マタイ福音書(抜粋)

「3K」―三つの勘違いー
2016年4月17日礼拝説教
 
マタイ福音書9・9~13
イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて「私に従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしがもとめるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、言って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
 
 
 「マタイ」のところに「私」、「収税所」のところに「主婦」「学生」「サラリーマン」など今の自分の身分を入れ換えて読んでみてください。そうすれば、自分のこととしてもっと興味深く読むことができるでしょう。「イエスはそこをたち、通りがかりに、私が○○に座っているのをみかけて『わたしに従いなさい』と言われた」と言う具合に。「私は立ち上がってイエスに従った」と続くでしょうか。もしそうであるなら、あなたがだれであろうと、今どこに座っていようとも、昔がどうであろうと、新しい人生を今日から始めることができるのです。
 
 徴税人マタイ
 徴税人は金持ちであっても、ユダヤ人からは最も嫌われていた職業の一つです。イエス自身もその程度の良いことであれば「徴税人でも同じことをしているではないか」(マタ5・46)と徴税人を差別するかのように言われたことがあります。彼らが忌み嫌われていた理由は二つ。占領しているローマ帝国の手先となってローマのために税金を徴収する裏切り者であること。そして、税金を定められた額より多く取り、差額を自分のポケットに入れていた不正。
でもそのような徴税人のマタイは、なぜイエスの招きにただちに従ったのでしょうか。軽蔑される職業とはいえ、大きな収入をもたらす職業を捨てて従ったのです。衝動的にと考えることはできません。積極的な理由と消極的な理由があったと思います。
 場面はおそらく、以前に中風の者がいやされる奇跡がなされた町カファルナウム。交通の要所であり繁栄した町であったとはいえ、非常に小さな地域です。そこで何があったのか、誰がやってきたのか、人々の口のインターネットを通じてすぐにうわさは町中に広まってしまいます。
まずは積極的な理由。マタイは山上の説教などイエス様の話を熱心に聞き、心を動かされたのかも知れません。おそらくマタイは、イエス様の弟子になりたいと思いながら、汚れた職業のゆえ自分からイエスに近づきその一行に加わることは無理だと思っていたのでしょう。そのようなとき、通りがかったイエス様から思いがけなくお声がかかったのです。「立ち上がってイエスに従った」のはむしろ当然と言わなければなりません。
消極的な理由は一言で十分でしょう。大きな収入をもたらす職業も、最終的に心を満たしてくれないと悟っていたのです。この二つの理由がそろったに、人はクリスチャンになるのです。
 
 ファリサイ派の人々
 あこがれのイエス様から声がかかった徴税人マタイは、喜びのあまりこのお方を自分の家に招き入れ、大勢の仲間たちも招待して宴会を始めました。ところがこの様子を見ていたファリサイ派の人々は、非難する絶好のチャンスとばかりにイエスの弟子たちに抗議して言いました。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と食事をするのか」と。直接、本人に言わないのも卑怯ですが、彼らはたまたまこの場面に出くわして抗議したのではありません。何か非難する機会はないかと、ハイエナのようにイエスの一行を付け回していたことは、この福音書をもう少し読めば明らかになっていくからです。イエスに投げつける石をいつも捜しながら歩いていたのです。
 マタイの家では盛大な宴会が催されていました。マタイはお金持ちでしたから、豪華な食事がテーブルに並べられていたのでしょう。食事が豪華であったというだけでなく、招かれた客たちも豪華な悪人ばかりでした。徴税人については先程述べましたが、罪人とは社会的、宗教的に問題のある人の総称であると思われます。世の中のカスやごろつきと一緒に、イエスとその弟子たちが食事の席についていたのですから、粗さがしにやっきになっていた者たちには絶好のチャンス。ユダヤ人にとって一緒に食事をするとは、単に同じ食堂で食事をしたというより以上の意味があります。共に食事することは最も親しい関係の印であり、イエスは汚れた異邦人や罪人と深く接触したと敵には映ったのです。彼らの三つの勘違いを考えます。   
 
 勘違いその1
 汚れた人との接触を拒否することが、自らを清く保つ方法であるというのがファリサイ派の人々の勘違いその1です。罪深い者を拒否することによって、自分が清くなろうとする錯覚です。なぜ人は好んで他の人を批判するのでしょうか。ここに理由の一つがあります。そうすることによって自分が正しく感じられてくるのです。一方が下がればもう一方が上がるのは公園のシーソーですが、他の人を批判したり拒否しても、その人の価値が高まるわけではありません。他の人を好んで非難する人は、自分の内に良いものを持っているという自信が無いためそうするのです。他の人を下げるしか自分が上る方法はないと思っているのです。
人に付いているものを受け入れることと、その人自身を受け入れることは区別されなければなりません。少し言い換えれば、人を受け入れることは、その人のしている悪を受け入れることではありません。子供がしたいと思っていることを親が否定しても、親はその子供を否定しているわけではないでしょう。ほしいと思っているものを与えないことは、親が子供を愛してない証拠ではありません。包丁をほしがる赤ちゃんに、お母さんは望み通りのものを与えるでしょうか。親は子供たちにこのことを理解させておかないと、子供たちには大変な将来が約束されたようなものです。イエスが徴税人や罪人と共に食事をしたとしても、彼らの罪をも受けいれ汚れてしまったというわけではありません。イエスはならず者たちの罪ではなく、その人たち自身の人格を受入れてくださったのです。同じことを言い換えれば、悪人との接触を避けているだけでは、自分をきよく正しく保つことにはならないのです。  
 
勘違いその2
ファリサイ派の人々の勘違いが、どんなにはなだしいものであったのかが明確に示されます。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」人は普通こんなひどい勘違いをすることはありません。もっと元気になってから病院に行こうと言う人はありません。有名な落語をご存じでしょうか。お年寄りの多い病院では、病院の待合室がお年寄りたちの社交場のようになっていました。いつも来ているお年寄りが来ていなかったので、一人が言いました。「どこか具合が悪いんじゃないか」と。こんな話が落語になるほど、肉体の病気に関しては間違いをすることはありません。
しかし人の魂のことになると、人はとたんに分からなくなるのです。私が最初に牧師として就職した四国の教会で伝道集会をしたときのことです。教会にはじめて出席された方が礼拝後言われました。「私は酒もたばこもやめられませんので、まだクリスチャンにはなれません」と。私たちの教会では、酒やたばこが自動的に罪であるというような理解はありませんが(それらが罪の機会となることはありますが)、問題はそのこと自体ではなく、「教会が必要とするのは健康な人である」というイメージを教会はつくってしまったという失敗です。教会の上に取り付けられている十字架は、ここは完全な人ではなく十字架によって罪をゆるされた人々の集まりですと宣言しているのです。ファリサイ派の人々は、徴税人や罪人と言われる人々が病人であると正しい診断しておきながら、そのような人々を医者から引き離せという互いに矛盾した判断をしたのです。
 
 勘違いその3
 彼らは宗教に関しても重大な勘違いをしていました。そして彼らに導かれる一般的なユダヤ人たちも同じ宗教理解をもっていたのは当然です。それゆえイエスは言われました。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、行って学びなさい。」これは、ファリサイ派の人々も良く知っているはずの旧約聖書ホセア書6章6節からの引用です。神は犠牲や儀式そのものではなく、犠牲や儀式があらわしている意味を私たちが理解することを求めておられると告げているのです。とくに「意味」という小さな言葉が重要です。たとえ几帳面に儀式をおこなったとしても、その意味を理解しなければそれこそ何の意味もありません。それどころか意味を理解しない宗教的な行為は、宗教の目的とはむしろ反対の方へと人々を向かわせるのが普通です。熱心に犠牲をささげるのは、自分の名誉を高めるためであり、その結果熱心でない人々を軽蔑するようになるのです。宗教を信じることによって、私たちが高慢になったり無慈悲になるのではなく、他の人々に憐れみ深くなることを神は求めておられるのです。
 
 結論
これまで考えてきたことは、この箇所の最後の言葉に要約されます。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」マタイの家では罪人たちの宴会が続いていました。彼らは罪深い生活をやめて、新しい生活へと招かれていたのです。マタイは仲間と喜びを分かち合いたかったのでしょう。主イエスとともに新しい生活を始めるようにと、仲間たちにも熱心にすすめたにちがいありません。宴会は古い生活からの卒業式であり、新しい生活への入学式であり、仲間とのお別れのパーティーであり、また伝道集会でもあったのです。外からはどのように見えたにせよ、ステンドグラスが外から見るのと内から見るのとが全くちがっているように、マタイの家の中はすばらしいものばかりで満たされていました。
罪人と交わるイエスは汚れるどころか、よりいっそう輝いていました。光の一部が馬糞の上に落ちたからといって太陽が少しでも汚れるのでしょうか。太陽の熱と光は、とてつもない距離のところにある物質や生物を温め、汚れたものを殺菌する莫大な能力をもっているのです。それ自体の中に莫大なエネルギーを秘めているからです。律法学者やファリサイ派の人々は、自分自身のうちには何ももっていなかったため、他の人から奪うことばかりを考えるようになったのは当然です。宗教的な熱心も他の人からの名誉を得るためのものでしかありませんでした。彼らはそのように何も持っていない自分自身を認めることも受け入れていませんでした。そして私たちは、自分を扱うように他人を扱うので、他の人も受け入れることはできなのです。
ファリサイ派の人々は徴税人や罪人からは何も得るものはないと判断をしていました。むしろそのような人々と一緒にいるだけで自分の評判を失ってしまう、としか考えることがでなかったのです。ファリサイ派の人々は他に人に与える何も持っていなかったからです。キリストは他の人に与えるものをいっぱい持っていました。それゆえ誰をも拒否せず、誰をも受け入れることができたのです。それゆえマタイの家の食卓に座りました。豪華な料理を準備したのはマタイであったかもしれませんが、人々の魂を養う真の食事を提供しておられたのは主イエスの方でした。主イエスは食事に招かれたその家で、ゲストとしてではなくいつでもホストとしてふるまう不思議なお方です。招かれているのに、招いてくださるのです。どんなに多くの食事を私たちが準備しても、はるかに豊かな霊の食事をキリストは準備してくださるからです。キリストは私たちの罪のために十字架で死んでくださり、罪のゆるしと新しい命を豊かに備えてくださるのです。