エフェソの信徒への手紙六・一~四
「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。『父と母を敬いなさい。』これは約束を伴う最初の掟です。『そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる』という約束です。父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」
これまで夫婦の問題、親子の問題を考えてきました。夫であるあなた、妻であるあなた、親であるあなたは、「それもそうだけど、でも現実は」などと感じながら複雑な気持ちになっておられるかもしれません。しかしそのような心の痛みと葛藤は、家庭に希望があることの証拠であると言いたいのです。言い換えるなら、妻を愛することにおいて、夫に仕えることにおいて、子供を正しくしつけることにおいて、もしどんな痛みも感じていないとするならば、むしろそれは大変深刻な状態であると言わなければなりません。聖書は「そんなに深刻に考えなくても、まあまあでいいのですよ」とも、「パーフェクトでなければ不幸な結果に終わりますよ」とも言っていません。
「権威に従う」という一つのテーマが、これまで考えてきた聖書の言葉の根底に流れています。もう一度、親子関係について考えましょう。失敗しない完璧な親などありません。親も罪をおかします。それでも子供は育っていきます。親が邪魔をしなければ普通は結構まともに育っていくものです。ただし一つだけ条件があります。
子育てや夫婦関係で失敗をしても、罪をおかすことがあっても、もうとりかえしがつかないように思える失敗であっても、一つのことさえあれば、私たちの人生全体から見ればマイナスになることは絶対にありません。それは何も家庭の問題に限らず、人生全体に起こってくるすべて問題についても言えることです。そうです、一つのことさえあればいいのです。
標準に合わせる
それはいつも標準時間に合わせる心構えと習慣です。私は三十年間、父からもらった自動巻きの腕時計をはめていました。三十年後には一日に二分遅れるようになり、十日で二十分遅れることになり、使い物にならないと思われるかもしれません。しかし、その後その時計は私の次男の手に渡りました。時計が進みすぎても遅れすぎても、しばらく止まっていても、毎朝時報に合わせる習慣さえあれば、その時計でも十分に役に立つのです(一分進めて合わせると誤差は一分以内)。しかし人生の中で、そのようにする習慣がなければ、私たちの人生はあるべき姿からどんどんと離れていってしまいます。方位磁針の針は大きく揺れ動いても最後には北を指すように、私たちの心が最終的に正しい方向に向けられるならばそれで良いのです。失敗することはだれにでも避けられません。肝心なのはその後の心構えです。
子供たちが親の失敗を見ても、親も罪人であることが分かるようになっても、親の心が最終的に正しい場所に落ち着くことが分かるなら、子供たちにも同じようにすることを勧めるべきです。たとえ自分自身が失敗したことであれ、子供たちには失敗しないように勧めるべきです。ピアノの先生は、自分が演奏できない曲を弟子に教えることはできません。しかし親は子供に対して、ある場合には自分ができなかったこと、自分が失敗したことを教科書にして子供に教えることもできるのです。問題は何を失敗と考えるか、いやむしろ、何を失敗と考えないかが問題であるのです。本当の失敗とは、失敗を認めないことだけです。
母親を愛する
パトリック・マケリゴットというイギリス人の元日本宣教師が、子供のしつけに関して、夫が妻を愛することの重要さを次のように述べているのは印象的です。父親の責任について悩んでいたマケリゴット師は、次のような言葉に出会って解放されたというのです。それまで「良き親」になるために児童心理学の本などを読んで、そんなに難しいなら私にはできないと悩んでいたそうです。ある書物で出会ったのは、「ひとりの男性が、自分のこどもにしてあげられる最大のことは、こどもの母親を愛することです」(ファミリー・フォーカス・ジャパン機関紙)という言葉でした。
これまで考えてきた聖書の箇所は、そのような言い方ではありませんが、確かに同じことを教えているように思います。まず夫婦の関係を扱い、その次に親子の関係を扱う。この順序と夫婦の正しい関係が、子供の正しいしつけの基礎であると教えているのです。
ではなぜそうなのでしょうか。答えは簡単ではありませんが、私は権威の問題ではないかと思っています。そのことはすでに、「権威の図式」という箇所で扱いました。
子供と権威
子供たちは権威に従うことをすでに知っています。大切なのはどんな権威に従うかということだけで、権威に従うというイメージは、すでに子供たちの心のうちにあらかじめ備わっているのです。これを知ることはあまりにも重要です。
アメリカの教育心理学者ジェームズ・ドブソン博士は、権威に関して次のような指摘をある講演の中でしています。だいたい次のような内容です。子供たちが集まっているのを観察してみてください。かくれんぼをして遊んでいた子供たちの中から、ある子供が「次はぶらんこで遊ぼうよ」と言うと、みんながそれに従います。でも別の子供が「鬼ごっこをしよう」と言ってもだれも聞いていません。子供たちは、「鬼ごっこ」より「ぶらんこ」がしたいのでそうなったのではありません。誰がそう言ったかが重要であるのです。ガキ大将のような権威のある子が言ったことはすべてそうなり、そうでない子が言ったことはすべて無視されるでしょう。子供が親に従わないのは親に権威を認めていないからです。そのような子供は、仲間のボスの言うことには従うのです。(ビデオ「意地っ張りな子供」セミナー4、ライフ企画いのちのことば社)
免許証を忘れて車を運転しているのに気づいたとき、パトカーや警察官が急にこわくなるという経験をされたことはないでしょうか。そのとき私たちは何を恐れているのでしょうか。警察官の名前は中村さんや鈴木さんであるかも知れません。しかし私たちは中村さんや鈴木さんを恐れているのではなく、その背後にある国家の権威を恐れているのです。国家が警察官に?千円や?万円の罰金の切符を切る権威を与えていることを知っているからです。
最高の権威
会社にいるとき、学校にいるとき、仲間といるとき、その中で最も権威があるのはだれかを普通はわきまえているものです。そうでない者は、その中でうまくやっていくことはできません。人間にとって最も重要なことは、最高の権威を知ることです。会社の権威、学校の権威、国家の権威を超える最高の権威者である神を知ることです。クリスチャンでない方はここでも「神」を神の声である「良心」と言い換えてみてください。職場では尊敬されていても、家庭で妻や子供たちからも尊敬されているとはかぎりません。社会的に地位の高い人も、定年退職後の生活はあまり立派とは言えなかも知れません。
年をとるに従って、一つまた一つと人間関係が去っていきます。ネクタイをしてスーツを着なくてもよくなります。「まことにありがとうございました」、「申し訳ございません」などとお礼もお詫びも言わなくてもよくなっていきます。そのときにその人の本当の中身が見えてくるのです。従わなければならない権威がなくなるとき、その人の本当の姿が表れてくるからです。
しかし神の権威(良心)があることを知る者は、様々な社会的な関係が終わっても最後までちゃんとふるまうことのできる人です。どんな人も、神の権威(良心)から最終的に解放される、ということはありません。失敗することがあっても、罪をおかすことがあっても、毎朝このお方の標準に自分の時計を合わせる習慣を身につけなければなりません。
家庭
小さな子供たちが、権威を最初に学ぶのは学校ではありません。もちろん警察や家庭裁判所であってはいけません。権威という人生最大のテーマを最初に学ぶのは家庭でなければなりません。そのために赤ちゃんは学校で生まれるのではなく、家庭の中に生まれてくるのです。ここで権威を学ぶことができなかった子供たちは、それをとりもどすのが困難です。そして、権威の問題を一生引きずることになるでしょう。もちろん家庭に恵まれなかった者たちが、その後の特別の経験を通して立派に成長していく例はいくらでもあるでしょう。しかしそれは原則ではなく例外であることを知らなければなりません。そして例外的なことを期待するより、まず原則を求める方が賢明であるのです。
夫婦が愛し合っていくためには、無数の戦いがあります。反省や修正をいつも心がけていなければなりません。お父さんとお母さんが、けんかをしているかと思えば仲良く一緒にでかける。反省したり修正しながら生きていることが、子供たちにも分かることが大切であるのです。親の上にはさらに高い権威があることが、子供たちに感じられなければなりません。いまの時計は電池を二年に一回とりかえるだけで、ほとんどくるいもなく動き続けるのですが、昔の時計はそうではありませんでした。毎朝、時計のねじを巻いて、時間をラジオの時報に合せなければなりませんでした。
時間を逆戻りしてネジ巻き時計を買うようにおすすめするつもりはありませんが、お父さんとお母さんがネジを巻いたり時間を時報に合わせながら生きている姿を、子供たちが感じることが重要であるのだと思います。
すべてのことで
これは何も夫婦や親子の関係だけに言えることではありません。クリスチャンが一週間に一度教会に来るのはそのためです。韓国の教会を訪問したことがありますが、韓国の多くの教会では毎朝複数回の礼拝がおこなわれています。朝六時前に車でソウル市内を走ると、結構多くの人たちが町を歩いていたりバスを待っているのに驚きます。そんな時間に街にいる人のほとんどが教会に行くクリスチャンなのだそうです。そこまでしなくても少なくとも七日に一回や二回は、私たちの時計を神の時計に合わせることが必要です。できれば毎朝、時計を合わせるべきです。
ではなぜそうすることが困難なのでしょうか。おそらく、自分の生活を変えなければならないかも知れないと恐れているからです。あなたの人生におけるあの失敗この失敗は、いま申し上げた心構えがあなたにあるかどうかに比べるなら、それほどたいした問題ではありません。子育ての中で最も重要なのは権威の問題です。権威の源を指し示すことが、親の最後の仕事であるのです。
子供たちはやがて親から卒業していきます。そのときはもはや親の言葉ではなく、親が従っていた原則に従う者となるように助けるのが親の仕事です。しかしとりあえず親に従うことから始めなければなりません。
訓練は子供を解放し本当の自由を与えるためです。六千円のために人を殺した大学生の悲惨な事件を新聞で読みました。訓練を受けない子供は、一生たたかれ続け、一生くさりにつながれなければならないでしょう。