エフェソの信徒への手紙6:1~4
「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」
子供のしつけは、いつでも父親と母親の共同作業です。しかし子供の成長に応じて、母親と父親の役割が強調される時期が違っています。子供が小さいうちは母親、そして子供が大きくなるに従って父親の役割が大きくなってくるのです。
父親と母親
「母なる大地」という言葉に象徴されるように、子供は母親から養分をとり成長していきます。成長の初期には母親の役割が決定的に重要です。この時期に母の愛という栄養を十分に得られなかった子供は、スムーズな親離れができずまともな成長が困難になっていきます。
大地にまかれた種はやがて芽を出し、上に向かって上昇していきます。大地に深く根を張ることのできた植物ほど上に高く伸びていくでしょう。そのように母の愛を深く経験した子供たちは、上に向かって高く伸び成長していくことができるのです。根は大地に深く入り、しかし最先端は地面から離れていきます。それが自然の世界の成長の図式であり、人間の成長の場合も基本的に同じであるはずです。
下の地面が母親であるなら、上に向かう方角は主に父親の役割です。片時も母親のそばを離れることのできなかった幼児は、空間的にも精神的にもやがて少しずつ母親から離れても大丈夫になっていきます。その距離は、空間的にも精神的にも時間的にもだんだんと長くなっていきます。バスに乗って幼稚園に行き、家からの距離もずいぶん離れていきます。
そして最終的には子供たちは親から完全に離れるのです。しかしもし、子供の心が大地に根を下ろしていない状態でスタートしなければならないなら、上に向かっての成長は危険を伴います。経済的にやむを得ない事情で、母親が小さな子供と一緒にいることができなかったのかも知れません。あるいは母親が愛の代用品を与えてしまったためであるかも知れません。代用品はたとえば、欲しがるものを何でも与えることであったり、母親の時間と存在の代わりに教育を与えることであったりするのです。
子供に覚えてほしい言葉という主旨の本の広告が新聞にありました。これまでに十万部売れたとも書かれていました。「けなげ」「あわや」などの言葉が例として記されていました。そんな言葉を十才で知っている必要があるのかと不思議に思いました。「けなげ」は主に大人から子供を見たときの印象ですから、十才の子供に本当の意味が分かるはずはありません。十才ならまだましな方で、同じようなことをやっているある英才教育の幼稚園がテレビで紹介されていました。関西の最も裕福な人々が住む地域の子供たちが行く幼稚園だそうです。「こんな小さな子供にそんな教育をしてどんな意味があるの」という番組の制作者の意図が随所に現われていました。しかし番組の終了後には「それはどこの幼稚園ですか」という電話がテレビ局に殺到したそうです。幼稚園の名前は伏せられていましたので、親は「うちの子も行かせたい」と思ったのでしょう。
父親の出番
母親の引力から離れ、大地から上に伸びていこうとするそのような時期は、「あわや」や「けなげ」という言葉ではなく、家の外の世界のルールや道徳を教える時です。そしてもっと重要なのは、人間としてのルールを教えることです。そしてそこからが父親の出番になります。
日光や寒さから種を守るために、いつまでも覆いをかけておいては種は成長できません。人間は他の動物に比べて、保護されなければならない期間が圧倒的に長いのは確かです。キリンの赤ちゃんは生まれてすぐに立ち上がります。敵が来たときにお母さんと一緒に逃げなければならないからです。しかし人間の赤ちゃんは一年後にやっと立ち上がり、それもヨチヨチ歩きで一メートル先のお母さんのところにたどり着くのがやっとです。十年たってもまだまだ一人前からはほど遠く、人間の子供は親の保護、とくに母親の絶対的な愛と保護を非常に長い期間必要とするのです。
しかしいつまでもそうであってはいけません。少しずつ親から、とくに母親から離れることを学習しなければなりません。そのとき父親がまったく母親と同じようであれば、子供は成長することができません。お父さんは、母親の庇護から子供が脱出する助けをしなければならないからです。お父さんと一緒に木登りをし、川の石の上をぴょんぴょんと飛び越えて、お母さんをはらはらさせなければならないときが来るのです。
いつまでも母親の保護の中にとどまっているべきではありません。しかしお母さんにすべてをまかせておくと、子供は大なり小なりそのようになってしまいます。お母さんはいつまでも子供を自分の胸の中にとどめておきたいのです。もちろん子供がいつまでも赤ちゃんでいてほしいとは思わないでしょうが、実際はそうしているのです。無意識のうちに種が大地から芽を出し上に向かって成長していくことを妨げるのが母親です。そしてそこに父親の出番がやってくるのです。
父親の役割
「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」と記されています。親子の関係を扱う六章の最初の段落の最初の言葉は、「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。」子供たちが従わなければならないのは、お母さんだけでもお父さんだけでもなく「両親」です。親の立場から言い換えるなら、子供を両親に従うように育てなければならないのです。
しかしいま、子供をしつけ諭すというテーマに移ったとき、「両親よ」ではなく「父親たち」と呼びかけられているのはどうしてでしょう。子供を育てるのはいつでも父親と母親の仕事であり、どちらか一方だけがやればよいのではありません。ですから「父親たち」という呼びかけは、両親の代表としての父親という意味であり、その中には母親も含まれているのは当然です。しかし「しつけ諭す」という役割に関しては、父親が前面に出なければならないというニュアンスも含まれているのです。
方向
「しつけ諭す」というとき、ガミガミといつも小言を言っているというイメージで考えるべきではありません。それはむしろ母親のイメージです。「しつけ諭す」とは、第一には方向を示すという意味です。動物の雌は「♀」で表しますが、雄は「♂」で方角を示しているようにも見えます。
小さな子供は母親の絶対的な愛の中で安全に守られています。しかし少しずつですが、やがてそこから出て行かなければなりません。そのときに出て行く方向が示されなければ子供はどちらに行ったらよいのか分りません。そして現実に迷子になっている子供たちが大勢いるのです。
兵隊は帰る基地がなければ勇敢に出撃する気にはなりません。普通は敵に勝利して基地の飛行場や航空母艦に戻ってくることを期待しているため、戦闘機は勇敢に出撃していくことができます。ですからそれが無い特攻隊には、こじつけの理由や特別の演出が必要となるのです。まずお母さんの絶対的な愛という基地があることを子供が感じていなければ、勇敢な人間になることは困難です。もしお母さんが子供に冷淡でそのような役割を果たさなかった場合、お父さんが代わりに優しく子供に接することができるかも知れません。しかしお父さんは二役をすることはできません。母親の役割をしながら父親の役割も演じることは極めて困難な作業です。
お父さんの主な役割は、方向を子供に示すこと。母親という基地から飛び出して、外の世界に飛び立つ方向を示す役割です。もしそのとき誤った方向を示すなら、子供も誤った方向に出て行き墜落することになるかも知れません。ですから父親の役割と責任はあまりにも重大です。
模範
ここで重要になるのは模範です。キリストの言葉と行動は完全に一致していました。つまりイエス様の言葉は模範に裏付けされていたのです。父親の模範がないとき、どんなに良いことを言ってみても無駄です。「子供を怒らせてはなりません」とはそういう意味です。「子供を絶対に怒らせてはなりません」「ほしがるものは何でも与えなさい」という意味ではありません。親が原因で子供を怒らせてはならないのです。親が子供を怒らせる原因は多くあります。たとえば子供にガミガミと言うだけで親が模範を示していないときです。
「模範」というと多くの父親はしり込みをしたくなるでしょう。私もその一人であることを告白しなければなりません。しかし立派で完璧な模範だけが模範なのではありません。親も失敗します。親も罪を犯します。完全ではありません。そして遅かれ早かれ、子供たちはそれを見抜くときが来ます。罪を犯したときには悔い改め、失敗したときには立ち止って考える。つまりそのように誠実に生きること、それが模範です。それが勇気です。
父親は子供にとって、様々な意味で模範であり代表であることを意識していなければなりません。母親が家庭という内の世界の代表であるとするなら、父親はまず外の世界の代表であり、外の世界の窓口です。子供たちは優しい父親を通して、外の厳しい世界へ出て行くことができます。ですから父親は優しいだけでは十分ではありません。家の中では大目に見られても、外の世界で通じないような考えや行動をいましめなければなりません。もちろん父親は厳しいだけでもいけません。むしろ第一にはやさしい父親でなければなりません。厳しいけどたまには優しいこともあるというのではなく、優しさと愛の中に厳しさがあるのです。
子供にとって父親はスーパーマンです。それを知っている賢明な母親は、夫の多くの欠点を知っていても、子供たちの前で父親を馬鹿にすることはありません。最も重要で最も深刻なことは、父親のイメージが神のイメージになるということです。それを父親も母親もしっかりとわきまえていなければなりません。「天にまします我らの父よ」とクリスチャンの父親が祈るとき、子供たちは自分のお父さんのイメージで神に祈っているのです。お父さんが怒りっぽいと、子供たちは神様も怒りっぽい方であると思うでしょう。子供の模範にならなければならないとは、言い換えれば、父親が何を言うかではなく父親が何であるかが重要であるということです。
失敗しながらも、悔い改めながらも、子供の模範となろうとする父親を持つ子供たちは幸いです。そのような父親を知らない子供たちも、外の世界で父親の代わりになるような人物に出会うことがあるかも知れません。ぼくもあのような人になりたいと思うような模範に出会うなら幸いです。実際、ひどい家庭で育った子供たちの中にも立派に成長した人々があります。小説や映画の主人公はむしろそのようである方がおもしろいのです。
しかしそのようなことを自分の子供にも期待をするべきではありません。子供を育てるというあまりにも重要なことに関して賭けをするべきではありません。小説や映画のような例外が、自分の子供にも起こると期待するのはリスクが大きすぎます。もしかしたら親が不真面目でも、子供たちは立派に育つかも知れません。確かにそのような実例も知っています。その反対に、一生懸命にやっていたのに失敗したという気の毒な実例も知っています。しかし私たちの行動の基準と標準は、数少ない例外ではなく、根拠のある言葉であるべきです。
父と母
神は人を男と女に創造されました。違うものとして造られたのです。現代はこのような区別に否定的であり、それが近代的で進んだ考えであると思われている時代です。男と女はやがて子供が生まれると、父親と母親という肩書がつけ加わります。従って、男と女が違っているように父親と母親は違うのです。
なぜ男と女の違いを強調しなければならないのでしょうか。神は男と女にそれぞれ異なるプレゼントを与えたからです。それを知らなければ、相手の持っているものをねたむようになり、互いに争うようになるでしょう。そして相手のうちにある神様からのせっかくのすばらしいプレゼントを、互いに壊そうとしてしまうのです。男と女に違うものが与えられたのは、互いに尊重し互いに補い合うことによって、二人が調和したより完全な人になるためです。しかし夫と妻は相手に仕えるために与えられた賜物を、しばしば相手を攻撃し戦うために用いるという誤りを犯してしまうのです。
たとえば、男は女より力が強く、女は男より口が達者であるのが一般的です。夫はその力を妻に暴力をふるうために用いることができるでしょう。おそらくその原因は妻に与えられたしゃべる能力のためであるのでしょう。もちろん男と女は外側が違うだけではありません。しかしここでさらに進むのは止めて、父親と母親の役割の問題にもどりましょう。
母親は直観にすぐれています。たとえば、赤ちゃんの異常を最初に察知するのはほとんどの場合は母親です。そして多くの場合、その直観は正しいのです。妻は赤ちゃんの異変に気がつかない、と言って夫を非難することができるかも知れません。しかし父親が主役を演じるのは、第一幕ではないことを知らなければなりません。母親はだんだんと舞台の後ろに退いていくべきです。しかし母親が最後の最後まで、子育てという舞台で主役を演じてしまうのが普通です。父親の役割は、子供が母親の舞台に幕を引き、子供自身の舞台で主役を演じることができるようにすることです。いつまでもお母さんの保護に甘えている子供、いつまでもお母さんに逆らっている子供、どちらもまだ母親の舞台で演じていることには変わりがありません。子育ての第二幕は父親の出番です。