マタイ福音書(抜粋)

「くびきと休息」
 
マタイ福音書11:25~30
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
 
 
自分の気持ちにぴったりと合った音楽は、人の心を慰めます。若者の歌の多くは内容も音も明るいのですが、60歳以上が主な対象と考えられる演歌は、音も内容も暗いのはどうしてでしょうか。人生には明るいことよりも暗いことが多く、人生を重ねていくに従って暗くなっていくからでしょうか。今の若者も30年後には暗い音楽がぴったりしているのかもしれません。私は若者の音楽も演歌も聞きませんが、どちらかというと暗い音楽の方に名曲が多いと思います。
人生はやはり悲しみや苦労に満ちているのです。痛みも悲しみも苦しみも経験したことがない作曲家の音楽など、聞く気がしないのです。明るい音楽か暗い音楽かは好みであり、人生に苦しみが多いか少ないかは個人差があり仕方がありません。重要なのはどのように私たちが様々な困難に対処していくかであり、それがその人の人生を決定していくのだと思います。多くの悲しみや苦しみを経験した人の方が、少ししか経験しない人より不幸であるとは限りません。そしてその反対も真理です。苦労が多いか少ないかは、あまり信仰的でない言い方を許していただくなら、当たりはずれが大きいのです。しかしその人が幸福であるか不幸であるかには、当たりはずれはありません。私たちが苦労や悲しみをどこに持っていくかにかかっているのであり私たちはそれを選択できるのですから。
 聖書は、この場合はこうします、この場合はこうしますといちいち教えてくれる「パソコン教室」や、「冠婚葬祭入門」のような人生のマニュアル書ではありません。聖書は人生の原則を示し、その原則を私たちはすべての場合に適用できるのです。苦しいときにはどうしたらよいのでしょうか。キリストは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と招いておられるではありませんか。
 
 プライドという罪
 私たちを疲れさせ苦しめる真犯人は、実は私たち自身のうちにある罪です。この箇所はまだ、悔い改めない町に対する警告という文脈の中にあります。コラジン、ベトサイダ、カファルナウムといったイスラエルの町はキリストが神の子であることが示されたにもかかわらず、罪を悔い改めて神に立ち返ることがありませんでした。罪を悔い改めるにはあまりにもプライドが高すぎたのです。律法学者やファリサイ派の人々は自分たちの知恵に信頼するというプライドのゆえに悔い改めることができませんでした。しかしすべてのイスラエルが彼らのようにキリストを拒否したのではありません。幼子が母親に頼るように、神の前に罪を告白し、悔い改めて救われ、心に休みを得た者も少なくなかったのです。
 罪の意識は眠りを妨げる原因の一つです。罪を他の人のせいにして自分自身をうまくだますことができても、自分の良心までだますことはできません。しかも「良心さんは大声の持ち主だ」と言われているのです。酒や娯楽によって罪を忘れていても、良心は他のどんな声よりも大声で私たちを訴え続けるのです。
 疲れることは人間にとって必要なことです。肉体の健康を守るために疲労を感じるようにつくられているのです。もし疲れなければ、体の限界を越えて仕事や娯楽を続けてついにはダウンしてしまいます。罪の訴えによる魂の疲労も神からのシグナルです。限界を越えて良心の声を押さえつけるなら、取り返しがつかないことにもなりかねません。
 
 もう一つの誤った場所
 第一の休息は、キリストのもとに来ることによって与えられます。キリストが私たちの罪を全部背負って十字架で死んでくださったからです。海辺の砂の上に書いた文字は波に洗われ読めなくなります。そのように神は、キリストのもとに来る者の罪をきれいに忘れてくださるのです。
 全国のどの病院のどの先生が良いかを紹介している本があります。この病気にはこの病院のこの先生の所に「行きなさい」などと書いてあるのです。魂の名医(残念ながらその本には出ていません)であるキリストは、「ここへ行きなさい」ではなく「わたしのもとに来なさい」と招いておられます。前回はここまでお話したのですが、次のテーマである「第二の休息」に進む前に、重荷を下ろすための誤った場所を指摘しておかなければなりません。あまりにも多くの人が、ある誤った場所に重荷をおろそうとして、かえって荷物を重くしもっと疲れているからです。不幸を他の人のせいにすること。あるいは何かのせいにすること。多くの人が罪の荷を下ろそうとする共通の誤った場所です。
 そしてもう一つの誤った場所とは、自己憐憫と言われています。「かわいそうな私」と言って、自分で自分を哀れむ気持ちです。これこそが年配の人の気持ちをつかむ歌謡曲の最大のテーマです。自己憐憫は何も生み出しません。表現は寂しくおだやかで攻撃的では無いかも知れませんが、根底に流れるのは先に述べた二つと同じ精神です。他の人をよく非難する攻撃的な人は、なぜそうするのでしょうか。相手をやっつけるのが第一の目的ではないと思います。本当は、一生懸命自分を守り、自分を正当化しようとしているのです。そして自己憐憫も同様に、自分を守り自分を正当化しようとするもう一つの誤った方法であり、実はおだやかな表現で誰かを攻撃しているのです。「私は正しいのに誰も理解してくれない」、「せっかくやってあげたのに分かってくれない」「私は愛しているのに、あの人は愛してくれない」などと言って。
自己憐憫は悔い改めとは正反対の方角に向かう運動であり、良い実をつけることは絶対にありません。最も悪いことに私たちを救い主から離してしまうでしょう。律法学者やイスラエルの民衆が、神の前に罪を告白し、罪を悔い改めるのを妨害したのはプライドです。そして「私を理解しないやつが悪い」と暗に誰かを非難する自己憐憫も、自分の罪を認めようとしないプライドの別の表現にすぎません。そして悔い改めの機会を人生から奪い、救い主のもとに行くことを妨げるという結果も同じです。
 
 くびきを負う
 第一の休息は、「来なさい」という動詞に関係していました。第二の休息は「くびきを負いなさい」という命令にともなうものです。でも休息とは反対の方角を示されたように思えるかも知れません。「くびき」は2頭の牛が畑を耕すとき、2頭の牛の首に平均に力がかかるようにするための農具です。普通は上と下から2枚の板がはさまれ、2頭の動物の首が板の穴から出るようなかっこうになります。人間の奴隷にもくびきが用いられることもありました。確かにもっと疲労するように感じるかも知れません。大切なのは「わたしの」という小さな言葉です。「くびき」は「くびき」でも、牛や奴隷を限界まで働かせるくびきではなく、キリストと共に働き、キリストと共に歩むためのくびきであるのです。
 キリストのもとに来て罪の荷物を下ろせば、後はすべてがめでたしめでたしなのではありません。そのように考えてすぐに躓いてしまうクリスチャンが多いのは残念なことです。ジョン・バンヤンの「天路歴程」は、クリスチャンの天国までの路を描いた有名な作品です。十字架のもとに来て、背中の大きな荷物を下ろした後も、実に様々な困難が待ち受けていたのです。私たちはキリストのもとに来た後、そこで一生休息するのではありません。「くびきを負いなさい」「学びなさい」と記されているように、その後も労働と勉強が続くのです。
 
 休息と労働
 休まないで勉強や仕事を続けると効率がだんだん悪くなります。のこぎりを使いつづけると歯が鈍くなって、余計な力が必要になり、仕事の効率も悪くなります。のこぎりは適当に目立てをしながら使う方がはるかに効率が良いのです。長持ちもするでしょう。肉体と魂の休息は人間にとって不可欠です。リフレッシュやリクレーションの「リ」は、「再び」を表す接頭語です。遊びや休息は、再びフレッシュになり、再び創造する(クリエーション)ためにあるのです。
 この関係を罪は逆転してしまいました。ある者は休むことなく働き続け(させられ)、ある者は休むために働くようになりました。レジャーのために働き、よりよい生活をするために働くというのです。しかし休息の最終的な目的は労働である、とキリストの言葉は示しているように思えます。単なる時間的な順序をいうより、労働の中にこそ真の休息があるのです。言い換えれば、労働がない時、休息もあり得ません。何もしないでぶらぶらしていなければならないとしたら、その方が人は苦痛であるのです。
 
 労働の目的
 労働自体が苦痛なのではなく、労働が報われなかったり、労働の意味や目的が分からないときに苦しむのです。会社や工場で働くことだけが労働ではありません。主婦は家庭で労働します。お年寄りは主な働きは過去に終えたかもしれません。しかし今もふさわしい働きがあります。「年寄りの役割は、感謝をすることです」というある老婦人の言葉は本当にすばらしいと思います。学生は将来よい働きができるようにと、今は準備の学びをしています。労働であれ学習であれ、目的が分からないときそれを重荷と感じ、そこから解放されたいと願うでしょう。有名大学に入るという目標は苦しい勉強を支え、マイホーム建設は残業を励ますでしょう。しかしそれは最終的な目標ではありませんので、目標を達成した後、学生は遊び始め、定年を終えた働き者のお父さんは生きている意味が分からなくなってしまいます。
 
 柔和と謙遜
 私たちの最終的な目的は、「柔和」と「謙遜」を学ぶことです。「わたしは柔和で謙遜な者だから、、、わたしに学びなさい」は、「わたしから柔和と謙遜を学びなさい」とも翻訳が可能です。柔和で謙遜なキリストは、私たちを人生の最終目的地である柔和と謙遜へと導いて下さるのであり、キリストは過程でもあり目的でもあるのです。
 上に立って他の人を指導する者は、ともすれば高慢になりがちです。高い立場に立ったとき、人の魂の本当の状態が明らかになるものです。それ以上の地位がない大統領のリンカーンは、間違いをしたとき部下に対してもよく謝っていたと言われます。キリストはさらに高い場所である天から地に下り、人間として最も低くいやしい奴隷の姿で死なれました。頑固な私たちの代わりに神に謝ってくださったのです。 
 
 結論
 くびきは自分勝手に歩き回りたいと思う者にはじゃまですが、柔和で謙遜なお方と共に人生を歩もうとする者にとっては助けです。キリストは「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われました。束縛がなくなるのではありません。荷がなくなるのではありません。しかしキリストと共に歩むなら、その荷は負いやすく、軽いのです。
 アフリカの奥地に行って伝道することが、キリストと共にくびきを共にすることではありません(あるいはそのようなくびきを負う者があるでしょう)。くびきは遠くに探すべきではなく、むしろいつもの生活といつもの人々の中に探すべきです。自分に与えられた場所と、自分の周りの人を受け入れることがあなたの負うべきくびであるのです。そこから逃れようとしていたかも知れません。
私の夫はなぜこうなのですか。私の妻、私の子供、私の仕事、私の職場の仲間や上司、はなぜ。これが私たちから休息を奪っていた主な原因であったなら、そのような態度をまず悔い改めましょう。自分自身と他の人をまずありのままで受け入れましょう。そしてそれらの人々とともに、そして今度はキリストと共に歩みましょう。それでも苦労は今まで通りにあるでしょう。悲しみも涙も今まで通りにあるでしょう。人間とは「人の間」と書くように、人間関係の中でしか生きられない動物です。しかしキリストと共にあるなら、困難や苦しみの中にも平安と休息を感じることができるのです。いやむしろ試練の中でこそ真の安らぎを経験することができるのです。「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と約束されているからです。
 「悔い」と「悔い改め」は姿がよく似ていますが、中身には大きな違いがあります。「悔い」は自己憐憫の工場で大量生産される役に立たない不良品です。自分も他の人も結局は助けることができません。しかし「悔い改め」は、平安と神への幼子のような信頼をもたらす全く新しい力です。この力によってさらに大きな苦労や困難の中に飛び込み、さらに大きな力を生み出すプラス方向に向かう力となるのです 。自己憐憫が困難に背を向け、自分の中へと向かわせるマイナスの力であるのと何と大きな違いなのでしょうか。