マタイ福音書(抜粋)

「傷ついた心をいやす」
 
マタイ福音書12:14~24
ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群集が従った。イエスはみなの病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「見よ。わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。」、、、(中略)。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によって、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。
 
 
 クリスチャンにとって聖書を読んだり聖書の話を聞く目的の一つは、救い主イエス・キリストと私たちとの違いを知ることです。この聖書の個所に、人とキリストとの違いがどれだけ多く示されているかを見つけてください。クリスチャンになるとは、キリストの心と自分の心の違いが見えるようになるだけでなく、私もそのようになりたいと思うようになることです。
その人の本当の姿は、何もない普通のときよりも、悲しいときや怒っているときにはっきり見えるものです。良いことをしたのに誤解された。良かれと思ってしたのに逆にしかられた。そのような経験をだれでも大なり小なりもっているものです。そのときあなたはどのように感じ、どのようにふるまうでしょうか。キリストは片手の萎えた人をいやしました。この良い働きに対する人々の主な応答は、14節に記されていました。「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」と。病人をいやし目の見えない者の目を明けるという親切な行動は、「どのようにしてイエスを殺そうか」と言う言葉と、「悪魔の親分だからこんなことができるのだ」という言葉に挟まれています。最善の働きに対する最悪の応答です。たとえばこんなときに、私たちの多くは傷ついてしまいます。
 
99%
キリストはその場所を去りました。敵に恐れをなして逃げたのではありません。「1つの町で迫害されたときは、他の町に逃げていきなさい」(10・23)と弟子たちに命じられた「伝道マニュアル」に、自らも従われたのです。他の可能性がまだ開かれているのに、いたずらにそこにとどまって命を失うのは、殉教主義であり殉教という自分の宗教的な名誉を考えているにすぎません。
助けを必要とする者がまだ大勢いました。彼らはイエスに従ってついてきました。次の町にも病人が待ち構えていました。そして「イエスは皆の病気をいやされた」と記されています。「皆」「すべて」は安心を与える言葉です。元のギリシャは「パン」、「パンテオン」(すべての神々をまつる神殿)「パンアメリカン」(日本版は全日空)、「パノラマ」(全貌)などもこの言葉から来ています。「99パーセントは「皆」ではなく、1パーセントの人はもれる可能性があります。百人に一人の病気と言われても、その病気に絶対ならないという保証ではありません。千人や1万人に一人と言われても同じです。そのような病気も千も1万もあるのですから。
体の病気だけでなく、心の病気も同じです。心の病気と言っても、うつ病などの精神の病いのことではなく、今日考えようとしているのは傷ついた心のことです。おそらくだれでも、1度や2度、いや10回も20回は、傷ついた経験があるのではないでしょうか。人間の中で生きていくにあたって、傷つくことはほとんど避けられないように思われます。
 
「皆」
しかし「皆」はもれが一つもないという意味です。あった方が良いこと、あっても良いこと、あってもなくても良いことなら、1パーセントに入ってもれてもあきらめるても仕方がないかもしれません。しかし、どうしてもなくてはならないことは、もれる可能性が1パーセントでもあるなら不安の材料になります。
世の中は不公平に見えます。いや確かに不公平です。99パーセントのことに関してはそうです。でも「皆」というこの小さな言葉は、最も重要なことに関しては公平であると教えているように思えます。1パーセントの無くてはならないものに目をつけるかどうかが私たちの人生観であり、それによって私たちの人生が決まると言っても言い過ぎではありません。
そのとき、いやされなかった者もあったでしょう。しかし彼らはもれたのではありません。望む者は「皆」いやされたのです。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、値を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」(イザヤ55・1)。「穀物」「ぶどう酒」「乳」。当時の人々にとってなくてはならないものばかりです。とくに水はすべての時代のすべての人にとって、金よりも尊いどうしても必要なものの象徴です。預言者イザヤは、最終的にはキリストのうちにある命のことを語っていたのだと思います。そしてそれは「値を払うこと」なしに手に入れることのできる「ただ」。つまり求める者には「皆」公平に与えられるのです。
 
名誉
キリストは病気がいやされた人々に不思議なことを命じられました。このできごとを誰にも言いふらさないように、と。私たちは自分のした華々しい行為や立派な行為を、他の人にできるだけ知ってもらいたいと思うものです。キリストはなぜ逆を命じたのでしょうか。消極的に言えば、自分の名誉にこだわらなかったからです。積極的に言えば、職務を完成するためです。
キリストはもはや、かくれて働きをすることができない有名人になっていました。反対者がおおかみのように命をねらいはじめました。しかしそれ以上彼らの怒りとねたみをあおることは避けなければなりません。やがて彼らの手で捕らえられ十字架につけられる時が来るのですが、しかしまだなさねばならない働きはこの時点では多く残されていたのです。
 
光と陰
オランダの画家、レンブラントは、「光と陰の魔術師」と言われます。イザヤが「見よ」と言って注目を命じる救い主も、「光と陰」の手法で描かれています。ここではとくに「陰」がきわだっています。陰の部分があってはじめて光の部分がきわだってくるのです。「僕」(しもべ)という言葉は「陰」の部分であり、救い主の低さが表れています。「僕」は人と人との関係を表す言葉であり、「こども」「召使」「奴隷」などの意味で用いられます。神の子キリストは、別世界を旅行するために天から地上に来られたのではありません。神に遣わされた神の「召使」であり、それだけでなく、人の「召使」「奴隷」となるために天を離れて人の子となられたのです。
このお方は単なる「僕」ではなく、神に選ばれ神に霊を与えられ、特別の職務を果たすために遣わされた「僕」であるのです。「わたしの選んだ」「わたしの心に適った」「わたしの霊を授ける」という表現によって、その他のすべての僕から区別される特別の「僕」であるのです。「光」と「陰」がともに描かれた預言です。
 
働き
預言の後半には、この救い主がその職務を果たすときの態度が現れています。「争わず」と記されています。歴史の中の支配者は、そうではありません。彼らはさからう者を牢の投げ込み、力と暴力によって国民を支配してきました。会社の上司は地位の差を利用して部下に命令します。パワハラです。しかしこのお方は、争うことによって人を支配しません。その職務は平和をもたらすことであり、平和という目的は争うことによってはなしとげられないからです。
「叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない」。大通りでうるさく叫んでいる人々が多くなる時がきます。選挙です。彼らはできるだけ多くの人が集まる駅前、商店街、大通りで、守るかどうか分からない公約をボリュームを最大にして叫びます。「叫ぶ」と翻訳されたギリシャ語の動詞は、猛獣や悪霊や大群集に用いられる激しさや大きさをあらわす言葉です。 
私たちの救い主は地上の生涯で一度だけ叫びました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(27:46)という十字架上の叫びです。この叫びは選挙演説者が大声で自己主張をし、猛獣が敵意や強さを表すためにほえるのと同じではありません。正にその反対です。その叫びは救い主が私たちの罪を、言葉だけではなく本当に背負われたことの証拠です。私たちは自分の罪のために神に見捨てられなければならないのです。また私たちの救い主が、自分の正しさを演説しなかったことの結果です。主イエスはユダヤ議会とローマの裁判での不正な訴えにも、一言も弁解をなさいません。私たちの罪の身代わりとして、死刑の判決を受ける決意をしておられたからです。私たちの救い主は、病人をいやすことだけでなく、むしろ黙ることによって救い主としての職務を成し遂げられたのです。
 
傷ついた葦
立候補者は他の候補者の欠点をあばくことに、ほとんどの時間とエネルギーを使います。自分に投票する者と握手をし、チラッとでも自分の方を見る者に笑顔で手を振り、自分に反対する候補者を倒すことによって自分が立とうとするでしょう。私たちの救い主がそのようではないことを感謝します。
「葦」(あし)は、沼地や川辺にどこでも生えている植物です。「人間は考える葦である」というパスカルの有名な言葉があります。葦は笛のような管楽器のリードとして用いられます。葦は英語では、そのまま「リード」です。あるいはペンや物差しとして利用されました。葦のペンや葦の物差しが折れそうになったときには、修理するよりもそれを捨てて新しいものと取り替える方がはるかに効率的です。人々は普通そのようにしました。しかし私たちの救い主は、傷ついた葦を折らないでそれを用いることができるようにするというのです。キリストは、自分の利益にならない者に注目をし、自分の命をねらわれるようになる危険をも省みずに不幸な人の右手をいやしました。そして手が萎えて価値なき者とみなされている人と握手をされたのです。
 
くすぶる灯心
「くすぶる灯心」は息を吹きかけてすぐに消し、はやく新しい芯に取り替えるべきです。煙が発生しいやな臭いが部屋中に立ち込める前に。灯心は葦のペンや物差しよりもさらに安価です。ポイとごみ箱に捨てても、全くもったいなくありません。常識です。しかし私たちの救い主は、常識に従うのではなく、何とかもう一度燃え上がるまで忍耐強く待ってくださるというのです。
私が高校生のときに上映された「アラビアのロレンス」という映画にひどく感動したのを覚えています。イギリス人のロレンスは、アラビア人のならず者の集団を率いて大砂漠をラクダで横断していました。しかしロレンスが後ろを振り向くと、最後尾につけていたガシムという男が乗っていたラクダがからっぽになっていました。いねむりをしてラクダからどこかで落ちたのでしょう。ロレンスはガシムを探すため、来た道をもどると言い出しました。「砂漠の中で見つかるはずはない。そんなことをしたらこれまでの苦労はすべて水のあわだ」と叫ぶ声の中を、ロレンスはサハラ砂漠の道なき道を一人戻っていきました。そしてのどがからからに渇き、死ぬ寸前のガシムを灼熱の砂漠で発見し、自分のラクダに乗せて戻っていきました。今度は歓迎の大合唱の中をみなのところにラクダに乗ってもどってくるという感動的な場面です。「どちらにしても死ぬさ。さがしに行けば自分の命もあぶない。やめた方がいい」。高校生の私はそのとき、引き返すロレンスを「すべては水のあわだ」と思ったことを今でも覚えています。常識ですから。
 
プラス思考
どこにでも生えている、安い葦でできたペンを修理するのは忍耐がいる仕事です。時間もかかります。そんなことをするぐらいなら、ポキッと二つに折って新しいものと取り替えた方がましです。くすぶる灯心も同様です。人々は何とかしようとは思ってもみません。社会の中の落ちこぼれをそのように扱うのが常識です。新聞やテレビで非常識な事件が次々と報道されています。「何と非常識な」、「今時の若いもんは何を考えているんだ」、「前代未聞だ」、などと人々はテレビの前で言い捨てて終わりです。そしてそれが私たちの価値なき者、マイナスの者への普通の態度です。しかし救い主の考えは、人の考えと何と違っていることでしょうか。傷ついた葦を折らない、くすぶる灯心を消さないというだけではありません。救い主の考えはマイナス思考ではなく、徹底したプラス思考です。傷ついた葦もまた有効に用いるようにされ、くすぶる灯心もまた明々と燃えて部屋を明るく照らすようにされるのです。聖書にはその後どうなったのかは記されていませんが、おそらく手の萎えた人は仕事に復帰し、その後いやされたその手で大いに人に仕えたことと思います。
自分自身と他の人を、そのような光で見ることができるようになるならすばらしいと思いませんか。世が「価値無し」と判断する者がまた生かされる。その根拠は主イエスの「正義を勝利に導くまで」の忍耐です。主イエスは私たちをも忍耐してくださいます。自分自身と私たちの周りの人をあきらめるべきではありません。イエスは皆の病気をいやされたではありませんか。99パーセントではありません。1パーセントのもれもありません。
いまのあなたは調子がよいかもしれません。しかし死ぬまでずーと調子のよい人は、多くても1パーセント以下です。いま傷ついている人はもちろん、今は希望がいっぱいであるかも人も、これから何があるかは分かりません。落ち込んだとき、傷ついたとき、「皆の病気をいやした」救い主のもとに行ってください。
 
 根拠
希望の根拠は自分自身のうちにはありません。私たちは「彼の名に望みをかける」べきです。自分自身に望みをかけるなら、それにふさわしい結果を期待しなければなりません。それは罪からくる悲しい結果です。もっと元気を出しなさい。自分をもっと良く思いなさい、そんなに自分を悪く考える必要はない、と励ましを受けるかもしれません。高い自己像を持つべきであると言われるかもしれません。そのような励ましも少しは役に立つでしょう。一時的には効き目があるでしょう。しかし私たちは本来、罪の裁きを受けるべき者であるのです。低い自己像は神学的には、むしろ正しい判断であるのかもしれません。私たちは、救い主の名に望みをかけるべきです。それだけに頼るべきです。
預言者イザヤは「傷んだ葦をわざわざ折らず、くすぶる灯心をわざわざ消さない」という救い主の消極的な態度を語ったのではありません。傷んだ葦が再び用いられ、くすぶる灯心が再び光を放つためには、キリストご自身の傷んだ体がさらに傷められ、十字架の上でくすぶっていたキリストのささやかな命が消されたのです。十字架への道ヴィア・ドロローサを、積極的に歩む決心をしてくださった私たちの救い主に感謝します。