かから被害を与えられると、相手に被害を与えることをただちに考えるようになります。一言で「復讐」です。そして他の人も自分と同じように考えると思っているのです。それゆえに人間関係にはいつも恐れがつきまといます。強い人は力によって弱い人を恐れさせて支配をし、弱い人は謝ってばかりいることによって被害を避けようとします。しかし弱い人は心からそうしているわけではありません。それゆえ機会をとらえて、弱い人が強い態度をとり強い者に対抗しようとするでしょう。
 そしてテロも同じ図式です。弱い立場にある者が、強い立場にある国家権力に暴力をもって立ち向かおうとするのです。テロはいつでも弱い方から、強い方へという方向をもっています。恐れが、強い者と弱い者の両方を支配しているのです。あんな卑怯な方法でしか行動できないテロリストを、世界最強の国アメリカも恐れているのです。恐れが取り除かれなければ、テロは絶対になくなりません。
 恐れを取り除くのは、力や武力ではありません。恐れが別の恐れに取って代わらなければなりません。それは神への恐れ(畏れ)です。神の裁きを恐れない人は、神は自分以外のだれかを裁くだろうと考えています。そして「悪いのはあいつ」だと互いに思っているのです。家庭内の争いも、国家間の争いも同じです。
「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」(1ヨハネ4:18)。「完全な愛」を持っているものは誰ひとりありません。キリストの愛だけが完全な愛です。しかしキリストの十字架の愛に触れた者は、自分に危害を与える者をも愛し始めるでしょう。恐れる人間関係を断ち切るのは、十字架の完全な愛だけです。神の愛を知ることによって、自分自身の心の内にあるテロリストを締め出すことから始めるべきです。なぜこんなことが起こるのか、とただ批判をするだけの人は、自分の心の中にもテロリストがいることを知らないのです。バケツを蹴とばす、すねて物を言わない、ドアをばたんと閉める、等々、言葉によってではなく、態度や行動によって怒りや不平を表すことは小さなテロです。態度によって相手を恐れさせ、相手の気持ちを小さな暴力によって変えさせようとしているからです。夫婦の中で、家庭の中で、職場で、学校で、教会で、近所付き合いで、そのような態度がないか注意深く自分を調べる必要があります。
悪によって悪に報いることのない人、人間の心の法則ではなく神の法則に従う人。そのような人が一人でも増えることこそが、気が遠くなるほど遠回りでも、本当の平和への第一歩です。