マタイ福音書(抜粋)

「せっかちな心の人」種まきのたとえ②
 
 マタイ福音書・13:1~9、18~21
 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。(4~6)
「石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。」20~21
 
 
 洗礼を受けてクリスチャンになっても、教会にとって最も残念なのは、長続きしないで途中でやめてしまう人があることです。最初は本当に喜んで熱心にやっている人も例外ではありません。なぜそういうことが起こるのか、種まきのたとえ話の中に理由の一つがが示されています。
 石だらけの土地と言われる二番目の土地は、最初の土地である道端とは少し異なっています。いやむしろ見かけに関しては、全く違っていたというべきです。道端の種には何も変化は見られなかったのですが、「土が浅いのですぐ芽を出した」と記されているように、以前とは異なる生活の変化が短期間のうちに現れたからです。しかし重要なのは最終的な結果であり、それからどうなったかということです。途中までは非常によかったというのでは何もなりません。
 見かけと中身は全く違っていました。そして実はそういうことは信仰や教会の事柄に限りません。どんなことでも、隠れている最も重要な部分がどうかを調べるのは、他の人にとってはもちろん、自分自身にとっても最も難しい仕事であるのです。いいかえれば、自分の心の状態は意識的に調べなければ、本当の姿は分からないということです。
 
 根がない
 後の説明の部分では、「根がないので」となっていますが、第一の土地に落ちた種のように全く根がないのではなく、根が十分にないという意味であることは明らかです。「悟らない」ことが道端の硬い土地の特徴であったのですが、「根が(十分に)ない」ことが第二の土地に落ちた種の最大の特徴であり、「根がない」がこの説教の鍵になる言葉です。
道端に落ちた種には何の変化も起こらないまま鳥が来て食べてしまいました。しかし、石だらけの土地に落ちた種は少しながら変化を見せました。その心が道端にたとえられた最初の人は、神の言葉を聞いても何も変わらなかったですが、その心が石だらけの土地にたとえられる第二の人は、神の言葉によって大いに変ったのです。しかしその変り方に問題がありました。教会に来て話しを聞いている、というだけでは十分ではありません。これが道端に落ちた種のメッセージです。さらに話しを聞いて変った、というだけでもまだ十分ではありません。これが石だらけの土地のような心の人へのメッセージです。
 前回、パレスチナの種まきの方法について説明が必要であったように、パレスチナの石だらけの土地についても若干の説明がいるでしょう。新共同訳聖書の言葉は小石が入り混じった土地というイメージを与えるかも知れませんが、そうではありません。大小の岩石の上に土が薄く覆っているような状態の土地であり、一見は良い土地のように見えていたのかもしれません。しかしすぐ下には硬い岩石があるのです。どうもそのあたりに問題の核心がありそうです。枯れてしまってからでは手遅れです。その前に気がつくべきです。
 
 時間
すぐに気がつかないのは、本当の姿が現れるのに多少の時間がかかるからです。二番目の土地では、アインシュタインの相対性理論のように、時間の概念が入ってくるのです。光の速さかそれに近い速さで移動するとき、時間に遅れが生じるという分かりにくい理論であることはよく知られています。たとえば光速で飛ぶロケットに乗って宇宙旅行をして、10年後に地球に戻ってきたとき、他の人は自分よりも10年近く年をとっているというのです。
ほんとかなと思いたくなるのですが、実はこれはすでに証明された理論であるのです。ごく身近なところにもこの相対性理論が応用されています。カーナビやのスマホなどのGPSの機能によって、地球のはるか上を飛ぶ人工衛星に電波を反射させて、自分が地球のどこに知るのかを知ることができます。しかし電波は正に光速で移動するため、時間のずれが生じるため、それを修正するプログラムがGPSには組み込まれているのです。
物理学者ではない一般人にはなかなか分かりにくい理論ですが、人生のプログラムの中にも時間を組み込むことが重要です。恋人や夫婦の愛をためす最も確かなテストが時間であるように、時間はしばしば真実を現します。言い換えれば、それまでは真実を隠すのです。しかし事実や真実は、永遠に隠れていることはなく、遅かれ早かれ必ず現れるときが来るのです。
 第二の土地は、実は第一の土地とそれ程ちがっていたわけではありません。確かに見かけは違っていました。まかれるとすぐに芽を出しました。むしろ良いと土地にまかれた種よりも早く芽を出すという、外見上は実に大きな違いがありました。しかし本質的な部分では最初の土地と何も違いがなかったのです。道端の場合と全く同じ理由でダメになったからです。つまり最終的に種が実を結ぶのを妨げたのは土の硬さであったのです。ここにポイントがあると思います。前回の道端の説教に時間の概念を加えれば、そのまま今回の説教になるのです。第二の土地は、「見かけ倒しの土地」とでも表現するのが適当でしょう。
 
一時的
その心が道端にたとえられる人にとって、宗教はプラスアルファーであると前回の説教で申し上げました。土が薄く浅い土地に落ちた種は、すぐ芽を出しました。土が浅く温まりやすかったからです。しかし、日が昇ると焼けて、根がないため枯れてしまいました。キリスト御自身によって、「日が昇る」とは「御言葉のために起こる艱難や迫害」であるとの説明がついています。神の言葉に従っていくにあたって艱難や迫害はプラスアルファーできなかったのです。いやプラスしたくなかったのです。それが「根がない」という表現のここでの意味です。  
一般的な事柄でもそういうことはめずらしくはありません。ピアノのレッスンでもダイエットでも、似たようなことが起こるでしょう。多くの人はレッスンの厳しさや空腹の苦しみに耐えられなくなって、つまずいて途中で止めてしまうでしょう。でも少し違いもあります。ピアノやダイエットを途中で止めてしまっても、ショパンのポロネーズが弾きたい、もっとスマートになりたいという願望は持ち続けるでしょう。しかし御言葉につまずいたものは枯れてしまったと記されています。前者は苦しみや空腹を憎んだのですが、後者は神の言葉そのものを憎み、神の言葉自体に背を向けてしまったからです。最も顕著な実例はキリストの弟子であったユダです。彼は見かけ倒しの弟子であったのです。
 
部分的
石だらけの土地にたとえられた人の考え方には欠陥がありました。部分的でトータルに物事を判断するタイプではなかったようです。キリストとキリストの言葉に従うことに伴う、喜びと苦しみの両方を勘定に入れていなかったのです。
夫婦や親子など大切な人間関係にはこの両面が必ずあるものです。道ですれ違う人と苦しみや悲しみを分かち合う義務はありません。新しく買ったビデオにトラブルがあれば、だれでもすぐに返品するでしょう。しかし子供が元気なときだけ愛する親はありません。病気のとき、トラブルに巻き込まれたときにはなおさら子供への思いが強められるのです。いやそのときにこそ関係の真実さが現されてくるのです。喜びと利益だけを期待するのは、ビジネスの関係です。しかし命の関係、愛の関係には、喜びと苦しみの両面があるのです。
クリスチャンが圧倒的な少数者である日本のような社会では、信仰から来る周囲の人との摩擦はほとんど避けられません。そしてこの言葉が語られた当時のイスラエルではキリスト者はもっと少数派であったのです。キリストと喜びは伴にするが苦しみは御免です、それが「根がない」という言葉のここでの意味です。
 
せっかち
すぐに効果が現れないと止めてしまうのがせっかちです。やはり時間に関係した性質です。キリストは「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マタイ16・26)と言われました。物事の価値には質の違いがあることを知らないのがせっかちな人です。キリスト教は損得などどちらでもよい、といって損ばかりしている宗教ではありません。本当の得をせよ、本当の損をするなとすすめるのです。
小学生の宝物は、大学生にはたいしたものではありません。価値のレベルが違うのです。それが分かるためには時間がかかります。大邸宅を建て、ガレージにはポルシェがあり、食卓にごちそうを並べてみても、健康をそこなって伏せってしまったら何が楽しいでしょうか。健康は家や食べ物や高級車よりもはるかにレベルの高い価値である証拠です。そして全世界を手に入れても、命を失えば何にもなりません。命は世界中の何物よりもレベルの高い価値であるのです。トルストイの「人はどれだけの土地がいるか」というトルストイの民話を御存知でしょう。主人公は日が暮れるまでに歩いただけの土地をあげるという約束で、広大な大地を歩き始めます。どこまで行っても良い土地ばかりで、なかなか戻る決心がつきません。しかしもうどうしても戻らなければなりません。日が暮れてしまってはすべてが水の泡ですから。出発点に近づいたときには、太陽は地平線の下にいまにも沈もうとしていました。もうだめだと思いました。しかし、出発点である小高い丘の上で人々が叫んでいます。「ここはまだ太陽が沈んでいない、急ぎなさい」と。丘の上を目指して力をふりしぼりました。そしてついに太陽が沈む前に出発点に戻ったのです。しかしそのとき息が絶えてしまい、村人によって丁寧に葬られました。結局、人に必要な土地は、彼を葬るための小さな土地だけであったというメッセージです。
肉体の命はある一つのことを除いて最も価値のある宝です。ある一つのものとは、キリストからいただく永遠の命です。日が昇って枯れてしまったと言われている人の中には、それほどせっかちに思えない人も含まれていることでしょう。でも永遠という時間からは、やはりせっかち過ぎたのです。この地上での損得だけしか見ることができなかったからです。それが「根がない」という意味です。十字架によって罪ゆるされ、神の子とされ、魂が罪から完全にきよめられ、永遠に神をともに住むことのできる永遠の命です。せっかちな人はそれを待つことができず、枯れてしまいました。せっかちな人は、芽を出すのも枯れるのもはやいのは皮肉です。おがくずのように一瞬に燃え上がり、すぐに燃え尽きてしまうのです。
   
 自我
最初の二つの土地の問題は、基本的には一つです。薄い土のすぐ下にある硬い岩石こそが種の成長を妨げていたからです。それは自己信頼であり自我という鉄鉱石よりも硬い岩石です。ただそこに到達するには少しの時間があっただけです。「しばらく」は3ヶ月であったり、3年であったり、30年であったりするかも知れません。
石だらけの土地にまかれた種の根は、自由に土の中を進んでいこうとしたのですが、硬い石のために妨げられてしまいました。そのように自我は、外から入ってきた神の言葉が、自由に心の中に進入することを妨げるのです。たとえば、神の言葉が罪を指摘するとき、神の言葉に従うために困難が予想されるとき、神の言葉が大好きなことを止めるよう命じるとき、敵の接近を感じた貝が瞬間的に口を閉じるように心の扉を堅く閉じてしまいます。私たちは最も痛く敏感な部分には触れられたくないからです。反省するときも、罪の最も無さそうなところばかりをさぐって悔い改めたつもりになっているのです。
テレビや週刊誌は、なぜ好んで、自分の子供を殺したというような事件を話題にするのでしょうか。それは多くの人にとっては自信のある領域であるからです。子供の虐待が増えたとはいえ、多くの普通の親は心から子供を愛しているのです。それはだれでも安心して犯人を非難できる話題であるのです。しかし神の言葉は、「あなたの敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と命じています。そのとたんに私たちは自信が無くなってしまいます。そのような話題はあまり取り上げたくないと思います。愛していない敵、ゆるしていない人がいるからです。いやある人はそれでも神の言葉を愛するというでしょう。でもその人も、ただ一般的に敵を愛する愛を語るのが好きであるだけであるかもしれないのです。もしそうであるなら、○○さんや△△さん、自分の夫や自分の妻、と言った具体的な敵を愛することが問題になるまでは神の言葉を愛するでしょう。しかし神の言葉が自分自身の行動と関係があると分かったときに、神の言葉を憎みはじめるのです。
 
テスト
その時が来て枯れてしまってからでは遅すぎます。神の言葉に対する本当の信仰と、石だらけの土地にたとえられる心とはどのように見分けたらよいのでしょうか。「しばらくは続いても」、最終的につまずいては何にもなりません。信仰を持っているように見えているだけでよいのではありません。本当の信仰に似ているだけで満足してはなりません。
テストは「日が昇る」ことにたとえられた「艱難や迫害」です。艱難や迫害をわざわざ好む者はありません。嫌いなことをも受け入れるかどうかがテストです。何もネロのような迫害を待つ必要はありません。キリストのために投獄されたりムチ打たれることを想定する必要もありません。神の言葉に従うために起こるかもしれない、ごく小さな摩擦をさけるかどうかで十分です。神の言葉をしりぞけて小さな摩擦を避けるなら、大きな迫害の時どうするかはその日を待たなくても分かるのです。
神の言葉は「両刃の剣」と言われるとおり、ドイツのゾーリンゲン地方の刃物よりするどい刃で肉と皮と髄を切り分けます。私たちの罪は、神の独り子が十字架にかかって死ななければならないほど深いのです。神の言葉によって罪の部分を切り取られる傷みを避けることがありませんように。
私たちを苦しめるのが神の言葉の最終的な目的ではありません。苦しみそれ自体は悲しいことですが、悲しみや艱難は私たちをキリストにもっと近く導くことを学ぶでしょう。喜びも苦しみも伴にするのは、キリストと生きた命の関係にあることの最も明確な証拠です。