子供のしつけと親の態度

 
エフェソの信徒への手紙六・一~四
「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。『父と母を敬いなさい。』これは約束を伴う最初の掟です。『そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる』という約束です。父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」
 
 
従順と自由のバランス
 子供を正しく育てるにあたって最も重要なのが順序、その次はバランスです。前回は「従順」と「自由」の間にある順序とバランスを考えました。どちらも欠くことができません。子供をしつける最終的な目的は、子供たちがいつまでも子供ではなく、やがて自分で自由に正しく考え、自分で自由に正しく行動できる大人になることです。しかし最初に学ぶのは自由ではなく、従順であり親に従うことであるのです。従順を教えられなかった子供たちは、わがままから脱皮することができず、いつまでたっても親や周りから自由になることができません。
 もちろん昨日までは従順、今日からは自由、という具合に教育方針をスイッチで切り替えるわけではありません。何歳からというような決まりもありません。少しずつ自由が増えていき、最終的に親は完全な自由を子供に与えるのであり、その反対であってはなりません。かみそりをほしがる赤ちゃんにそれを与えるお母さんがあるでしょうか。小さいときから自由を多く与えられた子供は、大きくなるにつれて禁止が増えていくことになるでしょう。したいことは何でもできる、したくないことは何もしなくてよい、そのように育てられた子供は悲劇です。監獄に閉じ込められ、したいことは何もできず、したくない強制労働をさせられ、そこで自由についての最初のレッスンを学ぶのです。それはあまりにも極端な例であっても、親に従うことを学んでいない子供は、もしどこかで別の訓練の機会が与えられなければ、一生自由な人間にはなれないかも知れません。
 
 バランス(良いもの悪いもの)
 現代はしつけよりも自由が強調される時代です。詰め込みではなく、子供の中にある良いものを引き出すことが、良い教育であると考えられているからです。もちろん子供たちから良いものを引き出すことは重要です。しかしそれは話しの半分であり、良いものだけでなく悪いものも一緒に出てくることも忘れてはなりません。アダムとエバが罪を犯したのは、東京や大阪の夜の歓楽街ではなく、汚れたものが一つも無い真昼の美しいエデンの楽園であったのです。
キリスト教の「原罪」の教理を現代社会は知りません。子供は罪の無い真っ白な状態で生まれ、その後で罪を知るようになるのではなく、子供はあらかじめ罪をもって生まれてくるのです。これがキリスト教用語の一つ「原罪」の意味です。小さな子供は自分を弁護するためにうそをつくことを知っています。友達のおもちゃを取り上げ、そのために友達をたたきます。うそをついたり友達をたたくように指導する親はありませんから、悪は子供たちのうちにすでに備わっているとしか考えられません。ここを出発点にしないとき、子育ては間違った方向に向かい、深刻な誤りをおかすことになります。
もちろんもう一方では、子供たちの内には良いものもあらかじめ備わっていることを知るでしょう。たとえば子供たちは、悪が滅ぼされ正義が勝つことを期待しながら、テレビや映画を見ています。子供たちの心のうちには、悪と正義の両方が存在しているのです。悪が罰せられ、正義が励まされなければなりません。良いものを引き出す教育だけでは十分ではありません。
 小犬を育てるにも、バラや菊を美しく育てるにも、かなりの神経をすりへらすものです。いま日本は空前のペット・ブームで、書店にはダックスフンドやチワワの育て方に関する本がならんでいます。「犬のきもち」も「猫をきもち」もあります。しかし勉強に関する本は無数にあっても、人間の子供の心に潜む罪に関する本はありません。大手の出版社は、そんな本を出しても売れないと判断をしているからでしょう。
 
 怒らせてはならない
 次に子供のしつけに関して、「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」という部分を考えましょう。ここにも順序とバランスがあります。「子供を怒らせない」ことが最初に示され、その次に「しつけ諭しなさい」という命令が続いている順序にまず注目しなければなりません。
現代はしつけが不足している時代であるというので、やたらと厳しいしつけをすれば良いというものではありません。アメリカのウェストミンスター神学校のJ.E.アダムズ元教授は、しつけの不足としつけの過剰は、ほとんど同じ結果が出ると指摘しています。正しい教育は、甘やかし過ぎの反対側ではなく、バランスの中にあるのです。
しつけをする前に親がまずしなければならないことがあります。「子供を怒らせない」ことです。子供がいやがることを絶対にしてはならないのではなく、親が原因で子供を怒らせてはならないという意味です。しつけをする親にそのような心構えができていないならば、子供を怒らせしつけは泥沼に入り、しつけなどしないほうがましという結果が出てしまいます。
 
自己制御
繰り返しますが、この聖書の箇所は、酒に酔っぱらうのではなく、霊に満たされなさいという命令の続きです。酔っぱらいの特徴は、セルフ・コントロールを失っていることです。うっかり口をすべらし、失敗をします。真冬の駅のプラットホームのベンチで寝込んで風邪をひきます。些細なことにもすぐにカッとなり喧嘩が始まります。アルコールによって普段はしないような行動や見苦しい態度が現れます。普段は理性が怒りを抑え、羞恥心が恥ずかしい行動をコントロールしているのですが、酒によってそのコントロールが失われるからです。
子供をしつけるときにそのような態度ではいけません。カッとなって子供をしかっても、もっと悪い結果が出るだけです。子供をしかる前に、何のために子供をしかろうとしているのかがはっきりするまで行動するべきではありません。口を開いてもいけません。買い物に出かけようとしているのに、自分の思うように昼寝をしてくれないからなのか。腹が立ったからなのか。本当に子供の悪を正すためであるのか。それがはっきりするまで子供をしかってはなりません。
 
自己中心
日本のお母さんが、子供をしかるときに最もよく使う言葉というアンケート調査がありました。それは少し古いものですが、おそらく今でも両横綱だけは変らないでしょう。一位は容易に想像ができます。「勉強しなさい」ですね。二位は、「はやくしなさい」。
子供が勉強をなまけているならば、しかられなければなりません。しかし親の希望するような学校に入れるように「勉強しなさい」と言っているのかも知れません。私が子供の頃の普通の親は、「放ったらかし」が標準でした。私自身も親から「勉強しなさい」と言われた記憶はありません。みんな生きることで精一杯であった時代ですから。親の希望する学校、親の夢をかなえるおけいこ事、親の希望するお嫁さんを押し付けるのではありません。そうするなら子供たちはいつか必ず怒り出すでしょう。
もちろん塾やピアノを、自分から申し出る子供はほとんどありません。申し上げたいのは、いっさい塾やおけいこ事を強制してはいけないということではありません。多くの技術は小さいときに始めるのが有効です。しかし、本当に子供のためなのか、親の希望が先行しているのかをよく考えていただきたいのです。子供に習い事をさせようとするとき、そうしてよいかどうかを判断する私の二つの目安があります。第一は「さまになっているかどうか」であり、もう一つは「家庭の中にそれを育てる環境があるか」です。何をするかにもよりますが、原則は両方、少なくとも二つのうちどちらかが備わっていなければ、できるだけ早くそれを止めることをお勧めします。
育てる環境は、とくに文化的な習い事にはほとんど不可欠です。親がシューベルトやショパンに感動している姿を知らなければ、子供のピアノの上達はたぶん期待できません。高い目標を与えられず、やがて練習を止めるか、単に義務的に練習を続けるだけです。それでも続けさせるなら、子供たちの心の中には不満と怒りのマグマが蓄積されているはずです。爆発は時間の問題です。
 
自己矛盾
子供を怒らせる第三の要素は、親の自己矛盾です。子供にしかっていることを親がしているなら、子供たちが怒るのは当然です。子供の前でお母さんがお父さんを馬鹿にしているなら、子供がお父さんを敬うことを期待してはなりません。お母さんが子供の前でお父さんに反抗していて、子供が親に従うことを期待してはなりません。お父さんとお母さんが仲が悪いのに、兄弟同士は仲良くしなさいと言うことはできません。
ある時は一つのことを言い、別の時には別のことを言っている。ある時は禁じられたのに、ある時はゆるされる。子供たちはどちらが正しいのか分からずにいらいらしています。一貫しない親は子供を怒らせる原因です。
子供たちは怒りによって親に抗議していると考えるべきです。反抗によってしつけ不足や一貫性の無さを抗議しているのです。子供たちはもちろん「お父さん、お母さん、どうして僕が悪いことをしたとき、おしりをたたいてしかってくれなかったのですか」などと言うはずはありません。しかしわめいたり、泣いたり、ひっくりかえったり、物をこわしたり、乱暴なことばを親に向かって吐くことによって、正に同じことを抗議しているのです。子供たちの反逆の行為の中に、「どうして僕の機嫌をとることを、僕をちゃんとした人間に育てることよりも優先したの」という怒りのメッセージを読み取らなければなりません。
 
順序
模範的な親になったら、子供のしつけを始めましょうと申し上げているのではありません。それではいつまでたっても始めることはできません。もし一言で言うなら、「愛をもって子供をしつけましょう。」そのような動機を確信できるまで、しつけを始めてはなりません。自分のこと、自分の希望、自分の都合を第一にするのではなく、子供たちが他の人に仕える一人前の人間になれるように、親はしつけによって子供たちに仕えるのです。
子供たちには遅かれ早かれ、親も完全でないことが分かるときが来るでしょう。もし親が暴力や権力によって子供を従わせてきたなら、たぶん母親より十センチほど身長が高くなった頃に、子供たちは反逆を始め怒りを爆発させるでしょう。
もし親が子供の機嫌をとることを第一とし、子供の罪を放任してきたのなら、子供たちはやはり反逆を始めるのです。親は子供よりも、自分を愛していたにすぎないと子供たちにも分かるからです。
 
親に従わせることが最終的な目的ではありません。そのように厳しくしつけるなら、親の罪や失敗を見たとき、子供たちは期待を裏切られて失望するか、やはり親に反逆を始めるでしょう。
親に従う最終的な目的は、親が信じていることが正しいと子供たちも思うようになることです。それが子供たちを親に従わせる第一の目的です。そしてそれが、自由から始めるのではなく、親に従うことから始めなければならない根本的な理由です。そして親の不完全さ、親の罪や失敗はもう子供たちのつまずきや反逆の理由となることはないでしょう。