「父親の出番」

 
エフェソの信徒への手紙6:1~4
 「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。
 
 
 動物の母親は、いつ子供と一緒にいて、いつ子供を突き放すのかを間違えることはありません。ところが先進国の多くの家庭では、しばしばその反対が行われています。母親が一緒にいなければならないときにいなくて、そのかわりいつまでも子供を突き放すことができず干渉を続けるのです。
 小さく無力な子供と一緒にいること、この原則を動物の母親は必ず守ります。母親だけしか与えることのできない最も重要な愛です。しかしこの愛を代用品に置き換えてしまうことが、文明社会の家庭には起こってしまうのです。おもちゃ、お菓子、テレビゲーム、など等、子供が欲しがるものを与えること。もう少し大きくなると、良い教育を与えること、等など。代用品は様々です。教育は子供に与えるべき最も重要なものの一つですが、ただしそれは母親の愛の代わりにはなりません。
 子育てはいつでも父と母の共同作業でなければなりません。しかし子供たちの成長に応じて、どちらが前面に出るかは時期によって違っているのです。子供が小さい内は主に母親、そして成長していくにしたがって主に父親、というのがおおまかな順序です。ところが日本では、父親はほとんど子供の教育やしつけに参加しないで、最初から終わりまですべてを母親に任せるというのが一般的な傾向であるようです。そしていじめなどの学校の問題も、そこに第一の原因があると言っても過言ではありません。
 私自身は模範的な父親ではありません。全くそうではありません。しかし子供たちが小さい時代にもう一度もどることはできません。父親として様々な失敗があり、またするべきことでしなかったことも無数にあります。失敗しない親、欠点のない親など一人もいませんが、分かっていれば避けられる失敗も多くあります。そんな経験からも、家庭のこと、親子のことをみんなで一緒に考えなければなりません。
 
 親と子
 動物の世界から人間が学ばなければならない重要なことをすでに一つ指摘しました。その第二弾として、親子の区別を考えたいと思います。「両親に従いなさい」とは、親と子は違うという意味でもあるからです。
 動物の世界では、親と子は完全に区別されています。姿かたちのことではありません。ある時期まで親と子の行動は決定的に違うのです。我が家の小さな庭にすずめの親子がやって来ます。子供の独立が近くなると、姿かたちではどちらが親でどちらが子であるのか見分けることはもうできません。しかしどちらがどちらかは、しばらく観察するだけですぐに分かります。子供のすずめが羽をばたばたとやると、親のすずめが子供の口にえさを入れてやるからです。もちろんそのような関係は終わるときがあります。たぶん非常に近いのだと思います。しかしある時期までは、親と子はすることが全く違っているのです。
 近代先進国の家庭では親と子の区別が薄れていっています。そして親子の関係、とくに父親と子供の関係が友達関係、つまり対等の関係に近づいています。そしてそれがさらに進んで逆転することさえあります。もちろん親と子はやがて対等の関係にならなければなりません。しかしある時期、子供たちが小さければ小さいほど、親子の違いは明確でなければなりません。「こどもたちよ、両親に従いなさい」とはそういう意味です。
 それは子供が肉体的にも精神的にも、様々な意味で未熟であるからです。やがて肉体は親と同じようになり、親を越していきます。しかし精神的に子供たちが大人になるまでには、動物に比べると人間ははるかに長い時間を要するのです。小さいときに家庭という最も小さな単位での社会の秩序を学んだ子供たちは、もっと大きな社会の秩序にも適応し、より早く大人になっていくことができます。しかし小さな家庭の秩序を学ぶことができなかった子供たちは、それよりも大きな社会の秩序の中でうまくやっていくことができません。
 
 ボーダーレス
 日本の社会は様々な面でボーダーレス(境目が明確でない)になっていると言われます。テレビはアマチュアの世界になってきています。プロの歌手とアマチュアの歌手(カラオケ)は歌のうまさという点ではほとんど区別がありません。男と女の区別も小さくなりその傾向がさらに進んでいると思われます。
 一昔前、先生と生徒は天と地の違いがあり、生徒も親も先生にはへいこらしていたのですが、親の学歴が先生のそれよりも高いことがめずらしくないこの頃は、生徒と先生の区別も親と先生の区別も、そして、親と子の区別もあいまいになっているのです。親子は友達のようです。むしろそのような親子関係が、学校の先生と生徒の関係に反映していると言った方が正しいのかも知れません。学校と先生を問題にする前に、家庭と親が問題にされなければなりません。
 若い母親が二人の子供を餓死させた、父親が風呂で娘に冷たい水をかけて殺した。親による虐待が毎日のように新聞で報道されるこの頃ですが、そのような中でもさすがにショッキングな事件として世間を驚かせました。あまりにも特殊な事件であることは確かですが、しかし親が子供のように自己中心になってきているという、極端ではあっても社会全体の傾向の表れであるとも思えるのです。二人の幼児の母親は警察で、「子供のために時間がとられる。自分の好きなことをする時間がない」と言ったそうです。
 かなり古いのですが、結婚をしない若い男女に対するアンケートがありました。なぜ結婚をしないのかという問いに対して、男子のトップは「自分のために使うお金が減るから」。女子のトップは、「自分のための時間が減るから」。これは少し古い統計ですから、今ではそのような傾向はたぶんもっと進んでいるのかも知れません。
 
 父親の出番
 子供が小さいうちは母親が子育てのより大きな役割をします。その働きは他の誰にもできません。他の何もそれに置き換えることはできません。しかしいつまでも子供は母親の保護のもとにばかり置いていては、子供は精神的に成長できません。そこで父親の出番が回ってきます。
 母親と子供の関係は愛の関係ですが、対等の愛の関係ではありません。母親は子供を絶対的な愛で愛していますが、子供はそうではありません。子供は母親を絶対的に必要としているのですが、母親を絶対的に愛しているわけではありません。自分のために母親が必要であり自分のために母親を愛しているのです。しかし母親の絶対的な愛を経験した子供は、愛が何であるのかを体と心で理解するようになります。そのような愛を経験できなければ、子供は成長することが非常に困難になります。
 子供はやがて母親の愛の引力から少しずつ出て行こうとします。母親の愛を押しのけようとします。それが成長の一面です。しかし母親自身はそのように感じられないのが普通です。たとえば「うちの子は言うことを聞かなくなった」と感じてしまいます。ですからそこからが父親の出番にならなければなりません。
 父親の主な役割は、対等の愛を教えることです。一方的に愛され大切にされるだけでなく、自分も他の人を愛し大切にしなければならないということを教えるのです。そして最初の愛の対象が親です。しかし重要なのは、そのようなより高い段階に進むためには、一方的に愛されるという最初の段階を通らなければならないということです。絶対的な愛がどういうものであるかを、まず経験しなければならないのです。
 子供が対等の愛を学習するのは、親に従うことを通してなされます。そうすることによって、自分の欲望をコントロールすることを学習するのです。セルフ・コントロールは他の人を愛するためには絶対に必要で最も重要な要素であるからです。それを学習するのは母親の絶対的な愛から子供が出て行こうとするときであり、そこからが父親が前面に出るべきときです。
 
 人格として
 母親は小さな子供にとっては、神であり大地であり空気であり、絶対で当たり前の不可欠な存在です。しかしいつまでもそのままでは困ります。母親が母でなくなることはありませんが、やがて母親も一人の女性でもあり、一つの人格とならなければなりません。子供は母親と対決するべきだと申し上げているのではありません。母親に反発ばかりしているのは、マザコンの子供と同様に母親が依然として絶対的な存在であるからです。母親であると同時に、一つの人格としての母親を見て、一つの人格としての母親を愛することができるようにならなければなりません。
 そしてそこに父親の出番が来るのだと思います。当たり前ですが、子供にとっての母親は、父親にとっては母親ではないからです。「お父さん、お母さん」「パパ、ママ」「お兄ちゃん」など、日本の家庭ではその子供から見た呼び方が家庭で用いられるのがかなり一般的です。親をどう呼ばせるかはそれぞれの家庭の自由でよいのですが、お父さんにとってはお母さんは妻であることを、子供たちは絶対に知らなければなりません。もちろん子供がそんなことを言うはずはありませんが、そのように感じられなければならないのです。
 そのためにはお父さんがお母さんを愛している、と子供が感じることが大切です。お父さんにとってお母さんは一人の女性であり、お父さんが世界中で一番愛している女性である、と感じられなければならないのです。パウロはエフェソの信徒への手紙で、夫婦の次に親子関係を扱っているのはそこに理由があります。
 ところが現実はなかなかそうはいきません。私たち夫婦もそんなに立派なことを言える柄ではありません。ここでも、失敗しながら悔い改めながらやっていく他はありません。また母親か父親か、どちらか一方しか、その務めを果たしていない家庭も少なくありません。それでも子供たちはどちらか片方からだけでも、多くを学ぶことができるのです。
 
 非人格化
 最初は子供にとってお母さんが宇宙でありすべてです。何度も繰り返しますが、そのような段階は決定的に重要です。しかしだんだんと子供は母親から離れることを学んでいきます。母親とぴったりとくっついていなければ不安になって泣き出した子供が、少し距離をおいても大丈夫になっていきます。そしてそうすることによって、母親以外のものの存在を発見していきます。公園の石ころ、ワンちゃん、ミツバチ、花、蟻さん、ダンゴ虫、なんでも友達になっていきます。お母さん以外の外の世界、外の人との交わりを深めていきます。石ころも、ぬいぐるみのクマさんも子供には友達であり人格です。童話はそのような子供たちの思いを土台にして作られるのです。子供はやがて、ぬいぐるみは生き物ではないことを知るようになり、しかし今度は本物の女性や男性を妻や夫として愛するようになっていきます。
 問題はお母さんやお父さんが、愛の代わりにおもちゃや教育などの代用品を子供に与えてしまうことです。本当の愛を経験した子供は、石ころでも人格であるかのように大切にします。しかし愛の代わりに代用品を与えられた子供は、他者に対して愛を感じることができません。蟻をふみつぶし、お友達のスコップをとりあげます。楽しくないのは、楽しくなる物が少ないから、代用品が足りないからだと、親も子も思ってしまうからです。
 愛を受けた子供は石ころでも何でも人格化しますが、代用品を与えられた子供は何でも非人格化してしまいます。そして最もおそろしいのは、人間さえも非人格化してしまうことです。女性は愛の対象ではなく、自分の性的な欲望を満足させる手段にすぎません。子供が生まれると、自分の思うようにならない子供を虐待し殺してしまいます。おそらくそのような親は、自分が子供のころ、母親からの無条件で絶対的な愛を受けなかったのだと思います。
 もちろんそれはあまりにも特殊で極端なケースでしょう。しかし善意ではあっても、親の願いや希望を子供を通して実現しようとするなら、同じことが起こる可能性があります。親も子供を非人格化し、自分の夢を実現する道具のように考えているからです。そしてそのような実例は世の中には掃いて捨てるほどあるのです。
 
 大きな可能性
 人間の親子もまず自然から学ぶことから始めなければなりません。しかし人間の子供は動物よりはるかに大きな可能性と能力を神から与えられています。すばらしくまた恐ろしいのは、その可能性をプラスの方にもマイナスの方にも使うことができることです。
 人間の子供の場合、すでに指摘したように親の保護の期間は異常なほどの長さです。ウミガメやトカゲは卵からかえると同時に独立します。犬や猫は2~3ヶ月は母親の保護が必要です。象や猿はもっと長い期間、親に守られています。しかし人間の場合は、その期間は圧倒的とも言えるほどの長さです。
 象やキリンの赤ちゃんは、生まれてすぐに歩き始めます。もうしばらくすると走れるようになります。しかし人間の赤ちゃんは全くの無能力です。生まれたての赤ちゃんの体は、人間としてのすべての道具がそろっています。しかし一応はすべてが整っているとはいえ、足も手も、手の指もほとんど無能力です。足がなんとか歩けるようになるのがせいぜい1年後。猿の赤ちゃんはすぐに母親の背中にのっかり指でしっかりつかまっています。しかし人間の赤ちゃんの手の指は、ミルクボトルより重いものをつかむことができません。
 他の動物と比べて人間の赤ちゃんが圧倒的に無能力であるのは、他の動物にはない圧倒的にすばらしい可能性を秘めているためです。そして秘められた高度な能力が成長するためには、非常に長い時間が必要であるのです。犬が一人前になるのは二年でも十分以上ですが、人間の体が一人前になるのは二十年近くもかかります。しかし一年たってもまだほとんど何もできない手の指は、やがてショパンやベートーベンを演奏しているかも知れません。十年たってもまだ小学生ですが、さらに十年後にはアインシュタインの相対性理論についての論文を書いているかも知れません。そして人間の心が様々の場面で正しい判断ができるためには、さらに長い時間がかかるのです。そのような能力は突然現れるのではなく、長い学習と訓練の期間が必要です。とくに人間として最も尊いものである倫理的な判断力が成長するためには、最も長い時間がかかるのです。そのために最も大きな働きをするのは親です。