マタイ福音書(抜粋)

「しかし」―悔い改めといやし②―
二〇〇四年四月一八日礼拝説教
 
 マタイ福音書一三・
「イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』しかし、あなた方の目は見ているから幸いだ。あなた方の耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなた方が見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」
 
 
恐るべき言葉
「しかし」は絶大な力を持った恐るべき言葉であり、同時に驚くべき祝福の言葉です。前者はこれまでのすべての努力を完全にひっくり返してしまう、「うっちゃり」が得意技です。プラスをマイナスに変えてしまうのです。プラスが大きいほどマイナスも大きく感じられます。列王記下五章は、日曜学校の生徒たちも大好きなナアマン将軍のお話です。ナアマン将軍は国を勝利に導いたため、「主君に重んじられ、気に入られていた」と記されています。ナアマン将軍のこの世での待遇に関しては、その一節が聖書の語るすべてです。しかし、それがすべてを語っています。王に重んじられ、気に入られている以上の条件は、一人の国民としては考えられない特権であるからです。最も重要なのは、「この人は勇者であったが、重い皮膚病を患っていた」というすぐ後の文章です。いま注目していただきたいのは、「が」という小さな言葉だけです。「しかし」と同じ意味の言葉であることは言うまでもありません。「重い皮膚病」が近代のハンセン病であるかどうかに関しては議論がありますが、当時としても決定的な悲劇と理解されていた病であったことは確かです。つまりこの病は、ナアマン将軍のその他のあらゆる恵まれた特権をすべて無にしてしまう力を持っていたのです。(ハンセン病は極めて弱い伝染力をもった、現在では完全に治癒可能な病気であることが判明しています)
いま考えようとしている「しかし」も、やはり、それ以前のすべてをひっくりかえすために用いられています。ただし感謝すべきことに、ひっくりかえされるのは、それ以前のすべてのマイナスであるのです。マイナスがプラスに変えられます。それまでがどんなにひどくても、あなたの人生はこれからはすばらしくなる可能性が残されているのです。
 
するどい対立
 「あなたがた」と「あの人たち」の間には、するどい対立があります。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていない」(一一)。「持っている人には更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」(一二)。そして順序は逆転しますが、彼らは「見ても見ず、聞いても聞かず」、「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」と続きます。
 人をそんなにもはっきりと二つに分けるのは、何か大きな出来事であると考える必要はありません。大統領や首相に選ばれることや、ノーベル賞を受賞したりオリンピックで金メダルを獲得することでさえ、ここに記されているほど人を明確に分けることはありません。金メダルどころか、小学校の皆勤賞さえもらったことのない人の方が金メダリストよりも幸福である場合もあるのです。
人とその人の人生を、最もあざやかに二つに分けるのは「方向」です。北の山に向かう亀と南の海に向かう亀は、最初はそれほど違うようには見えないかもしれません。しかしだんだんとその違いは明確になっていくでしょう。実は見かけに反して、両者には最初から決定的な差があったのです。いま大きな違いが見えなくても、あなたの人生が向かう方向こそが最も重要であるのです。この聖書の箇所では、神の言葉に対する心の方向の問題を考えます。
 
悔い改め
神の言葉の最終的な目的は、悔い改めを通してみじめな人を豊かな人生に導くことです。そのような御言葉に対する方向がいま問われているのです。人の心は、自分の罪が指摘されるや否や、入り口をただちに閉じて店じまいを始めるのが普通です。「聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない」のはそのような人々です。
人を不幸にするのは、あれやこれやではなく、罪が不幸の真犯人です。幸福になりたいならば、それゆえ、悔い改めて罪に背を向けなければなりません。悔い改めとは方向転換をするという意味です。そして自分の罪に対する心の方向こそが、あなたの人生を最終的に決定することになるのです。他の人の罪や、社会の罪に対する厳しい態度ではありません。問われているのは、あなた自身の罪に対するあなたの態度です。
罪はそのままで幸福を求めるならば、車のギアをバックに入れてアクセルをふかし、後ろから前に向かって一生懸命に押しているようなものです。前に向かって進みたいなら、ギアを変更しなければなりません。方向転換をしなければならないのです。悔い改めなければならないのです。
 
いやしと傷み 
「悔い改め」と「いやし」がセットになっていることからも、人の罪が問題にされていることが明らかです。聖書によれば、罪はいやされなければならない霊的な病気です。そしてこの病は、神の子の十字架での身代わりの死によらなければいやされることはありません。今日の聖書の箇所には預言者イザヤの言葉が引用されていますが、同じ預言者は別の箇所でこう語っています。「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ五三・五)。
罪の問題点は悔い改めないことです。断固として悔い改めようとしないことこそ罪の最大の特徴であり罪の本質です。この硬い石のため、神の言葉は心の中に入っていくことができません。自分に向かって石が飛んできたとき、とっさに手で顔をおおうように、自分の罪を指摘する神の言葉に身構えて自分を守ろうとするでしょう。誤解をしてはなりません。神の言葉はあなたを傷つけようとしているのではなく、あなたをいやそうとしているのです。あなたの人生を祝福しようとしているのです。
病気を治療するためには、順序があるでしょう。まず、自分が病気であることを認めなければなりません。次に、治療には傷みを伴うことを覚悟しなければなりません。そしてその後に回復と祝福が続くのです。この世のほとんどの幸福論はその逆であり、まず自分の幸福と祝福を求めようとします。すべての人が同じように自分の幸福を求めています。それゆえお互いに衝突しかえって幸福は遠ざかっていくでしょう。順序こそが最も重要です。間違ってはいけません。「悔い改めて、いやされる」のです。
 
しかし
「しかし」は恐るべき言葉にも、すばらしい言葉にもなります。その言葉の前と後を真っ二つに分ける力をもっているからです。鎌倉や芦屋の社長夫人や重役夫人は、池に鯉が放された大邸宅に住み、ベンツとジャガーを使い分け、夏は軽井沢の別荘ですごし、月に一回は帝国ホテルのレストランでフランス料理のフルコースをいただくかもしれません。「しかし」、、、。ここに入るものによっては、ナアマン将軍のように、前の部分は全部だいなしにしてしてしまうことができるのです。
いま考えようとしている「しかし」は、そのような破壊的な「しかし」ではなく、次々と祝福を生み出していく生産的なすばらしい「しかし」です。感謝すべきことにその前がどんなに悪くても、その後を神の祝福と恵みで満たすのです。旧約の最も恵まれた者が見たくても見ることのできなかったものを見ることができる、聞きたくても聞くことができなかったものを聞くことができる、そのような祝福を与える「しかし」です。「持っている人は更に与えられて豊かになる」ような祝福です。
 
旧約と新約
さて主イエスは、たとえで話す理由からさらにテーマを拡大しているように思えます。新約の聖徒たちは、悔い改めといやしを通して、旧約の聖徒たちにはるかにまさる祝福をいただくことを語っているからです。悔い改めていやされる者は、旧約の聖徒たちが経験できなかった数々の知識や特権にあずかることができるのです。
第一は、模型や予型ではなく本体であるイエスキリストの十字架によって救いを明確に見ることが許されています。旧約の聖徒たちも、キリストの十字架によって罪がゆるされ、霊的な病がいやされました。それ以外のどんな方法によるのでもありません。しかし彼らは十字架の模型によって罪のゆるしを示され、罪からの救いにあずかったのです。
歴史的な出来事や儀式など、十字架の模型は多くあります。出エジプトの出来事は明らかに罪からの救いを表していました。エジプトでの奴隷であったイスラエルは、モーセに導かれて約束の地カナンへと導かれました。
幕屋や神殿は、イスラエルの民と神が出会う場所です。神にお会いする場所は限定されていました。しかしその本体はイエス・キリスト御自身です。私たちはこのお方にあっていつでもどこでも、神にお会いすることができるのです。
幕屋や神殿の中で行われた儀式も、キリストの十字架のあがないを表していました。羊や牡牛の犠牲の血が流されたのは、イスラエルの民の身代わりとしてです。キリストが私たちの罪のために十字架で血を流されたことを指し示していることは言うまでもありません。
儀式で用いられる犠牲の動物、そして儀式を行う祭司もキリストの予型です。旧約の大祭司は一年に一回だけ、神殿の最もきよい場所である至聖所に動物の血をたずさえて入ることがゆるされました。しかし真の大祭司であるキリストは、御自身の血をたずさえて天の至聖所に入られました。キリストが十字架で死なれたとき、至聖所を隔てていたエルサレム神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。その時から至聖所は、大祭司だけがしかも一年に一度だけ入ることが許される場所ではなくなりました。イエス・キリストの十字架の血によって、誰でもいつでも入ることのできる場所になったのです。
さらに驚くべきことは、クリスチャンが至聖所に入ることができるというだけでなく、クリスチャン自身が神殿(聖霊の宮)と呼ばれるようになったことです。天地を創造された神が、私たちのうちに住んでくださるのです。このように、旧約の預言者たちが思いもよらなかった数々の祝福が、十字架によってもたらされたのです。
 
二つの「しかし」
すべてを二つに分け、すべてを決定するのは、「方向」でありその他のことではありません。あなたがどちらの方向にむかって進むのかが、あなたの人生を決定するのです。人はなかなかそのことに気が付こうとしません。進む早さが問題なのではありません。遅くても早くても、その方向にある目的地に近づいているのです。何に乗ってどのように行くかも重要ではありません。高級車であろうが、自転車であろうが、豪華に行こうが、貧しく行こうが、方向が同じであればやがて同じ所に着くでしょう。しかし多くの人は、どのように行くかだけを気にかけているように思えます。
あなたが祝福に向かっているのか、不幸に向かっているのかは、あなたがどちらの「しかし」を用いているのかで分かります。マイナスの「しかし」か、プラスの「しかし」か。鎌倉や芦屋の豪邸に住む社長夫人にも、「しかし」があるように、何か足らないものに不満を言うのが自然のままの心であり、満足しないままで人生を終えるのは今からもう決まっています。
最も重要なのは、私たちの心が神の言葉に向かっているのか、神の言葉に背を向けているのかどうかです。御言葉に対する心の方向です。キリストの弟子たちの多くはガリラヤの漁師たちであり、決して分かりの良いタイプの人々ではありませんでした。しかし彼らはキリストの言葉を愛していました。理解したいと願っていました。多くのイスラエルはそのようではなく、「彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めなかった」のです。キリストの言葉を理解しようとしなかったと言うより、理解したくなかったと言うべきでしょうか。彼らには共通の「しかし」がありました。共通の不満がありました。それはローマ帝国の支配です。そしてイエスという男こそ、ローマの支配からの解放を実現してくれる救い主であるかもしれないと期待をしたのです。しかしイエスは罪からの解放だけを人々に告げ、罪からの救いを実現すること以外の何をも行おうとはしませんでした。   人々がそのようなメッセージに聞く耳を持たなかったのは当然です。彼らは御言葉に向かってではなく、御言葉に背を向けて歩いていたのですから  。
 
包丁の刃と柄を反対に使うと大変なことになります。二種類の「しかし」を反対に用いるなら人生は傷だらけになります。御言葉によって示された罪を認め、「しかし」と言う者は幸いです。どんなに私たちが罪深くとも、罪を悔い改める者は、十字架の血によって完全にいやされるのです。そして旧約の預言者でさえ見ることのできなかった福音の豊かさを見ることができるでしょう。