マタイ福音書(抜粋)

「窒息した神の言葉」種まきのたとえ話③
 
マタイ福音書13・7、22
ほかの種は茨(いばら)の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。(7)
 
茨の中にまかれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉をふさいで、実らない人である。(22)
 
 
 クリスチャンになっても、残念ながら途中で挫折してしまう人のことを引き続き考えます。今回のキリストの言葉には、その三番目で最後の原因が示されています。
 
 進展
 三番目の種は茨の間に落ち、しかし、茨が伸びて種の成長をふさいでしまいました。今日は、このような絵で説明されている人の心の中がどうなっているのかを覗いてみましょう。しかしその前に、道端と石だらけの土地という二つの土地との共通点と相違点を確認しておくことは有益です。
 共通点で最も重要なのは、「実を結ばなかった」という残念で決定的な結果であることは前回のメッセージですでに指摘しました。では相違点は何でしょうか。最初の二つの土地が実を結ばなかった根本的な原因は、土地の硬さにありましたが、第三の土地はそうではなかったことです。第一と第二の土地には、多少の時間的なずれはあっても、結局どちらも最終的には心の硬さのために種は根を張ることができなかったのです。しかし第三の土地が実を結ぶことができなかった原因は、地下ではなくむしろ地上にさがさねばなりません。第三の土地に落ちた種は芽を出し根を張ったのですが、茨も伸びてそれがせっかく出た芽や葉を覆ってしまったというのです。
 第一と第二の間には重要ではないが何らかの進展があったように、最初の二つの土地と三番目の土地との間にはもう少し重要な進展が見られます。しかしそれはやはり、根本的な相違ではありません。第一と第二の間には時間のずれがあっただけで、本質的には二つはほとんど違わなかったのです。しかし第三の土地には、もう少し大きな違いが見られます。第三の土地にたとえられる人の心は、先の二つのように心の堅さによって神の言葉を拒絶していないからです。つまりすでに指摘したように、心の硬さが神の言葉の種が実を結ばなかった原因ではなかったのです。
 神の言葉を聞いているだけでは十分ではありません。それが道ばたのような心への警告です。神の言葉を喜んで聞いているというだけでは十分ではありません。それが石だらけの土地のような心への警告です。では今回の、茨の土地のような心へのメッセージは何でしょうか。神の言葉を拒否していないというだけでは十分ではないという警告です。毎週、日曜日の朝に教会に集まる私たちはもちろん、神の言葉を拒否する者ではありません。ですから、今日の説教には注意深く耳を傾けなければなりません。
 
 茨の土地
 さて二番目の土地の時と同様に、誤解を避けるために、茨の土地に関しても多少の説明が必要であるかも知れません。茨などの雑草がすでに生え茂っているような土地に種が落ちた、というような場面をイメージするべきではありません。石だらけの土地がそうであったように、おそらくはじめは良い土地のように見えていたのでしょう。しかしその中には、すでに茨の種も混じっていたのです。落ちた種が根を出し、芽を出し、根を張って成長していく時に、茨の種も芽を出し根を張り成長していきました。農夫によって蒔かれた種よりもはるかに多く混じっていた茨の種が、ある程度成長した神の言葉を覆いふさいで、窒息させてしまうのは時間の問題であり当然の結果です。
 茨の土地にたとえられる人は、神の言葉にとくに反対することはありません。道端にたとえられた第一の土地は、神の言葉が自分の人生観と自分の生活の中に入り込むことを拒絶する心です。石だらけの土地も基本的には同様であり、ただ本性が現れるまでに多少の時間があったにすぎません。最初の二つの土地は、すぐであれ、しばらくしてからであれ、神の言葉を拒絶したのです。つまり心の硬さのために神の言葉の種はその人の心に入り込むことができなかったのです。しかし繰り返しますが、神の言葉に対する積極的な反発や硬さは第三の土地の特徴ではありません。では何が実を結ばなかった原因になったのでしょうか。問題は二つ指摘されています。それは「世の思い煩い」と「富の誘惑」が、御言葉を覆いつくしてしまったことです。
 
 世の思い煩い①
 まず一般的な思い煩いがあります。ガリラヤ湖畔での主イエスは語られました。「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って思い悩むな」と。私たちの体と体を保つための様々な手段である衣食住は、思い煩いの代表であり思い煩いの源です。と言っても、クリスチャンは、計画を立てることや、将来に備えて貯金をしたり、万が一のときのために保険をかけることに否定的であるべきだ、という意味ではありません。準備のやり過ぎと、準備が万全でないことに伴う心配しすぎへの警告です。
 私たちは、通常予想されるようなことには備えをするべきです。しかし、こうなったらどうする、ああなったらどうする、と先の先まで限りなく心配が発展していくことは思い煩いと言われ
るのです。万全な準備など、そもそも不可能です。その心が茨の地にたとえられた人は、積極的に神と神の言葉を疑うことはしないでしょう。それどころか唇は、信仰深い言葉で神への信頼を表すでしょう。神を疑うなどとんでもない事だと思っているでしょう。しかし心は、衣食住や健康の心配をし過ぎることによって、実は神への不信頼と疑いを表しているのです。神と神の言葉を積極的に心から追い出すことはなくても、いつの間にか神の言葉のためのスペースが心の中になくなってしまうのです。そして、最初の二つの土地の場合と全く同じ結果が出てしまいます。神の言葉に対して積極的ではない魂への警告、消極的な宗教への警告です。
 
 世の思い煩い②
 世の思い煩いは、神の言葉に対する私たちの決心を遅らせます。「サタンはいない。天国も地獄もない」と思わせることはサタンの仕事の最高傑作です。そして「まだ時間がある」「いそぐことはない」は、サタンのその次の最高傑作です。金曜日の朝に入ってくる電気店の折込広告には「台数限定」と書かれていました。月曜日にいってみますと、その商品は売り切れでもうありませんでした。世の中には急がなくてもよいことと、急がなければならないことがあります。
 イスラエルの民は、真っ二つに分かれた海を目の前にして、すぐに決心をしなければなりませんでした。海を渡るか、渡らないかを。決心を遅らせている間もエジプトの軍隊はイスラエルに迫っていたからです。海はいつまでも奇跡的な状態に留まっているわけではありません。決心を遅らせることは、中立の立場を選択したのではなく、エジプトに逆戻りすることを決心したのと全く同じであると言わなければなりません。エジプトを出て海のほとりまで来たことは全く意味がなくなってしまうのです。前回のたとえで言えば、大阪の友人の結婚式に出席するために来たのに、京都で新幹線を降りてしまうのと同じです。いやむしろエジプトに戻ることによって恥をかくことになるでしょう。神の民の祝福も、エジプトの名誉も失ってしまうのです。
 「クリスチャンになったら、法事や墓参りや仏壇はどうしたらいいですか」といった質問をよく受けることがあります。私はそのような質問に対して、「こうしなさい、ああしなさい。これはいけません、あれはいけません」と明確なお答はしないようにしています。私たちはまず、これを信じたらどうなるかを心配するのではなく、信じるべきかどうかをまず決心すべきです。まちがっていると思われますなら、ただちに捨てるべきです。正しいかどうかまだ分からないならば、もう少し調べるべきです。しかし正しいと思われますならばすぐに信じるべきです。それがあなたの人生を最終的に決定しているはずです。「この人と結婚したら、どんなご利益があるのか。」「この人と結婚したらどんな苦労があるだろうか。」それがあなたの夫や妻があなたと結婚した第一の理由であったと聞かれたら、どんなにがっかりされることでしょうか。
 
 世の思い煩い③
クリスチャンは「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」(「この世と妥協してはならない」口語訳)(ローマ12:2)と命じられています。「この世に倣う」とは、単にある特定の行動のことではありません。ギャンブルをするとか酔っぱらうといった、ある種の悪い行為のことでもありません。あの行為、この行為という意味ではなく、この世の考え方のことです。しかもそれは何も悪いことばかりとは限りません。前述のように、衣食住、ビジネス、娯楽、健康などそれ自体は善でも悪でもない、生きていくために不可欠な事柄も含まれています。神の言葉の種が窒息してしまうのは、そのようなこの世の事柄それ自体によるのではなく、それらの事柄に対する私たちの考え方によるのです。
 たとえば、「今」が大切だと思います。今日、明日という狭い意味での「今」というだけでなく、永遠を無視した考え方という広い意味での「今」です。地上で得をするか、損をするかだけが重要なのです。神の言葉の種は、そのような考え方の土の中では育つことができません。神の言葉は地上の損得ではなく、永遠の価値に関係するからです。
 
 富の誘惑①
「世」が考え方であったように、「富」は金銭そのもののことではなく、金銭に代表されるこの世のものに対する考え方のことです。「富」は金銭で買うことのできるすべてのものも含んでいます。しかしやはり、金銭や金銭で買うことのできるものそれ自体が悪である、という考えは聖書にはありません。富と物を多く所有している者の中に、富の誘惑によって神の言葉が窒息してしまった者とそうでない者があるように、富と物をわずかしか所有していない者の中にも、神の言葉が富の誘惑によって窒息した者とそうでない者があるのです。
キリストは言われました。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(6・24)。金そのものが悪なのではなく、金に仕え、金を愛することが問題であるのです。パウロも同様に語っています。「金銭の欲は、すべての悪の根です」(1テモテ6・10)。金銭そのものではなく、金銭への欲が問題です。
 
富の誘惑②
富への誘惑は金の「使い方」に表れます。少し意味が狭くなりますが、「買い方」と言い換えれば現実的で分かりやすくなります。神の言葉の種がその人の内で実を結んでいるのか、それとも、富の誘惑が御言葉をおおって窒息させてしまっているのかは、「買い方」に表れます。信仰的で敬虔な言葉をたくさん用いて話すかどうかより、豊かな聖書知識があるかどうかよりも、金の使い方、金の使い道、買い物のし方によってもっとはっきりと示されるのです。自由に使える金のうち、自分のために使う額と、自分以外の目的のために使う額の割合が、あなた心の割合をよく示しているでしょう。もちろん額の多さや少なさのことではありません。また使うことだけがいつでも問題なのではなく、使わない誘惑もあることも忘れてはなりません。使いすぎも、ケチも、実はどちらもこの世のものに対する執着心の現れであり、その表現が違っているだけです。前者は自分のために買いすぎることによって、後者は神と人のために使わないことによって、神の言葉を窒息させてしまうのです。
あるものを買いに出かけて、あれもこれも両手に袋をぶら下げて帰ってくる人(衝動買い)。必要なものであるにもかかわらず、買わないで帰ってくる人(金に対する執着)。不必要な物をすてられないでため込んでいる人(物に対する執着)。このような人も要注意です。
 
富の誘惑③
富はこの世の代表にすぎません。金と金で買えるすべてのもの、そしてこの地上での生活に関係するすべてのものが、神の言葉を窒息させる誘惑となります。たとえば能力、賜物、職業、健康、娯楽、など。そして時間はこの地上の生活を代表するもう一つの重要な要素です。時間こそが、この世と来るべき世、この世の価値と永遠の価値を区別するからです。あなたのスケヂュール表が、永遠でないもので覆い尽くされているなら、あなたの心の中に蒔かれた御言葉の種は茨によって覆い尽くされているはずです。
礼拝から長く離れてしまうと、多くの場合もとに戻るのはそれほど簡単ではありません。日曜日の朝の時間には別の何かが入ってくるためです。ある青年の場合は、日曜日の朝は将棋クラブに行く時間になっていました。そこにはその時間に集まる将棋の仲間が待っていました。時間の使い方はお金の使い方の次に、クリスチャンの霊的な状態を正確に表しているのです。何も日曜日の朝の時間のことだけを言っているのではありません。私たちに与えられたすべての時間をどのように用いているかは、あまりにも重要な問題であるのです。現代のクリスチャンは、インターネットにつながっている時間と神につながっている時間も調べておく必要があるでしょう。
 
 結論
御言葉が蒔かれた最初の三つの土地は多少の違いがあったとはいえ、最終的にはみなダメになってしましました。立派にやっていたのに、途中で何かのためにだめになってしまったのでしょうか。いえ決してそうではありません。最初から違っていたのです。隠れていただけで、あることをきっかけにその違いが目に見えるようになったにすぎません。そのときになってみないと分からないのではなく、実は最初から分かっていたのです。金の使い方や時間の使い方など、あなたの今の生き方と考え方があなたの生涯の全体を決定していくのです。
口語訳聖書は、「富の惑わし」と翻訳しています。貧しい者は、金持ちになれば多くの悩みから解放され快適に暮らせると思うかもしれません。しかし多く持てば、富をどのようにして減らさないですむかと枕を高くして寝られなくなるのです。欲望のカップはいつも半分しか満たされません。欲望が大きくなれば、満たされない部分も大きくなり、もっと足らないと思うようになるものです。惑わされてはなりません。