マタイ福音書(抜粋)

「中立はない」
 
マタイ福音書12・43~45
「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで『出てきた我が家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を
一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう」
 
 
 キリストのたとえの中でも、奇妙で分かりにくい話です。この不思議なたとえ話を理解するためには、歴史の中で起こったイスラエル民族にとっては特に重大な一つの事件を知らなければなりません。
 汚れた霊が出て行った時とは、バビロン捕囚からイスラエルが解放された時のことです。当時のメソポタミアを千年以上も支配していたバビロ二ア帝国は、紀元前586年(587年?)にイスラエルを征服し、ユダヤ人の一部はバビロニア帝国の首都バビロンに連れていかれます。しかしその後、バビロニア帝国はペルシャに滅ぼされ、ペルシャの王キュロス2世の紀元前537年の布告によって、ユダヤ人はイスラエルに帰ることがゆるされました。異教の偶像礼拝を強制される屈辱の時代は終わりました。このバビロン捕囚はイスラエルの歴史の中では最も恥ずかしい出来事とされています。このバビロン捕囚をテーマにして書かれているのが、旧約聖書のエレミヤ書やその後にあるエレミヤの哀歌であり、これを歌詞としたルネッサンス時代の名曲がたくさん残されています(パレストリーナやタリス)。
 しかし捕囚の屈辱から解放されたイスラエルの宗教的な状態は、良くなるどころか、かえって悪くなっていたという歴史の事実です。たとえばキリストの時代のイスラエルの宗教的指導者、律法学者、ファリサイ派の人々、大祭司などの宗教にそれが現れています。彼らは偶像礼拝を厳格に追放したつもりでも、別のもっとひどい悪と偶像礼拝が心に入り込んでいたことに気がつきません。そのような指導者に導かれる民衆の霊的な状態は、説明の必要がありません。当然、指導者たちのようになっていくのです。
 
奇妙なたとえ
 汚れた霊は、人から出て行きました。しかし汚れた霊は、地上のどこにも休息を見出すことはできませんでした。汚れた霊は、結局もとの場所に戻りました。そのときに「自分より悪いほかの七つの霊を一緒に連れてきて、中に入り込み、住み着いた」のです。イスラエルはバビロンの宗教から解放されたとはいえ、イスラエルの宗教はもっと悪くなったといういみです。
ここには悪霊のあつかましさが実に良く表れています。もと占領していた体を「我が家」と呼んでいます。自分が建てたのでもない、買ったのでもない、家賃を払っていたわけでもない。しかしその部屋を、戻ろうと思ったときに戻れる我が家と考えているのです。悪は通常、そのようにして人の心を出入りし人の心を住み家にしているものです。ただ一時的に汚れた霊が不在であるだけでまた戻ってくることを知らなければなりません。
 人は生まれた時は罪がなく、悪を学習してだんだん悪くなるのではなく、もともと罪をもって生まれてくると考えるのが、キリスト教の教えです。神学的な言葉では「原罪」と呼ばれているキリスト教の中心的な考え方です。子供が小さいうちから、うそをついたり、弟のおもちゃを取り上げたりすることを知っています。もちろんうそのつき方を親が教えたからではありません。もともと悪は子供の心に備わっているのです。もちろん小さな子供のする悪はたいしたものではありません。だから放っていても大丈夫と考えるなら大変危険です。
 汚れた霊は、帰るときのために必ず部屋の鍵を持って出て行くことを忘れません。悪はいつでも人の心の扉を開けることができるのです。悪いものを部屋から放り出したつもりでも、その空間が別の何かで満たされていない空き家のままであるなら、再び汚れた霊によって簡単に占領されてしまいます。汚れた霊が戻ってくるのに、当の本人が何らかの抵抗を示したというサインはどこにも見当たりません。霊が出るのも入るのも、当の本人はほとんど無意識です。自分自身が悪に支配されているかどうかは自分では判断ができないという意味です。「私は正しい」と思っていることは、あなたが本当に正しいことの保障には全くならないのです。
 汚れた霊が戻ってくるのにさまたげが無かったどころか、前に住んでいた部屋は掃除がしてあり、きちんと整頓されていました。そこで汚れた霊はまた出かけて行き、自分より悪いほかの7つの霊を一緒に連れてきて、住み込んだのです。その人の状態は前よりもはるかに悪くなったのは当然です。
 
 禁止の宗教の危険
 この奇妙なたとえ話は、主に真面目な優等生、品行方正の紳士淑女への警告です。そのような人々はとくに悪いことをするわけではありません。しかしキリストはいつでも心の状態を問題にされるのです。
バビロンの神々への礼拝から解放され、いわゆる偶像礼拝は硬く禁じられるようになりました。しかし問題は、禁止がイスラエルの宗教の本質となっていたことです。たとえば安息日に労働をしてはいけない、という十戒の第四戒の場合、労働をしてはならないことだけに強調が置かれ、労働を休むのは神を礼拝するためであることを見逃してしまいました。
 律法学者やファリサイ派の人々の宗教は、何かをしないことが宗教の目的となってしまいました。もちろん偶像礼拝は聖書で禁止されている悪ですが、そこでとどまるなら、前よりももっと悪くなってしまう可能性があるのです。
 キリストが最も非難されたのは、不倫をした女でも十字架の強盗殺人犯人でもなく、品行方正な紳士である、律法学者とファリサイ派の人々など宗教指導者たちでした。ですからこのたとえ話の第一の対象は、いわゆる悪人ではなく優等生であるのです。彼らの最大の問題は、何であったのでしょうか。偽善と高慢であったと主イエス指摘しています。
偽善は「形式主義」と言い換えても同じです。生きた神がおられない宗教は、形式的で表面的になっていきます。内側まで見通す神ではなく、外側しか見えない人にしか関心がありません。表面だけ律法をまもり、それで律法を完全に守ったつもりで高慢になります。同じようにできない者を見下します。高慢は偽善の必然的な結果であり、両者は双子の兄弟のように似ているのです。彼らは神を賛美する行為によって、実は自分たちが賛美されることに第一の関心があったのです。そのため自分たちの栄光を奪っていったイエスを憎み、ついには十字架にかけるという人類最大の罪をおかしました。石や金属の神を礼拝するいわゆる偶像礼拝の罪を繰り返していた昔のイスラエルより、神が送った独り子を十字架にかける罪ははるかに大きいのは明らかです。
 「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」という主イエスの言葉が正に歴史の現実となりました。バビロン捕囚と偶像礼拝から解放され、イスラエルの宗教は真空状態になりました。そのとき真の神礼拝ではなく、形式的で偽善の宗教を取り入れ最悪の状態に陥ったのです。 
 
 中立の宗教の危険
 新聞やNHKのアンケート調査には、「とくにない」「どちらでもない」という中立の選択があります。しかし宗教や道徳には中立はありません。「私は中立です」と言う人の中には、最も極端人も少なくありません。何でも良いと言う人は、本当に何でも良いのではありません。「何でも良い」のでなければならない、と言って、他のすべてを拒否しているのです。中立はたいへん危険な心の状態です。すでに空気で満たされている容器には、他の気体は簡単には入りません。しかし真空の心には、毒ガスでも何でも一瞬で満されてしまうでしょう。
「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」道徳的な善と神の国の到来に対しては中立はない、という意味です。「集める」「散らす」と言えば、日本人の感覚ではまず落ち葉を考えるかもしれませんが、当時のユダヤ人なら羊の群れのことを考えたでしょう。散っていく羊の群れを、何もしないでじっと見つめている者は、羊を散らせているのも同然です。妻が目の前で襲われているのにじっと見ているだけの夫は、何もしなかったのではなく妻に対して最悪のことをしたのです。この夫婦には決定的な結末が待っているのは明らかです。人生のある事柄に関しては、中立はあり得ないのです。
科学者は真理に対して中立であってはなりません。それを真理として受け入れるか、退けるかを決断しなければなりません。地球は丸いのか平らなのか。真理の前に立つとき、その真理を受け入れるかどうかの決断をせまられます。それが真理がそもそも持つ性質です。そしてある真理を受け入れることは、私たちになんらかの行動を起こさせるものです。
道徳的な善の前に立つときも、中立というものはありません。私たちは決断をせまられます。決断をせまらないような善はありません。ルカ15章に登場する祭司とレビ人は、善人ではなく悪人として登場します。しかし彼らは積極的に何かの悪を行ったわけではなく、何もしなかったのです。死にそうな旅人のそばをただ通り過ぎていっただけです。もし通り道に傷ついた旅人が横たわっていなければ、悪人にならないですんだでしょうに。行うべき善を怠ることは悪とみなされるのです。次に通りがかったサマリア人は、傷ついた旅人を介抱し自分のロバに乗せて町の宿屋まで運びました。それゆえに「良きサマリア人」とよばれるのです。ルカ15章のこのたとえ話には、良い人と悪い人とその中間の人が登場するのではありません。道徳的な善と悪の前には、中立はないからです。
夕食のためにさんまと大根を買おうかどうしようか。ショーウィンドウに入っているバッグを買おうかどうしようか。今度の夏休みにハワイに旅行に行くかどうか。このような事柄に関しては、私たちは決断を保留しても良いのです。しかし満員電車で自分の前にお年よりが立った瞬間、私たちは何らかの決断をせまられ、それによってちょっとした善人にもなり悪人にもなるのです。真理の問題、道徳的な事柄に関しては、中立はないからです。
 
決断
道徳的な決断と宗教的な決断は、強盗に襲われて死にそうになっている人がそこに倒れていなければできないのではありません。毎日毎日、一瞬一瞬が中立のない選択で満ちているのです。ですから、私たちの生きる姿勢や選択の方針が大切なのです。夫や妻に対する朝の最初の言葉から、中立のない選択が始まっています。それに対してどのような言葉を返すかも様々な選択があります。あいさつをしない、返事をしない、それは何もしなかったのではありません。御言葉の説教に対してこの一週間をどのように応答するか。礼拝後、どのように人に接するのか。その場合、いちいちこの場合はこう、この場合はこうと考えて行動しているわけではないと思います。その人の方針や考え方に従って自然に選択し自然に行動しているのでしょう。あなたの方針を決めている原理が何か。神の恵みか、自分の都合か。
 神の国はすでに来ています。私たちが恵みの支配を受け入れるなら、あなたの心も神が支配する領域となります。あなたの心に神の国が来たのです。「真理」「道徳的な善」「神の国の到来」に関しては中立はありません。それが今日の説教のテーマです。真理と善と神の恵みに対する、あなたの姿勢こそが決定的に重要なのです。真理ならば偏見なしに、それを真理として受け入れる心構えがあるか。善ならばたとえ損をしてでも、それを行っていくという方針をもっているか。私の心は神の恵みの支配を必要としているかどうか、まじめに考えているか。そのようなことを問いかけているのです。
 群集の多くは救い主イエス・キリストに対する態度を保留しました。それは何も決断しなかったのではなく、決断しないことを決断をしたのです。福音書が後に記しているように、イスラエルの群集は、最終的にイエスをメシアと認めることがありませんでした。むしろファリサイ派の人々と同様、「十字架につけろ」と激しく叫んだ人々でした。
 
 結論
 ただ何か悪いことしないというだけで安心するのは非常に危険です。雑草を取った後は、花でも芋でも植えておかないともっと悪質な雑草が庭全体を覆ってしまうかもしれません。私たちの心は何も入っていない真空の状態でいることはできません。もし良いもので満たされていないなら、悪いものが心をすぐに満たしてしまいます。良いことを教えるだけの宗教も危険です。勉強すると良い、と教えるだけで子供たちが机に向かうなら親は苦労をしません。心がどんなに悪に傾きやすいか、どんなに怠けやすいかを知り、それよりも強い力である神の霊によって勝利していかなければならないのです。積極的でない宗教は危険です。クリスチャンは命をいただいているのです。命が死に打ち勝っているから人は生きているのです。命と死の中間といったものはありません。
律法学者とファリサイ派の人々は、イスラエルが偶像礼拝をしていた時代よりも七倍も悪い宗教をイスラエルにもたらし、彼らは神の子を十字架につけて殺してしまったのです。しかし神は、人類最大の過ちを用いて、最大の祝福を人類にもたらしました。クリスチャンがいただいた神の恵みは、最悪の罪をも支配する力であるのです。その力を積極的に用いないことは、あまりにも危険です。