「結婚の必要性」

 
 
エフェソの信徒への手紙5・31(新約聖書)
「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」
 
創世記1・27(旧約聖書)
「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
 
 
 日本人の男性と女性はあまり結婚しなくなってきています。内閣府の報告によれば、2016年度の婚姻率は1970年代前半に比べると約半分に落ち込んでいるそうです。その後「少子化対策担当大臣」も誕生しました。2019年の1月のNHKのニュースでは、68パーセントが結婚は必ずしも必要ではないと考えている、とのアンケート調査の結果が報告されていました。日本は急速に「おひとりさま社会」に向かっているのです。
 様々な事情が絡み合っているのでしょうが、そのような時代の傾向の中で、いまとくに結婚の必要性について考えることが求められています。聖書はやはり男と女は結婚することが原則であると教えていると思います。人口減少、少子高齢化など、様々な視点から結婚の必要性を扱うことができますが、ここではもっと根本的に、あなたや私が「人間になる」かどうかという視点から、この決定的に重要なテーマを考えます。 
 
母と子の関係
人の最初の人間関係は、言うまでもなく母と子の関係です。しかしこの人間関係はとうてい人格関係と呼ぶことはできません。人格関係とは、人格と人格の接触による関係であるからです。たとえば、誠実な態度によって人間関係が築かれ、不誠実な態度によって人間関係が壊れます。そしてプラスの人格関係であれマイナスの人格関係であれ、関係が築かれるためにはある程度の時間と歴史が必要となります。
しかしそのような人格関係とは対照的に、子の誕生の瞬間に地球上で最も親密な関係も誕生するのです。生まれた子が誠実であろうがなかろうが、母親はその子を無条件で愛し、子は母に無条件で信頼するのです。そのような関係は自然発生的であり、動物の母親と子の間にも見られる関係です。神の偉大な知恵と神秘に畏れを感じないでしょうか。
子供にとってそのような関係は絶対に必要であり、不幸にも何らかの理由でそのような関係を経験できない子供は、大きなハンディを負うことになります。しかし母と子の自然な関係が人格形成の基礎になるとはいえ、それだけで十分なのではありません。子供が一人の成長した人間になるためには、むしろそれだけでは全く不十分であると言わなければなりません。
 
父と子の関係
そこで父と子の関係が重要な意味をもってきます。母と子の関係が自然で自動的であるように、父と子もある程度は自然で自動的な関係です。最近では例外も決して少なくないとは言え、自分の子供に自然な愛を感じないような父親はやはり少数者です。しかし自然の愛の強さは、母と子の関係の場合に比べるなら大なり小なり弱いのが普通です。そしてここにも神の深い知恵を感じます。
父親と子の距離は、母親と子の距離よりもう少し遠くあるべきであるからです。いつも赤ちゃんに密着しているお母さんにとって、自分の子供を距離を置いて見ることは非常に困難です。子供はやがて社会に出て自分でやっていかなければなりません。そしてその社会は家庭のように、自分を自動的に100パーセント受け入れてくれる関係が存在していない場所です。お父さんは家庭の代表であり、また子供にとっては社会の代表ともならなければなりません。たとえば無条件に自分を受け入れてくれるだけでなく、社会で通じないような行動や態度は前もって家庭でチェックされなければなりません。いつまでも「これはいけません、あれはいけません」と親が子供の側にくっついて注意するわけにはいきません。行動や態度が出てくる内側の人格が成長して、子供がやがて自分で善悪を判断して適切な行動ができるように指導しなければならないのです。もちろんそれは父親と母親の共同作業であるとはいえ、父親がリーダーシップをとらなければなりません。
それはさらに、「父と母を離れて」結婚する準備にもなるのです。母親はもともとそのような仕事にはあまり向いていません。母親と子は密着しており、なかなか離れられないからです。とくに子供が男の子である場合はより困難です。そこで父も母も同じようであるなら、子供は成長することができません。
 
神のかたち
(神は)「人を男と女に創造された。」この言葉は旧約聖書の最初の書である創世記の最初の部分(1・27)にあります。さらにもう少し後には「人がひとりでいるのは良くない」「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と続いています。
聖書の言う「人を男と女に創造された」とは、人には男と女の二種類があるという意味ではありません。「お母さんは赤いマフラーと青いマフラーを編んだ」というのとは違っています。もし編物にたとえるなら、マフラーではなく毛糸の手袋の方が適切です。手袋には右手と左手の二種類があるとは言わないからです。右手と左手で手袋であるように、男と女で人であると聖書は教えているように思えます。
創世記1章27節は「神のかたち」に関する最も重要な聖書の言葉です。神は人を神のかたちに創造されました。犬も猿も象も、他のどの生物も神のかたちに創造されたとは記されていません。人間だけが神のかたちに創造されたのです。
 「神のかたち」というときの「かたち」は、「すがたかたち」という意味ではありません。英語の聖書では「イメージ」「ライクネス」などの言葉が用いられ、人は神に似るものとして神のイメージに創造されたというような意味です。つまり人間には他の動物とは全く異なる面があるのです。それが人のうちにある「神のかたち」です。たとえば動物には善と悪を区別する「倫理観」はありません。また動物は音楽であれ美術であれ、「美」という抽象的な価値を感じることができません。そして動物に絶対にないものが宗教です。人間だけが倫理的、芸術的、宗教的な存在、すなわち神のかたちとして創造されたと聖書は表現しているのです。
 そしてもう一つ、人が男と女に創造されたことも、神のかたちに関連して記されていることに注目しなければなりません。人はオスとメスに創造されたのではありません。動物がオスであるかメスであるかは、創造の場面では全く触れられていません。動物のオスとメスが最初に言及されるのはもう少し後の創世記7章、すなわちノアの洪水の場面です。動物たちは主に繁殖の目的でオスとメスが箱舟の中に入れられたのです。
不思議なことに、結婚の制度の無い民俗は世界にはありません。だれに教えられたわけでもないのに、地球上のすべての民俗は結婚の制度をもっています。人が結婚するのは、王様が命令したからでも会議で決定されたからでもありません。それは人が神のかたちに創造されたからであり、人が男と女に創造されたからです。右の手袋だけでは手袋とは言わない。右の手袋は左の手袋を必用としている。すべての民俗はそのことを、無意識のうちに知っているのです。
 
 男と女  
 人が男と女に創造されたということは、男だけでは人間として不十分であり、同様に女だけでも人間として不十分であるという意味です。結婚関係の中で人は始めて一人前となります。人の内にそれまで欠けていた神のかたちが、結婚関係のなかで形成されていきます。男と女という二種類の人間が同じ屋根の下で生活することが結婚なのではなく、同じ屋根の下で生活する男と女がそこで本来の人となっていくのです。
 男だけでは不完全です。女だけでは不完全です。だから男も女も結婚することが前提になっています。もちろん独身に召された者があることも、聖書に記されています。それを語っているパウロ自身も生涯独身であり、キリストも同様です。しかし聖書は独身を原則としてではなく、どちらかと言うと例外として教えているのです。その方が気楽であるとかお金を自分のためだけに好きなように使えるから、など自分の好みによって結婚か独身を選択するのではありません。
人は様々なことを通して、男が男であること、女が女であることを意識するようになります。親が買ってくる服、髪の形、声、言葉、トイレ、風呂、など多くあるでしょう。しかし男が男であることを最も強く意識するのは、女性を意識するようになった時です。女が女であることを最も強く意識するのは、男性を意識するようになった時です。
 それまでは神が人を男と女に創造されたことを、主に身体的な違いから考えてきました。しかしアダムはエバを見たとき、「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これを女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから」と叫ばざるを得ませんでした。アダムはこれまで他の何を見ても、そのように感じたことはありませんでした。アダムはそのとき、女のうちにこれまでに見たことのない自分自身の後の半分を発見したのです。「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」の意味です。
 
 男女同権
 男と女が結婚して一緒に暮らせば、自動的に二人が人間として成長するのではありません。男と女が互いに引き合う愛は、母親と子の間にある愛のように自然発生的なものです。一方、人間としての成長は、二人がお互いのために消滅していくことを通して形成されていきます。したがってそれは自然的なものではなく、むしろ人間の自然の本性に逆らう方向性を持っているのです。これは重要なことである一方で、最も分かりにくいことであるのです。
 そのためパウロは、そのことをもっと分かりやすくもっと具体的に書いています。つまり、妻は夫に仕え、夫は妻を自分の体のように愛するのです。これで人間の本性に逆らう方向と言ったことの意味が少しはお分かりでしょう。
 結婚に関して現代社会が、聖書とは正反対の方向に向っているのは明らかです。たとえばあらゆる領域で男女平等や男女同権が叫ばれています。確かに職業や政治など社会的な領域では、もっと男女平等が叫ばれ実現されるべきだと思います。日本の男女平等率は世界では94番目で、先進国の中では最低というある年の統計がありました。しかし夫婦関係の中でいわゆる男女同権を主張するなら、二人がもっとすぐれた一人になることはできません。二人は二人のまま。法的には結婚して夫婦であっても、実質的には独身の男と独身の女がただ一緒に暮らしているようなものであるからです。
 
 男・女・人
 パウロは「妻は夫に仕えなさい」と言うことによって、夫が上で妻が下であると言おうとしているのではありません。結婚や家庭に関するすぐれた書物を多く残したスイスの心理学者ボヴェーは、夫は脳で妻は心臓であると説明しています。脳と心臓はどちらが上でどちらが下という関係ではありません。どちらも体にとって最重要な器官であるからです。しかし心臓は脳の指示に従って動いています。脳と心臓は同権で平等であると主張して、心臓が単独で行動し脳に従うのを止めるなら、体も脳もただちに死に心臓も死んでしまいます。そのようにして脳死や心筋梗塞になっている夫婦が、世の中には無数に存在しています。脳と心臓はお互いに権利や平等を主張するのではなく、一つの体であることを自覚しているからこそ、体は強く大きく成長していくのです。
 人は母と子という人間関係から始まります。次に父親が加わり、子供は家庭の一員になります。その次は社会の一員にならなければなりませんが、家庭は子供がこの環境へ出る準備の場所です。そしてもう一つ残されているのが、男と女とが一緒に暮す夫婦という環境であり、家庭は子供がこの最も神秘的な環境に入るための準備をする場所でもあるのです。家庭から始った子供が、今度は前とは違う立場で再び家庭の一員となり、黄金のネックレスの輪がこのようにして閉じられ女性の首を美しく飾るのです。しかし残念ながら閉じられることのないまま、実に多くの金のネックレスが引き出しの中に忘れ去られているのではないでしょうか。
 母と子の関係の中で赤ちゃんは、無条件で愛され守られるという、地上で最も神秘的で最もすばらしい体験を最初にします。しかし母と子の関係では与えることのできないものがあります。そこで父親もいる家庭で子供は別の恵みを受けますが、さらにそこでも与えることのできないものがあります。そのようにして人はさらに次の段階である社会に進まなければなりません。そしてさらに最も神秘的な男と女の関係、すなわち結婚の関係に進まなければなりません。その中で男が男になり、女が女になることができるのです。つまり、そこで人が人となり、神が人を男と女に創造された最初の目的が実現するのです。
 しかしすべての夫婦が、神が意図されたような成熟した夫婦になっていくわけではありません。「子供服を着たクリスチャン」―幼児性からの脱却―(インマヌエル総合伝道団出版局)の著者デイビッド・A・シーモンズは、その理由を一つの家庭に四人がいるからだと説明しています。
 
「よく、『二人が一つとなり』と言いますが、実は四人の人が結婚して家が混雑してしまうことに問題があります。」
 
結婚して子供が二人生まれて合計四人になるという意味ではありません。結婚する二人の心のうちにいる、それぞれ二人の子供を合わせて合計四人です。そして四人の子供がそれぞれ自己主張をし始めるため、夫婦や家庭が混乱するのだと言うのです。神が意図された本来の夫婦はそのようではなく、二人が自己主張を止め男と女の二人になり、さら二人が一人の成熟した人になることです。
 家庭は自分のうちに隠れている子供が現れやすい場所です。社長も総理大臣も校長先生も、家庭では子供のようにわがままになったり、些細なことで怒り狂ったりすることがあるかも知れません。しかし家庭はまた、自分の心のうちに住む子供を発見し、それを乗り越え、より成熟した人格になる場所でもあるのです。そのようにして昨日の自分ではない新しい自分を発見する日の連続。それは、ディズニーランドで過ごすホリデーや、豪華客船による世界一周旅行より、はるかにスリリングな生き方であるのです。