方針と反応

 
エフェソの信徒への手紙五・一八~二五
愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。今は悪い時代なのです。だから無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」(一八~一九)
 
「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」(二一~二五)
 
 
最初にピアノとピアノの演奏のことを記しました。結婚をすると、一人の男と一人の女が、夫や妻になり、子供が生まれると父親や母親になる。その他、嫁姑の関係などの新しい関係も生じてくるでしょう。結婚によって、単なる一人の男と一人の女にすぎなかった男女に、そのような新しい関係と新しい肩書きがいくつも生まれます。問題はどれもこれもこれまでにはなかった未経験の仕事であることです。ちょうどピアノを一度も弾いたことない子供がピアノを習い始めるようなものです。しかし問題は最初に述べたように、ほとんどの男女は結婚するだけで幸福な家庭ができると期待してしまうことです。  
ショパンやベートーベンが演奏できるようになるためには、ピアノを買うだけでなく先生からピアノを習わなければならないことはだれでも知っています。そして結婚に関しても、自分の考えではなく、結婚を定められた神のルールに従わなければなりません。ルールの一つが、結婚関係における男と女の違いを知ることです。お互いの違いを知ることなしに、夫婦が互いに愛し合うことはできません。互いに相手を学ばなければならないのです。
もちろん男と女は互いに相手を完全に理解することはできません。社会の中ではそれで何とかやる他はないのですが、男女の事柄が結婚となると、互いに理解し合う努力なしには悲しい結果が確実に待っているだけです。男と女の違いについて、もう少し考えてみましょう。
 
攻撃的
一般的に男は攻撃的であり、女は防御的です。女性より男性の方が、スポーツやゲームに夢中になることはだれでもよく知っています。夢中になってサッカーや野球を見るのはほとんどが男性です。その数は女性よりも何倍も多いのです。十才の男の子は、本気で五才の弟とゲームやカルタ取りをしますが、十才の女の子はお母さんのように五才下の妹に接するのです。お父さんも小学生の子供と、本気でオセロやゲームをすることができます。そのような夫を、妻は不思議に思うのです。もちろんいつでも男の攻撃性が目に見える形で現れるとは限りません。心の中でそう思っているだけで実際に人を攻撃できない弱い男性もあるからです。
コンピューターがうまく動作してくれないとき、私の反応と家内の反応は明らかに違っています。「パソコンがおかしい」と私はすぐに怒るのに対して、家内は自分が何かまちがった操作をしたのではないかとまず自分を疑うのです。
間違いをしたときに、男性は女性より誤りを認めるのは困難であり、自分の誤りを認める前に何かを攻撃しようとします。それは神からリーダーシップを与えられていることを無意識に知っているためだと思います。神が「どの木から取って食べても良いが、中央の木から取って食べてはならない」(創世記2:17)と命じられたのは、エバに対してではなくアダムに対してです。何かあると社長を止めなければならないように、リーダーは失敗に対して最終的な責任を取らなければなりません。そのため男は誤りを簡単には認めようとはしないのです。
夫の間違いに対して妻は寛大になるべきだと言おうとしているのではありません。間違いだらけの夫に対する対応の仕方に配慮する必要がある、と申し上げたいのです。それが具体的にどんな配慮であるのかは、それぞれ夫婦が具体的に考えていただく他はありません。
 
守る
女性は基本的に男性より保守的で、現在の状態を守ることを第一に考えます。おそらく子供を守らなければならないという本能が備わっているためです。それゆえ女性は、自分の誤りは攻撃を避けるために男性より容易に認めることができても、変化、進展、前進を受け入れることは男性よりも困難であるのが普通です。リスクのある大成功や大もうけの話しより、安定した現在と不安のない将来が女性にとっては最も重要であるのです。
男性は論理的、非現実的であるのに対して、女性はより非論理的、現実的です。そのため視野が狭くなりがちです。赤ちゃんは現実的でなければ育ちません。お腹のすいている赤ちゃんにおっぱいをあげ、ぬれているオムツを理論や図面の上ではなく、座布団の上で実際に交換しなければ赤ちゃんは泣き止みません。
 
異性への関心
異性に対する関心の持ち方にも相違があります。もちろんここでも一般論ではあるのですが、男性は直接的、肉体的で、女性は間接的、精神的です。
道路工事をしている男性達のそばをグラマーで美しい女性が通りました。みんな仕事を止めて振り返りました。そこにとくに不道徳な動機をさがす必要はないと、心理学者のジェームズ・ドブソン博士が指摘しています。男性は何の関係もない女性にもそのような関心を示すのが普通であるからです。初めて出会った異性との売春行為はほとんどが男性のものであり、こちらはもちろん不道徳であり違法な行為です。
夫は夫婦げんかの最中でも妻の肉体を求めることができますが、妻はそうではありません。女性はそのような夫を動物的であると軽蔑したくなるかも知れません。女性はもっと精神的な面でも整えられなければならないからです。結婚前にはデートを申し込むのに三日も一週間も前から準備したように、結婚後に妻の体を求めるためにはやはり同じ心構えと準備の時が必要であるのです。
韓国のある男優が日本の婦人たちに異常な人気が出た時期がありました。婦人たちがその男優に関心を持つのは、出演したドラマに出てくる主人公のイメージが重なり合っているからだと思います。男性の場合はむしろ、女優の顔やスタイルの美しさだけで十分であるのが普通です。少し言いかえれば、そのような婦人たちは、自分の夫に大なり小なり失望し、ドラマの主人公ように優しく自分を愛してくれない夫に対する不満を、あのような形で表明しているのではないでしょうか。
 
互いに努力
家内とあるエスニック・レストランで食事をしました。テーブルがレースのカーテンで仕切られ、高級な店ではありませんが、アジア家具で統一された暗めの室内は、ロマンチックな雰囲気で満たされていました。お知らせしたいのは店のインテリアや照明ではなく、そこでどのような客が食事をしていたかということです。大部分は若いカップルであり、その他には女性同士の客もありましたが、男性同士や男性グループは皆無。その数日後、息子と二人で教会の近くにあるトンカツのチェーン店に入りました。一人の年配の婦人を除いて、客はみごとに男性ばかり。女性には店の雰囲気や料理の盛りつけの美しさ、男性には食べ物の分量や味と値段が重要であるのでしょう。エスニック・レストランにガールフレンドを連れて行った男性たちも、普段はそのようなトンカツ屋や牛丼屋で食事をしているのです。
レストランの経営学をお話しようとしているのではなく、神によって最初から異なるように造られている異性を、私たちは出来る限り理解をするように努力をしなければなりません。あなたの配偶者は、あなたとは違う感じ方をし、あなたとは違った方法でふるまうことをわきまえていなければなりません。「釣った魚にえさはいらない」というような精神はとんでもないことです。若い男女は、相手は何が気に入るのだろうか、何が気に入らないのだろうかと、とても敏感になっています。そのような細かい気配りは結婚二十年後も三十年後も完全に失われてはなりません。
 
態度
聖書は妻に対しては、「夫に仕えなさい」、夫に対しては「妻を愛しなさい」と命じています。どちらも一回や二回の単独の行為ではなく、相手に接する態度または方針のことです。四月までは夫に仕えていたが、五月からは仕えるのを休むというようなものではありません。スーパーマーケットには期間限定のサービスがあるかも知れませんが、夫婦の間では妻はいつも夫の名誉を大切にし、夫はいつも妻を愛するように命じられているのです。それが相手に対する基本的な態度であり方針であるようにしなさいというのです。
ですから「愚かな者の歩み方」と「賢い者の歩み方」とは、「愚かな方針の人生」と「賢い方針の人生」と言い換えても同じです。酒に酔っ払うことも、神の霊に満たされることも、自分の感情や自我に対する方針でもあるのです。酒に酔っ払ったときのように、怒りやねたみなどの感情に、私という人間の全体を支配させるのか、それとも神の霊に私の感情や思考を支配させるのか、この二つの方針があるだけです。
そしてその具体例として、夫に仕えること、妻を愛することが示されているのです。夫や妻が期待通りの人であれば、仕えたり愛したりしましょうというのではありません。それは方針ではありません。態度でもありません。それは相手の行為や相手の今の状態に対する反応です。