マタイ福音書(抜粋)

「心の硬い人」種まきのたとえ話①
 
マタイ福音書13:1~9、18~21
その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢に群集がそばに集まってきたので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出ていった。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは30倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」(1~9)
「だから種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。」18~19
 
 
私のような説教者にとって、このような聖書の言葉は特に興味深いものです。なぜ同じ話しをしているのに、聞く人によって全く違う結果が出るのか、という疑問にこのたとえ話がみごとに答えてくれるからです。有能な説教者とそうでない説教者の違いは確かにあるでしょう。ですから説教者の責任も認めなければなりません。
しかし、有能な説教者の説教にも、平凡な説教者の説教にも、それぞれ悟らない者と豊かな実をならせる者があるのはどうしてでしょうか。説教者の能力だけでは説明ができません。最も驚くべきこと、最も注目すべきことは、このたとえ話しがだれに対して語られているかということです。「すると、大勢に群集がそばに集まってきたので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた」と記されています。つまりキリストの敵でも無関心な者でもなく、イエスの言葉を聞こうとして集まって来た、広い意味でのキリストの弟子に対して語られているのです。 
 
 たとえ話の設定
 このたとえ話に登場するのは、「種をまく人」「種」そして「4種類の土地」です。それぞれ何を表しているかは明らかであり、解釈にあたって特に議論はありません。「種をまく人」は神の言葉を語る人。直接的にはキリストであり、さらには福音の説教者、あるいは福音を語るすべてのクリスチャンも含まれるでしょう。種まく人によってまかれる「種」は神の言葉、「4種類の土地」はその言葉を聞く人の心の状態。そして神の言葉を聞く心の状態には4種類あるというのです。このようにして、まかれる種は同じであっても、種を受け入れる土地の状態によって全く異なる結果が出るという説明です。
 
キリストに従う者への警告
すでに指摘したように、このたとえ話は律法学者やファリサイ派の人々といったキリストの敵対者に対して語られたのではありません。キリストに従おうとする広い意味での弟子たちに対する警告として語られていることにまず注目しなければなりません。キリストの教えを好意と関心をもって聞こうとして集まって来た人々が、このたとえ話の主な対象であるのは少し驚くべきことです。聖書の話を単に喜んで聞いている、というだけでは十分ではないという意味です。
また途中までは良かったというだけでは何にもなりません。4種類の土地のうち、良い結果が出たのは4番目の土地だけです。大阪まで荷物を届けるのに、横浜で新幹線を降りた者も、名古屋で降りた者も、京都で降りた者も、目的を達成できなかった、ということではみな同じであり全く差はありません。みんな荷物を届けるという目的を果たせなかったからです。これこそがサタンの得意技であり常套手段であることを知らなければなりません。振り込み詐欺にやられないためには、その手口を知っておくことが重要です。100万円をだまし取られるなら悔しくて仕方がないでしょう。しかし人生の全体をだまし取られるよりはましです。
 
種まきの方法
最初の種は道端に落ちました、2番目の種は石だらけの土地に、3番目の種は茨の中に、、、と話を進める前に、当時のパレスチナでの種まきの仕方について少し説明をしておく必要があります。種まきの方法は主に2種類であり、どちらも私たちの感覚からすればあまりにも乱暴で雑なやり方です。第一の方法は、ロバの背に種の入った袋を背負わせ、その袋に小さな穴をあけロバを自由に歩き回らせるというものです。もう一つは、ミレーの有名な絵にも描かれている方法です。種をまく人は種を空中高く種を投げ上げ、風によって種は畑の様々な場所に落ちていくのです。どちらの種まきによっても、このたとえ話にあるように、ある種は道端に、ある種は石だらけの土地に、ある種は茨の中に落ちるということがおこってくるのです。
 
道端
さてまずは道端に落ちた種です。道とは農夫や旅をする者が通る畑の中のあぜ道です。道端の土は通行人によって踏み固められ、硬くなって種は中に入ることができません。道端で表される心の状態は、最後の良い土地以外のすべてに通じるものがあります。それだけにその意味を知ることは大変重要であると思います。具体的な理由は様々であっても、最終的には何か共通したものが福音を拒否させているように見えるからです。
さて道端が何を表しているのかを考える前に、念のためにもう一度、何を言っていないかを確認をしたいと思います。その心が道端にたとえられる最初の人は、律法学者やファリサイ派の人々のようにキリストの敵対者ではなく、キリストの説教を聞こうとして、自らガリラヤ湖畔に集まって来た人であり、少なくともこの時点ではキリストの言葉に好意と感心をもっている人々であるのです。
 
プラス・アルファーの宗教
「鳥が来て食べてしまった」と記されています。では彼らは何が問題であったのしょうか。根がないため、種と土との間には命の関係が全くありません。種は土から水分も栄養もとることができません。つまり神の言葉である種は、土の上に乗っかっているだけであったという意味です。神の言葉とその人の心の関係は、テーブルの上のコーヒー・カップや、飾り棚の人形とほとんど同じ関係です。コーヒー・カップはコーヒーを飲み終わると下げられ、食事の時間になるとテーブルには別のものが乗っかることになるでしょう。飾り棚の人形も別の新しい人形に取り換えられるかも知れません。
このような人は宗教に関心はあるのですが、命の関係はありません。命の関係とはぶどうの木と枝のような関係、または体と手や足のような関係であり、そこには命のつながりがあります。血液や水分や栄養が互いに行き交いしています。しかしテーブルとカップは、たまたまそこに置かれただけでそのような命の関係はありません。取り去られたり別のものに置き換えられるのです。神の言葉とそのような関係であるなら、同じことが起こります。たとえば鳥が食べてしまうのです。
ではそれはどんな宗教なのでしょうか。神の言葉をプラス・アルファーと考えるようなキリスト教ということができるでしょう。心の底にある自分の基本的な人生観や価値観は全くそのままで、それに自分が気に入った何かを付け加えようとしているだけです。ブローチやネックレスのように気に入った教えをちょこっと付けてみます。それをはずして別のブローチに取り換えるかもしれません。根本的な人生観や価値観に関しては、足し算だけで引き算はありません。本当に好きなことを止めるつもりもありません。今していることを割引してまで、キリストの言葉が入り込む余地は心の中にはありません。それが「悟らない」という言葉のここでの意味です。
 
偏見
ではなぜそのようなキリスト教になるのでしょうか。偏見は神の言葉が心に入り込めない硬い心の第一の原因です。キリスト教はこういうものだ、聖書はこういうことを教えていると勝手に思い込みイメージが出来上がっているのです。そのような心に神の言葉がどんなに多く語られても、心の底にまで伝わることは何もありません。神の言葉は心のフィルターを通る間に重要な意味が取り除かれ、残りかすが心の中の型にはめられてお好みの意味に仕上がるからです。
私の父は薬ビンの問屋をやっていましたので、父といっしょにガラス工場によく行くことがありました。どろどろに溶けたガラスが、鉄の型に流し込まれて、圧縮空気がシュッとはいり薬ビンが出来上がります。
そのように神の言葉は自分の心の型に流し込まれて、もとの意味とは全く違うものに変形され、それを信じて喜んでいるにすぎません。そのようにして神の言葉は心の中に入っていかないのです。それが「悟らない」という意味であり、その人は変わることはありません。「道端」と表現された硬い心の人は、かならずしもいかにも頑固な人のことではありません。
 
自己信頼
自己信頼はいま考えた偏見の原因です。自分の考えはいつでも正しいと思っているのです。知っていると思っている生徒には、どんな優秀な先生でも何も教えることができません。学ぶ生徒とは、自分は知らないということを知っている生徒だけです。
ここでも注意をしなければなりません。いかにも自身満々で高慢な人のことだけを言っているのではないからです。暗い顔をして失望しているように見える人は、無条件に自己信頼者のリストからはずされるのではなく、何に失望し何に絶望して暗い顔をしているのかによるのです。同情すべき悲しみや苦しみは多くあるでしょう。
しかし自己信頼はそのままで、他の人が自分を評価しないことに失望し絶望している場合も少なくありません。それは自己信頼というコインの裏面にすぎないのです。すぐにがっかりする人、あまりにも傷つきやすい人は、自信過剰の人と実は魂の状態はあまりにも似ているのです。ですからそのような人は、条件さえ整えばいつ自信過剰で高慢な人になるかも知れません。人は無力であることを徹底的に教える神の言葉は、どちらの人の心にも入ることはできないでしょう。彼らは自己信頼のため悟ることができないのです。積極的な自己信頼と消極的な自己信頼があることを見分けなければなりません。
 
結論
道端にたとえられる心は、北朝鮮の独裁者のように自我が心を支配している状態です。自分に逆らう部下は抹殺されてしまいます。「嫌いな人にも親切にしましょう」「人の悪をゆるしましょう」などと、自我を追い出すように命じる神の言葉は心に入ることがゆるされません。戦いがない宗教です。痛みがない宗教です。神の言葉は命の関係なしに、ただ上に乗っかっているだけであるからです。心に突き刺さるものは何もありません。神の言葉は、床の間の置物や額の中の賞状のようにただ飾ってあるだけです。嫌いになったら取り換えればよいだけです。神の言葉は根を張って心に入り込むためには、自我が削られなければならないのです。
そのような土地にまかれた種はやがて鳥が来て、種を持っていってしまうでしょう。人が神の言葉を悟らないのは、説教が難しいからではありません。それも確かに一つの原因かも知れませんが、根本的な理由ではありません。それは、悟ることがないため鳥が来て食べてしまうからです。
銀行から引き出した100万円を紙袋に入れ、途中で公園のベンチで休憩をしました。電車に乗るとき紙袋が無いことに気づき公園のベンチにすぐもどってみましたが、もう紙袋も100万円もありません。あなたはどう思われるでしょうか。自然に消えたとお考えでしょうか。いやだれかが持っていったと思われるにちがいがありません。神の言葉の説教が終わったとたんに、いま何が語られたかを思い出せないとしたら、それはどうしてでしょうか。教会の玄関を出た瞬間に忘れたとしたら、ロビーでおしゃべりをしている間に、鳥が来て食べてしまったのです。
「本日限り」「数に限りがあります」などと書かれた新聞折り込みの招きには、「今日はちょっと用事がありまして」などといちいち返事する必要はありません。しかし恋人からのラブレターを無視するならば(悟らなければ)、深刻な問題になるにちがいがありません。聖書は神のラブレターとも言われます。独り子を与えるほどに私達を愛された神の言葉には、全人格をもって命がけで応答しなければならないのです。