マタイ福音書(抜粋)

「実を結ぶ人生」種まきのたとえ話④
 
マタイ福音書23・23
良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。
 
 
 その人が生きたことで、後に何か豊かなものが残った。私たちの人生がそういうものでありたいと願います。最大の模範はイエス・キリストの人生であることは言うまでもありません。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)。「一粒の麦」とはイエス・キリストとその命であり、キリストは人々の罪を背負って十字架で死なれたため、多くの人々に罪のゆるしと永遠の命を与えました。
 私たちはそれと同じ意味で、他の人に命を与えることはできませんが、三十倍、六十倍、百倍の実を結んで、他の人のプラスになるような生き方をするように命じられています。それは種まきのたとえ話で「種」にたとえられている神の言葉を受け入れる心の状態によるのです。そしてその心の状態が四種類の土地にたとえられ、これまでその内の三つまで考えてきました。今回は最後の四つ目であり、たとえ話の結論であり最も重要な部分です。
 
 良い土地の性質
つまりたとえ話の強調点は、最初の三つの土地にあるのではありません。しかし、第四の土地がどんな土地かについての説明は他の三つより多いわけではなく、「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人」とわずかに記されているだけです。しかもこれは新しい説明ではなく、第一の土地の「悟らない」という説明の裏返しにすぎません。「三十倍、六十倍、百倍の実を結んだ」という23節の後半も、第四の土地がどんな土地かという説明というより、どうなったかという結果を説明しているだけです。
要するに「良い土地」の性質に関する、積極的で新しい記述は全く見当たりません。ではほとんど何も説明されていないので、想像するしかないのでしょうか。もちろんそうではありません。第四の土地の説明がないということは、すでに説明されているからであり、実を結ばなかった最初の三つの土地の説明の裏に、第四の土地の性質の説明が隠れていました。つまり、「道端」のようでない土地、「石だらけの土地」のようでない土地、「茨の土地」のようでない土地が、「良い土地」であるのです。
現代人はせっかちで、すぐに何であるかを知りたがるのですが、その前に「何でないか」を知ることが不可欠であると聖書は告げているのです。ピアノのレッスンや水泳教室でも、どうするのかと同時にどうしてはいけないのかを先生はみっちりと教えないでしょうか。病院の医師も、脂肪の多いものや塩分はひかえ目にと告げるでしょう。種まきのたとえ話しも、まず神の言葉に対する誤った態度を示すことによって、神の言葉に対する正しい態度を語ろうとしているのです。
 
実を結ばなかった
これまでの三つの土地にはそれぞれ共通点と相違点がありました。しかし相違点は共通点の前に無きに等しいと言わなければなりません。道端も、石だらけの土地も、茨の土地も、みんな「五十歩、百歩」、実がならなかったという決定的な共通の欠陥がありました。実がならなかった土地が3種類であるのに対して、良い地は一つだけ。悪い聞き方の方が多く、また容易にそうなることを警告しているのでしょうか。心してして聖書を読み、注意深く説教を聞かなければ、いつのまにかそうなってしまうという意味です。
英語の堪能な友人が、イギリスで日本人のための通訳のアルバイトをしていました。あるとき彼は、ヘリコプターの訓練を受けるために日本から来た男性の通訳をすることになりました。それほど神経を使う通訳はなかったと言っていましたが当然でしょう。英国人の教官の指示を騒音の中で正しく聞き取り、それを日本語にして正確に操縦席の男性に伝えなければなりません。私たちも実は、同じぐらい真剣に、神の言葉に耳を傾けなければなりません。この世で生活することは、空中のヘリの中にいるのと同じぐらいに騒音と危険がいっぱいですから。
 
のようでない
「良い土地」はまず、道端のようではありません。道端に落ちた種は、土の硬さのため、土の上に乗っているだけでした。神の言葉が心と自分の生活に入り込むことを拒否する人です。宗教は好きなときに好きなものを身に着ける、アクセサリーのようなものです。道端にたとえられた心は、偏見をもって聖書の教えを理解し、自己信頼に支配されていました。「良い土地」にたとえられる人の心は、そのようではありません。
石だらけの土地も、心の硬さという道端と同じ理由で御言葉を拒否しました。ただそれが分かるのに多少の時間がかかっただけです。その信仰は一時的で部分的でせっかちですから、すぐに効果が出ないと止めてしまいます。やはり自我という硬い石が福音を拒むのです。「良い土地」はそのようではありません。
 茨の土地にたとえられる心は、最初の二つの土地のように、すぐにであれしばらくしてからであれ、積極的に御言葉を拒否するようには見えません。しかし、決心を遅らせている間に、世の思い煩いと富の惑わしによって、その人の心の中はいつの間にかこの世のことに占領され、御言葉のためのスペースがなくなっているのです。「良い土地」はそのようではありません。
 
変ることを拒んだ
良い土地はこのようではありません、このようではありません、とこれ以上は繰り返すことは有益であってもこのぐらいでやめておきます。三つの悪い土地の根本的な共通点の反対側にある、
根本的な共通点を考えることが最も重要であるからです。
最初の二つの土地にたとえられた人は、自分が神の言葉によって変えられることを拒みました。道端はすぐに、そして石だらけの土地はしばらくして。したがって良い土地とは、御言葉によっ
て自分が変えられることを拒否しない人であると言うことができるでしょう。
御言葉がその心の中に奥深く根を張ることができるのです。人は根本的には変わることを好まないのが普通です。もちろん部分的に変わることは望むでしょう。美しくなりたい、英語やピアノや水泳がうまくなりたい、等など。自分はそのままで、何かをプラスアルファーしたいという願いです。もし苦労が伴わなければ、だれでもそのような変化を歓迎するでしょう。しかし、それは本質的な変化ではありません。いま問題にしようとしているのは、人を支配している心の原則が変わるという本質的な変化であり、自然のままの心はそれを断固として嫌うのです。しかし「良い土地」と言われる人は、自分の心が変わることを喜ぶのです。そのような心の根本的な変化を消極面と積極面に分けて考えてみましょう。
 
自分自身が削られる
たとえ話では、変わるのは種であり土地ではありませんが、現実に起こる変化は神の御言葉ではなく、土地にたとえられる人とその人の心です。そのように神の言葉は、まかれる土地によって大いにその姿を変えていくように見えるのです。御言葉は「すべて信じる者に、救いを得させる神の力」(ローマ1・16)です。御言葉は人を変える大いなる力をその内にもっています。罪深い人がきよめられ、意地悪な人が親切になり、気の弱い人が強い人にされます。しかし神の言葉は、自分が変えられることを喜ぶ心の中だけでそのような力を発揮するのです。それがこのたとえ話の結論と言ってもよいでしょう。
「良い土地」にたとえられる心は、消極的に言うならば、心の中の罪を削られることを拒まない心です。自分の罪を御言葉によって指摘されることを、一方では痛みを感じつつ、もう一方ではそれを喜んでいるのです。罪が示され、罪が取り除かれ、清められていくからです。罪が分かるなら、もう半分以上はその罪を取り除くことに成功したようなものです。光に照らされたものは光です。「光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。明らかにされた者は皆、光となるのである」(エフェソ5・13)。神の恵みによらなければ、おこることではありません。普通は、「そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光に来ようとしない」(ヨハネ3・20)のです。
人は反省をするときでも、罪のなさそうなところばかりをさぐって反省をしたつもりになっているものです。五番目に悪いところが自分の一番悪いところ、と思っているならまだましな方と言わなければなりません。気がついている罪はそれほど危険なものではありません。あなたを滅びに導く最も危険な誘惑は、あなたが気がついていない罪であるからです。痛いところには触られたくないと思うのが人情です。しかし悪いところを削らずに歯の治療はできません。本当に問題なのは、あの失敗やこの失敗ではありません。その失敗をおこさせた心とその心の傾向をさぐってみなければなりません。石だらけの土地は、そこまで来たときに御言葉を拒否したのです。御言葉が心の奥深く入り込むことをゆるす心は幸いです。
 
御言葉を行う
「良い土地」は積極的に言えば、御言葉を行おうとする心です。主イエスはマタイ福音書5章から7章に記されている有名な山上の説教を閉じる前に、ある重大な危険を感じて、「岩の上の家と砂の上の家」というたとえ話を用いて話されました。「岩の上」に家を建てたのは御言葉を聞いて行う人、「砂の上」に家を建てたのは御言葉を聞くだけで行わない人です。「砂の上」の家は、洪水が押し寄せたときに倒れてしまいました。石だらけの土地に落ちた種が、御言葉のための困難である太陽が昇ったときに枯れてしまったのと同じです。
映画館から出てくる人は、大なり小なり映画の主人公になったような気分になるものです。強くなって悪人をパンチで倒せるようになったように思えるかもしれません。しかし実際は、映画館に入るときと出るときは何も違っていないのです。御言葉を聞くだけで行なわない者もそれに似ています。聞くだけで何か自分のものになったかのように思えてしまうのです。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」をはじめ、多くの御言葉は聞くためではなく行うためのものです。「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことを思い煩うな」という消極的な行動もあります。今している何かを止めることも行動であるからです。
芽を出した種が茨で覆われて窒息してしまったのも、御言葉を行うことがなかったからです。いやだなと思っている人に積極的に親切にすることをおこたっていると、いつの間にか「いやだな」というもともとの思いがあなたの心を覆いつくしていることでしょう。神に信頼してただちに思い煩いを止めないと、棚に上げたものを何度も何度も下ろしては中身を調べる人生になっていくのです。
しかし、御言葉を信じて行なっていくとき、それが真実であることが示されるでしょう。それゆえ御言葉に対する信頼が増し加えられ、さらに御言葉を力強く行なう者となるでしょう。恵みのリサイクル、恵みのターボ・エンジンです。このようにして、「あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実を結ぶのである」という言葉が真実であることが確認されるのです。しかしただ聞いているだけで行なわない者は、いつの間にか、世の思い煩いや富の誘惑によって心にまかれた御言葉が覆われていきます。御言葉の真実も力も実感する機会がありませんから、御言葉に対する信頼も小さくなっていくでしょう。悪のリサイクルです。それを主イエスは、「御言葉が覆いふさがれる」と言われたのです。
 
最初から違っていた
このような決定的な違いは、後になってみないと分からないのではなく、実は最初から分かっていました。「種まきのたとえ話し」の中で、最も重要なポイントです。四つの土地は後で変ったのではなく、最初から違っていました。ただ違いが表面からは良く見えなかっただけで、表れるべきことが表れたにすぎません。あの出来事、この出来事があなたの人生を変えるように見えるかもしれませんが、実は私たちの心にある人生観や価値観が、これからのあなたの人生を決定していくのです。あなたがどのような人生を送るのかは、今からもう分かっていると言い換えても同じです。私が占い師で未来が見えるからではなく、今あなたが持っている人生観さえ分かれば、あなたの人生はどっちに転んでも決まっているのと同じです。
今日の生き方、今週の過ごし方、今日の説教の聞き方が大切です。いや今この瞬間の、御言葉に対するあなたの心の状態こそが最も重要です。いまこの瞬間、何を考えておられますか。神の言葉があなたの心とあなたの人生に入り込むことを歓迎しておられるでしょうか。それともあなたにとって御言葉は、気に入ったものだけを身に付けるアクセサリーか、床の間の飾り物のように取り換えるものでしょうか。それとも御言葉を実行しようとして注意深く耳を傾け、100倍の実を結ぶ者のようでしょうか。「実」は人や動物の栄養となり、あるいはまた種となって次の実を結ばせるでしょう。自分自身の成長のためだけではなく、他の人を慰めたり励ましたりするために御言葉を聞く者はさらに幸いです。たとえ二人の人しか励ますことができなくとも、その二人がそれぞれまた別の二人を励まし、さらに4人が、、、と30倍、60倍、100倍になるのは不思議ではありません。恵みを受けて成長し、他の人に与えられることを願いつつ真剣に御言葉に聞く一人ひとりの姿勢の中に、すでに百倍の種が入っているのが見えないでしょうか。