マタイ福音書(抜粋)

「人にとって最も難しいこと」悔い改め
 
マタイ福音書13:13~16
「だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』」
 
 
 小学生にとって足し算よりも引き算の方が少し難しく、したがって引き算は足し算の後で習います。私もちょっとした認知症のテストを受けたことがありますが、100から7を順番引いてください、と言われました。7.14.21.28と、7を足していくより、93、86、79とやるのは足し算よりはかなり難しいことにとまどいました。人生にも足し算と引き算があり、人生でもやはり引き算の方が難しいのです。そして人生の引き算ができなければ、いつまでも人間として小学1年生に留年することになります。
 
  足し算
 「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19:16)と主イエスに問うた金持ちの青年のことがこの福音書のもう少し後に記されています。その青年は、今の生活に何かを足し算をすることが宗教なのだ、と考えていたからです。
今の生活に何かを足し算することは、今の生活と今もっているものから引き算をすることより簡単です。主イエスはこの青年に言われました。「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と。そしてその結果、「金持ちの青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った」と記されています。今もっている財産を貧しい人々のために差し引くことができなかったのです。
キリストはこの物語によって何を言おうとされたのでしょうか。財産を貧しい人に施せば天国に入れるということでしょうか。決してそうではありません。今の生き方はそのままで、それに何かをプラスアルファーすることによって天国に入ろう、という宗教を否定されたのです。
 これこそが、同じ福音書の13章にある「種まきのたとえ話」のテーマです。神の言葉が心と生活の中に入っていかず、上に置かれているだけの状態が道端に落ちた種。ある時間を経過してある事柄が起こってきたときに、神の言葉を受け入れなかったのが石だらけの土地。それぞれの土地があらわしている神の言葉に対する心の状態です。両方の土地に共通していたのは心の硬さ。自分の生活と心を改めようとしない硬さが、実はその心に横たわっていたのです。違いは硬さが心のどのぐらい深いところにあるかということだけです。
 
 自分のこととして聞いていない
 「聞いても聞かず」とは、自分のこととして神の言葉を聞いていない心の状態です。ですから、「聞くには聞くが、決して理解」しません。旧約聖書から実例を見ましょう。イスラエルの王ダビデは、美しい女性バトシェバと不倫をし、それがばれないようにバトシェバの夫ウリヤを最前線に送り戦死させることに成功しました。
ウリヤから奪い取り、自分の妻としたダビデ王のところに、預言者ナタンがやってきてたとえ話を用いて罪に気づかせようとしました(サムエル記下12章)。念のために、ナタンがダビデにしたたとえ話しを要約しておきましょう。
 ある町に二人の男がいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は多くの家畜を持っていたが、貧しい男は雌の子羊だけしかもっていなかった。そしてその羊を娘のようにかわいがった。ある日、豊かな男のところに客人があり、男は貧しい男から雌羊をとりあげて自分の客人にふるまった。
 さてダビデは預言者のこのたとえ話をどのように聞いたでしょうか。聖書の読者は、残酷な金持ちの男こそウリヤから妻を取り上げたダビデ王その人であることは百も承知です。しかし当の本人であるダビデは、預言者ナタンが自分のことを話していると気づいていませんでした。なぜ当てつけ丸だしとも言えるような話に、ダビデは気がつかなかったのでしょうか。預言者が話す間、いねむりをしていたからでしょうか。そうではありません。話はよく聞いていたのです。だからダビデは激怒して預言者に言いました。「そんな男は死刑だ」と。
耳では聞いていても自分の話としては聞いていなかったのです。どんなに熱心に、どんなに適切な話が語られても、自分の話として聞こうとしていない者に悟らせることはできません。そして説教者もこの危険から除外されているわけではありません。他の人に語りながら、自分は聞いていないということがあり得るのです。説教者は、自分自身を最初の聴衆として語るべきです。
 
 変わるつもりがない
「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」「聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない」と言われている人々の心の状態は、「悔い改めない」(15節)と一言で表現されています。「悔い改める」とは方向転換をするという意味です。
ですから「悔い改めない」とは、その逆で方向転換をしないという意味です。ちょっと脇道に入ることはあるかも知れないが、いずれまた自分の道もどって、再び同じ方向に向かって歩きはじめるのです。決して方向を転換をすることはありません。何を見ても、何を聞いても、基本的には方向は同じで変わることはありません。その理由はなんでしょう。そのつもりがないからです。最終的には、自分が行きたい方角に行くことに腹では決まっているのです。
真理であれば信じよう、罪が指摘されたら改めよう、方角が間違っていたら進む方角を変えよう。これが人間として正しい生き方です。「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」心はそのようではありません。たとえ聖書を読んでも、聖書の説教を聞いても、そこに自分の信仰を確認しているにすぎません。そのような人は、ウンウンとうなずきながら説教を聞き、他の人からもまじめで熱心に説教を聞いているように見えるし、自分自身でもそう思いこんでいるのです。しかし実は、自分の信仰の確信を説教の中に確認をしているにすぎないということがあり得るのです。好みの説教者である場合にとくに警戒しなければなりません。
 では本当の御言葉に聞こうとしているのか、それともすでにもっている自分の信仰を確認しているだけなのか、どうしたら分かるのでしょうか。それをテストする方法があります。その人の生活が御言葉の説教によって実際に変わっていくかどうかが決定的なテストです。ダビデがナタンの話にうなずきながら聞いていたことを想像するのは難しくありません。最後には興奮して怒り出すほど話の中に入り込んでいたのですから。しかし預言者のたとえ話を熱心に聞くだけではダビデは変わることがありませんでした。その時点では、聞いても聞かず、悟ることがないような心の状態であったからです。
 
 自分の経験にないことを否定する
 説教者が自分の好みでない場合は、正反対の反応となって現れます。自分の経験にないものを積極的に見つけとてそれを粉々に壊しながら聞くのです。しかしその根本にあるものはほとんど同じです。説教者の経験と一致する場合は前者となるのですが、そうでない場合は後者となるのです。神の言葉に一致しているかどうかよりも、自分の経験に一致しているかがスタンダードになっていることでは、どちらも同じであるからです。
 後任として赴任するすべての牧師の共通の経験は、変わることの困難さです。前任牧師が偉大であればなおさらです。全く新しく何かをはじめることはそれほど困難ではないでしょう。それはだれの経験の中にもないからであり、足し算であるからです。しかし何かを変えることは不可能と思えるほど困難である場合が多いのです。みんなの経験の中にすでにあることからの引き算であるからです。むやみやたらに変えるべきではありません。しかし必要のために、正しい目的のためには変わっていかなければならないこともあります。変化のないような成長はあり得ません。成長には変化と引き算が必ず伴うのです。去年まで着られた服は小さくなり、小さいときの服を捨てながら子供たちは成長していくものです。
 
 注文が多い
 神の言葉に対する心構えというテーマに戻ります。経験と一致しているゆえに御言葉にうなずいて応答する者は、経験からはみ出したり経験と一致しないことが語られるともうそれ以上は受け入れようとはしません。
 そのような人は注文が多いというもう一つの特徴があります。礼拝の後で、「今日の説教は恵まれた」と言う方がありました。「今日の説教は恵まれなかった」とは言われたことはありません。「恵まれた」と言わないときはそうであったのかもしれません。神の言葉なら何でも聞こうという心構えがなく、お好みのテーマで説教されることを望んでいるからです。
「教会員は一週間の間、社会に出てみんな疲れている。だから、もっと恵みと慰めの説教をしてください」と後輩に指導する牧師もありました。厳しい説教ばかりするなど、確かにどんな意味でもかたよった説教の傾向は正しくありません。説教者の責任が問われるでしょう。しかし聴衆がかたよっていることはもっと多いのかもしれません。講壇から会衆席に語りかけるのではなく、それは会衆席が講壇を支配しているのです。
 有名な英国の説教者であるロイド・ジョーンズはオックスフォード大学のチャペルでの説教を依頼されたときの経験を、アメリカの神学校の講義で語っています。説教者の卵たちへの警告です。説教の後、一人の婦人がロイド・ジョーンズに近寄ってきて言いました。「私たちを罪人として説教をしたのは、あなたが初めてです」と。学長の夫人でした。大学のチャペルでの礼拝には、いつもゲスト・スピーカーが招かれました。聴衆は世界でも最も頭の良い学生たちと、その学生を教える教授たちです。他のすべての説教者は、そのような聡明な人々を罪人として語りかけることを躊躇したのです。
 説教が長すぎるという注文もあります。45分を超えると、時計を見る人が多くなります。宗教改革者たちの説教は、1時間半とも3時間とも伝えられています。それでも宗教改革者たちは、人々に長い説教を聞かせることではなく、人々を教会から去らせるのに苦労したのです。
 
 悔い改めない
 見る、聞く、悟る。それぞれ、目、耳、頭脳の働きです。あなたの目は本当に見えていますか。あなたの耳は本当に聞こえていますか。あなたの頭は本当に考えていますか。
教会の玄関をくぐるまでに何本の桜の木がありましたか。教会の前の桜は、他の多くの桜と違う種類であることを御存知ですか。すれ違った何人の人の顔を覚えていますか。男性が何人で、女性は何人でしたか。服装はどうですか。そんなことはどちらでもよいことばかりです。しかし重要なことでも、見ているようでも見ていないことも多いことをお知らせしようとしただけです。注意深く聞き、注意深く見て、心で悟ることがなければ、本当に大切なことの前をも、そのように通り過ごしてしまうかもしれないと考えるべきです。
「目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず」という預言者の言葉は不思議な表現です。それこそが「悔い改めない」という意味であり、これまで述べてきたことが、「悔い改めない」というこの一言に要約されているのです。聞くべきように聞き、見るべきように見ず、悟るべきことを悟らない状態が、悔い改めないことであるのです。
「悔い改め」をある一瞬の劇的な出来事と考える必要はありません。暴力団の組長が牧師になった、大酒のみの酔っ払いが酒をきっぱりとやめた、悪人がみごとに変わった、と言うような劇的で感動的な変化は確かにあるでしょう。しかしそれだけが悔い改めなのではありません。劇的な悔い改めをしても「元の木阿弥」になることも少なくありません。悔い改めが劇的であるかどうかでなく、悔い改めが本当であるかどうかだけが重要であるのです。
これまで考えてきたような間違った仕方ではないように言葉を聞くことが、悔い改めることです。病院の待合室で順番を待っているとき、医師から深刻な検査結果が告げられるのがカーテン越しに聞こえてくることがありました。他人事とは言え、こちらまで深刻になってしまいます。しかしそんなことは次の日の朝になれば、すっかりと忘れているでしょう。自分のこととして聞いていないからです。どんなに熱心に耳を傾けているようでも、涙を流して説教を聞いたとしても、神の言葉がそのように聞かれているなら、それが悔い改めないことであるのです。
説教を聞く前と、説教を聞いたあとに何の変化もないなら、それが悔い改めないことであるのです。もしそうなら、責任は説教者か説教の聴衆のどちらかにある
 
恵み
 悔い改めは神の恵みです。悔い改めは、神の圧倒的な主権なしには絶対に起こらない現象です。御言葉の下に立って聞くこと。そこにもう恵みがあります。恵みがあなたを支配している証拠です。自分が御言葉によって変えられていくことを拒否しない心、それは神の主権的な恵みだけが生み出すことが可能であるのです。あえて「拒否しない心」と、否定的に語りました。預言者も否定的に語っているからです。あなたが自分を否定する勇気を持ち、自分の聞き方を真剣になって考え始めておられるなら幸いです。自分の罪や誤りと直面させるのは神の恵みだけです。恵みがなければ、人は見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないのですから。