マタイ福音書(抜粋)

「天の宝を見つける方法」
 
マタイ福音書13・44~45
天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
 
 
 宝・会員権
キリストは、「富は、天に積みなさい」と山上の説教で言われました。「そこでは虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むこともない」(マタイ5・20)からです。「富」は原文のギリシャ語の聖書では、ここで用いられている「宝」と同じ言葉です。
地上の宝は価値を失い、過ぎ去るときがあります。流行が去った一流ブランドのドレスは、虫が食ったようにみすぼらしくなります。10年前の高級車も最新型の横に並べると、さび付いたように古く見えます。大銀行に預けた巨額の定期預金も大邸宅も、死という盗人がすべて持ち去ってしまします。キャーキャー騒がれたアイドル歌手も、5年もあれば十分に忘れ去られ、次の若者たちは次のアイドル歌手に熱中しています。
聖書は山奥に住む仙人のように、地上の宝を無視するべきだと教えているわけではありません。しかしすべての地上のものは相対的で一時的な価値であり、最後までしがみついているべきものではありません。
 しかし天の宝は、どんなものをも犠牲にしてでも手に入れるべき、永遠で絶対的な価値があるというのです。何としばしばこれが逆転してしまうことでしょうか。「隠された畑の宝のたとえ話」と「商人と高価な真珠のたとえ話し」は共通のメッセージを伝えようとしています。「宝」は「真珠」に言い換えられ、どちらもかけがえの無い価値があります。
宝とは「天の国の会員権」です。花小金井教会のすぐ近くには、バブル経済絶頂のころ、会員権が4億円になったゴルフ場(小金井カントリー倶楽部)があります。その話をイギリス人にしたところが、「ゴルフ場を買う値段か」と言われたという笑い話のような本当の話もあります。
 直前の毒麦のたとえ話は、天の国のまぎらわしい会員籍に関する話で、ここでは引き続き、メンバーシップという同じテーマが扱われています。
   
 発見者
 第一のメッセージは、発見者は少数であるということです。畑の宝を見つけるということは、そう頻繁に起こるものではありません。現在の日本はマイナス金利で、「たんす預金」が増え、ホームセンターの金庫の売り上げが何倍にも伸びているそうです。当時は銀行の定期預金や郵便貯金はありませんので、金、銀、宝石、貴金属など大切なものは庭や畑に隠すことが普通におこなわれました。
マタイ25章のタラントンのたとえ話で、土の中に1タラントンを埋めておいたのもこのような習慣からと思われます。ところが土地の持ち主の死亡や、戦争などの社会変革のために、宝が埋められたまま残ることがあり得たのです。ここで発見されたのはそのような宝であり、そのような場合、所有権は基本的には発見者のものとなったようです。
 金や銀は重さが2倍になれば、価格もちょうど2倍になるのですが、ダイヤモンドや真珠はそうではありません。大きさが2倍になれば、価格は何倍も何十倍にもなることもあります。大きなダイヤや大きく形の美しい真珠は稀にしか見つかりません。そのように天の国のメンバーシップを見つける者もごく少数者であるというのです。
 
 犠牲
二番目のメッセージは、天のメンバーシップを手に入れるためには、犠牲を払わなければならないということです。それが天の国の発見者が少数である理由の一つです。神が天国の入り口を狭くしたり、宝くじのように当たる確率が低いからではなく、人間の側に問題があるというのです。
畑の宝を見つけた農夫も、高価な真珠を見つけた商人も、持ち物を全部売り払ってそれぞれの宝を手に入れようとしました。これまで自分が持っていたものをそのまま自分の手元に置いておき、それに加えて新しい宝を手に入れることはできなかったからです。また一部を処分して、その代価を手持ちの金に加えることによって新しい宝を手に入れようとしたのでもありません。持ち物をすっかり売り払って、買い取ったのです。
キリストはご自分の全生涯と命を代価として支払い、あなたを買い取られました。それゆえクリスチャンは、片方の目、片方の足、片方の手だけをキリストにささげるのではありません。すべてを売り払って、神の国の会員権を買い取らなければならないのです。  
 
ゆるく握る
天の国はプラスアルファーの祝福ではなく、そっくりと取り替えるべき祝福です。もちろんクリスチャンになるためには、言葉遣いも服装も生活もあらゆる面で全く違う人にならなければならないという意味ではありません。宗教のために財産を投げ出すこと、施設で隔離生活をすること、特別の髪型や服装、特別の生活習慣、特別の言葉使い、等など。それはカルト宗教のやり方です。
根本的に変えられなければならないのは、細かい端々の表現ではなく考え方と方向です。地上の宝の価値をどのように考えるかということです。たとえば、地上の宝は虫が食ったり、さび付いたり、盗人が盗んでいく可能性のある一時的な価値にすぎないということを知らなければなりません。たとえ宗教のために全財産を投げ出したとしても、まだ心の中ではそれに執着しているかもしれません。
 天の国と地上の宝の両方を手に入れることはできません。繰り返しますが、地上のものすべてを失わなければ天の国を手に入れることはできないという意味ではありません。そうではなく、両方を宝とすることはできないのです。
クリスチャンになるとは、単に洗礼を受けるとか、単に日曜日には教会に行くようになることではなく、物事の見かたや考え方が変わるということです。つまり一貫した生き方をするということです。世の人々の生き方はある意味では一貫しています。金、地位、名誉、など、世のものを宝として生きているからです。それらの宝を手に入れることが人生の目標であるのです。クリスチャンになるということは、それらのものを捨てたり軽視することではなく、世の人々が宝と思っているものを宝と思わなくなることです。
 少し言い方を変えるなら、世にあるものを力を入れないで「ゆるく握る」ことです。クリスチャンは世のすべてのものを捨てる人ではなく、必要であれば世のものをいつでも離せるようにしっかりと握りしめない人であるのです。
 
 セット
 クリスチャンはこの地上では損をせよ、と言っているではありません。本当の得をしようとして、それ以下の価値を手放し、最高に価値あるものを見失うことがないためにあるものを捨てるのです。
単独で存在する価値というものはこの世にはありません。NHKの番組を見ることと、視聴料を払うことはセットです。視聴料を払わない民間放送の番組を見ることと、コマーシャルを見ることもセットです。たばこと肺がんの可能性、登山と遭難の可能性、酒とおつまみ、車と諸経費、等など。
 それ自体悪いものだけが問題なのではありません。少しだけ骨董品に興味を持ちそうになったことがあります。決して悪い趣味ではないと思いますが、ティーカップやスプーンだけでもやりはじめたらきりが無いと気づいたとき、これでやめておこうと思いました。いまはヴァーチャルの時代であり、いったん始めるとその仮想現実の中に生きることになってしまいます。
 それが何であれ、この世のものに心を奪われるとき、あなたの心は着実に世のものとなっていきます。ある一つのことだけで終わることなどないからです。あるものをしっかりと握るなら、芋づる式にそれにつながっている次のものもほしくなるのです。たとえ一つのことでも心を完全に奪われてしまうなら、その人の全体が完全にこの世のものとなるのは時間の問題にすぎません。
 
喜びながら
この世のものの本当の性質を理解し、世に属するものをゆっくりと握ること、それがここで言う、「持ち物をすっかり売り払う」ことです。クリスチャンは涙を呑んでそうするのではありません。「喜びながら」そうするのです。
 地上に属するもの一つひとつに文化があるとすれば、天の国に属するものも単独に存在するのではなく、広がりと深さをともなうのです。パウロは「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ5・4)、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、真実、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5・22)と語っています。主イエス・キリストは「心の貧しい人々は、幸いである」とだけ言って終わるのではなく、「悲しむ人々は、、、」「柔和な人々は、、、」「義に飢え渇く人々は、、、」「憐れみ深い人々は、、、」「心の清い人々は、、、」「平和を実現する人々は、、、」と続けるのです。天の国の一つの祝福が、単独で存在するのではなく、真珠の首飾りのように他の祝福につながっていくのは、地上の宝が人の魂をついには完全に占領してしまう逆の過程に似ています。いま目の前に示されている祝福を、犠牲を払って追及していくこと。そこに次の祝福が見え始めます。袋いっぱいにつまった多くの小さな真珠は、大きく美しい真珠一個にまさるものではないことが分かったときにだけ、そうすることができるのです。
 
 テスト
何もかも捨てて修道院に入らなければ、天の国を得ることができないと考えた人々があります。そのような大きな献身は、必ずしも天の国のメンバーシップの証拠ではありません。むしろ、あなたの目の前にある小さな天の祝福を得るために、小さな犠牲を払うかどうかが本当のテストです。それは小さな祝福であるかも知れません。払う犠牲もはなばなしいものではなく、地味なものであるかもしれません。「すっかり売り払って」とは、天の祝福を得るために現実の小さな犠牲をいとわないことです。    
犠牲はたとえば人から変に見られることであるかも知れません。クリスチャンでない御主人からいやがられるかもしれない、という恐れであるかも知れません。畑の宝も、高価な真珠も、「持ち物を全部売り払わなければ」手に入れることができなかったのです。救いを功績によって買い取るという意味ではありません。畑の宝や高価な真珠の半分や3分の1を手に入れることはできません。手に入れるか、失うかのどちらかです。中間はありません。
 
宝の埋まっている畑
2つの短いたとえ話は、宗教のためには全財産をも投げ出すべきであると教えているのではありません。財産によっても、人間のどんな功績によっても、天の国を買い取ることはでききないからです。たとえ話が伝えているのは、天の国を買い取る方法ではなく、天の国に対する心構えです。天の国そのものはもちろん、天の国にかかわる事柄は、何を捨てでも最優先にすべき価値であるからです。
宝そのものは買うことができませんが、宝の埋まっている畑は買うことができるのです。神の国にかかわるあらゆる機会をとらえようとする、そのような心がけを持つ者が天の国の宝を発見する人です。たとえば、福音が語られる場所に、いつも自分をおくことが重要です。掘ったところにいつも宝があると考えるべきではありません。たまたま教会に行って、特大の祝福が入った福袋を期待すべきではありません。
 
偶然
商人は捜し求めた末に真珠を手に入れました。畑の宝は偶然に見つかりました。おそらく日常の農作業をしているときに、クワの先が「カチーン」と、宝の箱に偶然に触れたのでしょう。天の国を見出すきっかけやその過程は様々であり、こうでなければならないと考える必要はありません。
農夫はいつもと同じように仕事をしているとき、職場でもある畑で宝を見つけました。普通のときに普通の場所で、宝はしばしば見つかるものです。チルチル・ミチルは、「幸福の青い鳥」をさがすためはるばると旅をしました。しかし幸福の青い鳥は自分の家にいたのです。
特別の場所、特別の機会にだけ、幸福があるように思えるかもしれません。しかし海外旅行、結婚式、クリスマス・パーティーはそんなに頻繁にあるわけではありません。一年の大部分は、ゴルフ場ではなく会社の机の前で。テニス・コートではなく自宅の台所や学校の教室で。ゴルフ・クラブやテニスのラケットではなく、ボール・ペンやフライパンの柄を握ってすごすのです。もし特別のことにだけ幸福があると思うのなら、楽しいのは一年の内ほんの数日だけ、人生の大部分は退屈でつまらない日をすごさなければなりません。
職場、家庭、学校など日常生活の中で意味を見出せない者は、人生全体の中でほんのわずかしか幸福を感じることのできないのです。
農夫はいつものように仕事をしているときに、宝を偶然に発見しました。一方、商人は、真珠を求めてついに見出しました。はるばる遠くまででかけたことでしょう。無駄足もあったことでしょう。真理は、そのようにして見出されることもあるのです。りんごは無数の人々の目の前で木から落下したことでしょう。りんごだけでなく、栗も柿も落下しました。しかしそこから万有引力の法則を発見したのは、アイザック・ニュートンだけであったのです。この有名な話が事実であるかどうかはかなり疑わしいのですが、ニュートンの真理に対する姿勢を見事に言い表していることだけは確かです。