マタイ福音書(抜粋)

「汚れに触れるイエス」
 
マタイ福音書8・1~4
「イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は清くなった。イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ言って祭司に見せ、モーセが定めた供え物を献さげて、人々に証明しなさい」
 
 「山を下りられると」は明らかに、山上の説教の最初にある「山に登られた」(5・1)に対応しています。偉大な山上の説教を語り終え、イエスは人々が苦しみ悩みながら生活している地上の世界に再び下りていかれたのです。宗教をある特定の時、ある特定の場所に閉じ込めてはなりません。牧師の書斎でつくられる説教は、日曜日の礼拝だけで通じる話しとなってはなりません。ボンヘッファーは、牧師が説教をつくる時間に関してこのように記しています。「説教は昼間のうちに書くことを勧める。薄暗くなってから書いたものは、昼間の光に耐ええないことが多いものであり、朝の光を受けるとほとんど冴えないものとなる」(「説教と牧会」新教出版社)。
 説教を聞く者も、教会の玄関を出た瞬間に何を聞いたのかを思い出せないのではいけません。それがもしあなたの場合であるなら、あなたの記憶力のせいではなく、説教は礼拝の中だけのものだと思っているからです。私たちもキリストとともに山を下り、説教を心にしっかりと抱いて、私たちと人々の生活の中に入っていかなければなりません。
 
 重い皮膚病
 「すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り」と記されています。「重い皮膚病」は、従来は「らい病」と翻訳されていましたが、差別用語であるため変更されています。これが現在の「ハンセン病」(らい)と同じ病気であるかどうかには議論があり、別の病気であるのか、同じであるのか、それともハンセン病と他の重症の皮膚病を含めた広い意味で用いられていたのか、確かなことは分かりません。不治の病と考えられていたハンセン病も、プロミンという薬の開発によって50年以上も前から完全になおる病気となったのですが、日本の政府はなおも隔離政策を続けるという誤りをおかし、つい最近になってやっとその法律を廃止したばかりです。政府と社会の恐るべき無知と偏見のためです。
 ここに登場する皮膚病の確かな病名は不明ですが、この病気を患う者が世間からどのような扱いを受けていたのかは明らかです。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」という、私たちには不思議に思える患者のことばの中にもそれが表れています。「わたしをなおすことがおできになります」ではなく「清くすることがおできになります」と言っていることに注目しなければなりません。こんな言い方はもちろん私たちはしません。皮膚病を患う者は、単なる病人ではなく、宗教的に清くない者、宗教的に汚れた者とみなされていたからです。当時のユダヤ人社会は宗教的な社会であり、宗教的に汚れていると判断されることは、社会的にも除け者になること等しかったのです。神殿や会堂で礼拝行為ができないというだけでなく、市場に買い物に行くことも自由ではありませんでした。彼らに触れても、彼らの風下に立っていても汚れると教えられていたのです。驚くべきことに、旧約の律法がそのように命じていたからです。(レビ13・45、46、5・3)。
 
 信仰
 重い皮膚病を患っている人は、イエスに近寄り、ひれ伏して「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできなります」と言いました。律法によれば彼らは人々とともに住んではならず、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と人々の間で叫ぶように命じられていました(レビ13・45)。誤って患者に接触した者も汚れることがないためです。医学が発達していなかった当時の衛生的な配慮であるとしても、本人にとっては何と残酷でつらいきまりであったのでしょう。ですからイエスに近づくという行為は、明らかな律法違反のように見えます。律法に違反してでも彼がイエスに近寄ってきたのは彼の信仰のゆえです。イエスが自分をいやす意思があるかどうかは知りませんでした。そのような患者には触ってもいけないというのですから、誰がそんなことをしてくれるでしょうか。しかし、彼はイエスにはいやす力があると信じていたのです。主イエスの前にひれ伏すという行為と、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」という言葉はこの信仰の表明なのです。今日、こんな言い方をする者があるでしょうか。「私は健康保険に入っていますし、今日の代金も支払いますので、私の病気をなおしてください」と言うために私たちは病院に行くのです。私たちには少し不思議に響くこの言葉の中に、キリストは患者の苦しみと願い、謙遜と信仰を読み取られたのです。
 
 手を差し延べてその人に触れ
 「よろしい、清くなれ」は少し残念な訳です。「御心ならば」(「お心一つで」新改訳)という言葉を受けて、「私の心だ」(新改訳)と言われたのですから。自分がいやされるかどうかは、イエスの心しだいであると確信していたのです。重い皮膚病を患う人は、たちまちいやされ清くなりました。しかし、この奇跡の原因は彼の立派な信仰や謙遜にはありません。あくまでも、手を差し延べるイエスの行為と、「清くなれ」というイエスの言葉のゆえに彼は清くされたのです。キリストの言葉の権威と、キリストの前にひれ伏す者の信仰が調和した奇跡です。そして真の奇跡は、いつでもこのようにしてなされるのです。
 神の子イエス・キリストは、私たちに触れるために来られました。キリストは無意識のうちに誤って患者に触れてしまったのではありません。手を差し延べてその人に触れたのです。キリストはたまたまベツレヘムに生まれ、事の成り行きでゴルゴタの丘で十字架につけられたのではありません。私たちに手を差し延べ、罪に汚れた私たちに触れ、私たちを罪から清めるために来られたのです。重い皮膚病の患者が人々と共に住むことも、礼拝をささげることもゆるされなかったのは、単に衛生的な見地からだけではありませんでした。罪によって神から切り離されているという宗教的な真理を、この病は視覚的にもっとも明白にあらわしていたからです。もし彼の病気が今のハンセン病と同じだとしても、極めて伝染力の弱い病気であることはあまり知られていません。菌は空気中ではただちに死んでしまいます。医学的には結核の方がはるかに危険な病気であるのです。しかし結核の危険性がどんなに深刻であっても目では見えない場合が多いのに対して、皮膚病は人々を恐れさせ、汚れを感覚的に示すのに効果があったのです。
 「キャスパー」というアメリカの映画を見ました。幼い時に死んでおばけになった少年の話です。キャスパーはおばけであるため、人間に触れることができません。また、人間もキャスパーに触れることはできないのです。神の子イエス・キリストは罪に汚れたぞっとするような私たちに触れ、私たちの霊的な罪を清めるために、マリアから生まれ人の子になられたのです。汚れた者に触れた者は汚れた者になります。そうです、キリストは私たちの汚れを身に受け、汚れた者となるために来られたのです。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」(イザヤ53・4)。そして私たちの罪はキリストの十字架のゆえにゆるされ、清められるのです。「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(同53・5)。
 
 祭司に体を見せなさい
 奇跡の後、イエスは言われました。「だれにも話さない気をつけなさい」と。1節に登場した群衆は、このときはもう去っていたのでしょう。群衆の前でこの奇跡がなされたとすれば、このせりふはおかしいからです。マルコやルカは、群衆の存在を記していません。でもなぜそのように言われたのでしょうか。人々はイエスを英雄に祭り上げ、本来の働きがさまたげられてしまうからです(マルコ1・45)。なぜ病気がなおっただけで満足しないで、「祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい」と言われたのでしょうか。
 すでに述べたように、病気がなおるかどうかだけの問題ではなく、社会的、宗教的な身分も回復されなければならないからです。単に病気がなおって元気になったというだけでは十分ではなく、人々にもそのことを証明する公の宣言が必要であったのです。病気がいやされたことは、病気からの解放であるだけでなく、宗教的自由、社会的自由の回復でもあったわけです。
 重い皮膚病を患っていた人は病気のため人の中に住むことがゆるされず、町の外で一人で暮らさなければなりませんでした。わたしたちが人とともに住めないのは、私たちの自己中心という罪のためです。どんなに多くの人に囲まれているようでも、実は一人ぽっちでさみしく生きなければならない人が何と多くいることでしょうか。私たちも罪という霊的な病気がいやされ、神の前に出る自由と、人々の中で平和に生きていく自由を求めなければなりません。
 
 結論 
 「手を差し伸べて」というところを、私はいつも少しの痛みをもって読まなければなりません。私の牧師としての最初の赴任地では、前任の牧師の働きを受けて、ハンセン病の療養所の教会での月1回の礼拝説教を約7年間担当しました。その教会における最初の礼拝の時でした。私にはハンセン病のほとんど何の知識もなく、小学校の先生から聞いた話しをそのまま信じていました。はずかしく申し訳ないことですが、トイレのドアの把手を触るのも躊躇していたのです。医学的には感染を恐れる必要は全くなかったのに、という無知を恥じるだけではありません。もし2000年の昔であれば、私も療養所の人々を確実に町の外に追い出したであろうと思うのです。
 キリストの時代には、この病いが何であれ、人々は病気が触るだけでうつることを恐れていたのです。4キューピッド(2メール)以内にいるだけでも、100キューピッド風下にいるだけでもあぶないと思っていたのです。キリストが、「手を差し伸べてその人に触れ」たのはそのような時代であったことを考えなければなりません。
 「私は清い、汚れているのはあいつだ」と思って、人を排除している心こそが汚れているのです。キリストはそのような私たちに触れるために来てくださったことをもう一度くりかえします。「私は汚れている」と思っている人は、清められて帰っていきました。私たちもそうしなければなりません。私たち自身の努力はあまり効果がありません。そして放っておくならば、罪は最終的で恐るべき段階まで確実に私たちを導き入れるのです。
 重い皮膚病を患っていた人は、律法に違反してイエスに近づきました。イエスも患者に触れることによって律法に違反されたのでしょうか。それにもかかわらずなぜ良い結果が出たのでしょうか。マイナスとマイナスでプラスになるのでしょうか。もちろんそうではありません。キリストは本当の意味で律法を守られたのです。山上の説教で「しかし、わたしは言っておく」と繰り返し語りました。山上の説教では言葉によって、律法の本当の意味を明らかにされました。そしてここでは行為によって、同じことをしておられるのだと思います。律法の一点一画までをも完成するためにキリストは来られたのですから。罪のために神から切り離され、自分自身の腹を神とし、自分の判断で生きようとする私たち。罪のために人間からも切り離されて、一人ぽっちで生きなければならない孤独な私たち。キリストは手を差し伸べ、そんな汚れた私たちに触れ、ご自身が汚れた者となり、それゆえに十字架につけられ、罪と汚れの罰を受けられたのです。罰金を払うことも法律を守ることであるように、律法の要求する罰を受けることも律法を守ることであるのです。キリストがお受けになった苦しみと十字架の罰のゆえに、私たちは神の罰から解放され、孤独からも解放されるのです。
 私たちは自分の罪や不幸の責任を他の人になすりつけます。しかし、キリストは私たちの汚れを御自分になすりつけてくださったのです。