マタイ福音書(抜粋)

「あなたの救い主はだれ?」
 
マタイ福音書11・1~6
ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」
 
 
「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」あなたも私も、人類はみなこの質問をしてきました。そして今も無意識のうちに、同じ質問を問い続けているのです。
「お金さま。来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」「美しくなること。あなたですか。」「東大に入学すること。あなたですか。」「結婚」「レジャー」「ブランドのバッグ」「あなたですか、私を幸福にしてくれる救い主は。それとも他の方を待たなければなりませんか」と。
 
 あなたですか
 バプテスマのヨハネも同じであったのでしょうか。ヨハネは牢の中から自分の弟子たちを呼び寄せ、彼らにこの質問を托してうわさのイエスのもとにつかわしました。ヨハネは「あなたがイスラエルの救い主ですか。それともまだ他の人を待つべきですか」と聞きたかったのです。マタイ福音書の14章によれば、ヨハネは領主ヘロデの妻との結婚が不正であると非難したため牢に捕らえられ、ヘロデの誕生日に首がはねられたことが分かります。オスカー・ワイルドの「サロメ」はこれを元にした小説であり、リヒャルト・シュトラウスのオペラ「サロメ」も人気のある演目です。
ヨハネの心にあった救い主の候補は、他の何者でもない、ヨハネ自身がヨルダン川で洗礼をさずけたあのイエスというお方だけです。もちろんヘロデ王にヨハネが逮捕される前のことです。ヨハネから洗礼を受けるために順番を待っていたイエスを見てヨハネは、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、、、」と言って洗礼を授けることを拒みました。もったいない、と思ったのです。ヨハネはそれほどまでにイエスを高く評価していました。そして今、最後の確認をするため、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」という質問を持たせて牢屋の中から弟子たちをイエスのもとに派遣したのです。
 
 ヨハネの限界
しかし、あれほどまでにイエスを評価していたヨハネが、なぜいまさらこんな質問をしたのだろうという疑問をめぐって様々な議論がなされてきました。答えを得るための鍵はまずこの箇所の中に捜すべきであり、三つのヒントが示されていると思います。
第一は「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」というイエスの答えです。ヨハネは牢に捕らえられ、イエスのその後の働きについては十分な情報を得ていなかったのです。
  もう一つのヒントは7節から13節に記されている、救いの歴史の中でのヨハネの位置です。詳しい説明は省略しますが、一言で言えばヨハネの限界です。ヨハネは旧約最大の人物であり旧約最後の預言者である一方で、「しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」のです。信仰が不足していたためではなく、二重の意味で情報が不足していたため、ヨハネは最終的な結論に至ることができなかったのでしょう。といってもこのお方が救い主であるのかどうかまったく検討がつかないというのではありません。ヨハネは旧約最後で最大の人物であるというのですから、旧約の預言者たちよりも救い主を明確に見ていたはずです。片方の足は旧約に、そしてもう片方は新約に。 ヨハネは旧約よりはるかに明るい光である新約の入り口まで来ていたのです。ヨハネの問いは不確かさの印ではなく、確信の入り口に立って 「来るべき方は、あなたでしょうか」と確認を求めていたのです。
 
 見聞きしていること
 イエスはこの問いに答えて言いました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」と。
 キリスト教はどんな宗教よりも教義を重んじる宗教であることは間違いありません。しかし、それは教義のための教義ではなく、キリスト教は何かがおこる実際的な宗教でもあるのです。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」(ローマ1・16)。
 それまでここに記されているようなことが起こった試しはありません。それはイエスというお方が救い主であり来るべき方であることを明らかに告げていたのです。今日も同じように肉体の奇跡が起こるわけではありません。しかしもっとすばらしい奇跡が起こることを期待してよいのです。
 
 目の見えない人は見え
  旧約聖書ではいつもメシアとの関連で奇跡が語られ、目を開けることは救い主の独特の働きであるのです。目が見えなければ、目の前でどんなに素晴らしい光景があってもそれに気付くことができません。そして肉体の目が開いていても、心の目が閉じていれば同様です。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い」(5・22)。
 心の目が閉じてしまう最も一般的な原因は「富」「お金」「名誉」「地位」など、あるいはそれを持っていないか十分に持っていないことです。「あなたがたは地上に富を積んではならない」(6・19)。しかし誤解してはなりません。お金を軽視するようにとキリストが言われたのではありません。「小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」(ルカ16・10)と言われたのもキリストであり、この場合の「小さな事」は「お金」を示していることは文脈から明らかです。私たちは金銭にも忠実でなければなりません。「小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」のですから。しかし金銭を愛し、富を救い主と思ってそれに仕えてはならないのです(6・24)。金銭を愛することはすべての悪の始まりです。人はお金がないから不幸になるのではなく、お金を愛するから幸福になれないのです。新聞の事件のほとんどは金銭がからんでいます。政治家が捕まるのもほとんどがそうではありませんか。そんな大事件にならなくても、金銭への愛はあなたを大なり小なり不幸にしているはずです。もっとすばらしいものに対して心の目を閉ざしてしまいまうからです。そしてとくに真のメシアが見えなくなってしまうのです。
 目が見えるようになった人は、世界がこれまでとはまったく違って見えることでしょう。でも世界が変わったのではなく、見る人が変わっただけです。私たちは世界が自分の希望するように変わることを期待しています。でも心の目が開かれるときだけ、世界はすばらしく変わるのです。救い主に目を開けてもらうまで、世界と神と自分という三つのものが見えていませんでした。
 心の目が開かれると、世界は神の創造されたすばらしいところであることが見えます。 大自然には神のブランドが刻まれているのですから。そして婦人たちがブランドのバッグを誇りに思うように、花にも動物にも自然にも、そして自分自身にも世界最高のブランドを見る者は、他の人をうらやましいと思うことをやめるでしょう。美しい夕焼けや花は私たちの心に感動を、そして動物たちは何と大きな慰めを私たちに与えてくれることでしょうか。環境破壊が大きな罪であることは、神がこの世界を美しく創造されたからであるのです。
 
 足の不自由な人
救い主にお会いするまでは、自分と自分を愛してくれる者にだけ仕えようとしていました。しかし救い主によって自我から解放された私たちの足は、私たちの敵の荷物をも運ぼうとするようになるでしょう。神の働きのために遠い道のりを行くことを厭いません。このようにして足の不自由な人が歩いたのです。
 
重い皮膚病を患っている人
重い皮膚病は単に肉体の皮膚の状態のことではなく、この病気を患う者は宗教的にも汚れているとみなされ、神殿や会堂での礼拝から締め出されていました。罪のゆえに神の前に出られない人間の状態を表していたのです。従来の聖書が「らい」(ハンセン病)と翻訳していたこの病気が、人間の罪の恐ろしさを目で分かるように表していたからです。(この病気がとくに汚れているからではありません)
それゆえに「重い皮膚病を患う人は清くなり」と言われるのです。病気が治るとは、単に肉体の病気が治ったというだけにとどまらず、神との関係が回復され神を礼拝することがゆるされ清くされたという意味です。完全に清いお方である神の前に、罪あるままでは出ることがゆるされなかったのです。
罪ある旧約の民が聖なる神の前に出るためには、動物の犠牲をたずさえて出るように命じられていました。動物がイスラエルの民に代わって罪の罰を受け、血を流してくれたのです。もちろん動物の血に人の罪をゆるす魔法の力があったのではありません。動物の血は神の小羊の血を指し示していました。キリストが私たちに代わって身代わりの罰を受け、十字架で血を流してくださいました。そしてこのお方を私の救い主と信じる者の罪はゆるされ救われるのです。救い主が私の代わりに罰を受けてくださり、神はもはや私の罪を見ることはなく、私たちを清い者として受け入れてくださるからです。罪という重い皮膚病が清められたのです。
 
耳の聞こえない人
神の声、人の声に耳が閉じていました。「あの人はなぜ自分のことばかりを話すのか」という長いタイトルの本がありました。カラオケで他の人が歌っている間、他の人は何をしているのか。次に自分は何を歌うかだけを考えているそうです。そうです私たちは自分のことばかりを話すのです。他の人の話すのを聞いている間も、次に自分の話すことを考えているのです。しかしキリストはピラトの前で話すのを止めて口を閉ざしました。自分のために弁解する機会を放棄されました。私たちの罪を背負われたからです。このお方を知るときに、私たちも他の人が話すのを聞き始めるでしょう。そして何よりも、聖書を通して語られる神の声を聞くようになるのです。
 
死者は生きかえり
ラザロを生きかえらせたキリストは、いま全く同じことをなさることはありません。しかし救い主によって霊的な死者はいまも生きかえっているのです。目が見えず、足が不自由で、耳も聞こえなかった霊的な死人に霊的な命がいまも与えられるのです。「死んだ者が生きかえることがあるはずはない」と言われるでしょうか。そうです、普通はそんなことは絶対に起こりません。でも霊的な死者が生き返ることは、同じぐらいいやもっと困難なことであるのです。
死者とは他の人のために動くことができない心を持った人です。自分にとって損か得かという基準でしか動けない人です。死者が生き返るとは、心がその反対になることです。自分の得のためにしか歩かない不自由な足ではなく、他の人にとって得になるならば動く自由な足を持った人になることです。言うまでもなく、キリストがその最良の模範です。私たちを罪の支配から解放するために、キリストご自身にとっては最も損な十字架を自分の意思で選ばれたからです。
キリストを信じたクリスチャンは、すぐにキリストのようなきよらかな心が与えられるというのではありません。命には小さな命と大きな命、強い命と弱い命があるでしょう。しかし小さな弱い命は死ではありません。どんなに弱くても、生きていることは死とは全くちがう状態であるのです。ですからキリストのように生きようという思いが少しでもあるなら、たとえ小さく弱くてもそれはもう命であるのです。
 
貧しい人に福音を
目の見えない人、耳の聞こえない人、重い皮膚病を患う人、彼らは当然貧しい人々であったはずです。社会にとって役に立たず、社会の荷物と考えられていました。ヒットラーはあのユダヤ人の大虐殺のまえに、自国民の障害者をガス室で殺していたことが明らかになってきています。しかし私たちの救い主は、小さな者、貧しい者、さげすまれている者に目を留め、彼らにいやしの奇跡を行ない、彼らに福音を語られました。価値観の完全な逆転です。
 
つまずかない人は
薄暗い光である旧約は、真昼の明るい新約に場所をゆずらなければなりません。ヨハネはイエスの前に消えていかなければなりません。ヨハネの偉大さは、自分が場所をゆずることに喜びを感じ「私の後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」(3・11)と告白することができたことです。
しかしイスラエルはそうではありませんでした。彼らの多くは、神が与えたメシアであるイエスにつまずきました。イスラエルには自分たちが心に抱き続けたメシア像があり、来るべき方は自分たちのメシア像とは重ならなかったからです。ヨハネにも自分のメシア像があったでしょう。しかしヨハネはそれに固執することはありませんでした。
「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」ヨハネはその答えが何であろうと、その方の答えを受け入れる準備がありました。疑いを持っている人に対して「あなたは信用できますか。それとも信用できませんか」と問うことが果たしてあるのでしょうか。この質問自体が第三番目のヒントです。イエスの答えに対して、ヨハネとヨハネの弟子たちが、どのように応答したのかは明確には記されていません。それは私たちにも「あなたはどのように応答するのか」と問いかけているからです。